2005 DK/Schweden/NL/F/D/UK 139 Min. 劇映画
出演者
Bryce Dallas Howard
(Grace Margaret Mulligan)
Danny Glover
(Wilhelm)
Willem Dafoe
(グレースの父親)
Isaach De Bankolé
(Timothy - 「元奴隷」のリーダー)
Lauren Bacall
(プランテーションの主)
Chloé Sevigny (Philomena)
Jean-Marc Barr
(Robinsson)
Udo Kier
(Kirspe)
John Hurt
(ナレーション)
見た時期:2005年9月
ラース・フォン・トゥリアーがまたもや3部作を企画。その2本目で、今回の企画はアメリカ物です。アメリカがテーマと言えば、彼はディア・ウェンディーにも深く関わっています。なぜよその国の人がアメリカの政治制度に正面切って口を出すのかとも思いますが、距離を置いた人の意見も大切なのかも知れません。本来はこういう意見は自国民から出るのが正しいと思います。とは言ってもアメリカという国はちょっとその辺の人が悪口を言ったぐらいであたふたすることもないので、デンマークで彼がチクリとやったからと言って何かが揺らぐわけでもありません。それにしてもアメリカに行かずにアメリカを描くと、ある意味では図々しい事をやっているフォン・トゥリアー。彼の図々しさは以前から定評があります。ではお手並みを拝見。
ラース・フォン・トゥリアーという人は物事にイチャモンをつけるのが好きな人で、つけられた人は気持ち良くないでしょうが、イチャモン自体にはそれなりの説得力があることも多いです。例えばドグマ制度を立ち上げた重要人物ですが、あれは特殊効果にばかり金をつぎ込んで、俳優の実力や脚本の深さ、監督のまとめあげる力量が十分評価されないことに文句をつけたわけです。ドグマの規則を全部きっちり守った監督は多くないようですが、趣旨に賛成した人はデンマーク内外でかなりの数出たようです。直接間接に影響を受けた人は多く、デンマークからは真面目な作品や愉快な作品が続出しました。私も結構見ましたが、社会批判も北欧的な、からっとしたジョークでうまくまとまっていました。それだけでなく、ドグマの規則からは外れていても大金をかけずに超愉快なテンターテイメントの映画も出るようになり、ドグマ監督の作ったルールは欧州映画の見直しに大いに貢献しました。
ラース・フォン・トゥリアー自身の力量は最近やや勢いを失ったという印象を持っています。しかし現在も何かを探し続けている姿勢は伝わって来ます。永遠にイチャモンつけて歩いてくれてもかまいません。女性が映画の中であまり親切な扱いを受けていないという印象はよく持ちます。マンダレイでもグレースの感じる挫折は、まるでラース・フォン・トゥリアーに直接攻撃を受けているかのようで、ちょっと気になります。ビヨルクとは揉めに揉めた末にビヨルクが引き分けに持ち込んだという経緯がありました。ラース・フォン・トゥリアーと戦って引き分けというのは勝ったと言うに近い結果です。ニコール・キッドマンは口を閉じるのが得意な上、社交辞令もうまい人なので直接は揉めていませんが、何かしらのしこりはあったのではないかと思います(結局ラース・フォン・トゥリアーが彼女を視野に置いて3部作を企画していたのに、1作のみで逃げられています)。しかし私はそれに直接イチャモンをつけることはしません。一方にこういう監督がいるのなら、女性監督が出て来て一発お見舞いすればいい、あるいはビヨルクのような石頭が出て来て、監督に平手打ちでも食わせればいいのです。彼にも言いたい放題言わせ、その分女性も同じぐらい言うのが正しい取り組み方かと思います。頭に来たからと言って相手に沈黙を求めるのは、自分の口に猿轡を噛ませるのと同じ事になります。
