July.28,2003 文我、東京迎撃隊とガチンコ勝負
7月23日 第2回 文我ええもんの会 (紀伊国屋ホール)
当日配られたチラシによると、「紀伊国屋ホールでの落語会を『文我ええもんの会』と名付けましたのは、紀伊国屋文左衛門と、文我の良え物を聞いていただきますという心意気を、駄洒落でこじつけてのことです」とある。上方落語になかなか接する機会がないので、一度行ってみるかと思いチケットを買った。ゲストが凄い。橘家円太郎と、柳家喬太郎だ。このふたりは文我が食われてしまってもおかしくない強力な個性派。上方の芸人を迎撃するには不足ない。楽しみにして出かけた。
開口一番は桂まん我。この人、落語家になってまだ五年目らしいが、すでにしてしっかりした口調になっている。ネタは『寄合酒』。東京のと、ところどころ違うのが新鮮で面白い。
桂文我一席目は『青菜』。私のような東京生まれ東京育ちのものには、ときどき大阪弁はくどく感じられることがあるが、文我の大阪弁はさらっとしていて耳障りでなくていい。『寄合酒』と同じく東京のものとは、ところどころが違っている。植木屋さんがお屋敷で薦められる酒[柳影]は、東京では「これは、こちらで言うところの[なおし]ですな」というのが入るが、もちろんこれは無し。鯉の洗いに付いてきたワサビを「鯉のフンかと思った」なんていうのも初めて聞くクスグリで面白い。いかにも上方らしい笑いだと思う。また、東京では「青菜に鰹節をたっぷりかけてお持ちしなさい」と演るところを、「胡麻をかけてお持ちしなさい」と演る。これも食文化の違いらしい。柳影は井戸で冷やしてあるという演出。東京では、別に冷やしてあるわけではなく、植木屋さんが冷たいと言うと、「それは植木屋さんが暑い中で働いていたから、冷たく感じるんだ」となる。さて後半、植木屋さんが自分もやってみようと思う部分。東京は普通のいつもの酒を用意するが、こちらは生温い焼酎。東京では「鯉の洗いだ」と鰯の塩焼きを出すが、上方で「鯉の洗いだ」と出すのはオカラの炊いたもの。しかも3日前に作ったもので、酸っぱい臭いが漂う腐りかけのしろもの。一口食べて、「(食べられる)ギリギリやな」 東京の笑いではここまではエスカレートしない。このへんが上方の笑いはドギツイ、東京の笑いは粋な範囲を守るというところなのだろうか。それでも文我のは、これでも嫌味がないから、東京でも充分に受け入れられるだろう。
東京の迎撃隊一人目は、橘家円太郎。「文我さんの落語を見たいと、今、楽屋の方には東京の噺家がたくさん詰め掛けています。脇で見ていますと高座に座った姿がいいですなあ。信用金庫の貯金箱みたい。後頭部にシワがあって、十円玉を入れたくなる」 こらこら。マクラを振って入ったネタも強力だ。先代桂文楽で有名な『かんしゃく』。今では小三治が取り上げたのを筆頭にして、若手が次々と名乗りをあげはじめた。円太郎のも絶品。全篇主人公がかんしゃくを起こして怒鳴りまくる噺。ある会社の社長さんだろう。家に帰っても誰も迎えに来ない、庭の掃除が出来てない、帽子かけが曲がっている、蜘蛛の巣が張っている、座布団が出てこない、風呂が沸いていない、飯の仕度が出来てない・・・・・と小言を通り越してかんしゃくを破裂させる。今で言うところのキレてしまうというやつ。あまりの怒りに訥弁になったり、声がひっくり返ったり、それに加えて顔の表情も怒りの形相を作らなければならない。それでいて演じるものは、どこか冷静でいなければならないのだから、なかなかたいへんなネタである。円太郎はこれを見事にこなした。
桂文我二席目は『盆唄』。これは初めて聴く噺。大阪の恵比寿神社は商売繁盛を祈願する神社。「商売繁盛、儲けさせておくんなはれやー!」と願うのはいかにも大阪らしい。ところが大工の吉兵衛には子供がいない。子宝を授かりますようにとの祈願の帰り道、小さな女の子が迷子になっているのをみつけて、家に連れて帰る。どこの子供かわからないままに半年が過ぎ、お盆の子供の夜遊び[おんごく]に参加したこの子供が、他の子とは違う歌詞「♪玉江橋から天王寺が見える」と歌ったことから、子供の家がわかるという噺。いい噺だなあと、聴き込んでしまった。大阪の町の冬と夏が目に浮かぶようだ。
