April.23,2002 騙される快感、騙される不快感

        小説には騙される快感というのがある。私の場合、ジェフリー・ディーヴァーの小説を読む楽しみのひとつがそれだ。「そんなあ!」と思いながらも、こっそり隠れているカメレオンやら、仕掛けにニヤリとする。そのうちに、どうせディーヴァーだから、またカメレオンがいるぞと思うようになり、こいつがカメレオンか? それともこいつか? と推理して楽しむようになってくる。ディーヴァーの方だって、ここまで毎回毎回いろいろな手で読者を騙くらかしてきたんだから、もう並な手では騙せなくなってきている。そこをかいくぐって、また新しい手を出してくる。何処まで続くか追いかけごっこだ。最近のディーヴァーの小説を読み終わったあとは、「ああ、楽しく遊んだなあ」という気になるから気持ちがいい。

        小説はどんな仕掛けをしてもいいと思うし、そのことは一向にかまわないと思う。ただ、先日読んだ折原一の『沈黙者』(文芸春秋)などにぶつかってしまうと、ちょっと考え込んでしまうのだ。この小説は、ふたつの事件が同時に進行する。ひとつは埼玉県の住宅地で起こる2件の一家惨殺事件。そうして、もうひとつが、万引きをして捕まった男が自分の名前まで黙秘したまま裁判にかけられる事件。読者は当然としてこのふたつの事件の繋がりを推理しながら読み進めていくことになる。

        この黙秘男が、何かしらの形で埼玉の殺人事件にかかわってることだけはわかるのだが、いくら読み進んでも見えてこない。まったく展開の予想がつかないまま、小説はエピローグを迎えてしまう。ここで私はこの小説全体に仕掛けられたあるトリックに気づかされることになった。まんまと騙されたというのが、ここにきて初めてわかった。「なあんだ、そうだったのかあ」と思ったと同時に、なぜか不思議と自分の気持ちの中で、騙された快感が沸いてこない。むしろ、「そりゃあ、ないんじゃないの?」という不快感が襲ってきた。これはこっちが歳を取ってきていて、頭が柔軟に反応しないだけの話なのかもしれないのだが・・・。

        おそらくこのトリック、小説全体にユーモアが溢れている構成になっていたら、私もニヤリとして感心したんじゃないかと思う。それが、小説全体に漂うトーンは暗い、かなりシリアスな内容。ラストに至るまで辛くて重い気持ちにさせられ続ける。それが最後でポンと、「実はこういう構成なんですよ」と言われても小説を読んだというカタルシスが得られない。ディーヴァーが上手いのは、読み終わったあとにカタルシスを得られることで、これぞ小説を読む醍醐味だと思うのだが・・・。まあ、頭の固くなった中年男のボヤキだとでも思ってください。


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