December.30,2001 まるごとクリスマスネタで押しきった北陽の力技

12月24日 北陽ひとり会〜神田北陽独演会 (紀伊国屋ホール)

        北陽がゲストで出ていた昇太の会から、今度は昇太が出ている北陽の会に移動。はしごといっても会場が変わっただけで出ている人は同じというのが可笑しい。実際にこの日、こういうはしごをした人は多かったようで、亀有の駅で新宿までのキップを買おうとしたら、「新宿までいくらだろう?」という会話が聞こえてくる。ははあ、この人たちもはしご組だなあ。

        新宿に移動して腹ごしらえ。CD屋、パソコン・ショップをひやかしてから紀伊国屋へ。前座もなくいきなり北陽だ。「ウチではサンタさんが24日に来たり25日に来たり、ときには大晦日だったりしました。なんで大晦日になったのか親に訊くと『世界は広いからねえ。サンタさんも一日じゃあ廻りきれないんだろ』」クリスマス・イヴともあってクリスマスの話題から入ったが、この夜の会全体が実はクリスマス用に構成されているというのをあとから知ることになる。

        「キリストは何歳で死んだのか? 33歳説と35歳説があるんですが、35歳だとすればちょうど今の私の歳。それで調べてみたんですよ。浅野内匠頭が刃傷におよび切腹したのが35歳。35歳で城の主ですよ! 宮澤賢治があの名作『雨ニモマケズ』を書いたのが35歳。芥川竜之介が自殺したのが35歳。ちなみに昇太さんは今42歳で、これは田宮二郎が自殺した歳」

        森の石松は何歳で死んだのだろう。インターネットで調べていたら37歳で死んだという記述を見つけた。北陽は石松代参のくだりからコンパクトに述べ、都鳥三兄弟による閻魔堂での騙し討ち、石松の最後と語りつぎ、時代は突然昭和42年。「赤ん坊は前世の記憶を持って生まれてくるものだと申します」と新作『石松の降誕』に入った。

        酒屋で留守番をしている男。盗み酒をしている。と、そこに寝ている赤ん坊。「おい、起こせ起こせ!」と突然に口をきく。「乱暴にあつかうな、まだ首だって座ってない!」 この赤ん坊「次郎長一家の中で一番強いのは誰か知っているか?」なんて訊いてくる。「大政?」 「あいつは強ええからな」 「小政?」 「そう言うと思った。全員やるのか? 森の石松とはオレのことでちゅ」 でちゅというのがしまらないけれど、まだ赤ん坊。そう、石松の生まれ変わりなのだ。石松は殺されたあとのことが心配だった。いったいあのあと、次郎長親分は自分の仇を討ってくれたのだろうか? 男に訊いてもそのあとの話は知らないという。かくて石松の前世の記憶を持った赤ん坊を連れ、男は本牧亭に行き、石松の最後のあとの次郎長伝を聞きに向かうが・・・。キリストの降誕にひっかけた石松の降誕。巧い工夫だ。北陽は、男と赤ん坊のやりとりを面白く演じてみせ、本牧亭でのシーンでは講釈師の「このあとが波乱万丈、面白くなるのですが、時間いっぱい」を逆手にとって笑わせる。スピーデイで乗りがいい北陽にすっかり酔ってしまった。

        北陽の使っていた釈台がまだ残っている。張り扇でバンバン叩いて、「クリスマス・イヴですよ。こんなところにいていいんですか? 大丈夫なんですか? 特に女の子!」とやっているところに下手から高田文夫が登場。「電報でーす」と昇太に電報を渡して去っていった。昇太が電報を読むと「チビでヘタ」。電報を投げ返す昇太。「歳いくつなんですか!」

        「誕生日とかクリスマスになるといつも北陽くんがウチにいるんですから。あるいは清水宏!」 ここからはリリオホールで演ったのとほぼ同じ。前日に泊めてやってスキヤキを食べさせてやった話。一生懸命にネタを考えている北陽。「あにさんみたいに、いいかげんな新作と違って、ぼくのは心がこもっているんですよ」と言ったとか。「『亀有のゲストに出させてもらえません?』って言うんですよ。『いいよ』って言ったら、『夜、ぼくの会のゲストにあにさん出ますよね。じゃあ、ギャラはいいですね。』だって! ギャラ相殺かよ! 『お前は二ツ目。おれは真打だぞ』と言ったら、『ぼくは来年神田山陽を継ぐんですよ。あにさんはずっと昇太でしょ』」

        「イチロー、メジャーに行って一年目からあんなに活躍しなくてもいいじゃないですか。来年からどうしろっていうんですか。『この先が波乱万丈で・・・』って講談みたいに演ればいいのにね」と前置きして本題の『力士の春』へ。まだ小学生だというのに将来相撲取りになるべく教育されている男の子の噺。小学校に浴衣姿で登校してくる。作文を書かせれば「わしは今場所(今学期)、序二段(二年生)になり、親方(先生)やご贔屓衆(友達)の期待に応え、チャンコ番(給食係)を務め上げ、来場所は立派な横綱になりたい」 これも以前から演っている噺だが、何回聴いても飽きない。名作ですね。

        仲入り後の北陽二席目。「どうして講釈師になったんですか? とよく訊かれます。いまだにどうしてなったのかわからない。それは心の動きをバラしていくのが怖いということでもあるのです。みなさんだってそうでしょ。どうして今の仕事につくようになったかということは・・・。いや、今どうしてここにいるんですか・・・。どうも例えが違うか」 ちょっとしどろもどろになっている北陽。いつもの彼らしくない。気を取りなおすかのように思い切って言い出した。「来年真打に昇進し、(死んだ)神田山陽を継ぐことになりました」 盛大な拍手が鳴り響く。「うれしくないわけはない。尊敬していた師匠の名前を継ぐわけですから。でもね、一番うれしいのは真打披露のときに口上で隣に師匠が並んでくれることですよ。名前をもらうなんて二の次のことです。すみません、こんな湿っぽい話は来年は二度としません。昇太さんの家で新作を作っていたのは、ここなら東京で一番寂しい気持ちになれるところだったからです」 そして、昇太のところで作ったという新作を演りだした。

        冒頭で、子供がおとうさんに天井からぶるさがっているキラキラした円錐形のものを指差して、「あれは何なの?」と聴いている。「うん、それはね、坊やが七つになったら教えてあげよう」 これが壮大な伏線。男は自分で彫った根付を売りに行く。ところがこれが猫にしか見えない虎だったり、虎にしか見えない猫だったりする。それを文句も言わずに買いとってくれる主人。あれっ? これは『浜野矩随』かあと思っていたら、これが若き日の左甚五郎の姿。たまりかねた主人、「こんなものばかり作っていてどうするんだい。動物なら動物で、もっと鼻から息をするようなもんは作れないのかい? 自分の血を入れて精魂込めて作ってごらん」と言われる。それからはコツコツコツコツ、精魂込めて彫りだすようになるが、やがて彼の彫ったウサギや馬が動きだすようになる。名人だと言われるようになっていく彼だが、実はこの裏には思いもよらない仕掛けがあったのだ。

        これはこれから名人と言われた山陽を継ぐにあたっての、北陽なりの決意表明だろう。彼がこの作品につけたタイトルが『左甚五郎・エピソード1』。どんな名人といわれた人物でもそれなりの努力が必要だったのだろう。頑張れ、北陽!

