October.23,2001 『模倣犯』は確かに傑作であることを認めた上で言いたいこと

        今年最大の話題作は、なんといっても宮部みゆきの『模倣犯』(小学館)だろう。二段組上下二巻。四百字詰めで3500枚だという超大作だ。あんまり本を読まなくなってしまったとはいえ、これは読まないわけにはいかない。覚悟を決めてページをめくった。正直に言うと、上巻の半分ぐらいまでを占める第1部はかなり読みにくかった。これが最後まで続くのだとしたら、かなり辛いなあという感じなのである。それが第2部に突入すると、急に読みやすくなった。同じ事件を、今度は犯人の側から書いている。第1部での見えない犯人の印象というのはかなり不気味な存在なのだが、犯人の姿が読者の前に現れると、「あれっ? こんな程度の犯人だったのか」と愕然としてくる。

        週刊誌連載まる4年。連載終了後に手は入れたのだろうが、よくぞこの構想を4年間も持ちつづけながら書きつづけたものだ。宮部みゆきという人の粘り強さには驚きの念でいっぱいだ。だいたいタイトルの『模倣犯』という言葉の意味が出てくるのが、ほとんどラスト近く。それまで、この小説がなぜ『模倣犯』と名付けられたのか、さっぱり分からないようになっている。ただ、どんなものだろう。あまり詳しくは書けないが、犯人が、この模倣犯というキーワードで自分をさらけ出してしまうというのは解せない。もっとしたたかな犯人のような気がするのだが・・・。

        私はこの作品をけなすつもりはない。たしかに良く出来ているし、読んでいる間は夢中になっていたし、傑作だと思う。ただ、どうも読後の後味が悪い。どうして、どうして、こんな人まで死ななきゃならないのかという登場人物まで死んでしまう。死なないまでも、幸せになった人はひとりもいないままラストを迎えてしまう。読み終わったあとの開放感がないのである。私はこれを読むためにこの大長編を読みつづけたのかと思うと、なぜか虚しくなってしまった。何もここまで落ち込ませる必要があったのだろうか。確かにいままでの小説は被害者とその家族の立場をここまで書こうとしたものはなかっただろう。いかに残されたものが辛いのかというのはテーマとしてなかった。それはそうなのだが・・・。

        特にこの小説には、重要な役回りで蕎麦屋の息子が出てくる。愚図でのろまな蕎麦屋の息子のカズくん。進学せずに家業を継いで家族で蕎麦屋をやっているこの青年に、妙に自分を投影してしまうから、ますますこの小説が辛くなってしまった。そして彼を取り巻く、大学を出たものの仕事をせずブラブラしている若者。自分は大人物であるという思い上がりから、蕎麦屋の仕事なんてバカにしているやつら。いるんだよね、こういうの世の中に。

        宮部みゆきはさすがに筆力のある人で、蕎麦屋の様子もけっこうリアリティがあって感心してしまったのだか、ちょっとヘンなところを指摘しておくと、この蕎麦屋さん、仕事用の厨房以外に家庭用のキッチンを持っている。そういう家はないということはない。ただ、普通、そういうのはあまりリアリティーがない。店の厨房で料理が出来るのだから、別にキッチンを作るの不自然。自分のところの賄いも店の厨房で作っているのが一般的。キッチンを分けているのは、よっぽど使用人が多くて大きなお店。カズくんの店は住宅街の小さなお店。ましてや建て直したばかりとなると、かなり不自然な構造ということになるのだが・・・まっ、いいか。決して上げ足取りをしている気はありません。


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