June.27,2003 またまた出ましたカメレオン

        おそらくジェフリー・ディヴァーが、カメレオンという手を思いついたのは『静寂の叫び』のときだろう。まだ本の残りを数十ページも残して、総てが大団円になってしまった瞬間から、この小説のもうひとつの出来事がスタートした。

        一方で、ディーヴァーの代表的なシリーズとなってきたリンカーン・ライム・シリーズ。1作目の『ボーン・コレクター』は、まだカメレオンやらドンデン返しやらが少なかったものの、『コフィン・ダンサー』、そしてあの『エンプティー・チェアー』にいたっては、もうこれでカメレオンはいないだろうと安心させた最後の最後にまでカメレオンがいて、「うわー、騙されたあ。・・・・・でも快感!」となったものだった。

        『石の猿』が出て思い出したのは江戸半太くんが書いていた『☆おあとがよろしいようで...』の2002年5月11日づけの文章。原書で読める人はいち早くディーヴァーの新作が読めるからうらやましい。そういえば、あまりよくは書いていなかったなあと思いながらも、やはり買わないではいられないのがディーヴァーの魔力。読了後にもう一度江戸半太くんのを読み返すと、なるほど鋭いところを突いている文章だ。まさに同感。

        今回は中国人の殺し屋ゴーストと、リンカーン・ライムの闘い。中国語では鬼は、日本でいういわゆる鬼ではなく、幽霊のことをさすのだということは、香港映画を観ていてわかったこと。このゴースト、まさに鬼のように執念深く、それでいて姿が見えない幽霊であり、・・・・・もちろん・・・・・、やめたあ、バラすのはマナー違反。

        私が『石の猿』を楽しまなかったかというと、そうでもなく、結構夢中になって読んでしまったのだから、ディーヴァーという人は上手い。書き方がトリッキーなものだから、例によってこちら側の思っていることを裏切り続けてくれる。ちょっと騙し絵を見せられているようで、本当のことを知ったときに、「私は嘘は書いていませんよ。そう思い込んで読んでいたのは、読者のみなさんでしょ?」と言っているディーヴァーの笑い顔が見えるようなのだ。こういうヒッカケが数ヶ所ある。ただ、これは小説という形態だから成立するヒッカケで、映像化は出来ない。映画にするとなると、カメレオンの部分は隠さないで撮るということになりかねない。となると、これは案外凡庸なものになってしまいかねないのだ。

        最後にちょっと深く突っ込んだことを書くので、未読の方は、このあとは読まないでほしいのだが、今回は私の方も読みながら疑問を持っていた。それは、「なぜ、ゴーストは、そこまで執拗に移民たちを殺す必要があったのか」ということ。実はこのことが今回の重要な骨格となってくるのだが、こちらも疑問に思いながら、まあいいかと思っていた点。最後になってリンカーン・ライムが、突然にこのことに気がつくというのはどうゆうわけかなあ。

        ともあれ、次の『The Vanished Man』は、江戸半太くんも太鼓判の面白さな用で、翻訳を楽しみに待つことにしよう。


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