        無理矢理アンコールの形でもう一席、『鼠小僧外伝〜サンタクロースとの出会い』 泥棒家業の途中、浅草寺の屋根でドブロクを飲んでいた休んでいた鼠小僧。サンタクロースが、良い子の子供たちにプレゼントを届ける途中、これまた浅草寺の屋根の上で一休み。魔法瓶に入っていたココアを一服。これが鼠小僧とサンタクロースの出会いとなって、改心した鼠小僧がサンタクロースになるという噺。これが『左甚五郎・エピソード1』の冒頭に関連されるのだから、それこそ「あっ」と驚いてしまった。この夜は、終始一貫クリスマスネタで通しきった北陽、とんでもない大きさになってきたようだ。


December.29,2001 三回の高座で昇太北陽五席!

12月24日 春風亭昇太独演会
        「クリスマスの昼は昇太と・・・」 (亀有リリオホール)

        定刻二時ジャストに洋服姿で出てきた昇太、まずは前説だ。「時間が勿体無いですからね、押すと超過料金を取られてしまう」 「ここリリオホールに出るのは初めてです。ここにはネタ帖が残っているんですね。それを見ていたら、志ん朝、談志、小三治・・・といった人しか演っていないんですね! そんなところで(私が)演っていいのか!? リリオホール!!」 「初めてのところで、どんなネタを演ろうかとお客さんの層なのか知りたくて出てきましたが・・・(客席を見渡し)男女混合バラバラですね」 昇太はよく前説をやる。それは、これから始まる落語会へのお客さんの緊張感を和らげる意図があってのことに違いない。それをやることによって、自分の落語が演りやすくなると読んでいるに違いない。

        リリオールの現場に着いて、用意されていた高座を少し高くした理由を説明。「低いとただでさえ小さいですから・・・人間的にも小さいんですが・・・小さく見えちゃうんです。前の方の列の人は足を前に出してふんぞりかえるような姿勢で見てください」 昇太に言わせると[珍しい生き物]、ゲストとして来ているトップバッターの神田北陽の紹介が始まる。「昨日の夜からウチに来ているんですよ。おそらく今夜もウチにいるでしょう。ウチにいるから連れてきただけ。これが終わると今度は北陽くんの会にぼくがゲストで出る。一日一緒にいなくちゃならない。サイテイのクリスマス」 「出演者が若いから、勢いだけでダ――ッと行きますよ!」

        幕が開くと、珍しい生き物北陽が勢い良く出てくる。「昇太さんの家に昨日からいると言われましたが、一昨日からいるんです。明日もいます。ほとんど昇太さんの家に居続けているですね。それでも去年よりは少ない。今年はまだ一年のうち100日ちょっとでしょう。あとどう頑張っても今年は120日にしかならない。よく、ホモなんじゃないかと言われるんですが、そうではありません。(彼を)尊敬してないから(彼の家に)居られるんですね。尊敬している人だと疲れる。私は無理矢理に泊まっているんじゃないんですよ。『いいよ、いいよ』というから泊まっているだけ」

        「講談を聴くのは初めてだと言う人、どのくらいいますか? ちょっと手を上げてください」 驚いたことにかなりの手が上がる。それではと始まったのが、寄席で10分くらいで恐ろしい早口で演っている講談教室。張り扇の叩き方、釈台の説明などを面白おかしく解説する。

        講談教室が終わると、いよいよ本題か? 「講談にも新作を演る人と古典を演る人がいますが、両方演るとどっちつかずになるんですね。私は両方演るんですが、同じ会で新作と古典を演るとおかしなことになる。先日も新作のあとで演った古典で、『すまねえ、寝るなら服を脱いでからにしてくれ』とやっちゃったんですね。新作の頭が残っていると着物を服なんて言ってしまう。次郎長と石松が宿で寝るときに、『頼むから電気を消してくれ』なんて言っちゃう」 「決められないんですよ、新作でいくか、古典でいくか。現に今もお客さんの前で新作を演ろうか古典を演ろうか決まらない。あのー、ちょっとどちらを聴きたいか拍手をしてみてくれませんか?」 古典よりやや新作を望む人の方が多いみたいだった。「新作を望む人が多いということは、私には伝統芸を期待されていないようで悔しいですが・・・、それじゃあ両方演ります!」

        というわけで、なんと二本立てになってしまった。一席目は新作。「このお話は、とある台所の片隅の小さな箱の中の物語・・・」 お得意の『レモン〜狂暴な純愛』だ。もう使われなくなった台所用品の噺だ。「お嬢さん、泣くのはおよしよ、涙をお拭きよ」と手拭を渡そうとするが、北陽の顔に狼狽の色が・・・。懐や袖口を捜している。どうやら手拭を忘れてきてしまったらしい。「名前を言ってごらん」 「手拭を忘れて来た人に名前なんて言えないわよ!」 この娘の名前はマチルダ。苺のヘタ取り器だ。「ヘタ取り器? ヘタなんて手で取ればいいじゃないか!」 「いいじゃない、手も汚れないし」 「手なんか洗えばいいじゃない!」 本来はここで手を洗って手拭で拭く動作を入れたいらしいのだが、手拭がなーい! 「そういうおじさんはなんなのよ!」 「おれはレモン搾り器だ!」 「レモンなんて、手で搾ればいじゃない!」 「いじゃないか、手も汚れないし!」 「手なんて洗えばいいじゃない!」 手拭がなーい!

        続いては古典の『谷風情相撲』。落語の方では『佐野山』として演じられる噺。親孝行の相撲取り佐野山は病に倒れた母親の看病に疲れて場所中連敗続き。このままでは引退かと思われたところを横綱の谷風が親思いの佐野山に同情して、千秋楽の取り組みを自分と佐野山にしてくれと願い出る。いろいろあってさあ当日、土俵の上には谷風と佐野山。「両者見合って待ったなし! 谷風、立ち上がって・・・これからが波乱万丈面白くなるのですが、これで持ち時間いっぱいになりました」と張り扇叩いて高座を下りてしまった。新作も古典も両方とも、ほとんど五分づつ。絶妙なマクラと新作古典のスピーディな講談二席。北陽が初めてだった人はびっくりしただろうなあ。

        昇太一席目。「北陽くんは私といると疲れないなんて言ってましたがね、そりゃああの人は疲れないでしょうが、私の方はどうなるんだと! なぜ私の家に来たかというと、ネタを書く環境にないんですね。奥さんと子供がふたりいるんです。この子供というのが下がアトピーで、上がうそつき。そんなのが走り回っているんですよ。電話がかかってきて『行ってもいいですか? 今、表参道にいます』って、もう来ているんじゃないか!」 こういうふたりの関係トークが続くのが楽しい。

