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How Berlin got the Blues? - Die geheime Geschichte des Ebylee Davis /
How Berlin got the Blues - この人何をやっていたの?

2016年10月のタブロイド誌の記事から

2004年1月からこのコーナーが始まりましたが、2004年3月以来ほぼ毎月リストに名前が挙がっているエブ・デーヴィスというアメリカ人がいます。2016年10月に彼が70歳になったというニュースがタブロイド誌に出たのですが、そこに彼の意外な経歴が披露されていました。大々的に1ページを使ってあります。

彼についていつもの音楽のページに書き始めたのですが、長くなったのでこちらに移しました。

★ きっかけはタブロイド誌

会社に行くとタブロイド誌が置いてあるので食事時にチラッと目を通すことがあります。ドイツが誇るサッカーの大スター、バスティアン・シュヴァインシュタイガー青年(通称シュヴァイニー = 無理に訳すと「豚君」、普通ドイツ語で人を豚と呼ぶと嫌な奴扱いなのですが、ここでは親しみを込めた言い方です)が幸せそうな顔で写っている写真が載っていたのがそもそもの始まり。

彼はこの間結婚したばかり。サッカーでは国際戦のドイツ代表からそろそろ引退の時期に入っており、最近仕事をしている英国ではあまりうまく行っていないようなのですが、結婚だけは大成功だったようで、とてもうれしそうです。

ページをめくって行くと、びっくり。見慣れた顔が1ページいっぱいに載っていました。「何で彼が」と思い、記事を見始めました。エブ・デーヴィスです。

3枚の写真つき。
 ・ 1枚は現在の彼の姿。
 ・ もう1枚は最近のステージの姿。
 ・ そして3枚目は1982年以降と思われる軍服姿。

エブ・デーヴィスは本名らしく、エブは Ebylee の略。音楽関係者には Eb が《イー・フラット(=変ホ短調)》に見えてしまいますねえ。

ドイツ生活が長い人なので、ドイツのニックネームを貰ったのではないかと思う人がいてもおかしくありません。よくあるエバハルトという、彼の年齢ならちょくちょくあるドイツ語の名前の略なのかなと思ったこともありました。しかし宣伝文句には確か「アメリカはメンフィスから来たブルース・マン」といった内容のフレーズがあったようにも記憶しており、よく分からないままでした。

その気になって探せば彼の経歴をインターネットで調べることもできたのでしょうが、私のリストに登場する人の数が多く、1人1人当たっている暇がありませんでした。今回のタブロイド誌の記事をきっかけに調べてみたら以下のような話が出て来ました。

★ アーカンソー → テネシー → ニューヨーク → ベルリンに住んだ

生まれたのは1945年頃、アーカンソーのエレインという所で、間もなくテネシー州のメンフィスに移り住みます。60年代に入るとニューヨークへ移動。このあたりから音楽活動をしていたようで、その後ドイツに移り住みます。

インターネットに出ているのは音楽活動の記事のみ。私もごくたまに彼の記事をインターネットで探したことがあったのですが、軍歴については見たことがありませんでした。ただ、私はそれほど熱心に検索していません。

10月のタブロイド誌を見てぶっ飛び、夕方もう売り切れているだろうと思いながらキオスクに行くと、最後の2部が残っていて入手できました。

★ 軍人デーヴィス

フル・ネームが分かったのもタブロイド誌からです。軍服の写真はかなりランクが上の士官だということを示しています。胸には色とりどりの略綬がずらっと並んでいます。

ベンチャーズ初代ドラマーのジョージ・バビットには負けますが、その半分ぐらいの数の略綬がエブ・デーヴィスの胸にも並んでいます。結構前の写真のようで、まだ痩せています。

記事によると(本人がインタビューに答えた様子)、1982年、東西冷戦のさなか、乗り気ではなかったけれど、軍から配属されて西ベルリンにやって来たとのことです。当時の軍人からは壁に囲まれて動きの取れない西ベルリンで働くのはあまり好まれなかったようなことを言っています。

この時ただの歩兵でない米軍人が勤務していたのは私の通っていた大学の隣か、現在日本が公館としてではないものの国に近い形で使っている建物ではないかと思われます。(下記参照)

