February.28,2000 すげー爺様達

        去年の暮れだった。生嶋猛が興奮して電話してきた。「『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』って映画が来年公開されるって知ってた? ライ・クーダーが、このところキューバ音楽に夢中らしくてさ、キューバの爺様ばかり集めてバンドこしらえて録音したんだ。これがまた実にいいんだよ。それをヴィム・ヴェンダースがドキュメンタリー映画にしたんだって」

        音を聴かないままに、映画館へ。正直いって最初は戸惑った。キューバ音楽なんて、まったく知らなかったのだ。他のラテン系の音楽に較べると私には少々大人しすぎるように感じてしまった。ブラジルなどの音楽の熱狂的な音からすると、なんだか物足りない。しかし、だんだんと面白くなっていった。落ち着いた抑制のきいたラテン音楽の世界がある。

        映画が終わり、いい気持ちで席を立ち、出口へ向かうとき、後ろのカップルの会話が耳に飛び込んできた。「もうちょっとストーリーのある映画だと思ったのにな」「そうよね、てっきり昔のミュージシャンを集める過程を映画にしたのだと思った」「そうだよ、もっと脚本をしっかりさせてさ、昔の仲間が集まってバンドを作ってコンサートをするって話を撮ればよかったのに」

        この会話を耳にして、がっかりしてしまった。『七人の侍』じゃないんだから、そんなのを撮ってどうするというのだ。このカップルは、いったい、この映画の何を見たのだろう。この音楽に何も感じなかったというのか。音楽なんて個人の好みだから、どうでもいいのだけれど、この爺様バント、凄いミュージシャンばかりなのだ。そんな連中に演技させてどうする。そんな嘘くさいものより、この音と爺様たちの生き様を語ったインタビューの衝撃の前に、何の細工をしろというのだ。

        中でも、私の目を引いたのは、ピアニストのルーペン・ゴンザレス。恩年80歳のこのピアニスト、天才と言っていい。映画館の帰りに、この人のソロ・アルバムを買ってしまったほど気に入ってしまった。この10年関節炎でピアノを弾けなかったなんて映画の中のインタビユーで言っているが、ライ・クーダーも「それは嘘に決まってる」と見ぬいている。そんなこと有り得ない。変幻自在、次々と繰り出してくるメロディーとリズム。私は、映画の中の演奏シーンで、彼のピアノの音ばかり追いかけていた。この人、本当にピアノの前に座ると何時間も弾き続けてしまうという。

        ニューヨークの街がすっかり気に入った彼ら。「英語は喋れないけれど、この街に住みたい。そのうち英語も喋れるようになるさ。そうしたら、不自由でなくなる」。70、80の爺様がそう言うのだ。なんというバイタリティー

        カーネギー・ホールのコンサートでのラスト、『チャンチャン』のリズムがエンドレスで流れる。この曲がいいのだ。哀愁のあるリフ。うっとりしてしまう。ミュージシャンが次々と紹介されていく。ライ・クーダーもギターで参加しているのだが、ブルース・フレーズをちょっと弾くのがやっと。圧倒的な彼らの音楽の前では、残念ながら、ライ・クーダーの入る余地がない。


February.21,2000 私が『チャイナ・フィナーレ』が好きな理由

        それでは、非シンメトリーな男が超シンメトリーな男に勝つ映画はないのであろうか? いきなりこんなことを書きだすと、びっくりされる人もあるだろうが、竹内久美子の『シンメトリーな男』を読んだ後遺症がまだ残っている私です。今月の『アームチェア』や、当コーナーで述べてきたように、女性は「ルックスがよく 真に賢い 不良」という条件を持ったシンメトリー(左右対称)な男に弱いという話。前回、『ジャングル・ジョージ』の項で書いたので、まだお読みでない方は、そちらの方を先に読んでいただきたいのだが、映画の中でも非シンメトリーの男の立場は弱い。

        香港映画に『チャイナ・フィナーレ 清朝最後の宦官』という作品がある。 87年、ジェイコブ・チョンの初監督作品。劇場公開はなく、いきなりビデオ発売だった。『ラスト・エンペラー』を見た直後だったと思う。レンタル・ビデオ店でこのタイトルを見た私は、清朝の終わりを描いた歴史ものだろうと思って借りた。しかし家で見てみると、これは歴史ものというより、メロドラマだった。これがまたよく出来ているのである。一日延長して借り、テープをダビング。今までに、3〜4回見ている。