        「『メシ、どうする?』と訊いたら、『まあ、安心してください』と言って二階へ上がっていくんですよ。二階は何も使っていないんで、そこで北陽くんはネタを書いているんです。しばらくしたら『あーあ、あーあ』と言いながら下に下りてくる。これはご飯ってことかな、明日は北陽くんの会なのでスキヤキを食べさせてやろうと思って、肉や野菜買ってきたんですよ。『ご飯食べるか?』と言ったら、『あたりまえじゃないですか!』 食べ終わると『あーあ、お腹いっぱいだ』とまた上へ上がっていくんです。こっちはお茶碗洗って、後片付けして! 徹夜でネタを考えるんだろうからとお茶とかお菓子を用意しておいてやろうかと思って言うと、『あたりまえじゃないですか! もっと早くしてくれないとダメじゃないですか!』 今朝だって朝食に辛子明太子と納豆と味噌汁出してやって・・・これじゃあオレ、奥さんじゃないか! 情けない」

        年末年始の風物詩、紅白歌合戦、新年の挨拶回り、初詣などを話題にしたあとで古典の『権助魚』に入った。「権助や権助、権助、権助、権助、権助!」と名前を呼ぶのが長い。そして出てきたのが「うわー、ぎゃあー、呼んだかねえ」とこれまた凄い権助。旦那がよそに妾を囲ったらしいと気がついたおかみさんが、旦那のお供をして行き先を見届けさせようとする。「何でも買ってあげるからね、何が欲しい?」 「今川焼」 「いくつくらいだい」 「いくつくらいと言っても、五つくらいあれば・・・」 昇太にしては、割と素直に忠実にこの噺を演っていた。まったくの本寸法。もう少し昇太らしさが出ればなあと思ったのだが・・・。

        仲入り後は、三増紋之助の江戸曲独楽。いつもどおり扇子を開いて末広の曲、「よっ、あっ、よいしょ、よ――おっ!」 せいろを使って「よっ、はっ、よっ。行くぞー! はい、はい、はい、はい、はいー、よっ!」 真剣刃渡りの曲、日本刀の刃の鍔元から切っ先に向かって独楽を移動させる。切っ先にたどり着くと「テッペン! よ――っ、よいっしょお!」 

        「うしろの人、遠くて見えにくかったでしょう? 今度は後ろに行くよう!」 風車だ。「行くよう!」 独楽を棒の先で回しながら客席に入っていく。傾斜がきついホールだから登りはまだいいのだけれど、降りるときがタイヘンだ。上の独楽を見ながら、足元にも注意しなければならない。お客さんの頭に独楽を落としたらえらいことだ。

        「『となりのトトロ』に独楽が出てくるシーンがあるんです。トトロが独楽に乗って空に飛んでいく幻想的なシーンなんですが、それを再現してみようと思います」 独楽にトトロの人形を乗せ、神田京子に糸の端を持ってもらって[紋ちゃんと京子ちゃんとトトロの綱渡り]。クリスマスイヴとあってこの日は、トトロの人形にサンタさんの赤い帽子を被せていた。

        昇太二席目。「トトロの赤いサンタさん帽、あれはペットショップで買ってきたんだそうです。犬用なんですね」と話して、突然思い出したように「私には『愛犬チャッピー』という噺があるんです。犬が劣悪な環境で飼われるとどうなるかという噺なんですが・・・ちょっと演ってみましょうか?」 大きな拍手に答えて昇太の『愛犬チャッピー・ショート・バージョン』が始まった。あまりにも可愛がりすぎる女性をご主人に持った犬のチャッピー。ご主人の可愛がり方をもてあましている。そうとは知らないご主人さま、今日もチャッピーに洋服を着せてお散歩だ。「さあ、チャッピー、お外に行くときは服を着るのよ」 チャッピーの心の中の声「嫌なんだよー、洋服なんて着るのー! 裸のまんまで歩き回りたいんだよー!」 無理矢理着せられて、「これだけじゃ可愛くないわね、今日はクリスマスだから、お帽子」

        『笑点』をネタにしたマクラ。「世間一般では『笑点』に出るのが落語家のステータスみたいになっちゃってるでしょ。出られないんですよ。上がいなくならないから! 木久蔵師匠には二世のきくおがいるからまず無理。こん平師匠は元気いっぱい。歌丸師匠がいなくなる可能性が高いんですが、あの人『笑点』のサイクルが身についてる。『笑点』の収録日翌日に倒れて、次の収録日の前日に退院。倒れていい日が身についているんですね。となると、残るは円楽師匠。だんだんと痩せてきたんですよ(ニコニコと笑い顔)。それが違うらしい。体調が戻ってきたのらしい。今までが浮腫んでいたんだ!」 このあと、昇太は今のテレビのクイズ番組は大喜利と同じだと看破してみせる。「まともに答える人、ボケる人、不変の形式なんですよ」 そう、今のタレントを起用したクイズ番組って大喜利の形式を持ってきたにすぎないのだ。

         柳昇師匠に弟子入りした昇太、師匠の話をしながら、「あのときに別の師匠に弟子入りしたらどうなっていただろうと思うことがあるんですよ」と『人生が二度あれば』に入った。「うえーん、うえーん、うえーん」 誰かが泣いている。昇太の噺は、主人公が泣いていたり、困っていたり、悩んでいたりするところから入るものが多い。きっと、こういう入り方が昇太には演りやすいのだろう。聴いている方としては、いったい何事が起こっているのだろうかという不安と期待を起こさせる面白いオープニングだ。「うえーん、うえーん・・・あれっ? 私は何で泣いているんだろう?」 ボケかかってきた老人が盆栽の手入れをしている。盆栽に話しかけている孤独な老人だ。「お前が一番最初に買った盆栽だな。もう形もなにもないわ。育て方がわからなかったからな」 昔のことを思い返している老人。好きだったお千代さんのこと。原っぱで棒を振りまわして遊んでいた子供時代のこと。親の死に目に会えなかったこと。そうすると盆栽の松の精が出てきて、昔の時代にタイムスリップさせてくれるが・・・。もう何回も聴いた昇太の噺なのだが、これはよく出来ている噺だと思う。オチのつけ方もハッとするような巧いつけ方で、もう名作といっていい。

        オチを言って頭を下げたあと、拍手を制して挨拶。「今年はやみくもにいろんなことをやって、疲れてしまった。ぼくみたいな者はのんびりとやっている方がいい。来年は人がやっている端からときどき顔出してのんびりやりたいと思っています」って、そんなこと言わずにバリバリやってよ。今42歳。厄年を跳ね返して、ガンガン行きましょうよ!


