April.24,2007 マット・スカダー、これが最後か?

        ローレンス・プロックのマット・スカダー・シリーズにして、ひょっとして最後の作品ではないか噂される作品。前作『死への祈り』から4年。なんだか消化不良のような後味だったのを憶えているが、もうほとんど忘れかけていた。もうマット・スカダーは読まないかもなあと思っていたら、江戸半太さんから、「面白いから読んで。(私は)面白くなかったら人にあげないで処分しちゃうんだから」と貰ってしまったからには読まないわけにはいかない。

        おそらく、ブロック自身もこのシリーズ、持て余し気味になっていたのではないだろうか。ずーっとマット・スカダーの一人称で通してきて、ここのところ、マット・スカダーの視線だけでなく三人称を織り込むという、やや変則的な小説形式に変えてしまったのが気になっていたのだが、こういうことだったのねという展開で納得。

        序盤はやや退屈した。もう禁酒会の話だとか、警察を引退して私立探偵になろうかと思っている元同僚の相談話だとかのスカダーの日常生活は本筋とは関係ないし(シリーズを通して読んでいても、私はもうどうでもいいやという感じになっているのよ、このごろ)、インターネットを通じて知り合った男性の素性を調べて欲しいという女性からの依頼話も型どおりだなあと思ってしまったり、三人称で語られる人物が死刑囚のところに取材に行くあたりも、死刑反対運動のことなどが裏にあって、ややうんざり。この人物が実はということになって話が急に動き出す。

        実はこのところ、ジェフリー・ディーヴァーを読んだりする傾向で、この人物がそういう人間だったりしてと、うがった見方をしていたら、その通りだったので唖然。それにしても、この殺人鬼、ジェフリー・ディーヴァーの殺人鬼ばりに神出鬼没。マット・スカダーやTJを翻弄する。ひょっとしてブロックもディーヴァーの作風に影響されてきたのかなと思ったりして(笑)。

        まっ、タイトルの付け方でもわかるとおり、ブロックの持つ虚無的なムードがディーヴァーなんかとは一線を画する作風になっているわけなんですが・・・。本当にこれでこのシリーズ終わっちゃうのかなあ。


April.6,2007 引いてしまった小説

        歌野晶午というと、あの話題になった『葉桜の季節に君を想うということ』を思い出すのだが、私はあれがどうも好きになれなかった。あれの基本的なアイデアは、前代未聞というわけではなくて、落語の世界では柳家喬太郎の新作にもあったことだし、ようするに短編向きのアイデアという気がする。案の定、ジェフリー・ディーバーの短編集『クリスマス・プレゼント』にもこのアイデアを使った作品があった。ディーバーの場合、騙されても快感が沸いたし、喬太郎のときも「うふふ」と笑えたのだが、『葉桜・・・』のときは、なんだか、ドッと疲れてしまった。今まで読んできたこの長編が、そういうことなのかという虚脱感に襲われてしまったのだ。

        続いて『ジェシカが駆け抜けた七年間について』を読んだのだが、これにもついていけなかった。

        それで、『密室殺人ゲーム王手飛車取り』。インターネットのチャットで知り合ったミステリ小説好き5人の人物が、実際に殺人事件を起こし、そのトリックは何なのかを出題しあうという小説。はっきりいって引いちゃいました。もう、読み始めてすぐにサーっと引いてしまった。そりゃあ、小説世界なんですから、何をやってもかまわないだろうし、『バトルロワイヤル』だって映画化までされて、けっこう受け入れられたんだからいいんだろうけれど、ダメでしたね、私は。

        昨今の犯罪を見ていると、この小説のようなことは起きるわけがないとは断言できなくなっているから、ますます怖いのだけど、それにしても、読んでいて、ゲームの出題のために実際に人を殺すなんてことは、あまりに、ちょっと・・・・・ねえ。おそらくミステリ小説を読み漁っていた学生時代の自分だったら、この小説は傑作のひとつに上げていたかもしれないのだが、今の私にはちょっと・・・。

        ラストの救いのなさがこの小説の結末であるのがホッとするところだけれど、逆に辛いエンディングでもある。作者はこういう結末を用意することで、この小説の中の5人への自分なりのオトシマエをつけたのかも知れない。


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