May.28,2000 蕎麦に関することだけ、ちょっとだけ

        東海林さだおの[丸かじりシリーズ]最新作『たぬきの丸かじり』(朝日新聞社)が出た。何ともう第17作目。『週刊朝日』に連載が始まる以前から、この人の食べ物に関するエッセイは面白かったのだが、よくぞ毎週、食べ物ネタだけで続くものだ。また文章が特徴があって、うまい! 一冊にまとまるのが待ちきれなくて、『週刊朝日』を立ち読みしてしまうくらい、好きな連載なのだ。

        実は、私の『言いたい放題食べ放題』の方で、この本から触発されて書きたいことが、いろいろあるので、ここではあまり多くを書かないが、蕎麦および蕎麦屋に関することだけ、ちょっとだけ。

        (1)『ゴハン投入うどん』―――ラーメン・ライスがあってなぜに、うどんライス、そばライスがないのかという疑問から始まって、蕎麦屋にはなぜ単品でライスというメニューがないのかというと、それはニラレバ炒めのような一品料理がないからだと結論する。いやあ、あるのですよ、最近の蕎麦にはライスというメニューが。

        ウチだって当然ある。たぬき蕎麦ライス、旨いんですよ、これが! ライスに最も合う組み合わせは、私の経験では、たぬき蕎麦ライス以外だと、カレー南蛮うどんライス。これはうどんの方に軍配が上がる。カレー丼というメニューがある位だから、当然旨い!

        あっ、ちなみに、あるお客さんが「なんで『ライス』と英語で表記するんだ。他のものは全て日本語なんだから、おかしいじゃないか! バンバン(机を叩く音)。責任者出て来い!(東海林さだお調でしょ)、『ごはん』と書け、『ごはん』と!」と、蕎麦屋における外来語進出を、怒り嘆いておられたが、当然というご意見ではございますが、今やなぜか飲食店では『ライス』の方が通りがいいのですよ。

        さて、ここで紹介されている店の、うどんとライスが鉄鍋に入った[おじやうどん]、私あまり食べたいとは思わないですね。

        (2)『カマボコの厚さから』―――ある蕎麦屋で酒の肴にカマボコを頼む。出てきたカマボコが妙に貧弱に感じてしまう。なぜかというと、その店のカマボコの切り方が、約7ミリに切られていたからだという。東海林さだおに言わせるとカマボコの厚さは8ミリ。9ミリだと「おっ、厚いな」となり、1センチだと「この店はなかなかやるじゃないか」となるという。

        確かにですね、薄く切ったカマボコは、酒の肴としては旨くない。ある程度の厚さがないと、歯で噛んだときに、カマボコの方で押し返してくる、いわゆる弾力性の楽しみがなくなってしまうんですね。ちなみにウチでは約2センチ。これを斜めに半分に切って出す。ただし、蕎麦の種物の具として出す時は、ぐっと薄くなる。それでも8ミリくらいかなあ。これ以下だと食べていて、悲しくなってしまう。

        (3)『セットメニューの騒ぎ』―――あのー、ウチではセット・メニューってやってないんですよ。とくにランチタイムには、蕎麦屋でもセット・メニューを採用している店も多いのですが、あえてウチはやりません。お客さんからも、このところ「セットはないんですか?」と聞かれますが、「ないんです」と答えるのが苦痛になるほど、よそではセット・メニューを用意しているんですね。

        しかしですよ、(1)で書いた、たぬき蕎麦ライスのように、白いごはんと汁ものの蕎麦なら合うと思うのですが、親子丼にきつね蕎麦といったようなセットだとして、どちらもベースは蕎麦汁が使われるわけです。なんだか同じような味付けのものを、ふたつ並べて食べたって美味しくないと思うのですがねえ。

        苦し紛れのセットだと、東海林さだおも書いているように、たぬき蕎麦とカレーライスとか、もりそばとカレーライスなんていうセットを組んでいる店がある。スプーンで食べるものと箸で食べるものをセットにしてどうするんだという問題以前に、これは合わない。合わなくても、お客さんが食べたいならいいじゃないかという考え方もあるのだろうが、嫌ですね、ウチは。もっとも、勝手にもりそばとカレー丼を両方頼む方は、ご自由に。ちなみに、ウチではカレーライスはやっていません

        (4)『たぬきの勝ち』―――これは鋭い。たぬきは天ぷらを揚げるときに出来た、揚げ玉が乗っているもの。いわば具の材料費がほとんどかかっていないもの。きつねは油揚げという豆腐屋で仕入る材料費がかかったもの。それがなぜに、蕎麦屋では値段が同じなのか。これねえ、私も長いこと疑問のひとつなんですよ。そこのところ突かれると弱い。