        主人公ローヘイを演じるのは、マックス・モク。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズにも三枚目役として出ている。ローヘイは貧しい山間の村で生まれる。小作人の彼の家は食べるものにも困っている有様。少年ローへイは宦官になる決心をする。宦官になって出世し、両親を楽させてやろうと思うのだ。宦官に成るためには、男根を切り落とさなければならない。ローヘイは父に頼んで男根を鎌で切り落とす。

        いきなり宦官になれるわけではない。ローヘイは京劇の一座に入り修行を積みながら、その機会を待つ。座長役がサモハン・キン・ポー。この作品のプロデューサーもかってでている。よっぽど撮りたかった企画なのだろう。ここでのサモハンはアクションなし。小さな役なのだが、脇にまわって押さえた、いい演技をしている。ローヘイはこの一座でメキメキと頭角を表し、10年後看板役者に成長する。

        そんなある日、ローヘイは村での幼馴染チュータイ(アイリーン・ワン)と偶然の再会をする。チュータイと一緒になる決心をするローヘイ。しかし、ローヘイに男根がないと知ったチュータイは彼のもとを去っていってしまう。どうしても宦官になりたいローヘイは座長の紹介でついに宮中にあがることができる。宮中での不正事件に巻き込まれるエピソードもあるのだが、やがて清朝は崩壊。宦官達は、紫禁城から追放される。ローヘイも例外ではない。

        酸梅湯を作って、細々と生活しているローヘイのもとへ、突然チュータイが現れる。チュータイは赤ん坊を抱いている。ローヘイと分かれた後、革命家と出会い、彼との間で生まれた子だ。ローヘイはチュータイと赤ん坊の三人で生活を始める。やがてローヘイはチュータイにプロポーズ。三人で生きていこうと決心する。そんなある日、警察に追われて殺されたと思っていたチュータイの夫の革命家ハンミンが現れる。この役がなんとアンディ・ラウ。香港映画きっての二枚目。アジア一帯で女性のハートをつかんで大人気のスターだ。もうどこから見てもシンメトリーな男と言うしかない。

        また気持ちがハンミンにいってしまうチュータイ。赤ん坊を抱いて楽しそうなハンミンとチュータイ。何と言っても、その赤ん坊はハンミンとチュータイの子なのだ。そんな二人を見て、ローヘイは身を引くことにする。ハンミンは今も警察に追われている。ローヘイは、列車で逃げろと伝える。

        駅。警察が張り込んでいる。人目を避けるように蒸気機関車に乗り込むハンミンとチュータイと赤ん坊。やがて警察が列車にまで乗り込んできて、乗客のチェックを始める。このままではチュータイ達は捕まってしまう。そこでローヘイは、ホームに飛び出し大声で叫び出す。「陛下万歳! 大清帝国万歳! 打倒中華民国!」。警察が集まってくる。ローヘイを排除しようとする警官に「なにをする。宮中に仕えた宦官であるぞ。無礼はゆるさん!」「なんだと、ばかなことを言うな、弁髪はどうした。証拠を見せてみろ」と言ってローヘイは警官たちに殴る蹴るの暴行を受けてしまう。

        また乗客の検分に向かう警官隊。このままではまずい。ローヘイは立ち上がると「証拠を見せてやる! ほらどうだ! 正真正銘の宦官様だ! 疑う奴はじっくり見るがいい! とくと拝むがいい!」と言って男根のない股間を開いてのし歩く。「バカものめ!」再び警官隊が集まってきて、ローヘイに殴る蹴る。そこへ汽笛一声。蒸気機関車はホームから動きだす。駅から去っていく警官隊。

        列車のいなくなったホームにうずくまるローヘイ。やっぱり、シンメトリーな男には勝てなかったのか。それでいいじゃないか。いいラスト・シーンになっている。と、そこに線路の上に赤ん坊を抱いたチュータイの姿。ニコッと笑って手を伸ばし、ホームに引き上げてくれと目が語っている。そっと手を差し出すローヘイ。そこでストップ・モーション。音楽が流れエンド・クレジットが流れていく。

        何回見ても、このラスト・シーンは泣いてしまう。非シンメトリーな男がシンメトリーな男に勝つという、非シンメトリーな男にはうれしい映画。はたして、アディ・ラウのファンはこの映画を見て、どう思うのだろうか?


