January.31,2000 異形の青春小説

        最初は、どうも読みたいとは思えなかった。ところが年末のベスト10には必ず入ってきている。高見広春の『バトル・ロワイヤル』(太田出版)。中学3年生のひとクラスが、隔絶された島の中で、生き残りをかけて殺し合いをさせられる話。どだい、設定上に無理があるでしょ。それがクリアできたとしても、そんな殺伐とした話、面白いとは思えなかった。

        分厚い新書版の本を開く。男21人、女21人、計42人の登場人物表が載っている。「ふう」と溜息をついて読み出す。確かに、この設定には無理がある。これじゃあ、ほとんどいままででは漫画でしか許されなかったリアリティーのなさだ。乗りかかった船だ、登場人物表に、その人物の特徴が記述されるたびに書き込みを入れながら読み始めた。こんなに登場人物を憶えられやしないと思ったからだ。ところが不思議なもので、書き込みを後からほとんど見返さなかった。それほど、ひとりひとりの個性が描き分けられている。

        よく書けている。実質的な主人公である七原秋也よりも、こんな状況に置かせた政府側組織を壊そうとする三村信史のキャラクターとか、拳法の達人杉村弘樹の一途な思いとか、スケ番相馬光子の悲しい過去なんかに惹かれてしまう。すぐに死んでしまうキャラクターにもそれぞれの思いがある。ゴツゴツした小説ではあるが、かなりすぐれた青春小説になっているのだ。

        漫画かアニメだったら、もっと受け容れやすくなったのかもしれないが、教育委員会などが、うるさくて社会問題になったかも。


January.22,2000 小説で恐怖を表現する可能性 

        第六回日本ホラー小説大賞受賞作、岩井志麻子の『ぼっけい、きょうてい』を夜中に読んでいて、ぞくぞくっと怖くなってしまった。選者の評の中には、ラストは余計だというのもあったが、やはりあれがあってのホラー小説大賞だと思う。

        だいたい、小説ってジャンルは映画や芝居よりも、人を怖がらせるという表現には向いていないのではないか。突然の音や映像でドキッとさせることはできない。恐ろしいイメージも、どんなに作者が細かく描写したとしても、受けての側の読者にイマジネーションがなければ、怖いと思ってもらえない。ただ、小説の強みは、長さの制限が少ないこと。長くして、ジワジワと恐怖を盛り上げることもできるし、短くスパッと終えて、余韻で恐怖を増幅させる事もできる。

        子供時代に仲間と一緒に海水浴に行った夜、民宿の布団の中で、自分の知っている怪談噺を披露し合ったことがあるでしょう。ああいうのが、実は一番怖かったりする。『ぼっけい、きょうてい』は、妾が旦那に寝物語を語る形式を取っている。時は、明治か。場所は岡山。岡山の方言で語られるその噺に、私はぐいぐいと引き込まれてしまった。『ぼっけい、きょうてい』とは『とても、怖い』の意味。冒頭から、最後の恐怖のオチに繋がる伏線が張られていて、そこのところだけでも怖い

        『ぼっけい、きょうてい』は短編集で、総て明治の頃の、岡山の貧しい山奥や島を舞台にしている。今では考えられないくらいの貧しさで、読んでいて、やりきれない気分になる。小説として面白いと思ったのは、表題作よりも『あまぞわい』という作品。最初に[あまぞわい]という伝説を持ってきて、それをうまく作品に取り込んでいる。これも、怖い。突然にすーっと幽霊が出る。昔の、さあ出るぞ出るぞと前置きをして幽霊を出すのは、もう流行らないのかもしれない。


January.14,2000 浅田次郎のタイトル秘話

        浅田次郎のエッセイ集『満天の星』を読んでいたら、浅田次郎の出世作『地下鉄(メトロ)に乗って』のタイトル秘話が載っていて、これがしみじみと、いい話なのである。『訣別について』と題された文章である。

