December.25,2001 緊張感漂う楽屋での噺家の表情

        立川志の輔の独演会に行ったら出たばかりの文庫本が、志の輔のサイン入りで売られていた。『当世人気噺家写真集・高座の七人』(講談社文庫)。これは橘蓮二による現代の若手落語家七人を撮った文庫版の写真集だ。対象として選ばれたのは、春風亭昇太、林家たい平、柳家花緑、立川志の輔、柳家喬太郎、立川談春、春風亭小朝の七人。みんな今までの落語を変えた人たちばかりだ。

        タイトルどおり七人の噺家の高座での姿を写し撮っているが、私が興味を引かれたのは、むしろ楽屋での彼らを撮った数少ない何枚かのもの。

        落語という表現方法は、実にたいへんなことである。語り部たる役目があり、噺に入ると登場人物ひとりひとりに成りきって演じなければならない何人もの俳優としての役目があり、物語を演出する演出家としての役目がある。さらには、古典ならばそれを脚色する脚本家の役目があり、新作に至っては作家としての役目まである。それら全てがうまくこなせて初めて、人を楽しませることができる。それらの何ひとつ欠いてもいけない。

        ここに写された七人は、ほとんど古典も新作もこなす連中だ。その楽屋での表情は、高座での華やかさとは裏腹に、とても緊張して難しい顔をしている。おそらくこれから演ることになる落語を頭の中でさらっているのだろう。孤独な作業だ。気軽に彼らの高座を見ていた私には、この楽屋での表情はちょっとショックだったのと同時に、たしかに真剣に落語と取り組もうとしている者としては当然の表情になるのだろうなあと思った。高座に上がったらたったひとり。全ての登場人物たる俳優になりきり、同時に演出家としての自分もいなければならない。しかも高座はライヴ。失敗は許されない。相当のプレッシャーだろう。つくづく落語家にならなくて良かったと思う。なれやしなかったろうが・・・。

        この写真集には撮られた七人の噺家について、ひとりひとり吉川潮の文章が載せられている。その文章がまた実にいいのだ。それぞれの噺家の顔の一部に注目して、その噺家の本質を見事に喝破してみせている。昇太は鼻、たい平は耳、花緑は眉、志の輔は唇、喬太郎は髪、談春は眼、そして小朝は顔自体だ。

        この七人たちは、落語に対する取り組み方が尋常ではない。本気になって新しい落語を作ろうとしている。もう寄席には足を運ばなくなった[かつて落語好きだった]人には、この連中がどんなに真剣になっているかわからないだろう。そしてその結果は現れてきている。

        この文庫本にまかれたコシマキの文章がまた泣かせる。「天国の志ん朝師匠、落語は永久に不滅です」 志ん朝さんの死で落語は終わったというような文章を書く人がいるが、冗談ではない。志ん朝さんの落語は残念ながら終わってしまったが、人はいつかは死んでいき、その人の芸はなくなるもの。それがあまりにも早く訪れてしまっただけのこと。落語が終わったわけではなく、志ん朝さんの落語が終わっただけのことなのだ。ここにいる七人、いや、実はもっとたくさんの新しい落語を創ろうという噺家さんが今、確実にいる。

        志ん朝さんは、若手に理解のある人だった。なにやらヘンな新作を演る連中にも「これも面白いんじゃない」と言っていたそうだし、小朝の登場は、志ん朝さんにしてもちょっとプレッシャーだったようなところがある。また、若手にしても志ん朝さんの存在は限りなく大きく、少しでも近づこうという目標でもあったようだ。そして、物まねではない彼らなりの落語を創る努力を重ねてきたのである。志ん朝さんの死はあまりにも大きいが、そう、ぼくらにはまだ彼らがいる。