February.15,2000 しつこいようですがシンメトリー

        『ジャングル・ジョージ』というコメディ、映画館で見落としていて見たいと思っていたら、WOWOWで放送していたので、見ることが出来た。コメディだから、笑ってみていればいいだけなのだが、あることに気がついて愕然となってしまった。しつこいとお思いでしょうが、またもやシンメトリーに関する件なのですよ。

        飛行機事故で、飛行機から外に投げ出された子供が、奇跡的に助かり、ジャングルの中でゴリラに拾われ育てられ成人する。。ほとんどターザンのようなのだが、少々ドジなところもある。そのへんがコメディ。さて、一方、新婚旅行にカップルがやってくる。ライオンが新婦を襲う。助けに現れるジャングル・ジョージ。やがて、ふたりは恋に落ちてしまう。

        私がひっかかるのは、じゃあ、一緒に新婚旅行にきた新郎の立場ってどうなるの?ってこと。確かに、ジョージに比べれば嫌な奴だし、観客の目はムキムキマンでハンサムなジョージの方にいくだろうけれど、私は新郎が気になってしまう。前回につづいて、竹内久美子のいう「ルックスがよく 真に賢い 不良」というシンメトリーな存在が気になってしまう。女性はこういうのに弱く、シンメトリーな男は易々と掻っ攫っていってしまうんですよ。

        それは、そもそも青春時代に見た『卒業』あたりが最初だったろうか。私が『卒業』をあまり好きになれないのも、その点。キャサリン・ロスの結婚式ですよ。そこにダスティン・ホフマン。ウエディング・ドレス姿のきれいなキャサリン・ロスを教会から連れ出して、駆け落ちしてしまうラスト・シーン。有名ですが、私はこれが納得いかない。新郎の立場はどうなるの。

        それこそ、これと同じパターンの『タイタニック』。やっぱり新婚旅行中にディカブリオに新婦を持っていかれちゃう。どう考えても浮気映画の『マディソン郡の橋』。どうしてくれるの出張中の旦那は。そしてきわめつけが、『ピアノ・レッスン』、これがどうして名作なの。これだって妻となるためにやってきた女性を寝取られちゃう話。どうしてくれるの、婚約者は。おとなしくて誠実な婚約者だよ。それに対してハーヴェイ・カイテル。もう怪しげ全開じゃない。

        こういった物語の支持者って、きっと女性。あるいは、きわめてシンメトリーなモテモテ男と決まっているのではないかと思うのだが、これは単にモテない私がやっかんでいるだけなのかもしれないのだけれど。


February.10,2000 相変わらずですが

        いままで、ジェームズ・ボンド・シリーズが正月興行のような掻き入れ時以外にロード・ショウされた事ってあっただろうか? 今回は2月ですよ、2月。どうしちゃったんだろう。ジェームズ・ボンド物って、いかにも正月映画にふさわしいじゃないですか。別に何を語ろうという訳でもなく、2時間の間、大冒険をたっぷり楽しませてくれて、見終わった後、何も残らない。

        ジェームズ・ボンドこそ、シンメトリーな男の理想型。一昨日、『アームチェア』に書いたように、竹内久美子のいう「ルックスがよく 真に賢い 不良」。全ての能力に長けた男であり、名うての女たらし、プレイボーイという名の不良。女性は、このシンメトリーな男にうっとりしながら見ていればいいし、男性は自分とは程遠い存在の男に2時間だけ、乗り変わった気になって楽しんでいればいい。

        もうひとつの楽しみは、ボンド・ガール。今回の、ソフィー・マルソーとデニース・リチャーズ、ふたりとも濃くて太い眉をしている。意志の強よそうな顔立ちをしている。役柄もそんな感じ。初期のころのシリーズでは、女性はセックス・シンボルのような扱い方だけだったようだが、最近は変わってきたのか? デニーズ・リチャーズ初登場シーンで「この人は、男に興味ないから、誘っても無駄だよ」とジェムズ・ボンドは言われるが、何の事無い、やっぱりシンメトリーな男には敵わない。あっさりボンドにコマされてしまう。男嫌いだといいながら、超ミニ・スカートになって出てくるシーンもある。その格好で高く張ってあるロープを跨いでみせたり、サービスたっぷり。ボンドに会う前は、レズだったという設定なのかな?