仲入り後は、東京第二の迎撃部隊、柳家喬太郎で『母恋くらげ』。タコ、イカ、アナゴ、ヒラメ、カレイなどを演じてみせる導入部、このへんは円丈や小ゑんが確立した表現方法を応用した感じなのだが、その可笑しさといったら絶品。客席から拍手が沸くが、「こんな芸で拍手はいりませーん」 「古典落語じゃなくてごめーん」 さらには「ここ(紀伊国屋ホール)の高座は、以前三遊亭円生も演っていたところー(笑い泣き)」と自虐的ギャグを挟んでの熱演。高波にさらわれた子クラゲを捜す母クラゲ「うちの子がいません」 「お盆の唄を歌えば見つかるかもしれない」 「なんで、今日しかわからないこと言うのー」 このへんのクスグリも喬太郎の頭のよさ。
その喬太郎のあとを受けた桂文我、「(今の喬太郎)不思議な噺でんな。大阪の人間が聴いても不思議なんですから、折り紙付きのおかしな噺」と、『月宮殿 星の都』(げっきゅうでんほしのみやこ)に入る。これも初めて聴く噺だったが、これこそ「けったいな」噺。釣りが好きな徳兵衛さんがうなぎを釣り上げ、それをタライに入れておく。このうなぎを捌こうと掴み上げると、うなぎは上へ上へと登っていき、天にまで登ってしまい、徳兵衛さんは天に放り出される。「もうこのへんで、付いてこられない人がいるでしょうが、クラゲに付いてきたんですから、ウナギにも付いてきてください」 ここからは、もう『地獄八系景亡者戯』の裏返しの世界。天に登った徳兵衛さんが雷さまのゴロ蔵に天を案内される噺。じゃがいもを揚げて売っている店があって、よく見てみるとこれはチップスターだったり、カラオケボックスで歌われているのは『さそり座の女』だったりする。東京に移しかえられなかっためずらしい上方落語だというのも納得。
円太郎、喬太郎の凄腕の迎撃隊に真っ向勝負を挑んだ文我。今回は引き分けかな?
July.26,2003 よく出来たブラック・コメディ
7月22日 劇団フーダニット
『死がいちばんの贈り物』 (タワーホール船堀 小ホール)
ミステリ劇を上演しつづけている今や貴重な存在、劇団フーダニット。今回は若竹七海書き下ろしのブラック・コメディ。前回の辻真先書き下ろし『ご霊前』が犯人当ての本格推理ドラマだったのに対して、こちらはよりドラマの要素が強い。
財閥の女性会長の別荘。そこで交霊会の準備が始まっている。1ヶ月前に自殺した会長の孫娘の霊を呼び寄せようというわけなのだが、この交霊会には陰謀が隠されていた。交霊会の最中に、死んだ孫娘が生き返ってきたと思わせて、心臓の弱い会長をショック死させようというものだ。交霊会に参加するのは会長、交霊術師以外に、専務、専務の妻、専務の秘書など。これにホームドクター、家政婦らが絡む。登場人物の総てが会長の死によって利益を得るという設定がなされている。そんなところに、突然死んだはずの孫娘が入ってくる。自殺は偽装だったのだ。孫娘と鉢合わせした専務は思わず灰皿で殴って殺してしまう。
ここまでがいわばイントロ部分。このあと、突然に出現した孫娘の死体をめぐってのドタバタ劇が続く。台本はとてもよくできている。死体をあっちに持って行ったり、こっちに持って行ったりで、動きの面白さがあるし、人の出入りも演劇的な楽しさが感じられる。思わず不謹慎とも思えるブラックな笑いがふんだんに出て来て面白い。それだけに役者さんもたいへんな演技力が要求される台本だ。コメディ演技というのは、かなり難しい。今回の公演で満足せずに、是非再演をして欲しい。せっかくいい台本を、この劇団ためのだけに書いてもらったのだから。
July.22,2003 『しじみ売り』を自分のものにした志の輔
7月13日 立川志の輔独演会 (日野市民会館)
思い出してみればちょうど一年前、初めて降り立った日野の駅から日野市民会館まで、柳家小三治を聴きに、長くて暑い坂を江戸半太くんと登っていたものだった。それが今年は妙に涼しい。上り坂もその分楽ではあるが、こんな日照不足が続くと米の不作が心配になってくる。電力不足なんて声も聞くが、冷夏にだけはなって欲しくないところ。
立川志の八『やかん』、頑張ってね。
