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ストックホルム症候群 /
Stockholm-Syndrom

記事を見た時期: 2017年5月

2017年春のファンタ(前菜)に参加した Berlin Syndrome の紹介記事から派生しました。

誘拐、監禁の被害者がストックホルム症候群を発症するように、意図的に 行動する男の毒牙に引っかかったオーストラリア人女性の作品、Berlin Syndrome を紹介している時に、ストックホルム症候群という言葉の語源になった事件について書き始めました。

長くなってしまったので、こちらに移しました。

Berlin Syndrome の女性主人公は犯人の最初の被害者ではなく、やさしい顔をしたアンディー青年は彼女の前にも何人かの女性を誘拐、監禁していたようです。捕らえられていたアパートで自分のではない髪の毛を発見。

ここで観客はぞーっとするように作られています。恐らくはその女性たちは死んでいるのでしょう。

前の記事の終わりにも書きましたが、今年の春のファンタは人が閉じ込められたり、閉じこもってしまう話が多いです。閉じこもってしまうのは自己責任として、閉じ込められてしまう場合は被害者と加害者ができてしまいます。そんな事を考えながら書きました。

★ そもそもの始まり

ストックホルム症候群、ストックホルム・シンドロームという言葉が生まれたのは1973年。スウェーデンの首都ストックホルムにある銀行が単独犯に襲撃され、人質事件に発展しました。

当初の人質は9人。男は短い機関銃を持っていました。すぐ5人の解放に同意し、銀行員4人が行内に残りました。

犯人の要求は人、金、逃走を許すことの3つ。人は刑務所で知り合った友人の釈放。金は4000万円弱。そして友人と一緒に逃走させろというのが3つ目の要求。

単独犯の男はオルソン、釈放要求で一時的に刑務所から出て来た男はオロフソンと言います。2人は服役中の刑務所で知り合い、オルソンは一足先に釈放されていました。

日本のハイジャック事件と似て、スウェーデンはすんなり要求を容認しています。その代わり人質は銀行に置いて行けと警察はオルソンに要求しました。

要求には比較的早く許可が出たのですが、合計5日間すったもんだがあり、結局5日目に逮捕となります。すったもんだというのは兵糧攻めの試み、説得、警官への発砲、首相との電話でのやり取りなどで、オルソンは、オロフソンと金を得ても結局銀行から外へ出られずに捕まりました。

★ ストックホルム・シンドロームの外見

この名前は後についたのですが、この事件での人質の振る舞いが世間に謎を呼び、センセーションの元になりました。

今でこそこの名前と内容は世界中に知られており、後に起きた人質事件ではすぐ精神分析医が被害者救済に乗り出しますが、当時はまだ人質事件で長時間恐怖にさらされた人が、頼る相手を間違える現象は研究されていませんでした。

犯人は元々は1人、友達が釈放されてからは2人。人質は4人。この人たちは5日間銀行で寝泊りしており、犯人が疲れて来れば逃げ出すことも可能だったかも知れません。ところが人質は犯人に協力的で、警察に対しては非協力的に振舞いました。解放後もそいう状態が続いたそうです。

★ ストックホルム・シンドロームの理由付け

素人は混同しがちですが、この現象は病気ではなく、一時的に置かれた極限状況で、関係者が普段の常識や社会の規範と違った反応をしてしまうだけです。同じ状況下でも力関係が違うと逆の反応も起きます。そちらは現在ではリマ症候群と呼ばれています。ストックホルムの事件を機に研究が進み、後には以下のような説明がされています。

人質の生命を握っているのは犯人。何もかもが犯人の許可が無いとできず、言う事を聞かざるを得ないということにすぐ気づきます。それでできるだけ犯人と対立しないように努め、犯人と友好関係を築こうとします。意識したり、計算してやるのではなく、それ以外に生きる道が無いという絶望的な状況で自己防衛本能がそうさせるとのこと。

なので、メディアはこういう事件で解放された人質にすぐインタビューをしても、その人の自然な話を聞くことはできません。一定の時間が経って、人質がまた日常生活に戻って、落ち着いて、初めてバランスの取れた話が聞けるようになります。ただし、後遺症がその後何十年も続くという話も聞いたことがあるので、そう簡単な話ではなさそうです。

警察も被害者が警察を非難し、犯人を庇うような発言をしても怒らず、暫く休養させてあげるのがいいでしょう。

しかし1973年にはまだそういう事が誰にも理解できず、パーッとメディアに載ってしまいました。

周囲の人たちは人質だった人たちが怯えて泣くとか、怒って犯人を非難するといった振る舞いは予想できても、助けようと努力した警察が非難されるとか、犯人を庇うような姿勢は想定外でした。

こういう目に遭った被害者に最近ではすぐ精神分析医や治療士がコンタクトを取りますが、当時はまだ症候群自体が誰に取っても初めての経験だったため、関係者はその後難しい人生を送ったのではないかと思います。

