February.24,2001 CGもほどほどがいいということで 

        『古惑仔』シリーズの大ヒットで香港映画界に旋風を巻き起こしたアンドリュー・ラウ。あのシリーズもマンガの映画化だったが、制作費をかけて作った大作『風雲ストームライダーズ』もマンガが原作で、この人、マンガの映画化監督というイメージがすっかり出来あがってきてしまった。

        『風雲ストームライダーズ』の大成功のあと、今度は同じマー・ウィンシンのマンガを映画化した『レジェンド・オブ・ヒーロー中華英雄』が作られたわけだが、どうも評判がいまひとつ。日本語字幕なしのDVDで見ようと思っていながら、迷っているうちに、映画館にかかってしまった。

        いやあ、珍品でした。おそらく原作はかなり長いものなのではないだろうか? 最初の部分は、ひょっとして原作を思いっきり削っているのだと思う。イーキン・チェンの主人公がアンソニー・ウォンの武術家に弟子入りするシーンから、西洋人を殺して船でニューヨークに渡ることになるシーンまで、あっという間。

        話をややこしくしているのが、このあとでイーキン・チェンがニューヨークに渡った十数年後の話になり、イーキン・チェンとクリスティ・ヨンの間に生まれたニコラス・ツェーが父を捜しにニューヨークへやってくるというエピソードが挟まれ、そこでまた、イーキン・チェンがニューヨークに渡ってからの話に戻る。

        さて十数年前、ニューヨーク近郊の石切場(?)で奴隷のような労働をさせられるシーンになる。理不尽な労働現場で、果ては殺人の濡れ衣を着せられ、ようやくこの場を脱出―――おいおい、物凄く強いキャラクターという設定なのに、この体たらくはなんだ?

        ここで観客は頭の中を大整理させられることになる。話が今度は脱出してニューヨークのチャイナタウンに潜伏しているイーキンの元へ、身重のクリスティ・ヨンが訪ねてくるシーンになってしまう。ここで登場するのが学ラン姿の日本の忍者(?)の一隊。彼らはイーキンの師匠アンソニー・ウォンを倒そうとしている。さあ、そこでアンソニー・ウォン、イーキン・チェン、イーキンの兄弟子シャドウ役のラム・ディオン(これがもう、この人ひとりだけでも相手を全部倒せそうなくらい強い)組対、マーク・チェン、ン・ジャンユー、スー・チーを含む忍者軍団の闘いになる。

        日本の忍者の名前が、無敵(ムテキ)くらいはいいとして、金太保(デューク)、火四朗(マース)、木修羅(ジュピター)って何だあ? おいおい、スー・チーは木を削って手裏剣を作っているぞお(!) 木製の手裏剣なんてどうするつもりだあ?

        このあと話がみみっちくなって、忍者側のスー・チーがイーキンを好きになってしまい、その嫉妬で忍者側のボス、マーク・チェンがイーキン達の宿に火を放つ―――って何これ? ちょうど生まれたばかりの双子は、男の子は助かったものの、女の子は何者かによってさらわれてしまう。この女の子、最後まで出てこないで終わってしまうので、この伏線は未消化のまま。ひょっとして、続編で出てくるのだろうか?

        日本でのアンソニー・ウォン、ン・ジャンユー戦はなかなかの見所だが、これって確かにCGが見事であることは認めるけれども、なんだか面白くない。香港映画のカンフー・アクションは生身の人間のぶつかり合いの迫力で今までやってきたではないか。ブルース・リーが火を点け、ジャッキー・チェンとリー・リンチェイが発展させ、チン・シウトンが武術監督として練り上げてきた香港カンフーアクションの伝統を、CGなんかに取って代わられていいのか? この映画を見ていて、私はチン・シウトンが初めて監督に進出した『ザ・SFX時代劇 妖刀斬首剣』を思い出していた。あれはかなり歪(いびつ)な映画ではあったけれど、『中華英雄』よりは面白かった。

        いよいよ物語はクライマックスになるのだが、なんだかいろいろと詰めこみすぎているようなのだ。ユン・ピョウ(彼の華麗なカンフーアクションはホッとする)とニコラス・ツェーが加わり、昔の石切場事件の決着。なんだかこれもイーキンかシャドウどちらかひとりで片付けられそうなのだが・・・。

       そして、最大の見せ場、自由の女神でのイーキン・チェン、ン・ジャンユー戦。まっ、これが見られればよしとしますかね。ところで私、『中華英雄』よりも[中華の鈴木英雄]と中華料理を食べに行く方が良かったなあ。


February.20,2001 サンドラ・ブロックが好きな人っています?