December.24,2001 論理のヒネリ具合が絶妙な志の輔

12月16日 志の輔らくご (PARCO劇場)

        毎年PARCOがプロデュースしているこの会、六年目の今年はついに六日間の興行となった。その千秋楽に駆けつけた。毎年前座もゲストもなしのひとり舞台。立川志の輔は今年も三席の落語で勝負に出た。今回もこの会のために作った新作二席と古典一席だ。

        一席目。「野村沙知代が脱税容疑で逮捕されました。この人が選挙に立候補したときの公約をご存知ですか? 『なくさせよう、税金の無駄遣い』 払わないで言ってたんですね。それにしても彼女を庇う声がひとつもない。テレビに出ている人のコメントはみんな言葉は違うけれど、内容は同じ。『天罰です』」 テレビのワイドショウの話題から現代は情報過多の時代だというマクラを振って噺に入った。

        男が薬局に入ってくる。「あのー、店先に書いてある、たらこのドリンクって何?」 「はっ?」 「いや、書いてあるでしょ、[たらこのドリンク]って」 「・・・」 「マムシのドリンクとかカキのドリンクっていうのは聞くんだけど、たらこって、逆に体に悪そうだしさ」 「ちょっと待ってくださいよ・・・あー、上の[つかれ]が落っこちちゃっているんだあ」 「ああ、[つかれたらこのドリンク]かあ」 このイントロ部分だけで志の輔らしさが出ている。

        男は奥さんに頼まれたという買物リストを見て、店員に注文を始める。「掃除の洗剤をください」 「どこを掃除なさるんですか?」 「どこって・・・」 「バス、トイレ、キッチン・・・、それぞれにバス・ユアペット、トイレ・ユアペット、キッチン・ユアペットなどがありますが・・・」 「困ったなあ、それは聞いてこなかった・・・」 「ただのユアペットもありますがね」 「えっ? どういうこと?」 「どこでも使えるユアペットです」 「なあんだ、そんな便利なものがあるんだあ。でもそれじゃあ、バス・ユアペットの立場はどうなるのよ。自分はバス専門で働くつもりでいるのに、そんなのがいちゃあ立場ないでしょ」 こういうヒネリが志の輔なのだ。志の輔は談志の持つこういう捻った見方を自分に取り込み、さらにその毒とも思えるものを巧妙にオブラートをかけて提示してみせる。

        「それと、ハミガキね」 「ハミガミもいろいろとございます。歯を白く輝かせるものとか、息が爽やかになるものとか、歯茎から血が出るのを防げるものとか・・・、どれがよろしいでしょうか?」 「ねえ、それが一本に全て入っているものってないの? ただのユアペットみたいにさ」 この調子でトイレの消臭剤、風邪薬、猫の缶詰といろいろと質問ぜめにあわされた店員さん、哀れノイローゼ状態。このあとオチに持っていくのだが、これまたイントロの[たらこのドリンク]にも似たうまいオチで、この人の創作力の凄さを見せ付けられた気がした。普段、あまり新作は演らない人なのだが、どんどん巧くなってきた。新作派の人はウカウカできないぞ。

        この一席目の題名は『買物ぶぎ』というそうで、二席目に入る前の着替えの時間に笠置シヅ子の『買物ブギ』が流される。これ私の大好きな曲。戦後すぐのヒットだから、もちろん私は生まれていないが、宇崎竜童が『買物ブギ』と、それを発展させて作った『売物ブギ』はよく聴いたもの。

        二席目。「歳を重ねるごとに一年が短く感じるようになる」 こういうマクラを振るのは、よくありがちだが、それはそれで普通は言いっぱなし。志の輔にかかると「なぜ短く感じるようになるのか」と考察が始まってしまう。「それは、記憶なんじゃないかと言われている。小さいときには体験したことをよく憶えている。きのうは何をやったか、おとといは何をやったか憶えている。ところが年々、やったことの記憶がなくなるので一年が短く感じるようになるのではないでしょうか」 そうなんだよなあ。小さい頃って、見た映画や読んだ小説の細かいことまでよく憶えていて、頭の中で終わってからも反芻することが出来た。それが今や、寄席に行って帰ってきても、メモを見なければ噺家さんがどんな噺をや演ったかすら思い出せない。

        自衛隊法を改正して、自衛隊のイージス艦をアラブに派遣できるようにすったもんだした小泉首相。最近志の輔がよくマクラに使っている話題だ。「アメリカはYES OR NOの国。そこへいくと日本はその間に、まあまあが入る。日本はあいまいな国。不気味な国だと思われる方がいじゃないですか。わかりやすい国にしない方がいい。ヘンな国、わりきれたりする国になんかしない方がいい」 まったくいつもどうりなのだが、ブッシュ大統領の「まだか、まだか」の催促を表わす例えとして、こんな比喩を出してきた。「蕎麦屋の出前外交なんですよ。『まだ?』と請求電話をかけると『もうすぐです』。それでも来ないからまた電話すると『今やってます』。さらに来ないので電話すると『もう出ました』 うう、耳が痛い! なんで蕎麦屋が出てきたのかと思ったら、あとで理由がわかった。

        ある平凡な一家が公団住宅に住んでいる。両親とタカシくんナツミちゃんの四人家族。おとうさんはサラリーマンでちょうど勤続三十年。社長から宅配便で記念の品が届く。荷受表を見ると[鹿(頭)]とある。開けてびっくり、中からは大きな鹿の頭の剥製が出てくる。狩猟が趣味の社長が贈ってくれたのだ。壁に取り付けようとするが、どうも公団住宅の部屋には似合わないとおかあさんから反対される。「こういうのはレンガで出来た暖炉の前でロッキングチェアに座っているような空間があって初めて似合うものよ」 哀れおとうさん、とりあえず押し入れに鹿の頭をしまうことになる。ところが押し入れの中は、家庭用品や、子供たちの遊び道具でいっぱい。使わなくなって久しいジューサーミキサー、美顔機、餅つき機、ぶらさがり健康機、おひな様、サーフボードにスノーボード、『さざえさん』全巻揃い。おとうさんの鹿の頭は入る余地がない。「邪魔だから、誰かに引き取ってもらったら?」と言う家族に、「これは俺の三十年間が詰まっているんだ」と引くことができない。ついには家族争議にまで発展して、「出ていく」「出ていかない」にまで到ってしまうが・・・。

        これは『ディア・ファミリー』という題名とのこと。この噺を思いついたのが、下諏訪の[八州]というお蕎麦屋さんに入ったら、鹿の剥製が店内にあったそうで、「こんなものを送られてきたら嫌だろうなあ」と思ったのがキッカケだったとか。ああ、それでマクラにも蕎麦屋が出てきたのね。

        仲入りがはいって一息つくと三席目に入ったのだが、なぜか客電を落としている。メモ用紙を膝に置いて見ているいるのだが、これだとメモ用紙が見れない。「凄かったですね、今年は。毎年同じことを言っているようですが、こんなに凄かった年はない」 そう、九月のアメリカ同時テロの話題だ。志の輔は中でもワールド・トレード・センターの瓦礫の所で作業する消防士とボランティアの話を取り上げてマクラとしてから噺に入った。豆腐屋が行商をしている。「あっ、これは『徂徠豆腐』だな」と直感した。

        志の輔が講談や浪曲で演られるこの噺を落語として演っているというのはネットで読んだことがある。ちょうど神田北陽で聴いたばかり。世に出る前の荻生徂徠が豆腐屋のタダで持ってくるオカラで飢えをしのいだというエピソードだ。これまた論理のヒネリ方が志の輔らしい。「タダで豆腐を毎日持ってくるよりもオニギリでも持ってきましょう」という豆腐屋に対して、「いや、豆腐は売物だから、いずれ金で返せばそれで済むこと。しかし、米のメシはいかん。それでは物乞いになってしまう」と答える徂徠。ここまでは常識的な論理。そこから先が志の輔らしい。「真四角の豆腐みたいなオニギリならいいんでしょ」 「いや、これは私のケジメだ。そうでないとミジメになってしまう」 それならばと売物のでもあるオカラの中にいろいろとオカズを入れてオニギリのようにして毎日運ぶ豆腐屋。

        この論理のヒネリが、実は最後のオチに結びつくところが志の輔なんだよなあ。火災で店を焼失してしまった豆腐屋さんに、出世した徂徠が店を立て直してやる。最初に出来た豆腐を持って徂徠のところに行くと、「この世の中で、この豆腐を一番食べたいと思っていたのは私です」と徂徠が答えるあたりで、私の涙腺はウルウル。このあとの論理のヒネリを効かせたオチで、一気に開放感へと向かう。うーん、巧いねえ、志の輔!