彼は軍人として密命を帯びて4カ国(英米露仏)統治の3カ国(英露仏)の軍人との交流を図っており、インタビューではスパイ活動も否定していません。問に対して微笑むだけで明確な答はなかったそうです。当時時たま行われた東側とのスパイ交換に使われた有名な橋はしょっちゅう通っていたそうです。当時ここを通れた人はどこの国の出身かに関わり無く、めったにいません。断わりなく通ると射殺されます。当時のスパイを扱ったテレビや劇映画にはこの橋の様子を真似たシーンが出て来ます。デーヴィスはそのモデルになった本物の橋を任務で行き来していました。

西ベルリンに来てから彼は音楽と軍の二足のわらじを履いていたそうで、今でもしょっちゅう出演するライブ・ハウスに出るようになっていました。上に書いた3カ国との交流の一環としても演奏したことがあり、その時ソ連の同時通訳が彼の曲の歌詞を訳していたとも語っています。(ブルースに使われる米語を翻訳できるほどソ連の通訳は優れていたのかと驚くべきか、くそまじめにそこまで探っていたのかと笑うべきか。ソ連で英語を学んだ人は、とても外国人とは思えない、すさまじく米語的なアクセントの人が多いです。それも誰が話してもほとんど同じアクセント。1人の先生の影響が強かったのでしょうか。)

★ ジャズの世界にブルースを

当時の西ベルリンはジャズが主流でブルースをやっている店も無く、人もいなかったそうです。この点は私も確認できます。当時の友達と時たまライブに行きましたし、路上の演奏も聴きましたが、ジャズばかりでした。

そこへ彼がブルースを引っさげて登場。どうやら大ブームにはなりませんでしたが、歓迎はされ、定着したようです。現在の彼が「ベルリンのブルースの父」と評価されているとしたら、そう間違っていないだろうと私も思います。

壁は彼の来伯から7年後に崩壊。記事を見ると彼の軍人としての活動がそのあたりで一枚噛んでいるのではという雰囲気が行間に漂いますが、軍務の内容を具体的に言うわけには行かないだろうと私ですら思うので、インタビューアーも深くは追求していません。ただ、本人は「目はちゃんと開けて見ていた」と言っています。ジェームズ・ボンドのように積極的に動かず、ただその辺の様子を観察するだけでも冷戦中なら結構役に立つ情報は得られたものと思われます。

★ 冷戦が終わって間もなく退役 − ベルリンに残ったのは夫人のため

ニナ・T・デーヴィスという女性の名前もよくこのコーナーのリストに登場します。名前からエブ・デーヴィスの身内かなと思う反面、デーヴィスというのはよくある名前なので偶然なのかなとも思ったりもしていました。この人が彼の奥方のようです。

ちなみにニナ・T として彼女も2004年の2月からこのコーナーのリストに登場しています。よく Kat Baloun と共演しています。暫く名前が消え、2004年の11月からはニナ・T・デーヴィスと名乗るようになっています。芸能人は芸名を使うのが普通なので、これを持って結婚式を挙げたとは言えませんが、少なくともインタビュー記事によると彼女が奥方。ブロンドの美人です。

亭主はギターを弾きながらのブルース・マン、奥方はピアノを弾きながらのブルース・ウーマン。夫人は歌にはあまり向いていない感じですが、ピアノは達者です。亭主はスマイリー小原流のダンスができ、ギターやサックスもできるようです。歌手としてはジョン・ベルーシほど記憶に残るような歌唱力はありませんが、一応プロの歌手としてドイツでは通用します。アメリカではライバルが多過ぎてちょっときついかも知れません。

★ 同時に出た別な記事とタブロイド誌では受ける印象がかなり違う

私の見たタブロイド誌とほぼ同時にベルリンのタウン誌も彼との直接のインタビューを発表していました。タイトルはずばり「エブ・デーヴィス − ブルース・ミュージッシャンでスパイ」。

こちらの記事によると彼は50年代、60年代、ティーンエージャーの年齢ですでにメンフィスでミュージッシャンとして成功していたそうです。その後徴兵ではなく志願兵として入隊。

彼の年齢から考えると、徴兵制度があったのでそういう形で入隊してその後軍に残ったのかと思う反面、そのような形で士官になれるかという疑問も持ちました。どうやら最初から志願兵だったようです。

