「事実とは何か」/本多勝一/84年、朝日文庫

◇本多勝一のジャーナリズム論三部作のなかでも秀逸。立場のない立場はなく、公正中立な報道などありえないのだ、ということに説得力を感じる。本多氏の立場は、主に弱者の立場から事実に迫る民族主義者だ。

 ルポ論も面白い。都合の悪いことは無視して、都合のいいことばかり集めると、そのルポはウソになり、説得力を失う。『部分的事実は正確な事実の敵だ』。

 悪いのは戦争ではなく侵略だ、記者たちにタブーを成立させている最も重要なカラクリは経済的抑圧の背景にある、良いことと悪いことをたして2で割り、ゼロにする作業を新聞や放送が続けているかぎり、反動側は喜んでいるだろう…。どれも、もっともなことである。本書は、報道に関わる者の必読書といえよう。

 [2002/11追記]改めて読み直し、この本の最初の項目がいかに重要なことかを再認識した。このアジェンダはもっと業界で議論されるべきものだが、編集出身の人間が経営者をやっている現状では、合理的な議論に発展しないのであろう。

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 再検討の結果明らかになったのは、いわゆる事実−絶対的事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。一見逆説的にみえるかもしれませんが、限られた紙数のなかでかんたんに説明すれば、それは次のような意味です。
 第一段階として、ルポルタージュする者の目から、たとえば戦場のような対象をみるとき、そこには風景として無限の「いわゆる事実」があります。弾丸のとぶ様子、兵隊の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木や土の色、匂いなどなど…。ある時間的一瞬におけるひとつの空間、目に見える範囲の世界だけでも、もし克明に事実を描けば何千枚でも書けるでしょう。その土だけとりあげても、色や粒子の大きさ、土壌学的な限りない事実、層の様子。もし昆虫でもいたら、その形態や生態、細菌もいるから、そのすべての事実…。即ち、私たちはこの中から選択をどうしてもしなければならない。選択をすれば、もはや客観性は失われます。ランダム抽出をして、兵隊の顔と土壌学的事実を並べても無意味です。この選択が、E=H=カーのいう「歴史的意味という点から見た選択の過程」であって、この場合「歴史」を「報道」または「ルポ」と置き換えたものといえましょう。
 次にそうした主観的選択は、より大きな主観を出すために、せまい主観を越えてなされるべきであります。ベトナムで米兵がなにか「良いこと」をやったとする。そのときは、米兵がいかにケシカランかということを強調したくても、やはり良いことは良いと書く方がよいのです。ルポにとって都合の悪いことは無視して、都合のいいことばかり集めると、そのルポはウソになり、説得力を失うでしょう。米兵の「良いこと」は巨大な悪の中の小善にすぎないこと、その小善のバカらしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは、無意味な事実を並べることです。「都合の悪い事実」には意味のある重要なものが多いけれど、「歴史(報道)的意味」という意味とは無関係なものに目を向けていては何もなりません。戦場で、自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方や、いかに危険だったかを克明に描写するよりは、そこで嘆き叫ぶ民衆の声を記録する方が意味のある事実の選択だと思うのです。これは主観的事実であります。これによって、読む者に筆者の主張を伝えるのです。(このとき「米帝国主義者どもは…」というような表現をルポの中で使うと、説得力は逆に弱まってしまいます。)
 そして主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根底は、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観ではないでしょうか。全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、その全風景を記録することが前述のように不可能である以上、もはや意味のある選択はできずに、ルポ自体が無意味になります。
 新聞記者とは、この主観的事実で勝負するものでなければなりますまい。いわゆる客観的事実の記事とは、言い換えれば「堀りさげた取材をしない記事」にすぎず、それはPR記者の記事であります。体制の確認にすぎません。むろんそうしたPR記者も職業として存在しうるし、「体制の確認」型記者は東側(いわゆる社会主義国)の新聞・雑誌・放送にむしろ一般的かもしれませんが、それが主流になってしまっては何のためのジャーナリズムか分からなくなります。ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません。(「読者の友」1968年3月1日号)