December.2,2001 ボクシングというスポーツを体験させてくれる殴られ屋

        東京国際映画祭で『痩身男女』という香港映画を見て、はっとした。映画の後半部分で、主人公のアンディ・ラウが手っ取り早く金を稼ぐために街頭で[殴られ屋]をやるシーンがあったからだ。そういえば今年の始めにそんな本を見かけて買ってはおいたものの、いまだに読まずじまいで積読になっていたっけ。晴留屋明『殴られ屋』(古川書房)を引っ張り出してきて読んだ。



        そう、この表紙を見てショックを受けて買ったのだった。左の目が腫れ上がっているこの表紙の写真はインパクトがある。なぜ? なんでそんなことまでしてこんな商売をやっているのだろう。そんな疑問を覚えて買ったのだった。それがいつのまにか未読本の仲間入りしていたのだった。この人、今や相当に有名な人らしい。テレビや新聞、雑誌でも何回も取り上げられているのだそうだ。うかつにも私は知らなかった。まさか香港映画から教えてもらうとは思いもしなかった。

        バブルのつけで自分の経営する電気工事の会社が多大な借金を残してしまい、その返済のためにかつてプロのボクサーだった彼は[殴られ屋]という職業を思いつく。昼間はあいかわらず電気工事の仕事につき、夜は歌舞伎町の広場に立つ。[殴られ屋]といっても一方的に殴られていたら、体がいくつあっても足りない。1分間1000円で、客にはボクシングのグローブをはめてもらい殴らせる。殴られ屋の方はこれまたグローブにヘッドギア。ルールはボクシングと同じ。ただ違う点は、殴られ屋の方はディフェンスのみ。かといって逃げ回ることはしない。絶妙な技術で相手のパンチを見極めてかわしていく。

        普通の生活をしていると、ボクシングなどというものとはまず無縁だ。私も格闘技を見るのは嫌いな方ではないが、実際に格闘技をやるとなると小さいころに柔道をやっていた程度。あとは体育の授業で剣道をやったくらいか。特にボクシング実際にやってみようという気にはまったくならなかった。ボクシングというと、暗いイメージがつきまとう。過酷なトレーニングと減量。そしてそこまでして相手を殴り倒すことが、そんなに楽しいことなのだろうか? 世界ヘビー級のチャンピオンにでもなれば巨万の富は得られるだろうが、日本のボクシング界は悲惨なイメージしか浮かんでこない。プロのボクサーといっても他の仕事をしながら、わずかなファイトマネーで相手のパンチをくらって体を痛めつけながらもボクシングを続けている。そんなにボクシングって楽しいのだろうか?

        この本を読んでいて、それらの疑問の答がわかってきたような気がする。相手を1分間殴るという行為は想像以上に体力を使う。日ごろ体を動かしていない人間には特にキツい。彼を1分間殴った人間は、ほとんど息があがってしまうという。そして一様に、すっきりした顔になって帰っていくという。きっとストレスが発散したのだろう。相手が殴り返さないボクシングができたら、それはボクシングをやったことない人にはいい経験になるのだろう。人は日常、ストレスの中で生活している。日ごろの鬱憤は心の中に溜め込まれていってしまう。嫌な奴を殴りたいという衝動は本能的なものなのだろう。しかし、それを実行する人間はそんなにいない。殴られ屋さんがやってくれているのは、そんな衝動をボクシングというスポーツの形で、しかも安全に体験させてくれるというらしいのだ。

        彼のところにやってくるのは、シロートだけじゃない。プロの格闘家までがやってくる。その人たちのパンチも最強のディフェンス技術を持った殴られ屋はかわしてみせる。しかしいかにディフェンスの技術に長けていたとしても、いつかは完膚なきまでに叩きのめされる日が来るかもしれない。この本の中で、自分はディフェンスだけに徹していればいいのだから、そうそう倒されることはないといった意味のことを書いていたが、本当にそうなのだろうか? 相手だって攻撃に徹していけるのだから、そうそういつまでも続けられるようには思えないのだが。これはあくまで格闘技にシロートの私の思い過ごしであってくれればいいのだが・・・。


このコーナーの表紙に戻る


ふりだしに戻る