後に大臣にまでなった中米アフリカ系アメリカ人パウェルが言っていたと記憶しているのですが、アフリカ系のアメリカ人が職業で成功するためには軍はいい所だそうです。人種差別が他の職種に比べ少ないそうです。正確な年は分かりませんでしたが、デーヴィスが初めて入隊した頃はもしかしたらまだ黒人に公民権の無い時期だったかも知れません。

デーヴィスの時代にはまだそこまで考えて入隊する子供はいなかったでしょうが、デーヴィスはデーヴィスなりに頭が良かったと思われます。「どうせいずれは徴兵される。そうやって入るとどこに配属されるか分からない。じゃ、自分から入って、多少でも自分の希望を通せる方がいい」ですって。

タブロイド誌では分からなかったのですが、タウン誌のインタビューには彼は4年後1度退役していると書かれています。音楽で十分食べて行くことができ、ニューヨークに移住。タブロイド誌はここは中抜き記事です。実際には15年も軍から離れています。ソウルのブームが終わり、ディスコに取って替わられためまた入隊。本人曰く、「軍務以外職業的に何も習ったことが無かったから」とのこと。

で、西ベルリンへ送られます。ここから音楽と二足のわらじに。8時間勤務の後に Bayou Blues Band としてステージへ。ここを私流に拡大解釈すると、勤務の明けた軍人がバーに行って一杯やる代わりに、彼はステージに上がって、ギャラを稼いだ・・・。音楽好きだったので、こういう形で勤務明けにさらに働いても苦にならなかったのかも知れません。

私がベルリンへ向かった時日本の人には「冷戦の震源地に行った」と思っている人が多かったです。実際のベルリンは一種の無風状態。台風の目のような感じで、よその国の紛争地帯と比べ物にならないぐらい平和でした。西の学生は理想主義に燃え、兵役に取られることもなく、大学もろともお花畑で楽しい夢だけを見ていました。平和ボケの国日本から来た私でさえ、「いいんだろうか、これで」と思ったほどです。

西ドイツに属していない、万年赤字の西ベルリンは、高度成長でガンガン稼いでいた西ドイツからどんどん資金援助を受けていたようで、本当の意味で暮らしに困っている人と、(ただの1人の)乞食も見たことがありませんでした。西ドイツ人、西ベルリン人は仕事があるか、失業保険で暮らすか、生活保護を貰うか、既に年金生活に入っているかでしたが、当時は国庫に十分お金があり、むしろ国民に職場を斡旋することの方が大変だったらしく、皆が何かしらのお金を誰かから貰って幸せに暮らしていました。本当の貧乏人は奨学金にはずれ、私費で留学した私のような人間だけでした。外国人でも申請すれば何かしらの援助は受けられたのでしょうが、その道を選びませんでした。お金が尽きたら帰国と思って来ていました。

そんな私なので一般人に取っては安い料金だったのですが、コンサートに行くこともできませんでした。それでも音楽環境は比較的良かったです。何しろ路上で演奏している無名の人でも結構いい腕だったのです。

★ 大サプライズ

とまあ、そんなのんびりした西ベルリンだったのですが、ベルリンに住んでいる人に取っては大サプライズの記事が載っていました。

4カ国統治の米軍はベルリンの南側にいたのですが、デーヴィスは隊と一緒に国境を越えたポツダムにいたそうです。そんな所(東ドイツ国内)に米軍が駐屯していたことを当時の私は全然知りませんでしたが(一般のドイツ人も知らなかった)、そうなると彼がよく例の橋を渡って来た理由が分かります。ライブは壁の中(西ベルリン)で行われていましたから、ライブの度にそこ(東ベルリンですらない、東ドイツ領内)から西ベルリンへ来なければ行けなかったのです。

★ 東西ドイツと東西ベルリンの位置関係

当時のベルリンがどうなっていたかを知らない人に多い勘違いはこんな感じです。誰かが分かり易い絵をインターネットにアップしてくれています。

http://kutsumiya.hatenablog.com/entry/zakki/Berliner-Mauer

最初に出て来る絵が最も多い勘違い。こういう分割法なら壁は中央に1つだけ必要ですし、陸地の孤島と呼ばれることもなかったでしょう。

次の絵は(少し下にスクロールしてください)東西ドイツ全体の分割図です。大きな緑の3地区が英米仏の占領区、赤いのがソ連の占領区です。赤い所にある小さな丸い所がベルリン全体。その中がさらに4カ国統治になっていて、緑が英米仏の地域。ここがあの有名な陸地の孤島。赤い部分が東ベルリンで、当然ながら東ベルリンと東ドイツの間には行政区画の線が地図上にはありますが、行き来を阻む壁はありません。ベルリンの壁はこの小さな丸の中の緑の部分を囲んでいます。