 ルポもその究極の目標を説得におくのですから、ルポを書いた当人の意図が成功したか不成功かという効果の度合いは、「いかに多数の読者への共感を得られたか」という動員力によって判定されると考えても良いでしょう。動員力は、短期間に爆発的に示されることもあれば、長期にわたって、細く長く、しかし統計では大きなものになることもあります。そうした説得力を「増す」ためのプラス要素と、「減らす」ためのマイナス要素があるわけですが、たとえば文章力とか取材力などについては論ずるまでもありますまい。私がここで問題にしたいのは、いわゆる「主観」とされている筆者自身の意見や分析を、ルポの中で加えることの当否です。
 極端な例をあげます。落語家の演技でマイナス要素を考える場合、「効果」を殺してしまうやり方は、観客からみて最も笑いころげるような部分を語ったとき、落語家自身もまた笑ってしまうことでしょう。チャップリンが劇中でほとんど笑わないのも同じ理由です。また、その部分がなぜおかしいかという理由について、もし落語家自身が解説し分析してみせたら、なるほど観客の理解には役立つかもしれませんが、舞台はシラけてしまい、感動はそれだけ遠のいてしまうでしょう。ルポに関しても同じことが言えるのではないかと思います。落語家は自分が笑ってはならない。客を笑わそうと思ったら、演技そのもので笑わせる。同様にルポの場合も、筆者が文章の中で「私は心底から怒った」というようなことを書いてはならない。怒った原因である対象そのものを、それだけを、正確に読者に伝えてこそ、読者は本当に怒るのではありませんか。また落語家が解説を加えてしまうことによって感動がシラけると同様、ルポも報告者が意見や解説を加えれば加えるほど事実の持つ迫力が薄められてゆくでしょう。


 加賀氏が「小説」という表現形式を選んだのは、それまでに精神科医として書いた論文・報告などの「記録」の限界を突き破るためでした。すなわち−「事実があってもそれをそのままなぞって文章にするってことは至難の技であって、むしろ文章にしたとたんに記録ってものは死んでしまうんじゃないかって気持ちがあるもんですから、事実そのものをもう一度いきいきと捉え直すという操作をするためには何か別の次元の表現法がなくちゃいけない、それが小説だったんです僕の場合は」…つまり「事実があってもそれをそのままなぞって文章にする」ということは「至難の技」どころか「絶対に不可能」であって、むしろ文章にしたとたんに「死んでしまう」どころか必然的に「ユガんだもの」や「ウソ」になってしまう。なぜかといいますと、「事実」は必ず時間・空間を包含する四次元の物理的風景だからです。この物理的風景を、「事実そのもの」として「もう一度いきいきと捉え直す」ことは、もはやいかなる方法をもってしても絶対的に不可能であります。…一ヶ月前の光景を追いかけて写したビデオテープは事件を丸ごと正確に捉えているでしょうか。これもまた物理的に不可能です。なぜか。そのビデオテープを撮影した人は、ある一点の視点だけからしか写していないからです。…つまり事実は確かに1つしかないのですが、その写し方によって事実の持つ無限の側面が別々に記録されることになる。一人で写せば一つの部分、2人なら2つの部分、3人なら、、、1万人なら1万の部分、要するに無限の視点による無限の側面が記録可能となります。

 事実と表現の関係を、フィクションと記録の違いという観点から整理してみましょう。表現の目標を「正確な全体像的事実」としての本質におくとすれば、部分的事実と不明部分への想像(解釈)との関係は次の通りです。〔部分的事実〕+〔想像〕=〔本質〕
 そして記録を表現手段とする場合は、この「部分的事実」と「筆者の想像」とが明確な境界で仕切られているのに対し、フィクションの場合は両者が混然としているだけでなく、部分的事実の内部においても換骨奪胎されていて、あらゆる手段によって部分的事実を料理し、想像という溶剤の中へぶちこんで本質という作品に仕上げるわけです。ただその料理法が各作家によって異なるので、小説家の中にも部分的事実を入念に収集するタイプもいれば、その逆もいるということになります。記録(ノンフィクション・ルポルタージュ・論文・報道)の場合にしても、部分的事実の取材や解釈の方法はいろいろですから、いくら事実によって本質を描こうとしても、書き手によってかなり違う結果が出てくるわけです。