December.21,2001 笑って笑って何も残らないうれしい3時間

12月8日 2001年冬休み前 劇団☆新感線チャンピオン祭り
       『直撃!ドラゴンロック3 轟天対エイリアン』(赤坂ACTシアター)

        幕が開くと、そこは山の中の露天風呂。しょんべん地蔵温泉という名前に相応しく、大きなお地蔵さんのポコチンからお湯がじょぼじょぼと出ている。そのお湯に浸かっているふたりの若い女性。とてもいい気持ちそうだ。しかしふと気がつくと、お地蔵さんのポコチンが立ったりしぼんだりしている。どうも誰かに見られているのではないかと気がつくと、お地蔵さんがパカリと割れて、そこから現れたのは劇団☆新感線ファンにはお馴染みのキャラクター剣轟天(つるぎごうてん)だ。演じるは、すっかりはまり役となった橋本じゅん。

        このシリーズを楽しむには、ブルース・リー・ブームのときに東映で大量に作られた千葉真一の空手映画の中の『直撃! 地獄拳』シリーズを知っていると楽しさが倍増する。もっともシリーズと言っても2作目の『直撃! 地獄拳 大逆転』までしかないのだが・・・。特にスラップスティック・コメディと化してしまったこの大傑作である2作目の千葉真一をどうやら意識しているようなのだ。

        このふたりの女性こそ政府から派遣された使者。地球に接近してくる彗星探索のために、轟天に宇宙護衛艦[うまなみ]に乗ってもらおうというのである。闘いに疲れて、全国の温泉掘りをやっていた轟天ではあったがお色気作戦にひっかかり、政府機関に拉致されてしまったのだった。そこへ、スクリーンが下りてきて、タイトルが出る。流れる音楽がどう考えても『ゴールドフィンガー』によく似たもの。映し出される映像もジェームス・ボンド・シリーズお馴染みのシルエットを使ったもの。もうこれだけで大笑い。

        さあこれから3時間に渡って、轟天の活躍が展開されるわけだが、ストーリーなんてどうでもいいようなドタバタが繰り広げられる。彗星に到着するとエイリアンが現れるのだが、これがなぜかパンダ。ほとんど『猿の惑星』のパロディのようになっているが、他にも映画や漫画を知らなければわからないようなパロディがてんこもり。新感線お得意のミュージカル仕立てになっているが、これまたいつものように、「あれっ? どこかで聴いたことがあるような曲だなあ」というパクリが可笑しい。

        見終わって、なーんにも残らない。でも何回でも見たくなる。轟天シリーズはこれで終わりだというが、ほんとうかなあ。新感線の中でも最も好きな芝居だっただけに寂しい。轟天シリーズでなくてもいから、ただただ笑えるだけの芝居、また作って欲しいなあ。



December.8,2001 『文七元結』の長さんの葛藤

12月2日 池袋演芸場十二月上席夜の部

        師走ともなると忙しい。この日も朝から店の調理場の大掃除を4時間かけてやり、町内の餅つき大会に顔を出し、翌日の仕込みをやったらヘトヘトになってしまった。もうどこにも行かずに家で日曜日の夜を過ごそうかと思ったのだが、池袋の上席夜の部はトリで柳家さん喬の長講が聴けるいい機会。これは行くっきゃないでしょ―――と重い腰を上げる。

        客席に入ると、もう前座の柳家さん角の『子ほめ』が始まっていた。頑張ってね。

        柳家三三はマクラもふらずに話し出した。『湯屋番』かなあと思っていたら、イントロ部分だけ演って「『居候』でございます」と言って下りてしまった。時間調節なのかなあ。まだ始まったばかりなのに、ちょっと短すぎるよー。

        柳家小太郎は、めったに演り手がいない『ふだんの袴』。お侍が古道具屋へ行って掛け軸を見ていると、キセルから火玉が落ち、袴が焦げてしまう。心配する店主に、「案じてくれるな、これはふだんの袴である」と答える。これを耳にした八っあんが真似をしてみようとするという、落語の黄金パターン。『時そば』 『青菜』などと較べると笑いの要素が少ないので、不利といえば不利な噺。

        大空遊平・かほりの夫婦漫才。相変わらずカワイイ顔のかほりが飛ばしている。「結婚式で新郎新婦が言う言葉なんて、大抵決まってますね。『明るくて笑いの絶えない家庭を作りたいと思いまーす』なんてね。何言ってんだ、コノヤロー」と言う時の「コノヤロー」の言い方が、顔で笑っていてカワイイ声なのがかえって怖い。「10年も経つと、優しさと、優柔不断と、根性無しが一緒になるんですよ」と言うセリフも笑いながらでカワイイが、毒があるようなないような、不思議な可笑しさを持ったかほりさん。「たまには旅行に行きたいわねえ。湖畔のペンションにでも泊まって」 「あのね、ペンションではあまりご飯は出ないよ、洋食だから」 「何言ってるのよ」 「だから『ご飯のペンション』って言ったでしょ」 「ご飯じゃなくて湖畔よ」 「ああ、レイクサイドね」 「なんで、湖畔を知らなくてレイクサイドなんて言葉を知ってるのよ! いいわあ、爽やかな風を受けて、ひとりたたずむ娘」 「お嬢さん、自衛隊に入りませんか?」 「なんで自衛隊の募集なんかに声かけられなけりゃいけないのよ!」 「お嬢さん、早まっちゃいけませんよ!」 「なんで自殺しなきゃいけないのよ!」

        古今亭八朝。「こないだまで、富山でしかやっていないCMに出ておりまして・・・。パチンコ金の玉会館のCMなんですがね、ご存知無いでしょうね。逃げるマスコミをひたすら追っております。それがついにメジャーなCMに出たんですよ。[ネスレクランチ]のCMなんですがご存知でしょうか? 主演がえなりかずき。えなりかずきが『いけてる? オレっていけてる?』と言う隣で『いけてるよー』って言う親父役が私なんですがね」 へえー、普段あまりテレビを見ない私はこのCMに遭遇したことがない。「先日、志ん五師匠が言うんですよ、『コマーシャルに出ているんだってな、えなりのとなり』 このままネタには入らず相撲の漫談が続く。「先場所、初日から栃東が琴光喜に当たった。この琴光喜を破ったときには私は、『いけるぞ栃東、全勝優勝だ』と思いましたね。それが神社に行ってお参りしちゃったんでしょうね。サンパイしちゃった。教会ならよかったんですよ。クリスチャンにはレイハイがつきもの」 うまい! それにキレイだね!