        サンドラ・ブロックを好きだという人はどのくらいいるのだろうか? 確かに『スピード』での姉ちゃんぶりは良かったですよ。でも、あれ一作だけ。こっちもサンドラ・ブロックに興味がないから積極的に見ようという気が起きないのだけれど、たまたま他の興味で見に行ったときに、この人が出ていることがある。例えばジョン・グリシャムが原作だからと『評決のとき』を見に行ったり、ニコール・キッドマンが出ているからと『プラクティカル・マジック』を見に行ったりね。その度に思うのは、「おい! このサンドラ・ブロックなる大根役者なんとかならんのか!」ということ。

        そんな私が、レンタルビデオ屋の棚で、劇場公開なしで突然ビデオ化されたサンドラ・ブロック主演の新作『28DAYS(デイズ)』のジャケットを見ていて借りる気になってしまったのは、スティーヴ・ブシューミが出ているから。

        冒頭、ベロベロに酔っ払ったサンドラ・ブロックが姉に招かれた結婚式をメチャクチャにしてしまうあたりは、けっこういい。[いやな女]を見事に演じてみせている。ここから、アル中でヤク中の彼女が更正センターで28日間のリハビリ生活をするのが、この映画のテーマ。

        設定として、彼女の役柄が主にアル中であって、ヤク中は軽度であるということなのか、あまり苦しむ姿がみられない。普通、この手の映画って体から悪習を断つのに七転八倒の苦しみを味わったりするでしょ。それが割と簡単に脱け出してしまう。最初からやけに顔色がいいアル中だしね。それにしても28日間程度で更正できるものなのか?

        お目当てのスティーヴ・ブシューミは、更正施設の教官。もっとも彼もかつてはアル中でヤク中だった過去があるという設定。恐ろしく健康に見えるサンドラ・ブロックに較べて、ブシューミはいまだにヤク中なんじゃないかと見える風貌なのがおかしい。

        話としては、アル中を絶つにはまず悪友を絶つことが一番というような結末でして、そりゃあそうかも知れないけれど、アル中ってそんなことでは治らない気がするのだけれどなあ。

        ところで、私も実は中毒にかかっているのをご存知ですか? その名も[ホームページ更新中毒]。今日で、毎日更新536日目。どうしても朝になるとホームページの更新をしないと手が震えてきてしまうの。やっぱり私もどこかの更正施設に行った方がいいのだろうか?


February.10,2001 不可解な日本人を描いてみても

        北野たけしの新作『BROTHER』は初めての海外ロケ作品である。何だかこういう企画っていうのは、私には気が向かない。日本人が外国に行って、そこのカルチャー・ギャップにさらされるという話は、まず面白くなった例がない。たけしがアメリカを舞台に映画を撮るという話はかなり前から出ていたが、たけしの英語力に問題があることもあって、難しいだろうなあと思っていた。

        公開初日、舞台挨拶のある初回や2回目は混むだろうからとパス。夜に行ったらまだ立見。諦めて翌週に出直す。さすがに立見ではないが、けっこう客が入っている。

        東京にいられなくなったヤクザ(ビートたけし)が弟を頼ってロサンゼルスに渡る。う〜ん、何かこういうパターンって多くないか、たけしって。沖縄がロサンゼルスに変わっただけ。お得意の海岸でフザケあうシーンまでちゃんとある。

        たけしの設定は英語が分からないということにしてある。やっぱりね。そうきたか。しかも無口。そういう手もあるけれど、それじゃあ話になっていかないだろうと思うと、強引に引っ張っていってしまうから感心してしまう。

        私たち日本人はアメリカの映画をよく見る。これによって私たちは、案外アメリカ人の考えていること、行動パターンを知っている。それに対してアメリカ人は日本人のことをどれだけ知っているのだろうか? この映画の宣伝用のたけしのセリフ「ファッキング・ジャップくらい分かるよ、ばかやろう!」に象徴されるように、こっちは英語を喋れなくてもある程度アメリカ人が何を言っているかは分かる。それに対してアメリカ人はどうか。日本映画なんて見たことがない人が大半だろうし、日本語で知っている言葉なんてせいぜい「こんにちは」「さよなら」「これいくら」(米米クラブ『ファンク・フジヤマ』)くらいだ。