February.6,2000 いかにも健さんらしい『ぽっぽや』

        浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』を高倉健主演で撮ると聞いただけで、見る気をなくし、映画館には行かなかった。高倉健って、あの人出てきただけで、いろいろ波乱万丈の過去を生きてきたというイメージを背負い込んでいる姿が見えてしまう。浅田次郎の原作を読んだ感じだと、この主人公は朴訥に、日々変わり映えの無い人生を送ってきた平凡きわまりない人間という感じなのだ。

        評判がバカにいいので、ビデオを借りてきて見た。かなり泣けるという話を聞いたのもマイナス・イメージだったのだが、泣かせよう泣かせようという作為的手法はけっこう押さえられていて、実に淡々と物語を語っていく、その手法に好感が持てた。なにせ原作が短編だったので、いろいろ膨らませているが、出番は少ないが志村けんのエピソードなどは見終わってもいつまでも心に残っている。

        高倉健を起用することによって、映画版はもうひとつ別の『ぽっぽや』を作れたのだと思う。いままで高倉健は一貫して不器用にしか生きられない男を演じてきた。これはその不器用な生き方の集大成のような映画なのではないだろうか。時代に取り残されていった、北海道の田舎町。その小さな駅のたったひとりの鉄道員。仲間は伝手をたよって中央に出ていったりするなか、頑なに変わり映えない日々、小さな駅を守ろうとする。ああ、高倉健だとこういう『ぽっぽや』になるのか。目の演技がこの人怖いので、朴訥とした感じが出ないのだが、こういう『ぽっぽや』があってもいいかな。朴訥さより不器用な生き方を主題にもってきた『ぽっぽや』。

        ところで、私が富士通のパソコンにしたのは、高倉健がCMに出ているからという理由もありまして、不器用な男がパソコンをやっているというイメージが自分に合っていると思ったからです。

        ただ、ひとつ気になったのが、さかんに『テネシー・ワルツ』が使われていること。大竹しのぶがハミングしたり、バックでオーケストラで流したり。先月の『Every Day I Have the Blues』で書いたように、この曲は恋人を寝取られちゃった人のことを歌った歌。ちょっとこの映画の内容にふさわしくないような気がする。別に歌詞は出てこないからいいのかな。でも気になって仕方なかった。それとも、健さんを鉄道という仕事に取られた大竹しのぶの心情を表したものだったのか・・・。


February.2,2000 サム・ライミがまたやってくれた

        ど、どうしちゃったんだ、サム・ライミは。『シンプル・プラン』に続いて、今度は野球と恋愛をテーマにしたマジな映画。あのゲロゲロ・ホラー『死霊のはらわた』、どこまでやるのブラック・ユーモア『XYZマーダーズ』、なんじゃこりゃマジなの?西部劇『クイック&デッド』、そして私の映画鑑賞史上に燦然と輝く傑作『ダークマン』。あのサム・ライミが、またもやマジな映画に殴り込んだ。『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』、公開初日に待ちかねて見に行った。

        うまい。うますぎる。2時間18分、酔いました。まったくの正攻法で撮っている。引退を目の前にしてマウンドに立つ40歳のピッチャー、ケビン・コスナー。しかも、5年間付き合った女性は、彼の元を離れ、ロンドンへ去って行こうとしている。もう優勝の可能性は消えたチームの消化試合。相手は優勝がかかったどうしても負けられないチーム。しかし、だからこそ彼は意地をみせる。痛む腕をかばいながら、完全試合達成のために。いい映画だ。泣ける。どん底に落ちたときの男の意地って話、好きなんですよ。抑制の効いた演出でサム・ライミは、この物語を語ってみせる。

        かといって、トリッキーな昔の映像を忘れたわけではないようで、ケビン・コスナーとケリー・プレストンがベットの中にいて、「お腹が空いたね」と言って懐中電灯をキッチンに向けると、パッとカットが変わってキッチンにいるふたりを一瞬、前のカットの懐中電灯の光が残って照らすなんていう、手の込んだことを見せる。

        下の写真、広告なんですが、コピーか゜ふるっている。「全てはこの日のため―― 精いっぱい生きて来た 自分なりのやり方で・・・」。これって、はからずもサム・ライミ自身のことも表現していると思いませんか?

        ちなみに映画の中で、ケビン・コスナーが、ケリー・プレストンに頼まれて娘を保護し、ニューヨークまで飛行機で連れて帰るシーン。同乗しいてるチーム・メイト達が、メモ帳に「17」とか「16」とか「11」とか書いて、ケビン・コスナーに見せるシーン。確か字幕では「16点」とか「17点」とか出ていたような気がするのだが、あれはどう考えても「16歳」とか「17歳」とかって意味でしょう。プレイ・ボーイという設定のケビン・コスナーが、あまりに若い娘を連れているので、チーム・メイトが揶揄しているといったシーンだと思うのだけど。

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