さて、私は3部作の第1作にあたるドッグビルを見ていないので、詳しい事情が分かっていません。ニコール・キッドマンが演じていたグレースという役は、彼女のリタイアにより全然別な人が引き継いでいます。この人はまだそれほど有名ではありませんが、ちょっと前に出た映画で大きな印象を残したというニュースを見たことがあります。無名に近く、その1作で名を上げたようですが、出身は名門。一頃のジュリエット・ルイスかと思うような表情を見せながら、役を良く理解してしっかりした演技を見せています。
ラース・フォン・トゥリアーはドグマ路線をさらに拡大させ、もっとお金を節約する方法を思いつきました。中学校の学芸会のように、普通のセットは全然作らず、家、道路、空き地などは線を引いて地面に字を書くだけ。本当にセットとして出て来るのはドア、窓、ベッド、テーブルぐらい。他は全部《そこにあるもの》という前提で俳優たちが動くだけ。どうやらドッグビルもこういう形だったようです。ですから俳優の力量が勝負どころ。観客はセットに誤魔化されず俳優の動きと話し方だけに集中。ここで脚本が弱いと話が退屈になってしまったり、全体がままごとのようになってしまいます。ですからこれも一種のドグマ路線と言えます。俳優が試験を受けるような作品にのんびりした顔で出てくるのがウィレム・ダフォー。余裕です。ちょっと前まで皺だらけでやや年寄りの顔でしたが、マンダレイでは少し若返っています。元々実力を余していた人で、マンダレイ程度の演技は軽いです。
ドッグビルに出ていた俳優が大挙してマンダレイにも出ていますが、ライトの当て方が良かったのか、俳優の顔はほとんど目立たず、観客は「あの(有名な)俳優が出ている」などと気が散らず、登場人物の行動に注目できるようになっています。私は(幸い)映画が終わってからキャストのリストを見たのですが、名前を見て唖然。何も考えずに見ていたのでダフォー以外は顔と名前がほとんど一致しませんでした。後で言われれば、なるほどあそこに出ていたのがあの人だったのかと思い当たるふしもありましたが、それでいいのだと思います。
ストーリーは複雑に絡み合った南部の奴隷と白人の関係を描いています。選ばれたのは欧州でドイツが台頭した時期。しかしストーリーは最初から占領しに入って来たドイツと違い、解放だ、善だと言って入って来る、力関係では強者の側に属する女性。奴隷解放令が出てから70年ほど経ったアメリカの南部が舞台です。主人公のグレースは黒人解放に口を出す白人の女性。キッドマンが演じたグレースの役がどうだったかを報道で読んだのですが、それですと話がうまくつながりません。マンダレイに出て来るグレースは能天気とも言えるほどの理想主義で、建前だけで動こうとする若い女性。ドッグビルでどういう目に遭っているかを前提にすると考えられない純真さです。
ギャングの親分の父親、父親の舎弟の者と一緒に車で移動中だったグレースはある屋敷の前で、黒人奴隷が鞭打たれている場面に遭遇します。70年前の法律改正を知っていたグレースは非人間的なこの様子を見て、思わず車を降り、打たれている青年を助けます。屋敷に属する奴隷が20人ほどいて、法律が変わったというのに現在も白人の老女に仕えています。黒人の無知を利用して白人がまだそういう事をしているのだと思い腹を立てたグレースは、家の主人に談判に行きます。老女はしかし寿命が来て死亡。死の寸前に「そこにある本を破棄してくれ」と言い残します。本にはこの家の奴隷について詳しく書かれていました。
グレースは奴隷に一生懸命「あなた方は自由なのだ」と説得しますが、奴隷の方はなかなか納得しません。これまでの生活様式にあまりにも慣れ過ぎ、自由を手にしてもどうやって暮らしていいのか分からないのです。そこへビジネスに携わる白人がやって来て「労働契約にサインしろ」と言います。労働契約とは名ばかりで、新たな奴隷契約なのではないかと訝ったグレースは父親の舎弟の弁護士を借り受け、彼に契約書をチェックさせます。
あれこれもめた末、グレースと奴隷たちは自力で農場を立て直すことにし、自分たちで綿の収穫をして金を作ろうという方向になります。奴隷たちは「これは誰か他の人がやる事だ」と言って、命令や規則に決まっていない事は一切やろうとしなかったので、グレースが彼らを「自分たちのために」動かすまでが大変な作業でした。