        このくらい、お互いの認識度には大きな隔たりがある。このために、おそらく他のたけしの映画よりも日本人というものが分かりずらく描かれてしまうことになった。最後の方で、ダイナーの日系人の店主がたけしに向かって呟くシーンがある。このときのセリフは当初「あんたら日本人は、いつも笑っているんだな」といったものだったらしい。これが撮影の現場ではセリフが変更になった。

「あんたら日本人は不可解だな」

        「いつも笑っているんだな」よりも、より直接的な言い方になっている。何だかたけしは、別にもう日本人のことを理解してくれなくてもいいと言っているように思える。たけしの設定がかなり恐持てのヤクザだというこもあって、それこそこっちもたけしの行動には不可解を覚えてしまう。もう、指詰め、腹切りまで見せて、外国人には絶対に日本人が理解できなくしてしまう。これでいいのか、たけし? 外国人は意外とたけしの日本で撮った他の作品に理解を示してくれるのではないか。『BROTHER』なんていう作品では、外国人どころか日本人でも、これはちょっと違うんではないかと思えてしまう。


February.5,2001 チャン・ツィイーにぞっこん

        一面凍りついた雪に覆われた山道。そこを一台の車が登って行く。その中に座るひとりの男のモノローグでチャン・イーモウ監督『初恋のきた道』は始まる。男は父親の突然の訃報で故郷に帰ろうとしているのが分かる。やがて車は山奥の村に止まる。久しぶりに会う母親。葬式の相談が始まるが、母親は町の病院から棺桶を歩いて担いでくることを強情に主張する。しかし、外は一面の雪。しかも遠い町から歩いて担いでくるのは大変だ。村人はトラクターで運んでこようと言う。しかし母は頑として首を縦に振らない。そして古い機織り機を引っ張り出してきて、布を織り出す。棺桶にかける布だという。そんなもの買えばいいじゃないかという声にも耳を傾けず、ひたすら織り続ける。

        なんという頑固な母親だろう。なにもそんな意固地なことをしなくてもと観客が思ったところで、話は過去に飛ぶ。この母親が父親と出会った昔の、キューンとするようなせつない物語が始まる。原題が[我的父親母親]。モノローグの男の両親の若き日の話である。それまでモノクロームだった映画が突然カラーになる。過疎の村に教師がやってくる。村の男は総出で学校を建て始める。そんな中に赴任してきた若き教師もいる。そして、若き日の母チャン・ツィイーの姿が写し出される。チャン・ツィイーは、その教師に恋をしてしまうのだ。彼の関心を引こうと道で待ち伏せする彼女。彼のために一生懸命に料理を作る彼女。もうこれがカワイイのだ。私はそんな彼女の活き活きした姿に完全にイカれてしまった。

        そんな淡い初恋は、教師が突然に町へ帰ってしまうという事態で急展開を迎える・・・。チャン・ツィイーのヒロインは自己主張を持った力強い女性である。これは増村安造の描く言葉で主張していく女性像ではなく、無口で行動のみで主張していくタイプの女性像だ。チャン・ツィイーのいつも着ている赤い服。その赤が意志の強さを表しているような気がする。紅葉に染まった山々。画面いっぱいの赤い色が目に焼き付いてくる。そして、話はまた現代に戻る。またもやモノクロームの世界である。

        降りしきる雪の中での葬式も無事に終了し、学校の見える小高い丘に墓が立てられる。そして息子は母親から聞かされることになる。父親は、息子に教師の職を継いで欲しいと思っていたということを。ラスト・シーン。息子が村を立ち去る前に、父親の教えていた学校の教壇に立つ。たった一回の授業をするために。息子は教科書の文章ではなく、父親が自分で書いた文章を子供達に復唱させる。

礼儀正しく 温かい気持ちを忘れず
人、世に生まれたら志あるべし
書を読み 字を習い 見識を広める
字を書き 計算ができること
どんなことも筆記すること
今と昔を知り 天と地を知る
四季は春夏秋冬 天地は東西南北
どんな出来事も心にとどめよ
目上の人を敬うべし

        その復唱に合わせて、子供達と歩いていく若き日の父の姿、そして若き日の母チャン・ツィイーが微笑みながら踊るように走っていく姿。そしてその、ストップ・モーション。こちらも歳をとって涙腺が弛んでしまったらしい。

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