        それでねえ、内緒なんですが、月見蕎麦でもおかめ蕎麦でも、一言「揚げ玉入れて」と言ってくれると、この揚げ玉代は無料なんです。きつね蕎麦に揚げ玉入れると、これまた揚げ玉代は無料。それじゃあ、「たぬき蕎麦に油揚げ入れてくれ」と言われると微妙なんですねえ。ハハハハハ。

        たぬき蕎麦を作るときは、汁をかけてから揚げ玉を乗せる。こうしないとカリカリの感じが残りませんからね。だんだんと汁に揚げ玉が浸っていって、ジワーッと旨みが増していく。たまりませんなあ。立ち食い蕎麦って、めったに食べないけれども、冬の寒い日、駅で電車を待つ間に食べる、立ち食い蕎麦っていいものですよね。こういうところの蕎麦は、蕎麦も不味いし、汁も不味い。こういうところでは、たぬき蕎麦が一番。揚げ玉がいいダシになってくれます。

        おかしな事を考えるもので、東海林さだおは、鴨南蛮とたぬきだとしたら、迷うが、たぬきの方を取るというが、なんとなくわかる気がする。でも、鴨南蛮も旨いんだけどなあ。ウチの鴨南蛮、ちょっと工夫があるのだけれど、それは企業秘密。フフフフフ。


May.13,2000 頭を使わないで生きるのはやめろよ

        法の華三法行の福永法源が逮捕された。なんだか、騙す方も騙す方だが、騙される方も騙される方だという気がするのだが・・・。先月なのだが、街で一冊の本を手渡された。「なんだ?」と思って見ると、法の華三法行なのだよ。

        捨てちゃえばいいのだけど、ついつい読んでしまった。「くっだらねー」のひと言しか感想が出て来ないシロモノだったが、本当にこんなものを読んで入信してしまう人がいるのだろうか。

        読んでいくと、まず第一章。現代の地球環境の破壊問題などは全て人間の問題だというのである。「冷蔵庫が壊れたら、まずどこが悪いのか調べる。悪い部分がわかったら、そこを直すだろう」とふっておいて、「地球が危ない。人間が悪かった。人間を治す。ただ、それだけのことである。」と持っていく、あきれかえった三段論法。こんなのに、ひっかかってはいけない。

        第二章において、例の[天行力]が出てくる。宇宙のエネルギーだとかなんだとか、訳のわからないことをぬかしている。「天行力を受信さえすれば、この世には貧困もない、争いもない、一切の苦悩は存在しないのだ。」とくる。そして、この[天行力]を受信するためには[頭]が邪魔なのだと言い始める。表紙にデカデカと書いてある「頭で生きるのはもうやめよう!」という表現は、ちょっと考えれば、[ヤバイ!]と直感できるはずなのだがなあ。

        私利私欲を無くすこと、素直な人格になること、全ての人を愛することといった宗教の教えは、無信仰の私でも、正しいことだと思う。ただ、心を無にすることと、頭を無にすることを混同してはならない。人を疑ってはいけないという教えを、あまりに素直に信じてはいけない。物事を疑ってかかることから、出発することだってある。

        第三章になると、いよいよヤバくなる。人間には首から上の意識の「思い」と首から下の無意識の「観い」があるという。ねえ、「観い」って何と読むかわかりますか? 私は見当もつかなかった。なんとこれも「おもい」と読ませるんだって。そんなの学校で習わなかったぞお! この「観い」(ああ、嫌だ嫌だ)の方が低下してくると、人はアタマで何とか解決策を見い出そうとするのですと! 何も考えさせずに、教祖の言うことだけを丸のまま信じさせようとする。信仰宗教の常套手段じゃないか。危ねえ危ねえ。

        さあ、第四章。いよいよ[三法行]だ。般若心経は、「願い、求めれば、救われる」という経でしかなく、[般若天行]はさらにそれを超越したもの「願わず、求めず、すがらない」なんですと! これを毎日唱えなさいとくる。おいおい、なんだこりゃ。もう[何もかんがえない]人間にするための洗脳プログラムが始まっちゃっているぞ。

        第五章は笑える。実際の信者の手記が載っている。長年結婚相手が見つからなかった女性がいい亭主を持つことができたとか、病気が治ったとか、28億もの借金を1年で返したとか、[らしい]ことが書いてある。

        聞くところによると、どうやら自己啓発セミナーのようなものが、宗教に変わっていったらしいのだが、私はどうも自己啓発セミナーというのも、胡散臭くて信用できない。そんな折りも折り、小伝馬町の駅前で、また小さな本を渡された。

        これも自己啓発セミナーかなんからしいのだが、法の華三法行のと表紙のデザインが何だか似ていませんか?