 考えてみればジャーナリズムとはある意味で「事実と人間とのかかわり方」だともいえるかもしれません。最後の1文「事実と表現にも書いたように、確かに事実は1つでありながら、その「1つの事実」を丸ごと再現することはいかなる表現手段をもってしても永遠に不可能であるところから、さまざまな問題が起こってくるのでしょう。

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「新聞記者などの間で、遭難についてこんな話題のでることがよくある。ーー『山の遭難は1人か2人しぬだけでもデカデカと報ぜられるのに、海の遭難になると1人や2人ではベタ記事かボツになるのはなぜだろう』事実、海難が新聞の社会面でトップ記事になることは極めて少ない。反対に山の遭難は、ひと冬に何度もトップ記事で扱われる。」

「いわゆる事実ーー絶対的事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。」

「ベトナムで米兵がなにか良いことをやったとする。そのときは、米兵がいかにケシカランかということを強調したくても、やはり良いことは良いと書く方が良いのです。ルポにとって都合の悪いことは無視して、都合のいいことばかり集めると、そのルポはウソになり、説得力を失うでしょう。米兵の『良いこと』は巨大な悪の中の小善に過ぎないこと、その小善のバカらしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは、無意味な事実を並べることです。『都合の悪い事実』には意味のある重要なものが多いけれど、『歴史的意味』という意味とは無関係なものに目を向けていては何もなりません。…そして主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根底は、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観ではないでしょうか。全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、その全風景を記録することが前述のように不可能である以上、もはや意味のある選択はできずに、ルポ自体が無意味になります。新聞記者は、この主観的事実で勝負するものでなければなりますまい。」

「自動車が炎上しているときにその写真をまずとるべきか、それとも乗員をまず救い出すべきかということですね。私としては、その時手を出してやることによって相手を救出できるのであれば、当然まずそれの方をやるべきだと思いますし、人類学でも同じことが言えると思います。」(祖父江)

「沈む船の中で溺れている人々を助けないで写真を撮って問題化した例がありましたけれどね。こんなときは割合とはっきりしていまして、やっぱり溺れている者は助けなければいけない。…しかしこういう事があるんです。例えばベトナム戦争にしますとね、虐殺の現場がある。…しかし現実にはひとりのカメラマンが『よせ』と叫んだところで止めるようなフンイキはありませんが。ともかく『ノー』と叫びながらも同時に記録すべきですね。それは犯罪の証拠写真だ。有名なソンミ虐殺事件というのがあったけど、もしあの場合、あれだけ迫力のある写真がなかったらあんな騒ぎにならなかったんじゃなかったか。状況によって違うんですけど、生命に別状ないていどのことでしたら止めるよりもむしろそれを記録して暴露する方が遥かに大きなプラスになる。」(→地震報道)

「悪の根源を、侵略や、侵略の背景としての軍国主義や帝国主義に求めずに、『戦争』に求めるやりかたは、ニクソンをたいへん喜ばせることになる。大放送も大新聞も、今後このようなやりかたを続けていくでしょうが、私たちはこうした教育にうっかり乗せられないようにしたいものです。そのためには、侵略された側がどう考えるかといった視点を、常に持続ける努力を忘れないことだと思います。…悪の根源は、戦争ではありません。侵略であり、それをもたらす帝国主義社会体制の側にあります。」

「そういう根性のある記者はむしろ『出世』しないようになってきたのかもしれませんな。適当にゴマをする方がトクするような構造に。だいたい入社試験のやり方からして、独創性のある人間がはいらなくなっているようだ。選ぶ側も選ばれる側も、管理職になりたがるような連中ばかり。管理職にさそわれても断固ライターの道をとりつづける記者が、ゼロとはいわぬまでも希有ですからね。」