立川志の輔、一席目。言葉は使い様だというマクラ。「『よれよれのコートだね』というよりも、『哀愁の漂うコートだね』と言った方が角が立たない。また、『派手なネクタイだね』と言うよりは、『複雑な色だな』と言った方が角が立たない。『AさんよりBさんがキレイだ』と言うりも『Aさんにも増してBさんはキレイだ』と言えば、Aさんは生き残ることができる。〜にも増して、という言い方ひとつなんですよ。ただし、これは褒めるときだけですよ。『Aさんにも増してBさんは貧乏だ』 これじゃあ、両者とも死んじゃうんですね」と、猿に似た未亡人(「♪ちょっと 振り向いて みただけの未亡人」というギャグを挟む)をヨイショする噺『猿後家』へ。あいかわらずマクラの使い方がうまい。
二席目は、昨年PARCOで演った『しじみ売り』。もうほとんど演る人がいなくなったこの噺を、志の輔は完全に自分のものにしたなという気がする。しじみ売りの少年が実に生き生きとしている。しじみを売りに来た少年が、「いいしじみだけ集まってくれと頼んで取ってきました。だから、みんな胸張ってるでしょ」と言うところや、次郎吉が金を払ってから、しじみは川に返してやれと言って少年が戻ってきて言う台詞、「しじみがね、『味噌汁の具にされると思ってたら、ここに逃がしてくれてうれしい』って、おじさんによろしくって言ってました」の言い様は、いかにも賢い子供という感じが出ていて、気持ちがいい。ラスト、鼠小僧が自首しに行く場面、PARCOでは雪を降らせて効果を上げたが、今回はそういう演出は無し。その分、鼠小僧の台詞が印象に残った。「俺のために(代官所へ)行くんじゃない。お天道様のためというわけでもない。俺が眠れるために行くのかも知れねえなあ」と呟いたところでは、思わず「志の輔!」と声をかけたくなってしまった。
July.20,2003 定刻遅れで始まった深夜寄席
6月28日 深夜寄席 (新宿末広亭)
定席夜の部は九時に終わるはずなのに、九時十分に末広亭の前まで行ったら、まだ夜の部が終わっていない。トリは誰が勤めているのかと思ったら、柳家小三治。こりゃあ、定刻に終わるわきゃないわ。コンビニで十分ほど時間を潰して戻ってくると、ちょうどハネたところ。ゾロゾロとたくさんの人が出てくる。どうやら大入りだったらしい。知り合いの姿を見つけ話かけると、二階まで開いた大入りだったそうだ。あとで深夜寄席があるというのを知っていての確信犯的長講だねと笑い合いながら別れて、私は深夜寄席を待つ列の最後尾に付く。
古今亭志ん太が高座に上がったのが定刻を十分押した、九時四十分。「まあ、以前は夜の部が九時半までありまして、深夜寄席は十時からだったんで、こちらは慣れているんですがね」 「亭主が弱く、嫁が強いという時代になってまいりまして、嫁が『おい!』、亭主が『はい』。『おい』、『はい』、『おい』、『はい』。おいはい(お位牌)って、仏壇に入っているようなもので・・・」と『熊の皮』に入った。志ん太は、歯切れのいい口調がいい。これからが楽しみ。
この会は二ツ目の噺家さんたちの勉強会なのだが、出てくる人たちがみんな、小三治が時間オーバーしたことをネタにして笑いを取る。柳家小太郎も「あれくらいで済んだんだから、まだいい方じゃないですかね」と平然としている。「おめえのところの師匠(柳家さん喬)だって長いだろうと言われそうですがね。うちの師匠、ある病院で『かけとり』を一時間十分演った。終わったら、おばあちゃんが『水ー!』って洗面所に急いで行った。長ければいいというもんでもありません。もう少しで人ひとり殺すところだった」 ネタは『鹿政談』。
五街道喜助は『粗忽長屋』。この不条理な噺、ポンポンと進めて行くと妙にとぼけた味わいの噺になる。喜助のも底から沸いてくるような可笑しさがあって面白い。
この日のトリは三遊亭歌彦。この『寝床』が絶品だった。義太夫を人に聴かせたくてしょうがない旦那、心ではバカにしている長屋の住人と、奉公人が生き生きと演じられていく。誰も来られないと言い訳をする茂三が自分だけは聴けない理由がないと明らかになってしまうと、「私ひとりが犠牲になればいいのですね。店に幸せが訪れるためには、犠牲者が必要です。私が人間の楯になりましょう」と、時事的なクスグリを入れる。一同が旦那の機嫌を取ろうと再び集まってくる。「それにしても旦那には困ったもんだね。九時終演というのが、九時二十分まで演ってる」
