第13回 憂鬱な8月
8月といえば、夏真っ盛り。高校球児の、何者にもとらわれることのない真剣勝負が甲子園で見られ、夜空には、大輪の花火。照りつける太陽に、ビーチではしゃぐ人たち。いろいろな意味で『明るく、熱い』と言うイメージがある。
しかし、一旦テレビをつければ、『終戦関連番組』ばかりがNHKを中心に放送され、陰鬱な雰囲気にさせられてしまう。特に8月に入ったばかりになる時期は、いわゆる原爆関連の番組が所狭しとならべられ、その悲惨さや、被爆国・日本を印象付けることが『使命』であるかのように放送されていく。そして終戦記念日となる8/15は、戦没者慰霊式典を中心に、まさに祈りの一日がテレビで延々と流されるのである。
ご存知のように、終戦関連番組の大半は『敗戦』にいたった日本の惨めな、ある種の無謀な戦争を振り返る、と言う視点がほとんどで、『経済大国なのに敗戦国』と声高に言っているようにしか見えないような番組も散見される。しかし、当時の日本にとって、戦争になってしまった時点での大義は、当時の米英支蘇(アメリカ・イギリス・中国・ソビエト連邦)に打ち勝とうとしたことであり、今の『やめときゃよかった』と言う視点で物事を語るのはいかがなものか、と思う。
国家の命令/上官の号令の下、敵軍人を殺傷したことを、平時の時点で、そして『人間』として振り返れば、悪いことをした、となるのは当然である。国家にとっての善行(お国のため)は、他者・特に敵国にとっては、不利益に写る。だから、戦い、相手の命を絶たなくてはならない選択を迫られるのである。それは戦勝国アメリカでもそうである。しかし、自らが引き起こした戦争について、ここまで平謝りに徹するのは、日本を置いてほかにない。仕掛けた側がその結果を重んじ、謝罪するといったことは、それも65年間にわたり行ってきたのは当時の枢軸国の中でも日本ただひとつである。
戦争を仕掛けたのに『負けた』と言う厳然たる事実は動かしようがない。であるから、いったい当時の人たちは何を思い、何を信じ、そして、命を賭してまで何を守ろうとしていたのか、を余計な脚色無しで映し出す番組を放送してもらいたい。自虐史観/敗者の持つ劣等感に苛まれるような番組ばかりを作ってほしくないのである。『あの時、我々の祖先は輝いていた』−−−そう、胸を張って言える環境づくりをお願いしたい。
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