March.26,2000 敵の策略に乗って泣くのもいいか

        『香港電影通信』で、去年の夏に香港で公開された『星願』という映画をバカに持ち上げているので、見てみようかなという気になった。DVDが出ていた。くっそーっ、また日本語字幕なしだ。仕方ない、英語字幕にして見始める。

        監督は、生嶋猛が去年香港で見てきて、その面白さに興奮していた『ヴァーチャル・シャドー 幻影特攻』のジングル・マー。これ、生嶋が海賊版ビデオCDを買ってきてくれて、私もすぐさま見たのだが、面白く仕上がっていた(あきらかに映画館で撮ったとわかるのが、なんと最後のクレジット・タイトルで観客が次々と立ちあがる姿が写っちゃっている)。これがデビュー作で、2作目がこの『星願』。そして、今年の旧正月映画が3作目で、日本ロケの『東京攻略』。

        『香港電影通信』でも触れていたように、ようするに香港版『ゴースト/ニューヨークの幻』なんですよ、これ。目が見えず口がきけないという二重苦を背負った男オニオンがいる。これが、台湾の歌手だというリッチー・レンが演じている。そして、そのオニオンを看護するのがオータムという看護婦の見習。オータム役も日本では知っている人が少ないだろう。チャウ・シンチーの『喜劇之王』(9月の当欄で書いた。日本では今年5月公開予定)に女学生パブで働く、シンチーの相手役として出ているセシリア・チョン。二人は看護を通じて愛し合うようになる。が、オニオンは口をきけないこともあるが、その想いをオータムに伝えられないでいる。

        二人が、星降る夜にバルコニーで話をしていると、流れ星が見える。オータムが流れ星にお願い事をする。「何をお願いしたのか、訊きたい? ふたつお願いしたの。欲張りかなあ。ひとつはね、オニオンの目が見えるようになること。ふたつめ? それはヒ・ミ・ツ。えっ!、オニオンもふたつお願いしたの? 何、何!」。オニオンはオータムの手のひらに指で書いて教える。「ええっ!、世界中の目の見えない人が見えるようになりますようにだって?! さすがオニオン優しいのね。ふたつめは? なあんだやっぱりヒ・ミ・ツ?」。ねっ、わかるでしょ、ふたつめのお互いの願い。

        このあとのシーンでオニオンは交通事故にあって死んでしまう。天国に行ったオニオン。ここで、天国に来た、何十億人目かに選ばれ、オニオンは別の人間の姿になって次の流星が流れる5日後の夜まで、地上に帰ることを許される。地上に戻った彼は目も見えるし、言葉も喋れる。ただし、取り決めにより、自分がオニオンだということを人に喋ってはならないことになっている。しかし、オニオンは自分のオータムに対する気持ちを伝えたい上に、オータムの気持ちも知りたい。そこで、いろいろな手を使ってオータムに接近するのだが、逆にストーカーだと思われてしまう。

        もどかしいような展開、あざとい演出。困った映画だなあと思っていると、おお、ここにも出ているエリック・ツァンがおいしい役まわりで、オニオンの正体を見破り、「何を引っ掻き回しているんだ。早く天国にお帰り」などという。ちなみに、エリック・ツァンがオニオンだと見破るきっかけが、オニオンがいつもセブン・アッブに塩を入れて飲んでいたこと。ドナルド・E・ウエストレイクの『ドートマンダー』シリーズに、ビールに塩を入れて飲んでいるキャラクターがいるでしょ。あれのパクリかなあ。

        ラストはそれこそ『ゴースト』のごとく泣ける。いかんなあ、こんな作り手の策略に乗っちゃあと思いながらも泣けてしまう。これ書いちゃっていいのかなあ。「今、私わかった。流れ星は天の涙なのね」。クー、胸に沁みてしまう。


March.20,2000 人間以上に人間味のあるオモチャの映画

        『トイ・ストーリー』1作目って、まったく見る気にならなかった映画だった。公開直後、鈴木英雄の息子、小学生の邦ちゃんが、興奮して私にストーリーを話してくれたのだが、その面白さがさっぱりわからなかった。そうこうするうち、三谷幸喜が、この映画の大ファンで、『それはまた別の話』でその思いを語っているのを読み、いつかビテオで見なければと思いつつも、月日が経ち、いよいよ2作目が公開されてしまうことになってしまった。そんな時、TBSテレビで1作目が放映された。さっそくビデオをセット。ウッディが唐沢寿明。バズ・ライトイヤーが所ジョージの日本語吹き替え版である。

        もう最初のシーンから引き付けられた。オモチャの所有者アンディがオモチャと遊んでいるシーンから始まる。[ごっこ]遊び。物語の主人公になったつもりで、持っているだけのオモチャを使って自分でストーリーを作り出す遊び。私もよくやったっけ。