May.4,2000 性格の良し悪しと作品は違うというが

        渥美清の『男はつらいよ』シリーズをまともに見ていた映画ファンなんていたんだろうか? おそらく、年末に封切られるこのシリーズを見ていたのは、いわゆる映画ファンではなくて、年に何回か映画館に足を運ぶ、ごく一般の人達だったにちがいない。小林信彦が『おかしな男 渥美清』(新潮社)で書いているように、大晦日に年越し蕎麦を食べに行ったあとで見に行ったり、元旦に初詣のあとに見に行ったりしていた年中行事のひとつだったようだ。私だって、ちゃんと見ていたのは、最初の5〜6本だけで、あとは、ほとんど見ていない。それでも興業成績だけは松竹の屋台骨を支える重要なシリーズだった。

        生嶋も言うように、渥美清は初期の頃の方が面白かったと言われても、ほとんど見ていないので、なんとも言えない。テレビの『泣いてたまるか』は見ていたのだが、あの番組は毎回、主演が代わっていた。渥美清以外にも青島幸男だったり谷啓だったりしていたはずだ。映像やストーリーで憶えているのは、圧倒的に青島幸男の回で、渥美清がどんなことをやっていたのかは、さっぱり記憶にない。ただ、この番組は、その回の主演の人間が主題歌を歌っていて、こちらの方は、圧倒的に渥美清の歌ばかりが記憶にある。

        タイトルは忘れてしまったのだが、名画座で松竹の喜劇を見ていたら、ほんのチョイ役で渥美清が出ていた。レストランのウエイター役なのだが、凄く変な役作りをしていて、物凄く面白いのだが、せっかくの物語の流れを壊してしまっているようで、私には不快だった記憶がある。よくもあんなことを演ったものだし、監督もよくもあんなことを許したものだ。

        喜劇役者とか落語家といった人は、ステージでの明るさとは逆にステージ以外ではむっつりとしている人と、ステージそのままといった人がいる。私が明治座の楽屋などで、ちょっとだけ接した限りでも、いくらかわかる。谷幹一、坂上次郎、高木ブーといった人達は、普段テレビなどで見る、そのままといった感じ。一方で、ちょっと近寄りがたい怖さを感じてしまう人がいる。これは、ちょっと名前を出しにくいので割愛する。

        植木等は、私が会社員時代に何回か社内で見かけた。普段から面白い人だったが、もっと紳士という感じがした。小林信彦によると、物凄く話し好きで、その話が面白かったというのだが、ここ数年、明治座の楽屋でみかける植木等は、とても無口だ。逆に人の話を聞くのが好きなようで、自分の楽屋にはほとんどいない。脇役の人の楽屋に毎日入り浸って、壁に背中をつけたままで、じっとその人達の話を聞いている。堺正章は、とてつもなく礼儀の正しい人だが、楽屋から一歩も外に出ない。

        『おかしな男 渥美清』を読んで、「やっぱりな」と思うのは、渥美清というコメディアンも、ちょっと癖のある、映画での明るいイメージとは正反対の性格を持っていたということ。それは、私も薄々感じていた。渥美清の小さな目から発せられるギロリとしたものは、どうも穏やかなものではない。正直言って、私は渥美清は嫌いだった。どうして『男はつらいよ』シリーズが受けるのか理解できなかった。渥美清の演じる寅さんから、どうしても親近感を感じなかったのだ。

        小林信彦という人も、私は苦手だ。長崎くんも言うように、この人の小説ってさっぱり面白くない。一方でこのような喜劇人とのかかわりを書いたものは、物凄く面白いので、夢中になって読んでしまうのだが、その中で漂ってくる小林信彦という人の性格が好きになれないのだ。あとがきで、「現存する登場人物が多いので、それらの人々を傷つけぬように配慮しつつ、本当のことを書くのは、かなり、むずかしい作業だった。」と述べているが、私は前回の横山やすしのときに、まったく関係ない高信太郎の醜態を実名入りで描写したのを読んだときは、吐き気を感じた。あんなこと絶対に書いてはならないことのはずだ。

        小林信彦を嫌いになり始めた最大のきっかけは、松村雄策とのビートルズ論争が決定的で、傍から見ていると、ビートルズが生活の一部であった世代の松村と、ちょっと高い位置から見ていた小林との受け取り方の差というものがあるような気がした。これは、私は完全に松村派で、小林のは勘違いだと思う。それをムキになって論争する小林は大人気無かった。間違った部分をなぜ認めようとしないのか、理解に苦しむ。

        しかし、私の小林嫌いを差し引いても、『おかしな男 渥美清』は面白い。もっとも、これを読んで、ますます『男はつらいよ』を見たくなくなってしまったのだが。

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