ストックホルムの事件の犯人はストックホルム・シンドロームの事は何も知らず(当たり前だろう!)、被害者が自分になつくように意図して洗脳した形跡はありません。

しかしその後起きている数多くの人質や監禁事件の中には犯人が被害者の弱い立場を見通して、自分の気に入るように飼いならすという一段階悪質な事件も報告されています。監禁後何年も経って、一緒に外出しても被害者が逃げ出さない、他の人に助けを求めないなどという気の毒なケースも知られています。

Berlin Syndrome は悪質な方のパターンで演出されています。

また、解放されると人質は反動で犯人に強い敵意を持つことも多く、振り子が大きく左右に振れる感じです。やはり専門の分析医が近くにいると助けになるでしょう。

★ その後

当時の直接の関係者をご紹介します。

☆ 犯人オルソン

前科があり、刑務所でオロフソンと知り合っています。オロフソンが先輩格。この事件でオルソンは懲役10年。8年で釈放。その後暫く彼を犯人とする犯罪は成立していないのにゴタゴタに巻き込まれ、長期間逃亡。自首して見たら、無罪でした。その後は犯罪歴無し。

タイ人と結婚し、子供ができ、家族でタイに住んだ後、スウェーデンに移り住んだとのこと。タイではスーパーマーケットを経営していました。帰国後も自動車修理の店を経営しており、犯罪には手を出していません。現在は年金生活。事件当時の被害者には謝罪をし、和解が成立しています。

彼が強制したわけではないのに人質はオルソンが警察に撃たれないように守っています。建物内に逃亡の機会があった時も、人質は全員犯人の元に引き返しています。

欧州(西ヨーロッパ)では一般的に日本と比べて警察への信頼感が薄いです。なので銃撃戦にでもなると警察官が命がけで人質を逃がすとか護ることを一般人はあまり期待していません。そんな中で自分が急に人質になってしまうと、信頼できるのは数日間寝食を共にした犯人になってしまうのが流れ。とは言っても、日本人も時々ストックホルム症候群にかかってしまいますが。

☆ 呼び出されて巻き込まれたオロフソン

銀行にいるオルソンに呼び出された時はちょうど服役中。子供の頃から頭が非常に切れたそうです。首相の敷地からトマト、かぼちゃ、葡萄を盗んだのを手始めに少年時代からぞろぞろと犯罪歴あり。刑務所に入っても易々と脱走しています。後にエスカレートして警官殺し(そういうタイトルのスウェーデンの警察小説があります)に関わります。直接の犯人ではないものの、もう後戻りはできない。有名になり過ぎてしまいました。

銀行の件では懲役6年。ですが、実際には巻き込まれただけなので、後に取り消し。そりゃそうです。オルソンが呼び出さなければ彼には順当に刑期を終えて、出所というコースが待っていたのですから。

この銀行の件の後も犯罪で身を立てようとの努力が実り、刑務所から脱走、銀行強盗、国内外へトンズラを繰り返したようです。どの町にも女あり。持てたんですね。

80年代にはベルギーへ移住。90年代には国籍取得(犯罪歴があっても外国籍って取れるんですね。知らなかった!)。その上公式に氏名変更(いいんですか、ここまで緩くて?)。その後カリブ海へ移動。観光客相手に商売。ここでも犯罪に手を出しています。新しい世紀に入る直前にデンマークでお縄。麻薬で懲役14年。2005年には早々と出所。犯罪歴はこれだけで終わっていません。

何度もお縄になり、現在はベルギーで服役中。釈放されるのは今年(2017年)の秋。スウェーデンからは三行半が出ていて、国外退去。2度と来るなって。

☆ 人質1 − 女性

有名人になった元銀行員。事件後精神分析のお世話にならず、自分が心理治療士に転職しています。うら若い乙女、平凡な銀行員が急に恐怖のどん底に落とされ、その時の反応のためにさらにメディアのネタにされ、大変な人生になってしまいました。事件の最中首相に電話して文句を言った人です。

事件後銀行は退職して、心理治療士になりました。ということは大学か専門大学に行き、国家試験を受けたのでしょう。こういう状況では彼女は国の補助を受けられるでしょうが、欧州の国では人目を引くような事件が無くても職業教育や転職に手を貸してもらえます。

いくつかの外国語の記事には彼女とオルソンが後に何度も会い、家族で友達になったとか、やれ結婚したとか、婚約したとか、関係を持ったとか書いてあり、何かしらのつながりが続いたのは確かなようです。ですが後にオルソンが結婚した女性はこの事件に関係の無い人です。

私が読んだ最近の雑誌のインタビューでは彼女とオルソンの間には親密な関係があったとなっていました。この記事を書くきっかけになったのはその雑誌のインタビューです。

服役中のオルソンには多くの女性からファンレターが届いたそうです。最近はよくアメリカで凶悪事件で服役中の犯人に女性からファンレターが届くという話を耳にしますが、その走りだったのでしょうか。何が女性たちを動かすのかは私には謎です。