        真打になって、小のりから三遊亭禽太夫になった落語界のトム・ハンクスの登場だ。「笑うということはカロリーを消費するんです。痩せますよー。ウソだと思ったら10日間通ってみてください」 どうしてもこの人を見ていると、登場人物がフォレスト・ガンプにダブってしまう。この日は『金明竹』。店の主人が留守の間に「ソロバンで遊んじゃおう」(どうやって遊ぶんだ?)と思っているところにやってくる関西弁の男の話を面白がっている松公が私にはやはりどうしてもフォレスト・ガンプにしか見えない。

        橘家円太郎。「私の町内ではゴミ当番というのがありまして、順番で当番の日が決まっている。ゴミの集積場所には札が掛かっていて、だれ番、だれ番と札が移動することになる。ちなみに私は鵜野といいまして、私の番だと鵜野番になる。中に田利さんという人がいまして、この人の番が来るとタリバン・・・。そして隣のおばあちゃんは神田ハル」 ウソだろうー、これは! ネタは『稽古屋』。25歳のひとりもののお師匠さんがいるという稽古屋に下心まじりで弟子入りする男。唄を習いにいくのだが、まったくの初心者だから師匠もあきれて、ひとりで稽古してなさいと、うっちゃっておかれる。師匠は小さな女の子の踊りの稽古に余念がない。退屈した男は、女の子の焼きイモを食べてしまったりと大騒ぎ。このあたり、師匠のセリフと表情だけで表現するのだが、これが実に可笑しい。

        アサダ二世の奇術。いつものセリフ「今日はね、私は手品やりますよ」から、いきなりヒモを手から垂らして先にライターで火を点けた。シュシュシュシュシュと火が上がると、これが赤いスカーフに変身。「あっ!」と叫んでしまう鮮やかなオープニングだ。続けて今度はコップの中にこのスカーフを入れる。コップの底をコンコンと指で叩いて見せると、上から紙を被せて左手でコップを持つ。そこで一気にコップの底からスカーフを抜き取ってみせた。ええー! どうやったらコップの底からスカーフを抜き取れるんだあ! と思ったらあっさり種明かし。ほとんど脱力もののトリック。そういうものなんだろうなあ。

        三遊亭萬窓は寄席の定番『宮戸川』。この噺、半七が碁で遅くなったとする型と将棋で遅くなったとする型があるが、「ゴでしくじった。そういうのをロクでもないというんだ」というセリフを入れるとすると、やはりこれは碁で遅くなったとするのがいいのかもしれない。萬窓は碁の方。徹底的にいじってしまう人も多いが、萬窓はいくつかのクスグリは入ったがほとんど基本どおり。ただ気になったのが、半ちゃんの声が最初ちょっと低く感じたのと、お花ちゃんの声が若い女の子らしく感じられなかったこと。私としては、もうょっとウブな感じあった方がいいと思うのだが・・・。

        仲入り前の柳家喬太郎にも長い時間が振り分けられている。「芸人は、飲む、打つ、買う、何事も勉強。破天荒な人生を送らなきゃいけない―――なんていう人がいますがね、『じゃあ、あんたからやれよ』と言いたくなる」 何を演るのかと思ったら、破天荒な人生だったであろう左甚五郎話のひとつ『竹の水仙』に入っていった。

        甚五郎が三島の宿、大松屋佐平方に長逗留を決め込んでいる。朝昼晩と一升づつの酒を飲み、オヤツに5合飲むという大酒豪。気が気で無いのが宿屋の女房。亭主を脅して宿賃の催促に行かせようとする。グズグスしている亭主にシビレを切らし「あたしが行けと言ってるんだ! 行かないの!」と凄んでみせると、気の弱い亭主は行かざるを得ない。「ほう、一日に三升五合。それに三度三度わけのわからないものを食べさせてもらって今までで二両三分二朱。それでどうした?」 「いや、きれいにしていただきたいと思いまして」 「おう、なかったことに」 「ご冗談を」 「払ってもらいたいという気持ちと、払いたいという気持ちがピタリと一緒になって、それでいいではないか」 「その気持ちを形にして欲しいんですよう」

        一文無しの甚五郎、一計を思いつく。「わしの商売は番匠だ」 バンジョーを抱えるポーズをする亭主。「きょうは古典だ、我慢をしろ」 一晩コツコツと竹を彫り続ける甚五郎。竹の水仙のツボミを彫り上げた。これを竹筒に水を入れてさして表へ置くと、お侍が通りかかりこの竹の水仙を目に止める。さっそく宿役人に命じて宿の亭主の元へ。「何かやったでしょ、やったでしょ」と宿役人が駆け込んで来たところで、消防自動車のサイレンが聞こえてきた。「どっかでウーウーいってるよ。地下なのに聞こえるんだよ。防音なんとかして欲しいねえ」と宿役人が続ける機転が喬太郎ならでは。

        宿役人に連れられてお侍の元へ。てっきり阻喪があって、宿の亭主が打ち首にあうと思い込んでいるこの宿役人が喬太郎のオリジナル。「お前は柳家権太楼か!」というひとり突っ込みがあるくらい権太楼が入っている。「ごめんなさい! すみません! この人は悪くないんです! 間に入っただけなんです!」とけたたましく、たびたび侍の付き人から「ばか! うるさい! あっちへ行け!」を連発されている。竹の水仙を持参した亭主に「売り物か?」と訊くと「作った奴は怪物みたいなやつですが」 「値(あたい)は」と問うと、しばらく考えて人差し指で自分を指差して見せる。「一人称ではない」

        竹の水仙を百両という値で売ると、宿に帰ってくる。事情がわからずあいかわらず文句をたれている女房に、「上の人の悪口は言うな!」と一喝。「誰に向かって言ってるの?」と凄もうとする女房に、もう一度「ガタガタ言うな!」と切って返す。「言えた、(百両になったことより)こっちの方がうれしい」という、あらゆる意味での逆転劇。甚五郎の噺の中でもどちらかというと地味な部類に入るこの噺を喬太郎は鮮やかに自分のものにしている。

        仲入りに、高座を下りたばかりの喬太郎から場内アナウンスが入る。「今回の池袋演芸場は柳家さん喬長講一席十日間となっております。半券を溜めますとプレゼントがございます。ゴミ箱から拾う、偽造するといった違法行為は認められませんが、半券三枚溜めるとさん喬師匠の手ぬぐい。五枚溜めると落語教会のカレンダーを差し上げます。もちろん来年のでございます。去年の、あるいは今年のということはいたしておりません」

        鏡味仙三郎・仙一親子の太神楽。まずは仙一の五階茶碗。アゴの上にバチを立て、板、茶碗、化粧ぷさをつぎつぎに乗せていく。「彼は長いアゴをしています。これを、ロング・ロング・アゴー」 バチとバチの間に扇子を挟み、バチを傾けて扇子を抜き取る[抜き扇]も見事に右手で扇子をキャッチ。バチの下にさらに細い棒を繋げて、肘の上に立てたり肩に立てたりする[野中の一本杉]は私は初めて見る芸。無事に終了すると、仙三郎「みんな私が教えてあげたの」とポツリ。この五階茶碗は若い人しかやらないみたい。次はお父さんの毬の曲芸。毬を左手の甲から体の中心を通して右手の甲へと移動させる。首の後ろを通したり前を通したりしてみせたあと、サンデー・スペシャル。頭の上を通してみせる[山越し]。最後はバチのジャグリング。変化をつけて自由自在だ。

