December.26,2005 ジンジャエール

12月23日 『12人の優しい日本人』 (PARCO劇場)

        PARCO劇場の舞台を、奥行きいっぱい大きくとった、陪審員の会議室のセットが組まれている。どうしても天井も高くなっているから、会議室というよりも大広間という印象がある。三谷幸喜自身による開演前の注意アナウンスでもあるかなあと期待していたら、それは一切なし。

        東京サンシャインボーイズ版は観ていないが、映画化されたものは観ているのでストーリーは知っている。『12人の怒れる男』を下敷きにして、日本にも陪審員制度が導入されたらとい仮定での法廷劇だ。もちろん三谷幸喜が書くだけあって、笑いの要素がふんだんに盛り込まれている。時事ネタとして朝青龍やら、愛知万博のマンモスやら、姉歯秀次やらがクスグリのネタとして使われているが、大筋は映画で観たのと同じ。それでも、役者が変わると印象も大きく変わってくる。

        舞台奥に扉があって、そこから12人の出演者が入ってくると幕開きだ。なにしろ2時間の間、役者は全員舞台に出ずっぱりになるから、キツイ舞台だろう。気を抜くことができずに常に演技をしていなければならない。しかも全編、誰かが叫んだりしているから観ている側も疲れるが、役者さんたちはその比ではないだろう。場の中心にいる人以外も何かと細かい演技をしている。1回しか観られないのが悔しい。何回も観られるなら、ひとりひとりの役者さんの動きを追いかけて観たいくらい。

        この芝居を観ていて思い出したのが、立川志の輔がよくやるマクラで、東大出の頭のいい人間ばかりが集る会議というものは、間違った方向に行ってしまう可能性があるという話。そんな中、バカがひとり混じっていると「そうだよな」 「そうだよな」の中に「わからない」という人間が出てきて、「ひょっとしたら、そうじゃないんじゃないか」という意見が出てきて、いい方向に向ったりするということ。全員が無罪だと思ってたことが、ひとりだけ、ひょっとして有罪の可能性もあるのではないかと言い出したために、話し合ううちに、有罪だとする人間が大多数を占めてしまう。有罪だと態度を覆した人たちは論理的に物事を考えていくと有罪になってしまう。ところが今度は逆に、論理的に説明は出来ないけれども感情からしてどうしても無罪だと主張する人間がふたり残ってしまう。そうすると、今まで有罪側に回っていた男(江口洋介)が反旗を翻して無罪側につく。芝居が始まった当初は、この陪審にさっぱり興味がない立場をとっていて、マンガ本などを読んでいるのだが、この変身ぶりが面白い。

        『オケピ!』のときにいい加減な人間というタイプを振り当てられていた小日向文世が今度は一転、理論家肌の紳士を演じるという配役の妙も面白い。12人の大多数が論理が苦手な中、前半は小日向、後半は江口が推理を引っ張っていく。その構成の見事さもこの芝居の醍醐味に違いない。

        帰って、もちろんピザとジンジャエール(笑)。


December.18,2005 いろんな落語があっていいんだ

12月3日 柳家権太楼独演会 (横浜にぎわい座)

        開口一番は柳家ごん坊『たらちね』。頑張ってね。

        「今年は落語ブームの年だったそうで、CD売り場の落語コーナーには、『俺の話を聴け』なんて書いてありまして、八代目桂文楽の『厩火事』なんかが並んでいる。厩という字が読めないんですね。厠と間違えやすい。その上、火事を家事と勘違いしているものだから、『便所掃除の噺じゃないですかね』」 柳家右太楼『幇間腹』。これだって[たいこばら]と読める人って少ないだろうなあ。碌な遊びを考えない若旦那のあれこれを愚痴ってみせる一八。あの若旦那のお座敷には上がりたくないと思っているところに、ふたりだけで会いたいとのお呼びだ。お旦を選べないのが幇間の辛いところ。襖の前まで行って、それまでの沈んだ表情から一転、「勝負!」と叫んで襖を開けるところが潔い。『お見立て』の喜瀬川花魁に爪の皮でも煎じて飲ませたいね。