        小学生の頃といったら、私、常に自分で読んだ本やマンガ、見た映画やテレビのストーリーを細部まで憶えていて、頭の中で反芻してばかりいた。それに飽きると、自分でそれらのキャラクターを使って新しいストーリーを考える。夜寝る前など、眠りにつくまで、そのことでいっぱいだった。授業中も上の空だったから、成績は悪かった。常に夢の中で遊んでいるような少年だった。そんなとき、プラモデルや今でいうフィギュアのようなものがあると、たまらなく想像力をかき立てられて、楽しかった。私も邦ちゃんのように、相手かまわずに見た映画のストーリーを話していた気がする。

        眠りについた後、オモチャたちが意思を持っていて動き回っているのではないかという想像は、『おもちゃのチャチャチャ』を持ち出すまでもなく、みんな思っていたことではないだろうか。ウッディというキャラクターは、妙に人間くさいキャラクターである。嫉妬心を持っていたりして、それがストーリーの核になっていた。逆にいうと、それが私にとっての物足りなさのひとつ。そこまで複雑な人格をオモチャに与えてしまうのはどうかという気がした。しかし、よく考えられた脚本だ。特にラストでの引越しのシーン。ウッディとバズが、引越しの車に間に合うかというサスペンスのアイデアのうまさ。確かによくできた映画だと思う。子供も大人も一緒に楽しめてしまう。

        1作目を見た翌日、『トイ・ストーリー2』を劇場に見に行った。1作目のラストで、アンディに子犬がプレゼントされたことが知らされていた。これがどうなるのか興味があった。オモチャたちにとって、犬は天敵となるのか、はたまた、アンディはオモチャに飽きて犬とばかり遊ぶようになってしまうのか。結果はなんとオモチャ達が犬を手懐けてしまっていたのだった。この犬の動きがCGなのだが、妙にリアルで感心。オモチャはオモチャ、犬は犬、人間は人間の動きをCGで描き別けしているのだから、手が込んでいる。

        2作目は、私には1作目以上に面白かった。「オモチャにとって、一番幸せなのは何か」というテーマを持ってきたのは、うまい! 実はウッディは珍しいプレミアム人形だったという設定。日本のオモチャの博物館に売られていき、多くの人に見られる人生を送るか、それともアンディとこのまま過ごすかという大問題にウッディは直面する。

        子供はやがて成長する。成長するにしたがって、オモチャは持ち主に忘れられることになってしまう。幼年期から青春期への移行である。やがて飽きられ捨てられる運命にあっても、ウッディはアンディの元に残る決心をする。オモチヤにとって、博物館の棚で展示されるよりも、子供に遊んでもらえることの方が幸せだという結論。納得しましたね。箱根の[おもちゃの博物館]に行ったらば、売店で、鉄人28号や、『宇宙家族ロビンソン』のフライディのフィギュアが売っていたので、よっぽど買おうかとかと思ったが、止めた。遊ぶことなく部屋に放置されているだけになることは、目に見えている。オモチャのためにも可哀想だ。

        クレジット・タイトルのバックで流れる、偽NG集がばかに面白い。最後までご覧あれ。


March.14,2000 『ひまわり』が女性に受ける不思議

        さてそれでは、女性が自分よりシンメトリーな女性に男を取られてしまうという映画は存在するだろうか。あっ、こんなこと書き始めると「またかよ」と言われそうなのだが、ちょっと付き合って欲しい。また、「何言ってんの?」という人は、先月の『アームチェア』並びに、先月の当欄を見てもらえば、解ると思います。

        なぜに、女性はもう結婚が決まっている、あるいは幸せな結婚生活があるというのに、今の男をポイと捨ててシンメトリーな男の方に行ってしまうのか。そして何故、映画はそれを肯定し、女性の観客は、それを不自然と感じないのか。取り残された男の立場をどうすればいいというのか。『タイタニック』『ピアノ・レッスン』『卒業』『ジャングル・ジョージ』などに対する私の違和感を語ったはずだ。

        ここにきて、にわかに私の立場が弱くなる映画のことを思い出したのだ。ヴィトリオ・デ・シーカ監督の『ひまわり』だ。ロシア戦線にマルチェロ・マストロヤンニが送り出される。やがて終戦。マストロヤンニは戦場で行方不明。彼の妻ソフィア・ローレンが、ロシアまで夫を捜しに行く。すると彼は、ロシア人の女性と結婚して生活していることを知る。このとき、私はどう思ったか正直に言おう。「正解だよ、マストロヤンニ。ソフィア・ローレンより、そのロシア人の女の方がいい女だ」

        「それじゃあ、男と女の立場が変わったら、コロッと寝返るわけ。結局同じじゃない」と女性に言われそうだ。そうなのだ。そう言われたら立つ瀬がない。ただ、ひとつ言い訳をするならば、私、この映画大っ嫌いなんです。別にマストロヤンニの行動を肯定するわけでもない。マストロヤンニに感情移入する気には到底ならない。バカなことをしたもんだと思いますよ。