喜助さんとちょっと話があり、出口で簡単な会話を交わして別れ、都営新宿線のホームへ向う。そうしたら、夜の部を見た先ほどの知り合いがホームにいるではないか。どうやら食事をして来て、これから帰るところらしい。方向が同じだと言うので、地下鉄の車内で落語談義が始まってしまった。落語好きの会話は果てしなく続く。おっと、降りなきゃいけない駅まで来てしまったぞ。これはオーバーするわけにはいけねえ。
July.14,2003 春風亭柳昇トリビュート
6月21日 志の輔らくご21世紀は21日 (安田生命ホール)
開口一番、前座さんは立川志の八で『子ほめ』。頑張ってね。
立川志の輔、一席目。ここに来る前に平田オリザの芝居『ヤルタ会談』を観てきたという話から始まる。去年、平田オリザが柳家花緑のために書き下ろした落語を芝居として上演したものらしい。「本はよくできています。言葉の選び方も面白かった。でもこれ、花緑くん、どうやって落語にしたんだろう」 私も花緑の落語では聴いたのだけど、あくまで実験という感じでしか無かった気がする。
文化庁の調査で言葉の意味を間違って解釈している人が多いというがわかったという記事が新聞に載った。[流れにさおさす]は、流れにさからうのではなく、正しくは流れに乗るという意味が正しく、[役不足]は割り当てられた役が自分には大きすぎるのではなく、軽すぎてそれに満足できないという意味が正しい。志の輔「私も間違った解釈をしていました。師匠に『オレが死んだら、談志継ぐか?』と言われたら、『役不足でございます』と言うところだった」 「柳昇師匠の葬式の案内に、[葬儀一時から、告別式二時から]となっていまして、どう違うんだろうと思ったら、葬儀は身内のもの、告別式は知人、友人のものなんですね。こういうことも知らなかった」と、話は春風亭柳昇師匠の思い出に繋いでいった。
「優しい人でしたよ。素敵なおじいさま。館山連峰の高原のホテルで雲上寄席という落語会を十二年間演ってらした。私も一度、ゲストで出たことがありましてね、開演前に一緒にホテルのレストランで食事をしました。『空気きれいだね』とおっしゃるから、『(師匠がお住まいの)吉祥寺もきれいじゃないですか?』と言ったら、『きたないよ。でも吸わないわけにいかないからね、少しずつ吸ってるの』 ねっ、面白いんですよ、普段から落語そのままなの」
「昇太が柳昇師匠に『古典演ったら楽じゃないですか?』と言ったことがあるらしい。新作は自分で作らなきゃならないけれど、古典は憶えればとりあえずは成立する。そしたら『楽してると思われるからね・・・・・作り続けるよ・・・・・昇太、私に新作作ってくれない?』 フレンドリーな弟子との関係でしょ? 私が談志に『新作演ったらどうですか?』なんて訊いてごらんなさい。『なんでオレが新作演らなきゃいけねえんだ!』」
「柳昇師匠の噺というのは、柳昇師匠にしか出来ない噺ばかりなんですよ」と言いながら、聴いているうちに自然と憶えてしまったという春風亭柳昇・作の『日照権』に入る。口演しながら解説を入れていくところが面白い。「『与太山さん、与太山さん、起きてくださーい!』・・・・・与太山さんですよ。登場人物の名前に与太山ってつけるところからして凄いでしょ」 「『要するにその大きな建物の向こうを太陽が通るから日が当んなくなるんでしょ。だったら、太陽に真上に来てもらうようにしたら?』 『どうやって?』 『総評にお願いするんですよ』・・・・・当時は総評と言う大受けで、ドッと笑いが来るんですよ。『だって、総評は電車だって止めちゃうんですよ』」 魚屋が交渉に行ってミイラ取りがミイラになって帰ってきてしまうところまで。あとは憶えていないとのことで春風亭柳昇トリュビュート。
柳昇師匠は生涯に約百席の落語を作った。また、明治には三遊亭円朝も約百席の落語を作ったとのことで、志の輔の二席目は前々から演りたかったという円朝の『名人長二』。「円朝は無駄に長いの。『円朝全集』を出してきて『名人長二』を読んでみると七十ページあるの。数えてみたら八万四千字。まともに演ったら十四時間かかる。どうしようかと思ったんですが、そうだ粗筋を喋ればいいんだと気がついた。ただ、展開が凄すぎて何が何だかわからなくなる」と、突然に『名人長ニ』の『小田原宿』の部分から入った。一気に四十分かけて最後までダイジェストのようにして語り終える。私はこの噺を先月、『らくご℃ なかの祭』のリレー落語で聴いたばかり。ただでさえ入り組んだ話なのをダイジェストのように演られても、こちらの頭の中はこんがらかるばかり。喬太郎の『幸兵衛殺し』のすさまじさがまだまだ頭に残っているので、志の輔のこの短いヴァージョンは物足りない。一度最後まで演ってから、本来は序に当る『仏壇叩き』を二十分。悪くは無いのだが、前半に体力を使ってしまったのか、やや物足りない印象。