        柳家権太楼一席目。「盛岡にラジオの公開録音に行ったのよ。2000人の大ホールにドワッといるんですよ、田舎のじじばばが! 最初が、のいるこいるの漫才。これは受けますよ、いつもながら。次に出たのがね、ケーシー高峰。黒板に黒板にオッパイの絵を描いて、1時間もエロ話。これ、放送できないですよ。オッパイのここを揉むとどうなるかなんて話に、ジジババが、一斉にギャハハハハと笑い転げてるの! そのあとが私の『短命』。『短命』なんてね、想像力で笑わせる艶笑噺でしょ。ケーシー高峰の露骨なエロ話のあとだもの、2000人がシーン。それをね、明日あたり放送するらしいの。聴かないように!」と、『死神』へ。耐震強度偽装事件を例に出して、「贅沢のために、自分の心までもが金で動く世の中」と振っておいて、クライマックスの布団の180度回転の場面。命を助けてくれたらお金を出すという家族。その額がどんどん上がっていく。「あたしだってねえ、お金欲しいんですよ。でもどうすることもできねえ」 「どうかお知恵を貸してください」 「・・・・・知恵?(顔をパンパンと両手で叩く)、腕っぷしの強い若い衆を四ったり貸してくれませんか」 こういう自然な流れがさすがに権太楼は上手い。さらには、オチの部分。「助けてくれよ、死神さん。ねえ、しーちゃん」 「誰がしーちゃんだ。しーちゃんなんて気安く呼ぶんじゃない」と言いながらも、別の蝋燭に移し変えさせてあげるが消えてしまう。ところが男は生きている。不思議がる男に死神は、「鏡を見てみろ。今度はおめえが、枕元に座るんだ」

        仲入りがあって柳家権太郎二席目。『死神』も、これから演ります『文七元結』も三遊亭円朝・作といわれていますがね、『死神』はヨーロッパに原典があるらしい。開国して、いろんな物資だけじゃなく、いろんな国の話が入ってきた。それを当時の噺家が聞いてきて、翌日にはもう作り直して高座にかけてたんですね。本来、落語ってそういうもんなんですよ。今、そういうことが出来る噺家がいるかといいますとね・・・・・いますね。喬太郎ってやつがね。それとね、それをもっとメチャクチャにしちゃったのが白鳥。このふたりはね、観てた方が面白い。落語の基本はそこですよ。観終わってね、『面白かったね』 『くだらなかったね』って思えばいいの。『死神』の主眼は何かなんて、そんなのはどうでもいいの」と言いながら、圧倒的な『文七元結』に入る。ううっ、泣いてしまった。『週刊文春』の連載で椎名誠が、志ん朝の『文七元結』のCDを聴くたびに泣いてしまうと書いていたことを思い出し、そわそわと帰宅してお茶を一杯飲んで気を落ち着けて志ん朝版のビデオを見直す。志ん朝の『文七元結』は綺麗だ。品がある。色気がある。感情の発散の仕方をぎりぎりの線で押さえてある。これは宝物のような絶品の『文七元結』だろう。それに対して権太楼のはゴツゴツしている分、ダイナミックな『文七元結』だった。夫婦喧嘩のやりとりや、長兵衛が文七に50両を渡すところの凄みは芝居的ともいえる。「俺だってな、おめえに50両あげなくちゃならない。俺は何も悪いことしちゃいねえんだぜ」と搾りだすような台詞は、そのあとに50両の入った包みを文七に投げつけるという行為の裏づけのようなものになる。

        今年も年の瀬に、いい『文七元結』を聴く事ができた。あとは少なくとも『芝浜』だけは聴きたい。喬太郎や白鳥の面白新作落語も大好きだけど、やっぱり、こういうじっくり聴かせる噺もいいんだよなあ。


December.9,2005 夕日が沈む・・・

11月27日 BIG FACE
        『笑う女。笑われる男6 ラストソングは、私と・・・。』 (シアターX)

        少し早めの年末の厨房大掃除を終えて、家を出て両国へ歩く。本当に寒くなってきたなあ。コートに手を突っ込んで隅田川ぞいを川を眺めながら歩いて、両国橋を渡る。シアターXの隣にあるデニーズで昼食。店内は思いのほか混雑していて、私の注文したハンバーグ、カキフライのセットが届くのが遅い。急いでたいらげて、開演時間ギリギリで会場へ飛び込む。

        筒井康隆の原作を演劇化したシリーズ『筒井ワールド』から始まったこの劇団、笑いの要素が多いので、いつも楽しみなのだ。だが、今回はいささか、いつものペースではない。というのも、今回のテーマは葬式。ある劇団の演出家が公演直前に倒れ、そのまま他界してしまう。残された劇団員は、公演に向けて稽古をしたいと申し入れるが、製作者サイドは公演中止を決定する。当人の遺書により、葬式は行わず、密葬にふされ、遺骨は海へ散骨されることになる。それで収まらないのは、劇団員。劇団葬という形で、公演をする予定であった劇場を使い、芝居と歌、踊りで、故人を偲ぶことになる・・・。それに、残された家族、葬式社の人間の人間模様などがからんでくる。

        テーマがテーマだけに、いつものような笑いの多い芝居ではない。どこかしんみりとした気分になってしまった。劇場を出て、また両国橋を渡って帰途につく。いずれおとずれるであろう、両親の葬式のこと、そして私が死んだら・・・・・。そんなことを考えて両国橋を通過中に夕日と遭遇した。




        途端に死のことなど、きれいさっぱり忘れ、沈み行く太陽をボンヤリと眺めていた。私の人生もいつの間にか、こうやって知らず知らずのうちに沈んで行くのだろうか?


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