August.30,2000 キレのないアクション・シーン

        5年前、真保裕一の『ホワイトアウト』が出た時、即買ったのを憶えている。50ページほど読んだ、ある日曜日の午後、私は隅田川沿いの公園に行って続きを読もうと思った。この年の秋は、日曜というと午後から、この公園のベンチで読書をすることを、何よりの楽しみな習慣にしていた。自転車の前の籠に『ホワイトアウト』の単行本を入れ、川っ渕まで出かけた。途中のコンビニで、何か飲み物でもと寄り道したのがいけなかった。コンビニから出てきたら、籠の中の『ホワイトアウト』は何者かによって持ち去られていた。悔しかった。かといって、また同じ本を金を出して買う気になれず、『ホワイトイアウト』は私にとって幻の小説となってしまった。

        『ホワイトアウト』は今年映画化され、この夏に公開された。人気の織田裕二主演ということもあったろうし、日本映画としては、久々の本格的なアクション映画だ。封切り日は、大入り満員だった。私も一週遅れて、劇場に行った。日曜の最終回。客の入りは半分程度。それでも、最近の日本映画としては、よく入っている。

 

        巨大なダムがテロリスト達に乗っ取られ、現金50億円が要求される。要求がのめなければ、ダムを爆破するという。ダムへの道はひとつしかなく、それもテロリスト達に爆破され、通行ができなくなっている。山から入ろうにも猛吹雪の雪山で、侵入不可。空からも悪天候で近づけない。ダムの職員は人質になってしまっている。ただひとり、テロリスト達の手から逃れた男がいた。それが織田裕二。ごく一介のダムの職員ながら、冬山登山の経験者でもある彼は、単身、テロリストと対決する。

        大いに期待しましたよ。日本版『ダイハード』だって聞いていたし、織田裕二に言わせると、『ダイハード』というより『クリフハンガー』だって言うし。いや、よく出来ていますよ。実際。最近にない面白さです。しかしですねえ、この制作者達は何を考えたのだろうか。肝心のアクションがつまんないんですよ。もう、まるでメリハリがない。織田裕二が、ひとり、またひとりとテロリストを倒していくのだけれど、何だか演出にキレがないのだ。

        最初に倒す相手は、銃撃を受けて逃げ込むロッジの中。このセットがもう、もの凄くチャチ。もう一目で作り物とわかってしまう。テレビドラマじゃないんだからさあ。相手を倒すアイデアは、よくある手だけれど、それはいいとして演出がヘタだから、さっぱり興奮しない。そのあと、銃を手に入れて闘うあたりは、もう少し香港映画でも勉強して欲しいくらいにつまらない。

        放流管を使っての脱出あたりは、けっこう迫力があるのだけれど、そのあと雪山をダムへまた歩いて戻るあたりは、寒さなどの感じは伝わってくるのだが、やっぱりこのへんは小説の世界。もっとも上手い監督なら、退屈させずに見せることも出来たろうが・・・。

        本自体はよく書けているから、クライマックスへ向け、様々な伏線が生きてきて話が見えてくるあたりは上手い。そしてスノーモービルを使ってのアクション。ヘリコプターとの対決と、なかなか見せるのだが、ハリウッドの、こういうシーンを面白く見せる技術には遠く及ばないという、くやしさは、どんどん私を消化不良にさせる。

        監督は、今までテレビで連続ドラマなどを撮り続けてくきた若松節朗。アクションの演出とは無縁の人である。もう少し別の人はいなかったのか。


August.20,2000 これは喜劇なのだろうか?

        坂本順治監督の作品は、ほぼ公開と同時に見つづけてきた。『BOXER JOE』の編集のときだった。この作品は東京テレビセンターで編集作業が行われ、ウチにも出前の注文がよく来た。『どついたるねん』『鉄拳』『大手』といった初期作品のファンであった私は、4作目『トカレフ』を見たばかりだった。徹夜作業が続くスタジオにドリンク剤を陣中見舞に差し入れ、「私、坂本監督のファンなんですよ」と言ったところ、坂本監督、テレたように話に答えてくれた。このときの『BOXER JOE』は、その後に見たが、私にはあまり気に入らなかったのだが。

        そして『ビリケン』。このときも東京テレビセンターで編集があった。実はこの作品も私にはピンとこなかった。この後の『傷だらけの天使』『愚か者――傷だらけの天使』は松竹で撮影、編集があり、東京テレビセンターで会うことはなくなってしまった。しかし、この2本は好きな作品だ。

