December.15,2004 歯を抜く
「この歯、やっぱり抜きましょう」って、マサルだ。実は私とマサルとの間には3年前から、「治療させてください」 「嫌だ」とやりあっていた歯がある。右上の奥から3番目の歯だ。何回も虫歯になって、削りに削って、もうほとんど根元しか残っていない。擬歯を作って接着しようとしたのだが、歯の根が弱っていて接着が効かなかった。かくなる上は、左右の歯からブリッジをするしかないのだが、そのためには、この歯を抜かなければならない。「そろそろ、覚悟を決めてください。このままにしておくと歯並びがガダガタになってしまいます」 こう言われて、さすがに私も覚悟することにした。
以前、他の歯医者で歯を抜いたことがある。その時の記憶が蘇ってくる。麻酔はしてくれたのだが、ペンチのようなものでベキッと抜かれたのを思い出す。その感覚の嫌さがトラウマのようになっているのだ。それ以来、歯を抜かれるというのは恐怖感しかない。歯を抜かれる嫌悪感を味わうくらいなら、そのままでいいと思っていた。ただ、今のままでは何の役にもたっていない磨耗した歯を残しておいても意味は無いということも理解できる。しかも放っておいたら、ますます抜き差しならぬ事態ことになるというのも考えられる。それで、抜いてもらうことにしたのだ。
マサルは、歯石を取ることに命を賭けているのではないかと思うことがある。どうしても毎日の歯磨きぐらいでは、歯石は付いてしまう。マサルの治療は、この歯石を取ることから始まる。入念に歯石を取ってから、一週間は歯茎が落ち着くまで様子をみる。そのあとに、問題になっている歯を抜こうというのである。歯石を取ったあとの一週間後の午後、覚悟を決めてマサルのところに行った。
マサルは、これから施す治療を患者にこと細かく説明しないと治療に入らない。その姿勢は立派なのだが、その説明がどうも具体的すぎて、患者に「痛いだろうなあ」と思わせるところがある。このときのマサルの顔は本当に真剣な顔をしている。これが不安を掻き立てるのだ。マサルは歯科医のプロ。しかも、超一流の腕前を持っているのだから心配することは無いのだが。
マサル自慢の無痛麻酔が施されていく。最初に微かなチクッとした痛みがあるが、そのあとはほとんど痛みを感じない。極めて細い針で、時間をかけて少しずつ麻酔薬を注入するらしい。麻酔はして欲しいが、その麻酔注射自体が痛いという患者の悩みも、これで解消してくれている。麻酔が効くまで、他の患者さんの治療を続けるマサル。この日は患者さんが多く、マサルも忙しそうだった。「それじゃあ、抜きますね」 マサルが戻ってきて、先の尖った器具を口の中に入れる。しばらく何やら器具を動かしいてたが、「はい、ゆすいでください」との声。紙コップの水で口の中をゆすぐと血が混じっていた。「はい、抜けましたよ」 びっくりした。まったく抜いた事に気がつかなかった。そのくらい抜かれたという感覚がない。
「どうでした? 抜いたの気がつかなかったでしょ」 「ええ、まったく感覚がありませんでした」 以前に他の歯医者で強引に抜かれた体験談をすると、「歯を抜くのって、コツがあるんですよ」と、さっきの治療説明のときとはうって変わった笑い顔で答えてくれた。「明日、一度、消毒に来てください」と言われて、また翌日にマサルに会いに行った。「いいですね。もう傷口が塞がりだしている」とうれしそうに話すマサルは、まるで日本のフィギュア・スケーターがいい結果を出したときのような顔をしていた。やっぱりマサルは名医だ。