September.1,2003 辛い絶望的なラスト
最近の小説はやたらと長いものが多いような気がする。長いのも結構なのだが、なにもそこまで長くする必要が本当にあったのかと疑問に感じることもよくある。昔の小説は今のようにやたらと長いものは少なかった。
1954年作品のジム・トンプソン『深夜のベルボーイ』は260ページほどしかないが、やたら長い小説よりも書ききれなかった部分をいろいろと想像することもあり、読後の余韻は大きいものがある。
主人公のダスティの母はもうすでに亡くなっている。父は教師をやっていたが、言論の自由を求める署名をしたために、アカだとみなされて失職。しかたなく医者になる道をあきらめ、夜勤のベルボーイをしている。家でブラブラしている父に小遣いを渡しているのだが、父はすぐ何かに使ってしまう。そんな毎日なのだが、ある夜、務めているホテルに絶世の美女がひとりで泊まりに来る。やがて、この美女がからんでダスティはホテルの金庫に手をつけることになっていくのだが・・・・・。
巻頭にスティーヴン・キングの序文が掲載されていて、こんなことを書いている。「わたしが彼の何にもっとも驚嘆しているか、おわかりか? この男の、限度というものを知らないところだ。この男は限度というものをまったくわきまえていない」 確かにこの小説を読み終わったときの後味の悪さは何だろう。仕事を無くして毎日家でブラブラしているという厄介物の父親というのが、本筋と関係なくところどころで出てくるのだが、最後に来てこの伏線が効いてくる。それはもう苦い、辛いラストしか言いようが無い種類のものだ。「ああ、こんなラストは読みたくなかった」と思えてくる。それでいて、あとからいろいろとイメージが沸いてくるのは、あれこれと書き込まない部分が読者の想像力を高めるからなのではないだろうか?
ジム・トンプソン流の残酷な結末は、さすがのサム・ペキンパーも『ゲッタ・ウェイ』の映画化に際し結末まで描けなかったほどで、およそハリウッド的で無いのだろう。『深夜のベルボーイ』も映画化され、『ダブル・ロック 裏切りの代償』というタイトルでビデオが出ているそうだ。監督があの『セクレタリー』のスティーヴン・シャインバーグとのこともあって、ちょっと観たくないという気がする。