        この夏、『顔』が公開された。これ、私にはどう考えていいのかわからないのだ。つまり、これが喜劇なのかどうなのかという、途惑いである。藤山直美はコメディエンヌだろう。藤山寛美の娘でもある。この映画を喜劇として笑いながら見て、何もヘンなことはない。しかしだ。笑えないのである。

        題材が、実の妹を殺して逃げた女性の話。笑い事ではない。しかも、タイトルにもなっている藤山直美の顔である。わざとブスメイクをしている事もあるのだろうが、ちょっと笑うに笑えないものがある。笑っちゃっていいのだろうかと思うのである。しかも性格ときたら、[ひきこもり]。オンボロのクリーニング店の長女で、2階に引きこもってミシンを踏む毎日。他人とも家の者とも一切関わろうとしない。

        やがて母(渡辺美佐子)の死。葬式となっても藤山直美は列席せずに2階にひきこもったまま。通夜が終わったとき、妹(牧瀬里穂)に罵倒される。かっとなって妹を絞殺してしまい、家から香典を持って逃走する。これから、神戸を振りだしに大阪、別府、姫島と逃亡生活が始まるのだが、さあて笑えるか、これ。

        藤山直美、1958年生まれというから、この映画の撮影があった去年は41歳。映画の設定では35歳。ボテッと太った肉体はけっして美しくはない。この肉体を笑えというのか。こんなシーンがある。ラヴホテルの従業員として働いていると、正体がバレそうになる。慌ててここも自転車に乗って逃げるのだが、転倒。顔を地面に打ち腫れ上がってしまう。どこか遠くに逃げようと大分行きの電車に乗る。ここで旅のサラリーマン(佐藤浩市)と一緒のボックスになるのだが、問われるままに、自転車で転倒したことを話し、「ついでに体もぶつけて、こんなに腫れてしもうて」と言う。これ笑えるかあと思っていると、サラリーマン、一瞬、意味をつかめずにいると、藤山直美が笑い出す。ギャグなのかあと、つられて自分も笑い出すと、ひとこと「笑いすぎ」。これで観客も初めて笑い出す。

        どうもやはり喜劇として撮っているはずだ。それにしては笑えない。まず、坂本順治の作品にはつき物の貧しい家庭ばかりが出てくる。しかし、赤井英和や大和武のような頑健な肉体から生まれていたバイタリティのある笑いとは違うのである。あれには貧乏を吹き飛ばす力があった。しかし藤山直美の贅肉だらけの肉体は笑えといわれても引いてしまうものがある。ラスト・シーン、海を泳いで逃げようとする彼女の姿をカメラが追う。だめだ、笑えない。おかしいはずなのである、本当は。


August.16,2000 在日韓国人3世の意識

        中学のとき、ある程度親しくなった友人から、「実は、俺、在日韓国人なんだ」と打ち明けられたことがある。このときは正直言って困った。リアクションの取りようがなかったのだ。在日韓国人に関しての知識もなかった。普通に日本語を喋り、顔だって区別がつかない。「へえ、そうなんだ」としか答えようがなかった。そして、そのことを打ち明けた時の表情が、凄く暗く悲しそうな表情だったのが、不思議な気がしたものだった。彼は在日2世だった。その話題はそのとき限りとなり、その後もその話題には触れずに友人関係は続いた。何を根拠に日本人と韓国人を分けなければいれないのか理解できなかった。彼はごく普通の日本人と見分けがつかなかった。やがて卒業と同時に疎遠となって、何処へ行ったか分からなくなってしまった。

 

        予告編を見て、「あっ、見てみたいな」と思ったのが、『あんにょんキムチ』だった。在日韓国人3世の松江哲明が、日本映画学校の卒業制作として作ったドキュメンタリー。[BOX東中野]のレイトショーに行くと、松江監督本人が舞台挨拶に立った。何と彼は、今この映画館で映写技師のアルバイトをしているのだという。明るくどことなく憎めないキャラクターの持ち主である。

        この今まで目の前にいた20代前半の青年が画面に浮かんでくる。友人達の前で「実は、ぼくは日本人じゃないんだ。韓国人なんだ」と打ち明けるシーンから、この映画は始まる。困惑する友人達。リアクションが取り難そうにしているのは、あながちカメラが回っているだけでもあるまい。

        松江は、キムチが大嫌いだ。口に入れると吐きそうになる。在日3世である彼には、両親や祖母が、旅行に出てまでもキムチを食べているのが理解できない。帰化して日本人になった韓国人の子供として生まれ、日本語しか話せず、日本の文化、風習の中で育ってきた。その彼が卒業制作のこの映画のテーマとして、自分のルーツ、祖父のことを調べ始める。祖父は、韓国の田舎で生まれ、別天地を求めて、日本にやってくる。14歳のときのことである。丁稚奉公をして、やがて韓国人の女性と結婚。四人の娘をもうける。独立してからも、韓国人だということを否定するように、日本人として生きていく。四女は、やはり在日韓国人2世と結婚。その子供が松江監督とその妹ということなのだ。