(このページの筆者の表現はともかく、西側の占領区域に飛び地のようになっていて、周囲がイギリス地区なのに都市だけがアメリカ地区という例外も描かれています。友好国間の分割なので壁は作られていません。)

その次の地図には(もう少し下にスクロールしてください)どの国がドイツ全体のどの部分を取っていたかが描かれています。

緑の3カ国統治の地区には壁は無く、東西という時こちらが西で、赤いソ連地区が東。東西問題が起きてからは国境警備も東西ドイツの間ではきっちり行われ、3カ国の部分は行き来自由で検査も何もありませんでした。

その上欧州連合が発展中だったので、西ドイツから西側の外国へ行く時も旅券の検査はあって無いようなものでした。

西ドイツから東側の外国へ行く時は一般的には厳しい検査が行われていました。ところがですよ。チェコとの国境では徒歩でチェコ側からドイツへ迷い込んで来ることが可能でした。運悪く国境警備隊に出くわせば大きなトラブルになり、射殺や刑務所行きもあり得たでしょうが、運が良いとそのままドイツに入ってしまい、亡命も可能だったようです。私はそういう男性に会った事があります。森を通って結構な距離を歩いたのだとは思いますが。

エブ・デーヴィスが「いた」と言っているのは・・・

ライブでは絵の西ベルリンの緑の部分の真ん中。ここに彼が出演するイブ・ハウスが今もあります。

任務についていたのは東ベルリン(暗い赤色の部分)からちょっと外れた東ドイツの赤い部分。東ベルリンに隣接したと言えるぐらい近いけれどベルリンではない所のようです。

この地図、物凄くうまく当時の東西ドイツ、東西ベルリンの様子を示しています。

東ベルリン、東ドイツでも時たまブルース・マンとして特別な催し物で演奏をしたそうです。そういう時は東側の士官が同伴し、守られていたそうです(= ばっちり監視されていたということでもあります)。と同時に密命を帯びて危険な事もやったとか(どうやって監視の目をごまかしたのかは不明。アフリカ系アメリカ人なので目立つと思うのですが)。

2度目の退役は1994年、壁が崩壊して5年目。レコードの契約があり、大勢のミュージッシャンと知り合いだったこともあり、ベルリンにとどまることを決意。

彼の意見ではそれでもベルリンには危険な場所があり、そこには絶対に行かないとのことです。彼が挙げた場所は東側で、私が一時期職業学校に通っていた所。確かに有色人種に対して親切とは言えませんが(よそよそしい、しらけた風が吹くことがある)、身の危険を感じるほどではありません。アフリカ系の人の方が東では扱いが悪いということは考えられますし、西の方が手の込んだ、外交的な差別をやるので一見何事も無いように見えるということも考えられます。

インタビューアーは「壁崩壊直後のドイツは人種差別が急激に起き、危険な状態だったのに、なぜあなたはベルリンに残ったのか」と聞いていますが、その答がレコード契約その他の話です。体を張って襲って来る人はそう多くはなかったと思いますが、時には醜い行動に走る人もいたのかも知れません。

ベルリンやドイツは差別をする人がいる反面、しない人も多く、彼の故郷や欧州の一部の地域より物事がフェアに動くため、最終的にベルリンにとどまる決意をしたのではないかと思ったりします。ドイツにはドイツ式の差別があり、嫌な思いをすることもあり得ますが、すぐ命の危険だとか、名前がドイツ式でないために就職のチャンスが元から無いというほどのひどさではありません。

加えてドイツ人はブルースやジャズのミュージッシャンとなると神のようにあがめ、尊敬するので、彼に取ってはベルリンの方が安全で、人としての尊厳も保て、職業的な能力も評価されるということなのかも知れません。さらに加えてドイツのインテリ風の女性の中に率先してアフリカ系の男性と結婚した世代があります。そういったいくつかの要素が彼に幸運に働いたのかも知れません。おかげでベルリンにブルースが定着しました。