「ルポもその究極の目標を説得におくのですから、ルポを書いた当人の意図が成功したか不成功かという効果の度合いは、『いかに多数の読者への共感を得られたか』という動員力によって判定されると考えてもよいでしょう。…極端な例をあげます。落語家の演技でマイナス要素を考える場合、『効果』を殺してしまうやり方は、観客からみて笑いころげるような部分を語ったとき、落語家自身もまた笑ってしまうことでしょう。…落語家は自分が笑ってはならない。客を笑わそうと思ったら、演技そのもので笑わせる。同様にルポの場合も、筆者が文章の中で『私は心底から怒った』というようなことを書いてはならない。怒った原因である対象そのものを、それだけを、正確に読者に伝えてこそ、読者は本当に怒るのではありませんか。また落語家が解説を加えてしまうことによって感動がシラケると同様、ルポも報告書が意見や解説を加えれば加えるほど事実の持つ迫力が薄められてゆくでしょう。…これは小説でも同じで、解説過剰の小説に感動が薄いのは誠に当然です。」

「いかに個人的には立派な兵隊がいても、太平洋をはるばる越えて外国の国土を徹底的に侵略・破壊しているアメリカ合衆国政府の政策から無縁であることはできません。かつてベトナム人は、1度たりともカリフォルニア州に派兵したこともなければ、サンフランシスコを爆撃したこともない。偵察機やスパイを送り込んだことさえないのです。地球はじまって以来の大量の爆弾を、せまい国土に連日注ぎ込んできたのは、すべて合衆国であります。このことは、物理的、地理的に実にハッキリした事実です。こうした情況の中にあって、善良なアメリカ兵個人の行動がどういう免罪の意味を持つのでしょうか。この関係を日本と中国とにおきかえて考えてみて下さい。」

「問題の本質は、数字や個々の事実の揚げ足とりではなく、日中戦争が日本の帝国主義による侵略だったという事実にあります」

「戦争だから仕方がない、異常事態だからお互いだ、戦争をやめよう…。けれども、これも当り前に考えてみましょう。日本軍が中国へ攻め込まなかったら、その『戦争』も起こりようがないのです。悪の根源は『侵略』にあるのであって、『戦争』にあるのではない」(→しかし、帝国陸軍に、選択権はなかったのでは…)

「私の場合は、かけだし記者以来十数年、一度たりとも原稿で天皇に敬語を使ったことはない。しかしその原稿は、さきの例のように、デスクが訂正して敬語にされてしまう。…どうしても、絶対に、ダンコとして私が筋を通そうとするなら、もはや『辞表をたたきつけて』カッコよく新聞社を出ていくほかはない。…では、なぜ記者たちは『辞表をたたきつけて』カッコよく出ていかないのだろうか。その理由には、たいへん大ざっぱにみて、次のようなタイプがあると思う。第一のタイプ。『記者稼業がメシより好き』といった型で、多少の妥協はしてもやめたくはない。…第2のタイプ。情報とりや書くことはやはり好きだが、べつに何も問題意識など持たない。体制側が作った『常識』に従い、ああそんなものかとして、以後は自分から敬語を書く。第三のタイプ。最初から『ブル新』に幻想など抱いていない。問題意識はあるが、行動力や勇気はない。…第四のタイプ。一種の戦略として、がまんしている。無益な抵抗であることがわかっている以上、より『有益』なときのために、このていどであれば黙っている。獅子身中の虫。…結論として、記者たちにタブーを成立させている最も重要なカラクリは、経済的抑圧の背景にある。それだけではないだろうが、それに該当しない記者は例外的少数であろう」

「マスメディアの大新聞や大放送局のサラリーマン記者が経済的に首根っこを抑えられているのであれば、反対の極としてフリーのジャーナリストにはタブーはないのあろうか。これもまた、少数の例外を除いて、全く同じことである。」(→一方、朝日にこびるようなことを最後に書いているという矛盾。)

「新聞の場合のもうひとつの大きな柱は、新聞販売店による宅配制度だが、全国のナワバリが確立しているこの制度に、反体制ミニコミが便乗することは絶望的である。…反体制ジャーナリズムは、その流通機構からして物理的にしめだされている」

「タブーを支えているのは、決して狂信右翼ではない。こんなものは知れている。…タブーとは、そのタブーのある国家・社会・団体・個人の本質をさぐるための指標のひとつとして重要な意味を持つ現象だが、決して本質そのものではない」

