アームチェア

松岡弓子『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)

 立川談志の娘が書いた、父親の介護日記。

 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震。いわゆる3.11の日からこの日記は始まり、同年11月22日、談志の死の翌日で終わっている。

 談志の直接の死因は、喉頭(こうとう)癌。

 私は同じころ、咽頭(いんとう)癌で、11月14日に入院し、16日に手術を受けた。談志が死んだ11月21日は私は、ようやく手術からの回復期。身体に付けられていた、たくさんの管を大分抜いてもらって、要注意の状態から抜け出しつつあった。

 世間に談志の死が報道されたのが、11月23日。私はその様子をテレビの朝のニュースで知った。手術一週間後のことである。

 喉頭癌と咽頭癌の違いはあるが、それは癌ができた位置が微妙に違うが、どちらにしても喉にできた癌だということ。

 この本の出版は早かった。奥付を見ると、同年12月21日になっている。これでは談志の死後一ヶ月ということになってしまうが、確か私の記憶では書店に並んだのは年が明けてからではなかったろうか? まあどちらにしてもスピード出版だ。談志の死が近いと察知した出版社が早くから娘さんの日記に目を付けていたのではないか?

 文筆家の書いた文章ではないし、出版までに時間もなかったんだろうが、はっきり言って読み難い。意味がスッとは解らないで、何回か読み直すところもかなりあった。しかし、これは談志の最後を娘の目から書いてしまった壮絶で残酷とも言える本だ。

 2001年10月、談志のライバルと言われていた古今亭志ん朝が死んだ。落語家の死は、落語家仲間は笑いにして弔いをするというのが習慣になっている。とはいえ、このとき談志は「(志ん朝の)ボロボロになった姿が見たかったね」というようなことを語っていた。軽妙に、華麗ともいえる口調と明るさで、高座から客席を沸かした志ん朝。落語に武骨なまでに真剣に取り組む様を見せることで、お客さんを唸らせていた談志。そこには落語に対するアプローチの仕方の大きな違いがあった。

 そういう意味では、志ん朝は、本当に絶頂のときにスーッとこの世からいなくなってしまった。今でも志ん朝のCDを聴いていると、心地よい気持ちになれる。そして、その最後は50日くらいの闘病のあとに自宅で亡くなっているが、その様子は伝わって来ない。談志は、志ん朝のあがく様を見る事が最後まで出来なかった。「ボロボロになった姿を見たかった」というのは、まさに本心だったのではないか。

 そして、落語に対してあがく様を見せつけていた談志は、娘によってその最後のあがく様を曝されて死んでいくことになった。談志らしいといえば談志らしい。

 私の癌が発覚したのが10月。9月の後半から自分はひょっとして癌ではないかと思い始めていたから、そのころからの本の記述は自分が癌と向き合った日々との対比をしながら読んだ。私が癌宣告を受けた日にはもう談志はかなり弱っている。もちろん声帯も取られていて声も出ない。入院を嫌がり、家に帰りたがる。

 結局、「あと三ヶ月の命」と言われてから九ヶ月の間、入院と自宅介護を繰り返すことになる。自宅介護というのはたいへんだ。談志の場合、著者である娘さん、奥さん、息子、それ以外にどういう関係なのか詳しい説明のないアルファベットのイニシャルの人物らによって介護を受けている。想像どおり、けっこうここでも手のかかる人で、これでは周りもたいへんだ。

 サイレースという睡眠導入剤を欲しがる描写が、ほぼ毎日出てくる。談志はもう静かに眠りたかったのかもしれない。あと三ヶ月の命が、さらに延びる。それを本当に望んだんだろか? 声も出ずに、死を待つしかない病と闘って。

 私は二ヶ月ほどの入院生活のあと退院した。まだ再発の危険は残されているが、とにかく生きている。

 自分の最後がどういう形で訪れるのか。それは神のみぞ知る事。ただこれだけは言える。やはり私が入院中に読んだ浅田次郎の連作集『霞町物語』の中の一遍『雛の花』に出てくる喉の癌に侵されたお婆さんのように、、誰にも迷惑をかけずに黙って入院して、延命処置など拒否して死んでいきたい。

 この本のタイトルになったデキシーランド・ジャズ『ザッツ・ア・プレンティー』は、談志が好きで葬儀のときにかけられたようだが、談志はそれで満足だったのかね。そうだねえ、同じディキシーなら、私だったら『世界は日の出を待っている』(The World Is Waiting For Sunrise)にしてもらうけどね。

2012年7月8日記

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