「『文七元結』 『芝浜』、いまでもさかんに演られる円朝の噺では人が死にません。ところが、円朝の噺の大半は、よく人が死ぬんです。どうやら明治のころは、人が殺されるという噺が好まれたらしいんですね。人が殺されるというのは非日常の出来事。心中、殺害、お裁き、それが面白いと思われていたらしい。それが戦争が起こったり、殺伐とした世の中になってきたりで、人が死ぬ噺は、だんだん廃れていったんでしょうね」と結んだ志の輔。ほのぼのとした新作を作り続けていた柳昇師匠が人気があったのも、こんなところに理由があるのかな。合掌。
July.13,2003 スピードで勝負、山陽新幹線!
6月15日 神田山陽独演会 (博品館)
前座もゲストも無く、神田山陽が三席演るという会。「(自分の会で)人が演っているというのが許せない」というだけあって、喋りたいことがたくさんあるといった様子の山陽だ。父の日だということもあり、自分の父の思い出話が始まる。「スーパーでピーマンをひと袋一円で売り出したことがあった。父とふたりでクルマで行って、ひとり五袋までというので、五袋ずつ十袋買いました。帰りの道で前を走っていたトラックが箱を落としていった。クルマから降りて拾ってみると中は大量のピーマン。これでピーマン一箱と十袋。父がポツリと『損したな、十円』」 山陽の父は北海道に旅に来る人を無料で家に泊めてあげたりする人だったという話から、「旅に出て人によくしてもらったりすると、いい気持ちになる」と繋げ、映画『男はつらいよ』に触れる。ここまででマクラ三十分。ここからいよいよ『坂本竜馬外伝・男はつらいよエピソード1』に入る。時は幕末。大工のクマさんが千葉周作道場に立派な離れを作って欲しいと頼まれる。クマさんは、道場の娘に惚れているから二つ返事で引き受ける。ところが、このお嬢さんには坂本竜馬という許婚がいることがわかる。離れは新婚さんの新居だったというわけだ。傷心のクマさん。そう、これは『男はつらいよ』のパロディーなのだ。妹の小梅に「旅に出るわ、修業の旅に。このままでいちゃあいけねえって気がするんでね」と去っていくクマさんに、『男はつらいよ』の失恋反省のテーマ(?)が被る。これを聴くのは二度目。『男はつらいよ』はあまり好きなシリーズでは無いのだが、レンタル・ビデオを借りて観てみようかなという気になる。とりあえず山陽が薦める『男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け』から。
すぐに二席目。自分に今、『ピノキオ』が押し寄せて来ているというマクラから、古典『中山安兵衛・高田馬場十番斬り』へ。大酒呑みの中山安兵衛が、騙し討ちにあった叔父の元に駆けつける有名な噺。いつもは、駆けつけたところまでで切るこのネタを、安兵衛が斬って斬って斬りまくる殺陣の場面を詳細に演ってくれた。熱演のあまり、動きの流れで自分の眼鏡を叩き落してしまうほど。うれしいねえ、こういうのはやはりスピード感のある講談にうってつけの題材。山陽は特に早口だから、こういうのを演らせると迫力がある。
仲入り休憩後の三席目。本牧亭最後の日に観に行って並んでいるところを、マスコミのインタビューに捕まり、「入門したいと思っています」と言ったがために、取材者が面白がって楽屋に連れて行ってくれて、でまかせ、冗談のようなことで講釈師になってしまったというエピソードを語りだし、「何遍も聴いたという人もいるでしょう。私より上手い人がいるかもしれない。でも、またこのネタが聴けたという喜びもあるかと思います」と、十八番ネタの『鼠小僧外伝。サンタクロースとの出遭い』へ。何度聴いても、スピード感のある序盤部分。楽しい中段。そしてしんみりした最後から、カタルシスを味わわせてくれる結末まで、よく練られた名作だ。この先、私はこのネタを何回聴くことができるだろうか。そのたびに私は喜びを感じるに違いない。
July.12,2003 この芝居のPA、どうにかならなかったのか?