        それまで自分が在日韓国人だということに、さして深く考えなかった彼は、この映画がきっかけで、さまざまな問題意識に目覚める。父や母、さらには祖父、伯母にまでカメラを向け、祖父のこと、ならびに自分達が在日韓国人だという意識について、質問を繰り返す。やがて、祖父の生まれ故郷まで旅する。そのへんの強い問題意識とは裏腹に、どことなくユーモアが漂うのは、舞台挨拶に立ったときにも見えた、何とも言えぬ明るいキャラクターからなのだろう。

        家族旅行のときに、父親にカメラを向ける。「自分が外国人だということを人に言うとき、どう思う?」。この父親はカメラの存在に戸惑いながらも、「うーん、韓国ってさ、なんか暗いんだよな。中国人だとかアメリカ人だと言うのとは、ちょっと違う」。ははあ、そうなのか。韓国人でさえ、自分の国にほこりを持ちながらも、韓国には暗いイメージを持っているのが、このシーンで分かった。

        一世は、強い民族意識を持っているらしい。祖母は自分は韓国人だとほこりを持って言う。そこへいくと韓国語も喋れない2世の四姉妹は、自分達は日本人でも韓国人でもなく、在日韓国人だと言う。面白いのが、あっけらかんとした3世の妹。事実を知りながらも韓国人だとは思っていないというのである。「お前、不真面目だよ、少しは自分が韓国人だという意識に目覚めろよ」と言っても、「そんなのどうでもいいじゃん、日本人として育って、友達も日本人ばかりなんだから、私は自分は日本人だと思ってるよ」と言い放つ。松江監督自身も、この映画を撮り始める前は、このうっとうしい問題は避けて通ってきたと言う。もう3世ともなると、民族意識は苦痛になってくるのかも知れない。

        中学のときに在日韓国人2世だと打ち明けた彼は、その後どうしただろう。いまごろ結婚して、やはり、自分は韓国人ではなく日本人だと主張する子供を生んでいるのだろうか?


August.11,2000 宮崎アニメだけがアニメじゃない

        もう手を切ったつもりだったのだが、またプレイ・ステーションなどを始めてしまった。今、凝っているのが『ぼくのなつやすみ』というゲーム。プレイヤーは小学生の男の子になり、ひと夏、田舎の知り合いにあずけられることになる。そこで、毎日、昆虫を取ったり、魚つりをしたり、田舎の子供達と自由に遊びまわることができる。このゲームの自由さは、実は逆に何もしなくてもいいということ。何もしないで、ぼんやりとすごしてもいい。只今、毎日少しずつプレイしていて、どうやら、最後にはお父さんが迎えに来て、都会に帰ることになるらしいのだが、ひと夏をどう過ごしたかによって、将来、医者になったとか、先生になったとか決まるらしい。なんとなく、『スタンド・バイ・ミー』を思い出すようなゲームだ。

        生嶋が、最近の子供向けの劇場用アニメが面白いと言う。劇場で[まんが祭り]などといって、数本のアニメを上映しているやつだ。特に『クレヨンしんちゃん』シリーズは、どれでもよくできているというのだ。ふーんと思って、この夏お薦めの1本だという『おじゃる丸 約束の夏おじゃるとせみら』を見に行った。

        いやあ、面白いですなあ、これ。NHK教育テレビで夕方に放映しているシリーズの劇場版なんですがね、このあとの時間にやっている『ハッチポッチ・ステーション』はよく見るのだけれど、このアニメは見たことが無かった。そんなわけで、背景となる人物関係などが突然見る私には解り難いのだが、ようするに、平安貴族の子供[おじゃる丸]くんが、タイムスリップで現代にやってきてしまっているらしい。ちょっと、引いてしまうような設定なのだが、どうしてどうして、見ていて夢中になってしまった。

        この1時間ほどのアニメが言っていることは、しごくまっとうなこと。
(1)子供は、外で元気に遊ぼう
(2)約束は必ず守ろう
という二点に尽きる。

        これを、子供にわかりやすいように語ってみせるのだ。ラストは、ホロッとさせるし、「よくできたアニメだなあ」と感心してしまった。アニメというと、宮崎アニメばかりが注目されてしまうが、こんなアニメもいいもんだと思う今日このごろ。生嶋、そのうちビデオで『クレヨンしんちゃん』も見るからね!

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