★ 年齢が違う

タブロイド誌では70歳の彼、1日の差で行われたこのインタビューでは2歳年を取って72歳。なんでやねん。外国にも数え年あるんか。マディー・ウォーターズは友達だったそうです。「そろそろ引退か」と聞かれて、「80歳を過ぎても現役の人がいるから、まだやめんぞ」とのたまう。

この質問のキーワードは年金だったのですが、ドイツ語では「年金生活をする」という言い方は同時に引退も意味します。ちなみに彼は米軍から年金が出てもおかしくありません。自由業のミュージッシャンとしてはドイツでは自由業の非常勤教師と同じく年金には手が届きません。自分で貯金するか、どこかの音楽事務所から会社員として雇われるか。そういう話は今からでは遅いかも知れません。ただ、まあ、それでもドイツ人と正式に結婚していれば何かしらの控除はあるかも知れません。

★ いいかげん

私が見たタブロイド誌はいいかげんなことでは英国のタブロイド誌といい勝負の有名誌。恐らく日本の夕刊○○の方が掲載前にチェックをきちんとしているでしょう。タブロイド誌のみを見て書き始めたこの記事、タウン誌の記事を見て疑問続出でした。

★ 映画を見損ねた

隠れるように小さく載っていたのが映画の公開日。タウン誌とタブロイド誌に彼の記事が出たきっかけはどうやら映画だったようです。タイトルは How Berlin got the Blues ? / Die geheime Geschichte des Ebylee Davis でタブロイド誌が出た翌日1日だけ公開されたようなのです。(ドイツ語のタイトルは「エブリー・デーヴィスの秘密のお話」)

2015年制作となっている所と、2016年となっている所がありますが、2人の女性監督が撮った45分のドキュメンタリーです。英語のタイトルは How Berlin got the Blues です。お金は独米から出ています。

★ 文化と外交

ブルース・マンとして知られていたデーヴィスが実はこういう活動も行っていたというのは諜報業界の人には当たり前、一般の日本人には映画の世界のように思えます。私も話を聞いても現実感がありません。「そういう事があるんだ・・・」と。

80年代、90年代は変な時代ではありました。こちらに来て9年で壁が崩壊しましたが、始めの9年にもその後の10年強にも変な事はあり、「すっきりしない話には乗らない」というモットーを持っていなかったら、変な目に遭っただろうと思います。変な話はかなりの数あり、距離を置いたり断わるのは一苦労でしたが、その先に足を踏み入れていたらとんでもない事になったと思います。そういう時代でした。ベルリンという特殊な土地にいたからその辺りは「そんな出来事があってもおかしくない」と言えますが、実はこの種の出来事は日本やドイツだけでなく、様々な場所で起きていて、直接東西の接点にいない人は変だと感じないだけだったのかも知れません。

2000年代に入ってからは日本の隣国の活動が活発だということが日本国内でも公に話されるようになり、人攫いの話を政府が公式に認めました。外国の舞踏団や、アイドルが国の命を受けていることもあるだろうという話もメディアに出るようになりました。とは言っても毎日色々なニュースがあるので、深追いしている時間は無さそうですが。

デーヴィスの話は彼が黙っていたらそのままで終わったと思うので、なぜ今出て来たんだろうというのが最初から頭に浮かんだ疑問です。米軍は世界に出ていましたし、大使館と海外駐在の軍が諜報活動をやるだろうというのは海外ではかなり前から常識、日本でも2000年代に入ってからは常識になりつつあります。

推理小説を読んで来た身としては、諜報活動のほとんどは表に出ず、英雄的活躍をした人がいても、普通の人が知らないまま終わるものと思っていました。何かの手違いで話の一端がばれてしまった時しか表に出て来ないものと思っていました。

なのでベルリンでは結構名の通っているブルース・マン、軍歴はほとんど知られていないブルース・マンの履歴をここでわざわざ発表するのはなぜだろうと思ってしまいます。近視眼的に見ると、出来上がった映画の宣伝のためのインタビューですが、そもそもなぜ今この人の経歴をネタに映画を作るんだろうというのが不思議。作らなくても彼は音楽で今後も食べて行けそうですし、スパイの話を出すとマイナスに作用するかもしれないと、余計な心配をしてしまいます。

ま、私に取っては音楽のコーナーのネタが見つかってありがたいですが。

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