        浅田次郎が、大学受験に失敗し家を飛び出し、アルバイトをしながら浪人生活を送っていたある日のこと、高校時代に学校中のマドンナであった女性に電話をして映画に誘う。彼女も浪人中の身の上であったが、とまどいながらも誘いに乗ってくれる。喫茶店で話をし、映画を見る。帰りがけに浅田次郎は、彼女に何かものを買ってあげたくなる。申し出を拒否する彼女をデパートに連れて行って、競馬で儲かったからと言って、ブーツをプレゼントする。そのあと、スナックでジン・ライムを飲み、山の手線のホームで「お互い受験、頑張ろうね」と言って握手して別れる。彼女を乗せた電車が出たあとも、ぼんやりとベンチに座ってタバコを吸う。誰にでもある青春の甘酸っぱい青春の1ページ。彼女とは、それを最後に会っていない。なぜなら、彼はすべてと訣別して、自衛隊に入隊する意思であったからだ。

        その後、浅田は大学へは行かず、考えていたとおり自衛隊に入隊する。半年ほどして、例の彼女の母親から電話がある。娘が高価なものをいただいて申し訳ないというのである。やがて、その母親から、デパートの包装紙に包まれたセーターが送られてくる。浅田は、そのセーターをどうしても着る気になれず、焼却場で焼いてしまう。そして、悲しい気分になって、炉の前で膝をかかえて泣いてしまう。いい話でしょう? 何もエッセイでなくても、一篇の小説としても成立しそうじゃないですか。

        そしてこの話には、劇的なラストが待っている。何年かして、浅田が新宿の地下道を歩いていると、あの時の彼女に出くわす。彼女は素敵な微笑みを浮かべ、こちらを見ていた。それは地下鉄のポスターの中で、モデルとなった彼女だった。その彼女の胸の前に、『メトロに乗って』のキャッチ・コピー。ああっ、そういえば、私も昔、そのポスター見た事がある。モデルの人の顔は忘れてしまったが、確かにあったよ、そういうポスター。

        そうだ、こういう話を書けばいいのだ。感動的な人生のひとこま。よし、昔の自分の体験をホームページに書いて、みんなを感動させてやろう―――と思ったのだが、無いのだよ、こんな劇的な体験。なんとつまらない青春だったことか。

        同じ本の『解放について』と題された文章で、浅田は自分の小説作法について、こう述べている。「多くの人々に最もわかりやすく受け容れられる芸術表現の方法は、『泣き』と『笑い』と『怒り』であろうと思いついた。なぜならそれらは最もプリミティヴな、人間の感情だからである」

        『蒼穹の昴』を読んだとき、私はラストで泣きに泣いてしまった。もともと涙もろいたちなのだが、あれにはやられた。『泣き』と『怒り』は、あの小説にふんだんに盛り込まれていた。あとは、『笑い』である。浅田次郎の小説には、意外と『笑い』は少なく、『笑い』はむしろエッセイの方に現れる。今回紹介した文章は真面目なものだったが、多くは爆笑編である。『満天の星』は、『週刊現代』に連載されていた『勇気凛々ルリの色』の完結篇にあたるはずだったのだが、なんのことない、また再開している。浅田次郎が、エッセイを書く楽しみを止めるわけがないと思っていた。彼が『笑い』を書く楽しみを放棄したとは考えられなかったらだ。願わくば、今度は大爆笑小説を書いて欲しいと思うのだが。


January.5,2000 傑作『カイジ』は、論理の漫画だ

        福本伸行の漫画『賭博黙示録 カイジ』が13卷で、第2章が終了した。第1章は、限定じゃんけんの話だけだったが、第2章は、ビル間の綱渡りに始まって、E カード、くじ引きと3種類の賭け事を要した。作者本人としても、なかなか納得して終われなかったのだろう。秋口に連載が終わって、年末には第3章の連載を再開すると宣言しておきながら、いまだに『週刊ヤングマガジン』に第3章が始まる気配がない。まあ、気長に待ちますから、じっくり考えて、いい作品にして欲しい。

        限定じゃんけんという、凄いロジックを伴った賭博の前で、第2章冒頭の、綱渡りにはがっかりした。ここには、ロジックがないじゃないか。ところが、その後のE カード、あれは面白かった。あれこそ、ロジックの物語。あれがつまらなければミステリ・ファンじやない。そして、くじ引き。一見、運だけの賭博と見せて、実は、両者の駆け引き、そして論理の種明かしを最後に持ってくる。これはもう、推理小説といって、まったくおかしくない。未読の方、漫画と侮ってはなりません。

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