6月8日 『ドント・トラスト・オーバー30』 (青山劇場)
ミュージカルはあまり好きな方ではないのだが、作・演出がケラリーノ・サンドロヴィッチ、音楽監督が鈴木慶一。しかもテーマがGSとくると、なんだか面白そうではないか。ぴあでチケットを取って行ってみることにした。ぴあではこちらの欲しい席は選べず、コンピューターが自動的に発券する。そのことには別に文句は無いのだが、今回は参った。前から10番目くらいで、距離としては申し分ない。位置は上手の壁際。中央で観るよりは、上手か下手の一番端で観るのが好きな方だから、普段だったら大満足の場所ではある。ところが今回に限って言えば、ここは最悪の位置だった。舞台の前の上手と下手に大きなスピーカーが大量に積み上げられている。このために私の座った位置からは、上手半分近くの舞台が切れてしまう。役者さんがこの位置に入ると、まったく演技が見えなくなってしまうのだ。
それだけのスピーカーが入った利点は音が良くなるということなのだろうが、このPAシステムは最悪だった。それほどの迫力が出たとは思えず、だいたいからして歌になると歌詞がほとんど聴き取れない。これは致命的な欠点だと言っていい。コンサートの場合はまだ歌詞が聴き取れなくても、そのミュージシャンの曲は知っていて行く場合が多いから、それでもなんとかなる。しかし、ミュージカルの場合、歌詞は大きな意味を持ってくる。歌詞が聴き取れないと芝居自体がわからなくなるということもあるだろう。さして重要なことを歌っているわけでも無かったとしても、ミュージカルで歌詞は芝居の一部であるはずだ。果して、あんな大きなスピーカーを置く必要性が本当にあったのだろうか? 『オケピ!』も3年前にはここで観たのだが、あのときは中央寄りで音も良く、歌詞もきれいに聴き取れた。あのときと同じPAなのだろうか? さて、問題は歌詞が聴き取れないということに留まらない。役者の台詞すら、よく聞き取れないのだ。観ていてイライラ感は増していくばかりだった。
曲は鈴木慶一だけあって、いい曲が並んでいる。ムーンライダーズの曲も多くその部分では楽しめたが、初めて聴く曲はやっぱり歌詞が聴き取れないと辛い。井上順らが歌う『プラマイ0』なんて面白い曲で、ハネて外に出てからも「♪プラマイ ゼロ プラマイ ゼロ 差し引きゼロさ・・・」と口ずさんでいたほど。この曲だけはこのリフレインが聴き取れた。
それで肝心の芝居の方なのだが、台詞でさえ聞き取り難い状態で苦痛を覚え、よく憶えていない。秋山菜津子がタイムスリップをしてしまい、それを追ってユースケ・サンタマリアもタイムスリップをするが、ふたりの着いた時代が違っていたために、ユースケ・サンタマリアが出遭ったのは、年を取った相手だったという話。そこに、バンドを組んでGS合戦に出場する話がからんでくるといった構成。1968年という設定だから、GSも衰退期に入っているはずだ。ロックのムーブメントが迫っている時代のGSの様子は、それなりに面白かった。
