沓掛時次郎・遊侠一匹 2012年7月1日新文芸坐 加藤泰特集にて。 1966年作品。 以前に二度ほど観ているはずだ。いずれも観たのはかなり前で、私がずっと若かったころ。そのときは、どうもこの映画あまり面白いと思わなかった。加藤泰はこれを撮る4年前の1962年にやはり中村(萬屋)錦之介で、同じ長谷川伸原作の『瞼の母』を撮っている。 『瞼の母』を観たのは小学生時代。全寮制の小学校で生活していたときに、毎月一回映画会があり、そこで観たのを憶えている。親元を離れて全寮生活を送っている子供に、よりによって『瞼の母』はないだろうと今になって思うが、観ながら涙が止まらなくなったのだから、子供とはいえ、やっぱり感激したんだろう。 『瞼の母』はその後も私の大好きな映画で、名画座でも観たし、テレビ放映で何回も観ている。そのたびに泣いてしまう。 一方、『沓掛時次郎・遊侠一匹』は、「つまらない」としか思えなかった。ぜんぜん泣けないし、時次郎に感情移入ができない。 ストーリーは、渡世人の沓掛時次郎(中村錦之介)が気が進まぬまま一宿一飯の恩義で、六ツ田の三蔵(東千代之介)を斬ってしまう。三蔵には妻・おきぬ(池内淳子)と幼い息子がいて、時次郎は三蔵から今際の際に妻子を親戚のところに送り届けて欲しいと頼まれる。三人で旅を続けるうちに、おきぬは病に伏せり、病気を治すためには高額の医療費が必要になる。時次郎はまた、関わりたくないヤクザ同士の喧嘩で金を工面するようになり、その苦しさから、おきぬは時次郎から去って行く。 おそらく、この大人のストーリーが、若かった私には理解できなかったのだろう。おきぬの旦那さんを義理で殺してしまったとはいえ、そんなに親切にする訳が解らなかった。歳取ったんだね、私も。今になって観ると、これは切ない大人の映画だ。義理やしがらみじゃないんだ。若いときにはそういうことが大きいんだと思っていた。これは実はお互いに好きになってはいけない相手に恋してしまった男女の映画なんだ。ああ、なんと鈍感な私だったことか。 よく語られるのが、時次郎がおきぬと最初に出会うシーン。渡し船の中で、おきぬが時次郎に柿を渡す。「それがどうした」としか以前は思わなかったんだねえ。今回同時上映された『緋牡丹博徒・お竜参上』での、これまた藤純子が菅原文太にみかんを渡すシーンも、以前は「だから?」としか思ってなっかたんだが、やっぱりいいなあ。 まあ中には果物大好きという男性もいるだろうが、男って女ほど果物に興味が無いのではないだろうか。女性から果物を渡されるというなんでもないシーンなのだが、これが妙にいいんだよ、今になってみると。ウフフフフ。 ラストも、フランク永井の歌がどうもチグハグだが、それさえ目をつぶれば(耳を塞げば)、いいんだなあ、これが。 7月2日記 静かなお喋り 7月1日 このコーナーの表紙に戻る |