☆ 人質2 − その後

人質になった元銀行員2人目。事件後精神分析のお世話にならず、氏名を変更して、家族と共に目立たない生活中。事件についてのコメントなどはマスコミに出ておらず、地味な生活に溶け込んだ様子。

彼女は特に命が危ない場面に遭遇しています。犯人が彼女を殴るとかいったものではなく、事件の最初警官と撃ち合いになった時に、彼女が盾にされてしまいました。

当時は症候群はまだ医学関係者の間で知られておらず、研究も行われていなかったので、こういう事件の後遺症の治療法はありませんでした。2017年から考えてみると、家族に囲まれて地味に暮らすのは本人が落ち着くための1番の近道だったと思います。名前を変更することで、好奇心を持った新聞記者を避けることもできたのでしょう。この事件は現場からテレビ中継が行われ、国中の人がはらはらしながら見た初めての事件だったようです。

★ 人質3 − その後

人質になった元銀行員3人目。2人の女性の先輩格。この事件の後、心理的な後遺症が残りましたが、精神分析のお世話にならず、無事に定年まで仕事を続けられました。

事件後間もなく退職する意志が無い場合はこれがベストの解決法でしょう。日常生活に戻ると様々な些細な出来事が脇を支えてくれます。

私の行きつけのベルリンの銀行の支店にも強盗が入り、従業員が人質に取られました。その支店を閉じるというので手続きに行った時に、被害者の1人と話しました。時々行っていたので知っている人でしたが、事件後後遺症を抱えた同僚が多く(その人も恐らく同じ立場)、この場所で、この同僚で仕事を続けるのが困難になり、閉店に決まったとのことです。

小さな事を大きく話して被害者意識をアピールするのとは違い、私の目にもこの人たちが体験した状況の深刻さが分かりました。私も東京で強盗に入られかけ、恐れを知らず、目の据わった犯人とガラス越しに10センチぐらいの距離で対面になった経験があるので、この銀行員の話には誇張は無いだろうと感じました。

★ 人質4 − その後

唯一男性だった銀行員。人質1、2、4は20代前半。彼は精神分析のお世話にならず、その後も銀行員で、私が目にした記事が書かれた2000年代初頭にはまだ退職する年齢になっていなかったようです。生活は地味なようで、メディアに登場したりしていません。

★ ある事実

6日間の人質生活の間にオルソン、呼び出されて巻き込まれたオロフソンが人質に対して暴力的に振舞ったことは無かったようです。警察とも説得工作などでのやり取りはあったものの、暴力沙汰はありませんでした。例外的に事件発生直後に発砲で怪我をした警官がいます。

後にストックホルム症候群になった人質や監禁事件には人質が悲惨な目に遭うケースもあり、そちらの方なら、生き延びるために本能的に犯人の要求に適応したと言えますが、肝心のストックホルムの事件では犯人、巻き込まれた囚人、4人の人質は全員怪我などはしていません。

★ 精神分析医

希望すれば無料で精神分析医の世話になれたと思いますが、解放された人質は誰も世話になっていません。日常生活に戻ったり、家族に囲まれて何とかやって行けたようです。人質1は自分が精神治療士になっているので、免許証が下りる前に修行の一環として一般的な精神分析は受けているのではないかと思います。自分が治療士になったからといって、その知識が自分の問題解決に役に立つとは限りません。

ドイツで自分が何か問題を抱えていて、その解決になるだろうと期待して精神分析医になった人を何人か知っていますが、「それとこれは別」と見るしかありません。自分の問題では別な精神分析医にかかるしか無いようです。ま、当時の私の知り合いは年間200人程度ですから、そのうちの何人とか言ってもその話をものさしにする事はできませんが。

解放された人質は自分の方から精神分医を求めていません。むしろ精神分析医の方がこの人たちに職業的な興味を持ち、近づきたかったのだろうと思います。いい研究対象になりますからね。人質がその餌食にならなかったのはこの人たちに取って良かったかも知れません。

★ 雇用主

ドイツですとこういう事件の後長期休暇の申請を出すと大抵認められ、給料は雇用主側からか、健保から支払われます。気持ちが落ち着いたら戻って来ればいいのです。

スウェーデンでは人質に取られて銀行に寝泊りしていた数日間を残業と見なして、残業手当が出たそうです。その後2ヶ月の有給休暇。

70年代は社会保険の先進国のスウェーデンでも対処の仕方が決まっていなかったのでしょうか。退職した2人の若い銀行員は助けをどこから得たら良いのか分からなかったのかも知れません。

★ 雑誌のインタビュー

今月(2017年5月)たまたま診療所の待合室にあった雑誌に、ストックホルム・シンドロームの元祖の1人のインタビュー記事が載っていました。上に書いた人質1で、「あの人は今」風のインタビューです。

警察は表で犯人と交渉をしながら、裏で犯人逮捕の試みを行い、こじれて首相まで乗り出して来ます。首相に「犯人に対する扱いが悪い(強硬姿勢に対する不満の表現)」と抗議したのは人質の女性。その後犯人は銀行でお縄。

この時に犯人の肩を持った女性のインタビュー記事でした。

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