「現在の『難民』に関して決定的な証拠は、日本の御用学者の間では『評価』されているらしいハンチントンという米人学者による製造計画である。合衆国の東南アジア政策諮問機関の責任者として、か彼は難民製造の必要性を説いたレポートを出している。…」

「よく私はいうのだが、日中戦争は日本の中国侵略だ、と今書いてもちっとも『偏向』していないけれども、三十年前の八月十五日までは、こんな記事を書いても決して日の目を見ることなくボツにされた。なんとか日の目を見させるためには、反対の記事も同列に出して、せめて『公平』に扱うほかはなかった。こういうことをしていれば、反動政権も安心している。殺す側と殺される側を『公平』に扱い、強姦者と強姦される側、加害者と被害者を『公平』に扱う。良いことと悪いことをたして2で割り、ゼロにする。この作業を新聞や放送が続けているかぎり、反動側は喜んでいるだろう。」

「たとえば私が、月刊誌を発行したとしよう。それを誰かれなしに勝手に送り付けておいて、片端から購読料を請求したらどうなるか。NHKはこれと全く同じことをしているのだ。」

「ベストセラーで何億の金を稼ぐとか、そういう意味の隆盛はますますすると思います。しかしそれは社会的影響力をもつこととは別問題で、むしろ小説家の堕落が始まっていると思いますね。」

「…立場のない立場はないだろうということです。…書かれたものにはすべて立場がある。これはあたりまえすぎて困ってしまうのですね。極端なことをいいますと、ファーブルが昆虫を観察する。あの『昆虫記』は、たとえばカマキリについては人間の立場なのかカマキリの立場なのか。もしカマキリの立場で書くとあのようにはならないでしょうね。ファーブルは人間の立場、より正確にはあの時代のフランス人昆虫学者の立場で書いていますね。…アメリカの今までの歴史というのはヨーロッパ人の目で書かれていますけれど、あれを先住民の目で見たら全然別の歴史が出てくる。日本の歴史をアイヌの目で見たら全く違ったものが出てくる。」

「『立場のない立場』というものを認めることがいわゆる客観ですね。…ただ、ルポの中に意見をいれるとマイナスに作用することが多いということは事実だと思います。読んでいる人に対して説得力を失う傾向にありますから。これは絵も同じです。絵を見る人は、描かれた絵に感動するのであって、絵の中に『この絵はどうだ』という批評みたいなのが入っていたらまずいと思いますね」

「私にとって、現場を歩き、直接人々に接する作業のなかには、明らかにそれら活字やヒヤリングを超える別の因子が潜んでいるように思う。つまり、私は現場を歩くたびに、その取材対象についての私の予見が必ずひっくり返り、改めて現実というもののみずみずしく動いているさみゃ、複雑さに驚かされてしまう。すると昨日までの私は現実を見る視点、世界観がチンプに見えるようになり、昨日よりいささかは高い視点を獲得することができるように思われる。取材とはつまり、事実を発見することによって、一種の自己変革を起こさせる性質のものだ、と私は思うのだ。このような自己変革は、1つには視点をたえず更新することによって、より深く『本質』に接近することを保障するはずであり、もう1つの面でいえば、記者自身に本来の意味でのこの仕事の『面白さ』を、確かな手応えを添えて保障してくれるはずである。昨日よりは今日、今日よりは明日と、より深く状況が見えてくる。新しい事実を発見する、その見えてきたもの、発見したものを書く。そのような作業があってこそ、記者の労働は本来の労働としての尊厳をとり戻すことができるのではないだろうか。いってもいれば、取材は記者にとって「自己再生装置」でもあるはずなのだ」(斎藤茂男/共同通信)

「マルクス以前の社会主義思想も含めて、社会主義は現実の悪、より直接的には資本主義の悪に対するアンチテーゼとして発生した哲学であり、経済学でした。ですから少なくとも理論としては、それはユートピアではないにしても『より良い』社会であります。『良いハズ』のものです。…ところが実際はどうでしょうか。『良いハズ』どころではありません。」(→私の理想主義を、マルクスレーニン主義のように思っている人もいるかもしれない…。実践こそ重要だ。)