        トリのさん喬が長講なので、仲入り後はこの太神楽のみ。さん喬が出てくると拍手が鳴り止まない。手で制して「先ほどは喬太郎が古典落語の冒涜とも言えるものをお見せしまして・・・(楽屋に)小さんの前であれをやってみろ!」なーんて言いながら、ちょっぴりうれしそうなのが、一応喬太郎落語を認めている証だろう。「三十年間の落語人生で、きのう途中で声が出なくなってしまい、失礼をいたしました。このまま声が出なくなったらどんなに幸せか・・・」 そんな心にもないこと言っちゃってえー。でも不安。これからの長講、大丈夫なんだろうか。そういえば、さん喬さんにしては珍しく横に湯呑が出ている。「湯呑を置いてもらったは、初めてです。小三治さんみたいですね。あの人は十分の高座でも湯呑を置いている」

        「お正月が近くなりまして、最近は着物を着る人も減りましたが、日本髪を結う人も減りましたね」と、髪の毛を束ねる紐のことを元結というのだと説明しはじめ、「お察っしのとおり『文七元結』でございます」と噺に入った。細川の中間部屋の博打でスッカラカン。素っ裸にされて外に放り出された長さん。「寒い!」と、これは季節のせいばかりではなさそう。家へ帰ってみれば、ひとり娘のお久は吉原の[佐野槌]へ自ら身を売ったと女房から聞かされる。慌てて[佐野槌]に向かった長さん、[佐野槌]の女将に五十両渡され、来年の大晦日までお久を預かろう。ただし、約束の期限を過ぎたらお久を店に出すからねと言われ、一旦お久に金を渡し、それを父親の手に握らせる。「来年の大晦日までに五十両返してくれなければ、いいかい、あたしは鬼になるよ!」

        吉原の帰り道、夜の吾妻橋。何も遮るものもなく、遠く吉原だけが赤く燃え立つように見えている。そこへ大川へ身を投げようとしている若者。長さん助けて事情を聞くと、この男はべっこう問屋のもので、集金の帰りに五十両入った財布をスリに取られたという。さん喬の『文七元結』はここの部分の長さんの葛藤が見物だ。いくら江戸っ子だからとはいえ、見ず知らずの人間に五十両もの大金をポンッとあげられるわけがない。ましてや、自分の娘が吉原に身を沈めるかどうかがかかっている大切な金だ。何回も手を懐に入れようとしては、戻している。「誰か来ねえかな。来りゃあおっつけてやるんだがな。こんなときに限って誰も通りゃがらねえ・・・」 それでも何とかしてやりたいというのが江戸っ子。「どうしても五十両なけりゃあならないのかい? 十両でどうだ? 十五両・・・十六両・・・十七両・・・身投げ値切っているみたいだ」 このへんが、[佐野槌]の女将が一旦お久にお金を渡し、お久自ら父親に渡させるという残酷なまでの描写が生きてくる。

        「どこまでついてねえのかね。俺だってやりたかねえよ。お前は五十両がなければ死ぬって言う。俺の娘は生きていけるんだ。言い出した手前、引っ込みがつかなくなっちゃった」とようやくポーンと五十両放り出す長さん。この細かい演出がさん喬落語の醍醐味だろう。すっかり満腹した思いで外へ出ると、ネツトの落語好き仲間が三人。お腹はいっぱいだけどお茶でも飲もうかと喫茶店へ。日曜の夜だけれど、ついつい夢中になって遅くまで話し込んでしまった。


December.1,2001 さすが年季の権太楼の『提灯屋』

11月24日 上野鈴本演芸場十一月下席夜の部

        鈴本はこの秋の新十人真打を、さっそく積極的にトリとして使い始めた。十一月下席の柳家三太楼を始めとして、古今亭駿菊、柳家禽太夫も十二月にはトリを取る。三太楼の披露興行に行けなかった私は、さっそく彼のトリの姿を見たくなってきた。鬼怒川温泉に一泊して帰ってきたその日の夕方、一服する暇もなく上野へ。チケットを買ってモギリでこの日の出演者の一覧を渡されて唖然。なんとトリを取るはずの三太楼は休演なのだ。代わりが三太楼の師匠の柳家権太楼になっていた。まあ、しょーがないか。権太楼がトリなら文句はないし、三太楼のトリはまた別の機会にすればいいや。

        前座は柳家ごん白。『牛ほめ』。頑張ってね。

        柳家さん光はうそつき者のホラ噺『弥次郎』だ。「北海道では火事が凍るんです」 「そんなバカなことがあるかい」 「証拠を見せてやろうと思いましてね、凍った燃えさしを牛の背中に括り付けてきたんですがね、それが途中で溶け出しちゃって、牛の背中で燃え出しちゃった。牛のやつが『モーいやだ』。水をかけたんですが、ヤケウシに水」 元気のいいハキハキとした弥次郎だ。ホラがバレそうになっても、まるで動じず悪びれるところがない。ここまでくるといっそ痛快。

        曲独楽の三益紋之助。神田北陽のマクラによく出てくるこの人、実際に見るのは初めて。日本刀の刃の上で独楽を移動させる[真剣刃渡り]を汗だくで見せてくれる。切っ先に達すると「い――よいしょおう」。[羽子板の舞]で失敗しても「一回くらい(失敗しても)どーってことないですから」とヌケヌケと言い放ち、何回かのミスのあとに、見事羽子板の面から上まで移動させてみせた。汗をひとふき、「さあ、あとひとつだぞ」とキセルの先で大きな独楽を回す[風車]。

        柳家一九。「去年の秋、青森に行きましたところ、沿道にリンゴが山積みになっているんですよ。横に札が立っていて『地方発送承ります』って書いてある・・・青森でねえ・・・不思議に思って『地方ってどこですか?』っておばちゃんに訊いたら、『なーに、ほとんど東京だあっ』。ネタは『寄合酒』。

        古今亭菊丸が、もうクリスマスのマクラを盛んに振っている。「クリスマスってなに?」 「クリマスっていうのはね、キリスト様が生まれた日よ」 「ラッキーね。クリスマスに生まれるなんて」 そのままネタの『宗論』へ。『讃美歌312番、いつくしみ深し』が『里の秋』に変わると、♪ああ、かあさんと二人して・・・となぜか森進一の物真似。「アーメン」 「何がラーメンだ!」 「お父様、ラーメンではございませんアーメンです」 「アーメンもラーメンも同じだ!」 「アとラが違っては大変です。『まあいやだ』を『まらいやだ』なんて言いますか?」 客席に流し目を放って楽屋へ引っ込む。

        林家こん平は、いつもどおり。小遊三らとやっている卓球クラブの話やら、『笑点』の話やらの漫談。

        夫婦漫才の大空遊平・かほりも、いつもどおりだ。息継ぎ無しでまくしたてるかほりと、とぼけた味わいの遊平の漫才が続いていく、「今、2分55秒に一組の割合で離婚するカップルがいるんだそうですよ」 「その点、ぼくらは大丈夫だね、仲好しだし」 「仮面夫婦!」 今日のかほりは鮮やかな黄色のスーツだ。それに対して遊平はいつものグレーのダブル。