この日が千秋楽とあって、最後にケラリーノ・サンドロビッチと鈴木慶一がカーテン・コールで舞台に上がった。
くどいようだが、こんな席では二度と芝居を観たくない。私の座った席はS席に分類されて9500円だった。高額の入場料を取っているのだから、それなりの配慮をして欲しい。
後日、この芝居のサントラが発売され、それを購入して初めて歌詞がわかった。実は今、愛聴版になってしまっている(笑)。
July.7,2003 小朝らしい工夫がみられなかった初座長芝居
6月7日 『恋や恋 浮かれ死神』 (新宿コマ劇場)
春風亭小朝の初の座長公演。チケットを買おうかどうしようか迷っていたら、タダ券を人から貰った。渡りに船とはこの事か。タダ券だけあって、指定された席は最後列から二番目のかなり下手寄り。舞台の役者さんの顔は、この位置からではほとんど見えない。タダなんだもん、仕方ないか。
小野田勇・作、三木のり平が主役で上演された芝居を小朝で演ろうという企画。落語の『死神』と歌舞伎の『伽羅先代萩』をドッキングさせた脚本だから、話としてはあまり新鮮味は無い。
それにしても工夫が無い。古典落語を自分流のクスグリをふんだんに盛り込んで新しいものに仕立てている小朝なのだから、もっと根本的に脚本を直して欲しかった。これでは古すぎる。おそらく三木のり平が演ったのなら、これでのり平の味が出て面白いものになったのだろうが、小朝というキャラクターには合わないように思う。
落語の『死神』の呪文は「アジャラカモクレン ○○○ テケレッツノパー」だ。○の部分は演者によって変わるのだが、この伝統的な呪文が楽しいのに、この芝居では「テケレッツノパー」だけ残して、あとは捨ててしまっている。なぜ、こんなことをしたのだろうか。「テケレッツノパー」だけでは、なんとも中途半端な気になってしまうのは落語好きの自分だけなのだろうか?
二幕構成で、二幕目の頭で小朝は邦楽のKOASA連中と一緒に三味線ロックを披露してくれたのだが、これがプレスリー一辺倒のロックンロール。『監獄ロック』やら、『ロック・アラウンド・ザ・クロック』やらのいわゆる昔のロックンロール。どれもみーんなおんなじおんなじなのよ。もう少し新しいロックを入れてもいいんじゃないだろうか? そんな歳じゃないでしょ。三味線ロックなら国本武春の方が上。
ラスト、失恋をして[あの世]に戻っていく小朝。その台詞が「あばよー、娑婆よー!」と言うのだが、これは洒落のつもりなのだろうか? 洒落だとしたら随分と低レベルの洒落だとしか思えない。実際にお客さんは誰も笑わなかった。それにしてもラストが暗すぎる。そのまま幕が降りてきて、「えっ! これで終わりなの?」という感じだった。これでは楽しい芝居が観られたなあという気持ちで家路に着けないではないか。
もっとも、その後に人から聞いた話では、千秋楽に向ってかなりテコ入れがなされて大分良くなったという。まあ、初めてのことだから仕方ないのかもしれない。次回の公演を楽しみにしよう。
July.5,2003 長谷川伸が読みたい!