        不思議でならないのは、この映画、だからといって女性客が怒り出したという話は聞いたことがない。むしろ、映画館で女性のすすり泣きの声があちこちであがり、感動して女性が出てくるのだった。このへんが解らないのだ、私には。

        マストロヤンニとローレンが再会して、マストロヤンニがロシア女性と生活しているとローレンが気がつくシーン。これがあざとい演出なのだから、こっちはシラけてしまう。ほとんど化粧っけのない、スッピンに近いローレン。いかに大女優とは言え、この時はもう、だいぶ歳を取っている。あんまり綺麗だとは思えないんですよ、これじゃあ。そのイタリアの大女が、顔を涙でクシャクシャにしながら、マストロヤンニから走って去って行く。私「止めて欲しいなあ。魅力ないじゃない、これじゃ。マストロヤンニは、ますますロシア女性の方が良くなっちゃうよ」と思った。

        そして、わざとらしく、真っ黄色なひまわりが一面に咲いている畑。感情を高めるヘンリー・マンシーニの音楽。女性は、ソフィア・ローレンの悲劇の主人公に感情移入して、映画館を出てくるようなのだ。ここが解らない。怒らないの?、この不条理に。このへんが男と女の感性の違いなのだろうが・・・。


March.8,2000 世の中何事も起こりうるもの・・・・・・。

        映画館で予告編を見て、近頃こんなに見たいと思っていた作品はない。『マグノリア』というタイトルを記憶に焼き付けた。だって、一見多くのバラバラな登場人物が最後に結びつくっていう、予告編の作り方がしてあって、どんな脚本になっているか気になるじゃないですか。もうどんな記事も見ないと、この時点で決心してましたね。ネタをばらされちゃ、堪ったもんじゃない。

        また、予告編に使われていた曲が一遍で気に入ってしまって、まずはサントラCDを買い求めた。このサントラ盤、エイミー・マンという女性シンガー・ソング・ライターのアルバム的な色彩が強くて、全12曲のうち、9曲が彼女の歌および演奏。残り3曲のうち、2曲はスーパートランプ。私の大好きな『ロジカル・ソング』も入っていた。予告編での曲は、エイミー・マンの『モメンタム』。これ、いい曲なんですよ。テンポのいい曲で、すぐにメロディを憶えてしまった。

        映画は過去にあった三つの奇妙な事件を紹介した後、12人の主要登場人物の行動を次々と撮っていく。そこに被さるのが『ワン』。ニルソンが書いて、スリー・ドッグ・ナイトのカヴァーで知られる、私らの世代にはお馴染みのナンバー。歌うは、もちろんエイミー・マン。
        Oneは最も寂しい数
        Oneは最も孤独な数
        Oneは最も悲しい数
        OneはTwoよりはるかにひどい

        登場人物達の心の孤独を表した、うまい選曲だ。癌で死にかけている老人。その老人の財産目当てに結婚した若い妻。その老人を憎んでいるSEX教祖の息子。老人の死をじっと見つめる看護士。テレビの人気クイズ番組の司会者。その妻。自暴慈悲になっている、その二人の間の娘。その彼女に恋をする警察官。子供時代クイズ王だったものの、いまはダメ男。現在のちびっこクイズ王。その父親。ストリート・ラッパッーの少年。これらの人物をまとめる最後のアイデアって何なんだろう。

        見ていて、いろいろ考えていたのだが、どうやら何か天変地異が起こって、それが、それぞれの人物の人生に影響を与えるのだろうというくらいまでは推理できたのだが・・・・・・。まさか、あんなこととはね。後から、テレビCMやら雑誌やら見たら、肝心なところを公開しちゃってる。まだ、知らない人は極力情報を拒否することをお薦め。

        そのことが起こったからといって、別に、一部を除いて登場人物たちの人生に大きな変化が起こるわけではない。そのへんが嘘くさくなくていい。世の中、何事も起こりうるものだ。

        実は、映画が3分の1ほどまで上映されたときだった。バイブ着信にしておいた胸の携帯電話が震え出した。そう急ぎのことでもないだろうと電話には出ず、そのまま映画を見つづけたのだが、どうも電話が何だったのか気になってしまった。そっと席を立って誰もいないロビーへ。伝言が残っていた。それは、いつになくトーンの低い友人からの伝言だった。共通の友人である、ある女性が癌で亡くなったというのである。

        「そんなバカな。彼女まだ50前じゃないか・・・・・・。何で・・・・・・・」。耳が信じられなくて、もう一度伝言を聴きなおす。間違いない。ロビーで数分間、携帯電話を持ったまま立ち尽くしてしまった。気を取り直して席へ戻る。登場人物はみんな孤独な中で、なんとか人の愛情を得ようと必死に生きている。ラストで癌で死んでいく老人の姿を見ているうちに、涙が止まらなくなってしまった。普通の精神状態だったら、私は泣きはしなかったろうが・・・・・・。世の中、何事も起こりうるものだ。

           

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