August.23,2002 圧倒的な最後の章

        自分の人生が思うようにいかない。ええい、この際、リセットだ―――って、テレビ・ゲームのような発想をする人間が果たして本当にいるのだろうか? 他人の戸籍を使って別人に成りすますっていうのは、よく小説の世界にあるけれど、整形手術で風貌を変えるのはともかく、人格まで変えちゃうなんて可能なんだろうか? また、そんなことまでする意味は?

        どこから見ても欠点のない30代前半のキャリア・ウーマン君島沙和子。営業の仕事はバリバリこなすし、プロポーション抜群でたいへんな美人。社内の若いOLたちの羨望の的でもある。しかし、彼女はどうやら整形手術をして、その美貌を手に入れたらしい。しかも、どうも過去に何かあったらしい。明野照葉の『女神 Venus』(光文社)は、読み始めた時、さして新鮮味のある題材とも思えなかった。プロローグで、失踪した息子の手がかりを求めて捜しまわる父親の様子が描かれるから、ははあ、これは君島沙和子が殺したんだなと見当がつくし、最終的には事件が発覚して終わりなんだろうなあと予想がついたつもりでいた。

        それにしても、このヒロインが人生をリセットする動機がよくわからず、その辺が弱いなあと思っていたら、最後の章に圧倒されてしまった。沙和子の少女時代の、ある出来事が明かされるのであるが、まさに「あっ!」という事件があったのである。これは・・・、これは、リセットの意味を納得させられてしまう過去なのだ。これから読む人のために詳しくは書けないのがもどかしいのだが・・・。

        最終章の畳みかけは、まさに圧倒的である。過去のある不幸な事件。家庭内での彼女の立場。それらのことが一体となって、現在の君島沙和子という女性が生まれてくる。このへんは、女流作家ならではの生理で書かれていると思う。まさにこれは、男の作家にはなかなか浮かんでこない発想なのかも知れない。

        君島沙和子という名前から、私はついつい君島十和子の顔を思い出してしまったが、芸能人から実業家との結婚という人生を歩んだ十和子さんに対して、沙和子は、言い寄ってくる男との結婚を望んでいない。男は必要だが、自分の人生にまで入り込んで来る男はイヤだという発想。でもどうしても君島十和子が姿が浮かんでしまう。

        最後の章を読み終わった夏の昼下がり、ボンヤリと長いこと考え込んでしまった。女性の心理って、傷つきやすく、それでいて強く、考えをガラッと変えて生きていけるものなんだなあと・・・。


August.13,2002 作る側から見た東京漫才史

        漫才は大阪が本場、漫才は東京に負けないと言う大阪人のいう言葉に、「そんなことないぞ。てんや・わんや、Wけんじ、チックタックの笑いは絶対に大阪よりも面白い」と思っていた。ところが学生時代、大阪に遊びに行ったときに難波花月(だったと思う)に入り、ナマの大阪の笑いを体験して、こりゃあ凄いと思ったものだった。圧倒的だったのは阪神・巨人。ナマの高座がこんなに面白いとは思わなかった。まだテレビで売り出す前のさんまの姿も見た記憶がある。

        その後、大阪の漫才が圧倒的に力を見せつけたのが1980年から3年近くの漫才ブーム。やすし・きよしをボス格にして、紳助・竜介、ザ・ぼんち、いくよ・くるよ、やすこ・けいこらの大阪勢に対抗できたのは、東京では、ほとんどツービートのみだった。B&Bだってもともとは関西圏の漫才コンビ。あのブームとは何だっんだろう。ブーム末期に、生放送で当時の人気コンビが勢揃いした番組があって、これでは潰されると芸人が騒ぎ出し、やすし・きよしが盛んになだめている様子が写し出されたときは、「ああ、これでブームもいよいよ終わるんだな」と思った。

        『お笑い作家の東京漫才うらばな史』(青蛙房)は、漫才台本作家の遠藤佳三が、会社を辞職してお笑い作家を目指すところから書き起こし、東京の漫才コンビに台本を書く日々と、漫才コンビとの交流を詳しく書いている。お笑いの台本などという難しいものを書く才能などからっきしない私などは、ただただ恐れ入ってしまうのだが、プロの方はポンポンとアイデアが沸くのだろうか? かなりのハイペースで漫才台本を書いていたようなのだ。この本を読んだ感じでは、一番注文があったときは週に一本は書いていたみたいなのである。それも放送台本の仕事もこなしながらである。それにしても、漫才台本はその労力の割に安い。遠藤氏は初期で一本3万円。その後5万円にしたそうだ。当時の物価から考えてもこれはあまりに安い。

        そしてやってきた漫才ブーム。テレビに出られたのは、たくさん存在していた漫才コンビの中でも、喋りのスピードと過激さを持った若い連中ばかり。そんな中で、昔ながらの漫才を演っていたコンビははじかれていってしまう。さらにはブームが終わってみれば、「草木も生えない」状態になっていたという。そう、あのころのコンビが今、いったいどれだけ残っているのだろうか?

        この本を読んでいると、東京漫才のいろいろなコンビが思い出される。天才・秀才、はるお・あきお、千夜一夜、球児・好児、セントルイス・・・。急に無償に漫才が聴きたくなってきた。

        今、漫才は、あいかわらず寄席・演芸場を中心に活動する師弟関係を結んで漫才師になる者と、師弟関係など持たずに自ら漫才を名乗るライヴ系がいる。数からいったら今や若い人中心のライヴ系の方が圧倒的に多いだろう。この人たちの漫才は80年代初頭のブームの漫才を参考にしていると思われる。それでもかまわないのだが、基本が出来ていない人たちが多い。ただただやかましいだけの漫才。落ちついたじっくりと聴かせてくれる漫才が懐かしくなってきたのは私だけだろうか?


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