6月1日 サムライ日本の『瞼の母』 (横浜にぎわい座)
長谷川伸没後40年祭と銘打たれた、横浜にぎわい座のシリーズのひとつに行って来た。長谷川伸といえば、『瞼の母』や『一本刀土俵入』といった股旅ものの作家として有名だが、その著作は今ではほとんど手に入らないといっていい。古本屋で『長谷川伸全集』を見かけたことがあったが、高価で買えなかった。
この日の第一部は演芸会。第二部の芝居に出てくる人たちを中心に演芸を楽しませてくれた。まずは、3人組の女性ユニットだるま食堂のコント。いつもの黒いドレスを着たソウルシスターズねた。映画『男と女』のテーマや、『サンバ・デ・クイズ』は以前にも観たが、ネタ自体はよく考えるとそれほど面白いとは思えないのだが、圧倒的なパワーで持っていく技はいつもどおり。なぜかグイグイと引きこまれてしまうのだ。この日の『51音のマンボ』というネタは初めて観たが、これも結構寒い。でもなぜか引き込まれてしまうんだよなあ。やっぱり3人のキャラクターが強烈なんだろう。
サムライ日本のチャンバラコント。私らの世代の子供時代は、毎日チャンバラごっこをやって遊んでいたもので、そのときの楽しさがこの人たちのコントを観ていると甦ってくる。おそらくチャンバラコントを演りながら、この人たちも楽しんでいるに違いないという気がしてくるのだ。リーダーの花村多賀至が侍姿で右目に眼帯をして登場すると、あとのふたりがチャチャを入れる。「あっ、ものもらい!」 「きのう、飲みすぎたんだ」 花村が「芝居っけの無い奴らだなあ。お客さんは、この格好をして出てきたらすぐに何の役かわかったぞ、柳生十兵衛じゃないか!」と返すと、「柳生十兵衛が眼帯してるのは左だよ」 動揺した表情をしてみせたあと、「お前らが気がつくだろうと思って、わざとこっちに眼帯してきたの!」と、眼帯を左に移すと、「いや、違うわ、やっぱり右だ」 「・・・・・いいの! 右でも左でも、どっちでもいいの!」 なんだか、昔、こんなようなことを近所の子供たちと私も演っていたような気がする。
江戸あやつり人形の上條充と福田久美子。あやつり人形に『かっぽれ』を踊らせたり、酔っぱらいを演じさせたり、まるで生きているかのようなお人形さんの動きに驚きを覚える。この分野ではニューマリオネットしか知らなかったが、世の中にはまだまだ達人がいるようだ。もっとも感心したのが『獅子舞』。獅子舞の中に入っているふたりの人間まできちんと作られていて、そのふたりがチラリとのぞく瞬間を加えるあたりが、芸の細かいところ。
次の石黒サンペイという人が変わった人だった。[お笑いパフォーマンス]となっているが、マジックと曲芸とパントマイムが笑いを伴ってゴチャマゼに出てくるといった芸だ。「鳩を出します!」と言って何も入っていない袋から鳩を出してみせたが、それはオモチャの鳩。失笑するお客さんに「それでは生きている鳩を出します! 大きな鳩です。2m近くあります」と物陰で自分が鳩の格好に着替えてみせる。またまた笑いが起こったところで、今度は本物の鳩をハンカチから出してみせるのだから、この人、上手いのか下手なのかわからない。おそらく、上手いんだろうね。いや、それ以上にお客さんを楽しませるのが上手いんだな。最後はこの人の得意としている芸らしい、エスカレーター。パントマイムの人たちがよく演る芸で、衝立を立てて、その後ろでエスカレーターの上り下り。上がるのも下がるのも自由自在。パチパチパチ。
どこが長谷川伸なのかというパフォーマンスが続いたところで、ようやく宝井琴柳の講談『夜もすがら検校』。長谷川伸の原作は題名だけは知っていたが、読んだこともないし、芝居になったのも観た事がない。夜もすがら検校と呼ばれた琵琶の名手が、下男を連れて京から江戸の大名の元へ行き演奏した帰り道、下男に裏切られて金品を奪われて置き去りにされてしまう。そこを助けてくれたのが、夜逃げの途中の若者。ご先祖様の位牌が入っている仏壇だけを担いでいる。寒さの中、この若者は仏壇を炉に入れて暖を取らせてくれる。のちに、京にこの若者が訪ねて来ると・・・。ストーリー・テラー長谷川伸らしい物語だった。
仲入りを挟んで、第二部芝居『瞼の母』。サムライ日本が演る『瞼の母』なんて、どうなることかと思ったら、これがきっちりと真面目に演っている。ときどきギャグが挟まるものの、どうしてどうしてキッチリと演ってみせるから、芝居心はあるようだ。番場の忠太郎を花村多賀至が演り、忠太郎の母水熊のおはまと、おはまの娘であり忠太郎の妹でもあるお登世は、あやつり人形。上條充はあやつり人形をあやつるだけの人かと思ったら、こちらもなかなかの役者ぶり。人形をあやつりながら、おはまの台詞を見事に喋る。水熊の店での忠太郎とおはまの対面場面は、見事と言うしかない。ラストの立ち回り。安田記念の当日だったこともあり、忠太郎を取り囲んだヤクザが「競馬はどうだった!」 「負けちまったい!」と叫ぶと、見事な殺陣を見せてくれた。
長谷川伸の本が読みたいものだ。どこかの出版社で文庫本で全集を出してくれるところは無いだろうか?