February.18,2000 快調! 悪党パーカーの新作
23年ぶりに復活したリチャード・スターク[悪党パーカー]シリーズ。昨年の第17作『悪党パーカー/エンジェル』に続いて、第18作『悪党パーカー/ターゲット』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が出た。『エンジェル』は私はあまり面白いとは思えなかったのだが、懐かしさでいっぱい。相変わらずのパーカーとその仲間たちの強盗話、計画ー実行ー裏切りー奪回を楽しんだ。そして今回の『ターゲット』、『エンジェル』よりもずっと出来がいい。プロットがよく練られている。カジノ船襲撃の話をメインにすえ、その強奪した金を横から狙っている二組のグループとの対決。話を持ちかけてきた男の真の狙いと、盛りだくさん。D・E・ウエストレイクならぬリチャード・スターク、いよいよ再びエンジンがかかったきたようだ。
翻訳も第1作『悪党パーカー/人狩り』を訳した小鷹信光。その後の第5作『悪党パーカー/襲撃』、第8作『悪党パーカー/カジノ島壊滅作戦』に続いて、4作目の翻訳にあたる。このシリーズの翻訳数は少ないが、小鷹信光はこのシリーズがかなり気に入っているに違いない。その著書『パパイラスの舟』を読んでいると、その気持ちが伝わってくる。
『女性の営巣本能について』と題する文章の中で、小鷹信光は第13作『悪党パーカー/死神が見ている』の中の、パーカーがクレアと同棲生活を始めることに注目して論を展開している。シリーズ初期のパーカーは、もっと非情で孤独な犯罪者として描かれていたはずで、この13作目から、パーカーの性格が微妙に変化し始める、ターニング・ポイントともなる作品だ。犯罪者として一匹狼であったパーカーが女と家という、二重の足かせをはめられることによっての制約や悪条件。そのことによって、この第13目は今までにないサスペンスが生まれた一作だった。
『死神が見ている』で家を得たクレアは、家を離れたがらなくなる。仕事(強盗ですが)で家から離れざるを得ないパーカー。しかし、ある行きがかりから、家にクレアひとりを残しておくと危険がせまる恐れがある。クレアに電話して、家を離れてこっちに来いと伝えるのだが、彼女は「ここから離れる気はないわ。やっと手に入れたのよ。はなれるなんて」と言って拒否する。女性にとって、特に定まった住居を持てなかった女性にとって、家とはそんなに重要なことなのであろうか。
『ターケ゜ット』の大詰め、パーカーは自分の犯罪の証拠を書き綴った書類を捜さなければならなくなる。「さもないと、クレアを住み馴れた家から移し、どこか別の土地でやり直さねばならなくなる。一度やればいずれまた同じことをやることになり、クレアは転々と居を変えるのを喜ばないだろう。彼女は”巣”が好きなのだ。」 原文でどうなっているのか知らないが、巣という言葉を持ってきた点、しかも括弧つきで。小鷹信光、女性の営巣本能について、今もこだわっているとみた。
下のサインは、『パパイラスの舟』が出版された時に本にサインしてもらったもの。
ところで、パーカーって1作目の映画化『殺しの分け前/ポイント・ブランク』のイメージが強くて、どうしてもリー・マーヴィンが浮かんでしまう。見てないけど『組織』のロバート・デュバルも、うまいキャスティングだと思う。でも、『ペイ・バック』のメル・ギブソンはないよな。リチャード・スターク自身は、ジャック・パランスをイメージして書いていたそうで、そう言われると納得。
February.8,2000 モテない男の呟き
竹内久美子の本は、ついつい買ってしまう。動物行動学の新しい理論をわかりやすく、一般の人向けに紹介してくれる。それが、出す本、出す本、「ほんとなのかね」という興味深い内容なので、いつも驚かされる。今回の『シンメトリーな男』(新潮社)は、シンメトリー(左右対称)なオス(男)ほどよくモテるという、これまたびっくり仰天の理論だ。
読みながら思いついたのは、我が家の老猫チェリーである。チェリーは、もう18年も前に迷い込んできた捨て猫だった。ガラは三毛。三毛猫って、どう転んだってシンメトリーにはなりえない。チェリーはメスだから、あまり関係ないか。それにしても、街をうろついているのら猫って、どうしてこうもシンメトリーでないのだろうか。アメリカン・ショート・ヘアーとかペルシャとかスコティシュ・ホールドのように純血種の場合は、確実にガラがシンメトリーなのに、雑種の猫ってほとんどガラがシンメトリーでない。真っ黒とか真っ白なんていうのでも、一部別の色が入っちゃったりしている。チャトラとかキジ猫なら、まだシンメトリーになる可能性もあるけれど。他の動物、例えば犬の雑種だって、ガラがシンメトリーでないのって少ないでしょ。神はどうして猫にだけ、このようなことをしたのだろうか?