人の命を大切にしようと試みたグレースですが、1度は自分で人を殺す役目まで引き受けます。1人の女性が幼い子供を死に追いやってまで食料を取ろうとしたため、彼女を処刑することに決まり、その執行人になったのです。輝く理想主義でやって来たグレースにとってこの1年は1つ1つの出来事が現実の厳しさを思い知らされる毎日です。観客には最初に父親が言っていた言葉が思い出されます。白人のお父さんダフォーは娘が農場に留まると言い出した時すでに先を見透かしていて、白人の立場からできる事は少ないと娘を止めようとしたのです。奴隷解放という形で白人の方からの動きがあった後は、黒人の方でその解放という法律を自分の利になるように活用していかなければ行けないという白人側の建前が示された形です。
ここで事は本音と建前に分離してしまいます。解放という新しい法律を自分のために生かせというのは理論的です。しかし生まれた時からまだ「自由とは何ぞや」ということを知らない人に「自由を使え、生かせ」と言ってもきょとんとしてしまうというのが現実ではないかと思うのです。では白人にまだ自由を知らない黒人に自由を教える義務があるか。ここからが難しいところです。
黒人の立場としてはまだ知らない事については良いか悪いか分からないというのが正直なところでしょう。その上、過酷とは言えこれまでは決められた事をやっていればそれで良かったのですが、これからは自分で経営したりしなければならず、知らない事にどんどん取り組まなければ行けないのです。この点については南アフリカの例があります。解放された人たちが改めて自分たちを奴隷にしてくれと言ったとか言わないとかいう話があります。私は話半分と思って完全には信じていませんが、確かに生まれた時から奴隷としての生活しか知らなかった人達にいきなり「あなた方は今日から自由なのだ、どこに行っても何をしてもいいのだ」と言われると戸惑いは大きいと想像できます。では彼らが奴隷のままでいるべきなのかと言うとそうではありません。法律は改正が必要でしたし、改正後は白人と同じだけの自由、可能性が保証されていなければなりません。では誰が奴隷と自由人の間を橋渡しするのでしょう。それが問題です。そして時間がかかるでしょう。例えば70年とか、あるいはもっと長くかかるのかも知れません。黒人は奴隷制度からは解放されましたが、その後まだ公民権運動が必要だったというのが現実です。そしてアメリカに住んでいる白人が想像しているような形が元奴隷だった人たちがその後に望む自由の形と同じかどうかも分からないのです。何かもっと全然違う形の方がいいのかも知れないのです。黒人自身が試し、取捨選択しなければならないのですから、時間はかかるでしょう。そういう事はちょっとグレースが立ち寄って1年で解決できる問題ではありません。
ラース・フォン・トゥリアーは触れていませんがこれは女性解放運動が抱えるのと同じ問題に見えます。あるいは異教徒が考えている幸せが、別の宗教の考える幸せと一致しているのかという風に宗教観に置き換えてみるのも可能でしょう。
っと、ここでストーリーが終われば、問題提起は終わり、話はわりと単純なのですが、その程度で引き下がるラース・フォン・トゥリアーではありません。グレースたちは希望と失望のミックスを経験し、苦労してようやく収穫にこぎつけます。大金が手に入ります。打ち上げパーティーもあり、黒人の1人ティモシーに惹かれていたグレースはその夜ティモシーと結ばれます。このシーンの描かれ方が象徴的で、白人女性が持っている期待と、それに対する黒人青年の態度が全く噛み合っていないところがはっきり描かれます。フォン・トゥリアーはこのシーンでも特定の人たちを批判しています。
最後にアッと驚く謎解きも用意してあります。マンダレイでは最後誰が幸せになるのでしょう。グレースが自分の考えるように成長したと誤解したギャングのお父ちゃんだったのではないかと危惧しているこの頃です。
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