        柳亭燕路は『たらちね』をじっくりと演ってくれた。人によってはハショッてしまう、八っあんがお嫁さんが来るまで待つ間に火を起こしながらひとり想像をたくましくするあたり、「チンチロリンのサークサク、ガンガラガンのボーリボリ」をちゃんと演ってくれたし、ネギ屋のくだりまで丁寧な演じようだ。この話をこんなに丁寧に演ってくれると、本当にうれしい。

        「JRの中に白い粉が置いてあって、これは炭疽菌じゃないかって大騒ぎになりましたが、私はこのところ大福を貰ったら洗って食べる。天ぷらはコロモをつけないで揚げてもらう・・・油っぽくて食えませんが・・・」 柳家さん喬のマクラが長い。「女性がお酒を飲んでポッとした顔になっているところ、いいもんですね。男性の顔をなめるように見て、『あたし、酔っちゃった』なんて色っぽいですよ。その点、男が『酔っちゃった』なんて言っても蹴飛ばされるだけ。訴えかけるように男性を見るとその効果は絶大。さあ、皆様もやってみましょう。はい! 『あたし、酔っちゃったあ』」

        お酒は好きだそうだが、あまり量は飲めないというウワサのさん喬さん、まだ酒のマクラが続いていく。「私などは寄席が終わると、縄のれんですね。とりあえずはビール。サカナはヤキトリ。ヤキトリっていってもモツヤキね。5〜6本塩やタレで焼いてもらって・・・『ウーロンハイもらおうかな。それと、すみませんトマトのスライス。なるべく薄く切ってね。マヨネーズつけて』・・・それから、レモンハイ、梅ハイ、熱燗、ひや酒、仕上げにまたビール・・・それで1200円・・・なんて店ありませんかねえ。

        まだまだマクラが終わりそうにない。バーのホステスの話やら、最終電車の酔っ払いの話まで持ってきて、これは今日は漫談だけなのかな・・・と思っていたら突然に『代り目』に入った。車屋のくだりはカットしていきなりオデンのくだりに入っていく。すっげえ短い『代り目』。なるほどねえ、燕路の丁寧な『たらちね』も良かったが、こういうマクラたっぷりからの大胆なカット版『代り目』もありってことなんだなあ。

        仲入り後は林家正楽の紙切りから。いつもの通り[相合傘]を切ったあとは、お客さんからの注文。「酉の市!」の声で熊手を買って帰るところ。毎年この時期になると切らされている題なんだろうなあ、手馴れたもんだ。「武蔵丸!」の注文が出る。この日、千秋楽を待たずして武蔵丸の優勝が決まった。「ご親戚ですか? そうじゃない? へえー、九州場所優勝が決まったんですかあ」と切り出したものの、突然に切っていた紙をクシャクシャ、ポイと放り投げた。ハサミで首をトントンと叩きながら「うまくないなあ」 どうしたんだろう、大丈夫なのかと心配したのだが、気を取り直して切りあがったのが優勝杯を持つ武蔵丸の横からの姿。似てるー、似てるよー、武蔵丸そっくりの体と顔。さすがだね。「イチロー!」 こんなのは毎回切っている。お囃子さんの『コンバット・マーチ』に乗ってチョチョイのチョイ。イチローがキャッチャーやアンパイヤよりも異様にでかい。バットもでかい。このデフォルメがイチローの大きさを表しているのかなあ。でも顔は似ているのだろうか・・・。

        「秩父の夜祭!」という注文には、戸惑いを見せた。「はっきり言って見ていません。それでも切ります」というところがプロ。けっこう長い時間をかけて切っている。「これはいつできるか分りません」 無言でモクモクと切っている。「まだまだできません」 正楽さんの困ったような顔を見ているのが結構、客としては楽しかったりする。ようやく切りあがって「紙切りは時間がかかるとワケが分らなくなる。案の定、ワケが分らなくなりました。出来ることなら見せたくない!」とプロジェクターにかけた作品は、どうしてどうして綺麗な山車が連なっていた。

        真打になりたての三遊亭白鳥が出てきた。いつもは赤だの黄色だののヘンな色の着物だったのだが、おや、真打昇進披露のときに着ていたものらしい黒い着物だ。ところが紋はピカチューに変わっている。「世の中、ボーッとしていると何をされるか分かりません。さっき、回転寿司を食べに行ったら、隣に三人のオバチャンが座っていたんです。この人達、ドンドン皿を取っていくんですよ。それで自分たちで食べきれなくなると、またレールに返しちゃう。最後にイクラが一皿残った。『あたしもうおなか一杯で食べられないんだけど、ひとつだけならなんとかなる。お兄ちゃん、あとのひとつ食べてくれる』っていうから『いいですよ』と答えたら、自分でひとつ食べて、残りのひとつが乗っている皿を私の食べ終わった皿の上に載せて、帰っちゃた」 このまま漫談だけ続けていって、そのまま引っ込んでしまった。あの奇想天外な新作落語は、こういう寄席では演らないつもりなのかなあ。

        五街道雲助は、『ざるや』。ガラガラ声の雲助だが、この主人公、ガラガラ声なのに妙にカワイイのはなぜか? 不思議だなあ。

        膝代わりは昭和のいる・こいるの漫才。「これから、人類は宇宙に住むことになるかもしれないんだぜ」 「ああ、高い月の上から地球を見下ろしたりしてな」 「月に行ったら、地球は見下ろすんじゃなくて、上の方にあるんだよ」 「ハハ、ハイハイハイ、そうか、まあ、何でもいいや」 この人達の漫才というのは、不思議な世界がある。考えてみれば師匠にあたる獅子てんや瀬戸わんやも、漫才というジャンルでは一風変わっていた存在だったもんなあ。

        トリは三太楼のトラで師匠の柳家権太楼だから、こっちは得したようなもの・・・って三太楼さんごめんなさい。「『陰陽師』という映画を見てきたんです。ああいう映画は時と場所を選ばなければいけませんね。浅草六区。平日。昼間。以上の条件が揃ってしまった状態で見てしまった。大きな映画館で・・・そうですね、この鈴本演芸場の倍くらいはある広さかな。そこにですね・・・うーん、麻雀卓二台分くらいの客しか入っていない。つまり私以外には7人ですよ。みーんなジジババばっかり。これがまた、おどろおどろしい映画なのよ。顔が崩れていくような映像見せられて・・・終わって灯りがついたら、周りもみんな陰陽師」

        「不登校の子なんて問題があって、みんないろいろと議論してますがね、要は学校が好きか嫌いかというだけのことですよ。難しく考えてしまうからおかしなことになる」とマクラを振って『提灯屋』に入る。新規に開店した提灯屋が、記念サービスとして紋をタダで描いてくれるという。なお、万一描けなかったら、提灯はタダで進呈するというので、町内の若い連中がつぎつぎとヘンな謎かけのような紋描かせようとして、タダで提灯を持っていってしまう。ひどいことをすると隠居さんがお詫びに、自分のところの紋を入れてもらって提灯を買いにいこうとするが・・・。上方落語のネタの上、家紋に関する知識がないとちょっと辛い噺。しかもオチに使う前振りとして、スッポンのことをマルとも言うということを自然に知らせておかなければならない。東京では演る人が少ないこのネタを、さすがに権太楼だ、見事に演じてみせた。この難しいネタをよくぞここまで演れるもんだ。三太楼がこの噺を出来るようになるのには、まだまだ年季がいるかな?


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