先月の『アームチェア』で紹介した、浅田次郎のエッセイ集『満点の星』に、こんなことが書いてあった。浅田次郎がメスの捨て猫を拾ってくる。すっかり衰弱しきっているこの猫を、以前から飼っているオス猫が甲斐甲斐しく面倒を見てあげると、このメス猫はすっかり元気になり、2匹はすっかり仲良くなる。さて恋の季節がやって来る。発情期だ。すると近所のアメリカン・ショート・ヘアのオスが頻繁にやって来るようになり、浅田次郎のメス猫は、なんとこのシンメトリーな猫と出かけるようになってしまう。いままで尽くしてあげたほうのシンメトリーでない猫こそ、いい面の皮だ。なるほど、やっぱり猫の世界でもシンメトリーであることが重要らしい。
動物のことなど、どうでもいい。問題は人間だ。猫の毛のガラなどと違って、人間のシンメトリーなんて、ごくごくわずかなことに思われる。人間の身体を真中で別けて、左右対称であるかどうかなど、わかるものであろうか? どうやら、そのわずかなズレを女性は感じ取れることができるようなのである。実際、計測してみると、シンメトリーな男ほどよくモテるというデータを見せられると納得せざるを得ないのだ。
ということは、私がモテないのはシンメトリーでないからなのかあ。最後の章までくると、なんだか当然ということが並んでいる。いわく「シンメトリーな男は顔がいい」。そりゃあそうだよ。ハンサムな男はモテる。「シンメトリーな男は、筋肉質である」。確かにスポーツマンはよくモテる。この本の中でも書かれていることだが、スポーツマンには顔がいい男が多い。「シンメトリーな男は、背が高い」。三高なんて言われた時代もあったくらいで、背の高い男はよくモテる。「シンメトリーな男はIQが高い」。これも三高の中の高学歴というのが示している。「シンメトリーな男は、ケンカが強い」。アクション映画のヒーローはみんなそうだ。まだいろいろ書かれているのだが、これらの条件に何ひとつ当てはまらない私はモテなくて当然ということになる。
「天は二物を与えず」などということは、大嘘ということになる。天が与えるのは、どのくらいシンメトリーであるかという遺伝子ひとつだけなのである。だから、キムタクは顔がよくて、歌がうまくて、踊りがうまくて、演技がうまくて、運動神経がいい。私が女性だったら、やっぱりキムタクにぞっこんになっただろう。
かくて竹内久美子は、結論に達する。シンメトリーな男像とは、「ルックスがよく 真に賢い 不良」。そうなのです。モテる男は、どこか危険な香りを漂わせているとうのは、体験上わかっている。そういう男に女性は弱いのだ。モテない私がなんとか女性と仲良くしようとすると、横から入ってきて、さらって行ったのは大抵こういうタイプ。
この本の中で最も興味を引いたのは、男性が女性の体のどこを一番よく見ているかという問題。なんと脚なのです。次が顔、胸、ウエスト、ヒップ、腕の順。そうだよなあ、一時期、自分は脚フェチではないかと思ったことがあるが、正常な意識だったのだ。何故だったかというと、ひとつのHox遺伝子なるものが、脚と生殖器の両方を形作っているからなのだそうだ。女性がハイヒールを履くのは、自分の脚をセックス・アッピールとして見せる武器だったのか。お〜い、超厚底ブーツの人、全然魅力的に見えないぞー。ハイヒールは踵がきゅっとあがって脚全体が細く見えるのがポイントなんだ。
さて、竹内久美子に言わせると、女性は男の指をセクシーだと感じるのだそうである。これも、ひとつのHox遺伝子が男の指と生殖器を形作っているからだそうなのだが、男である私にはよく解らない。そこで妹に聞いてみることにした。「そうかなあ、そんなこと感じたことないけどなあ。私が男がセクシーだと感じるのは、引き締まったペッタンコの腹」と、でっぱり出した私の腹を見て、軽蔑したように話すのである。