「もしこれが事実としますと、あのアメリカとの人類始って以来ともいえる猛烈な抵抗戦の中で、ついに外国人を一人たりともその前線に加えることがなかったベトナムが、カンボジアとの小さな戦闘ではソ連人指揮官をどんどん加えていることになるわけです。スペイン市民戦争が失敗し、ベトナムが成功したいくつもの原因の1つに、この『外国人を戦列に加えたかどうか』があるようですが、ともあれこれが事実としたら、ベトナムは大変な路線変更をしたことになり、これは『重大国際ニュース』とさえ言えましょう。」

「『事実があってもそれをそのままなぞって文章にする』ということは、『至難の技』どころか『絶対に不可能』であって、むしろ文章にしたとたんに『死んでしまう』どころか必然的に『歪んだもの』や『ウソ』になってしまう。なぜかといいますと、『事実』は必ず時間・空間を包含する4次元の物理的風景だからです。」(→世紀末世界)

「そのビデオテープを撮影した人は、ある1点の視点だけからしか写していないからです。逆の角度から撮れば全く別の光景になり、物理的事実として別々のものになります。」

「『ラ=マンチャの男』といった芝居で、ドン=キホーテ(セルバンテス)の言葉として引用される『事実は真実の敵だ』にしても、本当は『部分的事実は正確な事実の敵だ』ということにすぎません。部分的事実を全体像であるかのごとく見せる詭弁術に問題があるのであって、全体像としての正確な事実には一点のウソもなく、ウソのある全体像などというものは自己矛盾です。」

「『正確な部分的事実』が、それも末梢的とはいえぬ諸事実がたくさん収集されれば、やはり本質(正確な全体的事実)には近づくと私は考えます。…完全ではないが必要な近似値は得られる。」

「ルポルタージュの苦労するところは、あくまで事実(部分的事実)の集積によってのみ本質(正確な全体的事実)にせまろうとするため、不明の部分について空想することが許されぬ点です。」

(ノンフィクションの問題点について)「悪い事は書かないという非常に薄められた記録性でもっていい面だけを書いてしまう。ところが人間っていうのは必ず裏があるわけで、それだけではなにか平板な記録になってしまう、ああいうのは僕は本当の記録じゃないって気がするんです」(加賀乙彦)

「なお、本書で批判の対象としているマス=メディアの中には、私が勤めている会社の新聞もよく引用されていますが、これはこの新聞が今の日本の中で特に悪いということでは全くなく、単に読む機会が多いための物理的因果関係に過ぎません。実情はむしろ他の新聞の方がもっと問題とすべきなのでしょう。」(あとがき)

(以下、小和田次郎(ジャーナリスト)の解説)「ライターにとって一見『都合が悪い事実』には意味のある重要なものが多いーーというのが著者の主張である。…社会主義国の報道や日本国内でも政党機関紙の記事などには『都合の悪い事実』が書かれない場合が多い。だから総じて記事が平板になり、読者へのアピール力が弱い。」

「自分が属している新聞ジャーナリズムの世界について、自分自身を含めて常に厳しく凝視し、忌憚のない批判を展開する。そういう立場の記者に『そんなところになぜいつまでもとどまっているのか』という疑問の声が寄せられるのも自然であろう。答えは私との対談その他で出ている。要約すれば、@もともと使命感など無縁でジャーナリストにまぎれこんだ Aいまの商業新聞は体制のもので制約が多い Bしかし、政党などの機関紙でも自由な事実追及はできない C独立してミニコミを創刊したところで影響力がない Dフリーになっても、書く場は体制内のものでサラリーマン記者以上の弱い E自分で意義を認めないところにいつまでも惰性的に身を置くつもりはないが、現時点では比較的やりやすい『場』にいるーーざっとこういう考え方のようである。」

「言論報道の自由が社内的にはいろいろ制約されがちな日本の新聞界にあって、自紙を含む批判の自由、発言の自由を本多氏ほど行使している記者が他にいるだろうか。そのことは著者のいわば捨て身のジャーナリスト人生によってかろうじて確保されている。」