June.25,2007 お見逃しないように

        もし、最近の日本映画で面白いものがないかなあと思っている方がいたら、一刻も早く『キサラギ』を観に行くことをお奨めしたい。お客さんの入りも単館ロードショーではあるものの悪くないようだし、すぐに終わってしまうことはないと思うが、「しまった、見逃してしまった」ということのないように。それだけ、最近の日本映画にしては面白くて、人に話したくて仕方なくなる出来なのだから。

        といっても、この映画の内容を説明してしまうと、面白さが半減してしまうし、さて、いざ説明してみようと思っても、これがまた実に説明しにくい話なのだ。売れない清純派アイドルが自殺してしまう。その一年後、このアイドルのファン・サイトのオフ会があって、彼女をしのぶ会の目的で5人の男が集ってくるのだが・・・。もうそれ以上書けないし、書いたところで、この映画の面白さは伝わらないのではないか。とにかく脚本が抜群にうまく書けている。これはもう三谷幸喜が書いたんじゃないかと錯覚するほど。きっちりと論理の積み重ねで作られている上に、ギャグが満載でちっとも飽きさせない。ちょっと暗い方向に行ってしまうのではと思っていると、最後はしんみりとさせ、そしてエンディング・ロールの楽しさったらない。ここでのカメオ出演者もお見逃しなきよう。エンディングロールのあとにもオマケがあるから、急いで外に出るのも厳禁ですよ。もっとも、余韻を楽しみたくてサッサと立ち上がろうとはまず思わないだろうけど。

        私がせ『キサラギ』に興味を持ったのは、柳家喬太郎が7月7日の自分の会で、『キサラギ』を落語にするという話を聞いたからだ。設定を現代から江戸時代に置き換え、アイドルを花魁[如月]にするという。ふ〜んと思って、観てみようと思ったのだが、観終わって思うのは、映画版で江戸時代に置き換えにくいところはどうするんだろうということ。写真、殺虫剤、アロマキャンドル、電話、インターネット・・・・・。この映画が成立するには欠くことが出来ないアイテムが江戸時代には存在しない。はたしてどうするのか。才人喬太郎のこと。なにか秘策があるに違いないのだが。


June.18,2007 殺人鬼サスペンス映画じゃないのね

        『セブン』のデビッド・フィンチャー監督作品。ふうん、また殺人鬼ものかあという程度の知識だけで映画館に入った。でもデビッド・フィンチャーって久しぶりなんじゃないの? 映画撮るの。99年の『ファイトクラブ』の異様さには驚かされたが、02年の『パニック・ルーム』には、なんじゃこりゃという気にさせられて、それで監督は5年ぶりかい?

        冒頭はかなり興奮させられる。人気の無い駐車場で意味もなくカップルが射殺されるシーン、湖のほとりでこれまたカップルが手を縛られて殺害されるシーン。こりゃあすごいぞと思わせるものがある。タイトルバックはサンタナの『ソウル・サクリファイス』とくれば60年代後半のロック少年としては、もう文句なし。ところが、間もなく映画は失速しはじめる。いや、単なる殺人鬼ものを想像していたこちらが悪かったのだが。

        ゾディアックとは1968年から始まるアメリカに実在した殺人鬼。この映画はそのゾディアックを追っていった刑事や新聞記者の物語なのだ。実際、原作はこの映画の中でも出てくる新聞社付きの風刺漫画化。その人物が書いた本が原作なのだ。

        ぼくらは、このゾディアック事件をヒントにして作られた作品をすでに観ている。1971年の『ダーティ・ハリー』だ。『ゾディアック』の中でも刑事や記者が『ダーティ・ハリー』のプレミアム試写会に呼ばれるシーンが出てくる。

        『ダーティ・ハリー』にはすっかり夢中になったが、はて、『ゾディアック』はどうだろう。遠いアメリカ、しかももう40年近く前の話である。アメリカ人ならいざしらず、日本人にはやっぱりゾディアック事件はピンと来ない。風刺漫画家が何年にも渡り犯人を追いかける過程が延々と映し出されるのだが、正直にいって私は退屈してしまった。2時間37分は苦痛だった。


June.11,2007 ほどのよさ

        『しゃべれどもしゃべれども』は、ほどよい映画でした。こう書くと誤解されかねないのだけど、いい意味で抑制の効いた江戸前の映画なんですね。監督の平山秀幸という人は福岡出身とのことだけど、江戸前の落語の世界をよく知っているという気がする。

        物語の季節が夏から秋にかけてという設定がまずいい。普段でも洋服ではなくて和服姿という主人公今昔亭三つ葉(国分太一)が師匠今昔亭小三文(伊東四朗)の住む佃島界隈を歩く姿が気持ちいい。おそらくTシャツ、短パン姿の方が暑くないだろうに、着物をサラリと着こなし涼やかに歩く国分太一の姿が観れただけで、この映画にスッと入っていかれた。

        ほどがいいというのは、この映画全体に言える事で、二ツ目の三つ葉が上がる高座も定席あり、ホールの落語会あり、お寺が催している小さな落語会がありと、キチンと描写されているし、三つ葉の話す落語もいからも二ツ目さんの実力程度の落語になっている。これが前座レベルでないところが凄い。これはもう国分太一の熱心さによるものだろうと拍手を惜しまない。しかも、一門会で演る『火焔太鼓』は、師匠もその出来に感心しなければならないデキに持っていかなければならない。稽古中の『火焔太鼓』がいかにもダメなのに、本番では突き抜けたものにしなければならなかったのだから、よっぽど稽古を積んだに違いない。そして、師匠役の伊東四朗がその前に『火焔太鼓』をやって観せるのだが、これがもう実に面白いのだ。いかに伊東四朗が昔から落語好きだったとはいえ、このデキは凄いの一言。

        ラストで子役の村森優(森永悠希)が演ってみせる『まんじゅうこわい』も枝雀をうまく子供なりにコピーしているし、三つ葉から30点と言われる十河五月(香里奈)の『火焔太鼓』もまさに30点のデキ。そのへんもほどがいいんだよね。できたら湯河原太一(松重豊)の落語も聴いてみたかったところ。

        三つ葉と五月の関係もほどがいいのが江戸前か。なんとなく唐突で不自然な水上バスのラストシーンだけど(上り下りがメチャキチャだし、突然五月が現れるのもヘン)、ふたりが自然に寄り添うところが気持ちがいい。ああもうこれで、この映画は終わってしまうのかあと思わせる1時間49分。もう少し長ければいいのにと久しぶりに思わせる映画だった。


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