June.20,2000 解りやすく、鋭い指摘

        井上ひさしの日本語に関するエッセイは、面白いし、なるべく目を通すようにしているのだが、ここにまたまた日本語をあやつる達人の作家が、日本語に関するエッセイ集を出した。清水義範『日本語必笑講座』(講談社)である。

        清水義範は井上ひさしよりも、日本語に対して柔軟かもしれない。そのいい例が[ら抜き言葉]に対する対応である。井上ひさしは、[ら抜き言葉]の氾濫を嘆いていた。「食べられる」を「食べれる」とやるアレである。私も、自分のホームページでは極力[ら抜き]をしないように注意してきたつもりである。しかし、確かに「食べられる」1本の中に、[受け身]と[可能]のふたつの意味が存在するのは、紛らわしい。こういう変化はいいのではないかという主張だ。これは、そうかも知れない。私も、これからは安心して[ら抜き]を使おうと思う。

        『小説の中のことば』というのも面白かった。小説では約束ごとの、記号的台詞を喋らせているということ。老人が「・・・じゃ」と言ったりするアレである。実際に「じゃ」なんて言葉を使う人は、ほとんどいない。しかし、「じゃ」と使った方が書く方としては話をスピーディにつづけるためには楽なんだそうだ。つまり、あれは小説用に再構成された虚構のことばなんだそうである。でもなあ、私はどうも、あの「・・・じゃ」が苦手なんですが・・・。

        『人を呼ぶことば』。日本人は、人の名前を直接呼ぶことを嫌う。例えば、田中課長という人を呼ぶときは、「田中さん」とはなかなか呼ばない。「田中課長」とか、あるいは「課長」という役職名だけで呼んだりする。これは家庭でも同じで、夫が自分の妻のことを「おかあさん」。妻が自分の夫のことを「おとうさん」などと呼んだりする。ようするに、自分の置かれた、あるいは人の置かれた役割を呼ぶ。これによって、人は、その役割を演じ続ける。私は、すっかりオジサンである。だから、よその子供に対しては、ついつい「オジサンはね・・・」と口にしてしまう。そのくせ相手に「オジサン」と言われると、ちょっと傷つく。十分にオジサンなのだが・・・。清水義範は、これをうまく解説している。

        「こういう言い方の原理は、そこにいるいちばん小さい子の立場から言う、というものである。妻のことをおかあさんと呼ぶのは、子の立場から言っているわけだ。父のことをじいちゃんと言うのも同じである。自分のことを、おじさんと言うのは、話かけている子供から見れば自分はおじさんだからである」

        これはひょっとして、個人主義が根付かない日本人の特徴の現れなのかもしれないなあ。

        『比喩の嘘』。清水義範は、こう述べる。「比喩は、実はなかなかおそろしいものである。使われるとよくわかるようだが、もちろんそれは真実をきっちりと言っているのではなく、別の話をしているだけなのである。比喩は、結局のところ嘘なのだ」「そして時には、ヘンなもくろみのためにこの話法を使ったりするのだ。きく人に嘘を伝えて、自分の論理へ強引に引っ張りこむ時に、無茶な比喩を使うのだ」

        「たとえば日本もPKO活動に参加しなくちゃいけないでしょう、ということが言いたい時に、イラクを電車の中の暴漢にたとえ、クウェートをか弱い女性にたとえ、自分の横で暴漢が女性に乱暴しているのに、何もしないで見過ごすのか、と言ったりする。そういうこととは全然違うではないか。低レベルのたとえ話で自分の意見を正当化するのはインチキだよ」

        そうなのである。テレビのコメンテーターなど、よくこの手のすり替えをやる。よっぽど注意しないと、ヘンな論理に引きずり込まれてしまう。そういえば、先月書いた、法の華のパンフレットの「冷蔵庫が壊れたら、まずどこが悪いか調べる。悪い部分がわかったら、そこを直すだろう」→「地球が危ない。人間が悪かった。人間を治す。ただ、それだけのことである」も、相当インチキなすり替えである。

        清水義範も言うように、「インチキなたとえ話で論理をねじまげるのはよそうよ」!


June.6,2000 ああ! クラリス!・・・・

        嫌だ嫌だ! クラリスが・・・。ああ! そ、そんな! レクター教授と・・・! 『ハンニバル』を読んでから、しばらくがたつが、いまだに心の整理がつかないでいる。

        『羊たちの沈黙』を読んで、「ああ、そういえば『レッド・ドラゴン』って読んだ記憶があるぞ」と思ったものの、内容はすっかり忘れていた。『レッド・ドラゴン』の段階では、まだレクター教授の印象は私にはピンとこなかった。それが、『羊たちの沈黙』ともなると、最初から、作品の持つ異様な世界に引きずり込まれてしまった。読むのが怖い。読んではいけない。でも先が読みたいという、不思議な魅力に満ちた作品だった。

        そして、『羊たちの沈黙』映画化。クラリス役にジョディー・フォスター。私が一番美人だと感じる女優である。どっぷりと映画化作品にもハマってしまった。

        ラストでレクター教授は姿をくらます。どうやら、トマス・ハリスはレクターものの続編を書くらしいという情報を耳にする。それにはクラリスもまた登場するらしいという聞くと、じっとしていられなくなった。当然、映画化も進行させるという。アンソニー・ホプキンスは乗り気だという。そして、ジョディー・フォスターは難色を示しているという。やがて、フォスターは降りたという情報。「なぜだ、なぜ降りちゃったんだ」という疑問と共に、大のフォスター・ファンの私としては、内心少々ホッとした。フォスターに、これ以上、危険な香りのする作品に出て欲しくないという気持ちである。

        『ハンニバル』は、そのクラリスの颯爽とした見せ場で始まる。麻薬製造現場での銃撃戦だ。カッコいいではないか! なぜフォスターはこんないい役を蹴ったのかと惜しむ気持ちはここだけ。上司のセクハラに会って困っているクラリス。そして、ああ! レクター救出劇のカッコよさはいいとして、その後の、レクター教授との・・・。あんなこともしちゃったり、こんなこともしちゃったり・・・。そして、そんなこともしちゃうなんて! 嫌だ嫌だ、いけないよ、クラリス! ああ! ――――――フォスターが降りたのはわかる気がしたし、それでいいと思う。

        クラリスのファザー・コンプレックス、レクター教授が、過去に妹を普通でない失い方をしたことからくるトラウマ。これらが、ラストでこういう形になってしまうのは、どうも納得がいかない。面白い小説だったかといえば、とてつもなく面白かったのだが、どうも私には後味が悪い。

        それにしても、どうやって映画化するつもりなんだ。こんなグロテスクな話! 当然、メイスン・ヴァージャーは小説の描写通りに出てくるんだろうし、その屋敷の大ウナギとか、メイスンの妹マーゴが、その大うなぎを××××××××××とか、映すわけでしょ。それに強暴な豚の群れ。その豚が××××××××とかのシーンも当然なくちゃならないわけだし、最後の晩餐で××××の××を×××××して×××するシーンなんて、見ていられるかあ!? へたな撮り方すると単なるスプラッタ・ホラー・ムービーになってしまうぞ。

        『ハンニバル』のラストの感じだと、このシリーズはこれで終わったような幕切れだし、正直、私も、もういいよ、このシリーズはという気がする。まったく新しい構想でトマス・ハリスが次の作品を書くのは、また10年後か?

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