バックナンバー1、如来部

1回目 お釈迦様

お釈迦様は、正しくは「釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)」と言います。「釈迦」は「釈迦族」のことです。「牟尼(むに)」は「聖者」のことです。「釈迦」も「牟尼」もインドの言葉を音写しただけですので、字自体には意味はありません。
「如来(にょらい)」とは、「タターギャター」というインドの言葉を漢訳したものです。如来は覚りの中でも最高位にあたります。覚りの段階は、「声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)、如来」とありますが、その最高位が如来なのです。最高の覚りですから、すでに一切の欲望を超越しています。何も執着するものはありません。ですから、如来のお姿を表したもの―仏像や仏画―は、一切の欲望を超越し、何も執着がないことを表現するため、大変あっさりしております。
これは、お釈迦様に限らず、阿弥陀如来も薬師如来もそうです。○○如来という場合は、大日如来を除いて(大日如来は派手です。その理由は別の機会にお話いたします)、すべて質素なお姿をしております。(下図参照。) 如来とつく仏様は、皆似たようなお姿なのです。
では、どこで見分けるのか・・・・。それは、手の形で見分けるのです。その形を「印(いん)」と言います。印は、手で特殊な形を作り、ある意味を表しています。その形が如来や菩薩によって異なるので、それでその仏像や仏画が、どんな如来や菩薩なのかを見分けることができるのです。
下の図をご覧下さい。図1の手の形わかりますか?。ちょっと変わった格好をしているでしょ。これは、「転法輪印(てんぽうりんいん)」と言います。「大切な教えを説きますよ、説いていますよ」という意味を表しています。この印は、お釈迦様の像のみに現れています。(もちろん例外はあります。) ですから、この「転法輪印」をしていたら、それは釈迦如来である、と思ってください。


                   
   図1 転法輪印        図2 施無畏印       図3 施無畏印         図4涅槃図(部分)

図2、3の場合はどうでしょうか。二つとも同じ印をしていますね。ここで注目なのは、右手です。これは「施無畏印(せむいいん)」と言われる印です。「施無畏」とは「相手におそれ、恐怖を与えない」ということを意味しています。また同時に「安心を与える」と言うことも現しております。
この印は、お釈迦様以外でも、阿弥陀様や薬師如来、諸菩薩などにも見られます。ならば、見分けがつかないじゃないか、と思われるでしょう。ところが、左手が違うんです。
お釈迦様の場合、左手はすっと自然に延べています。ちょっと見難いかも知れませんが、よーく見て下さい。左手がほぼ真っ直ぐ自然に足の上に置かれているでしょ。
阿弥陀様の場合、左手は親指と人差し指で輪を作っています。薬師如来の場合は、左手に薬壷を載せております。(詳しくはそれぞれの仏様の項でお話いたします。)
おわかり頂けたでしょうか。お釈迦様の場合、「転法輪印」をしている、「施無畏印をしていて、左手は真っ直ぐ延べている。何も持っていない。」と言うのが特徴なのです。これを知っていれば、お釈迦様の姿は見分けられますね。この他に、図4のような涅槃図(ねはんず)はお釈迦様にしかありませんし、また、ガリガリに痩せた苦行像もお釈迦様にしかありません。
ちなみに、涅槃図は、お釈迦様が大涅槃に入られる(入滅・・・にゅうめつ・・・とも言います。一般人の死ですね。)時の様子を現しています。北に頭を向け、右を下にして横たわった姿で描かれたり、像が造られたりします。(なお、北枕は不吉、という迷信はここから生まれました。しかし、お釈迦様はいつも北枕で寝ていたそうですし、右を下にして横になられたそうです。健康のためにいいんですよ。)これで、お釈迦様の像は見分けられますね。合掌



2回目 阿弥陀様

阿弥陀様は、正しくは「阿弥陀如来(あみだにょらい)」と言います。これは、インドの古い言葉で、「無量」と言う意味の「アミタ」を音写したものです。つまり、阿弥陀如来は「無量なる如来」と言う意味です。ですから、「阿弥陀」という文字自体の意味は関係ありません。これは当て字ですから。
さて、阿弥陀如来は「無量なる如来」です。では、何が無量なのでしょうか・・・・。
それは、「智慧の光」が無量であり、「寿命」が無量なのです。
阿弥陀様には、二つの性格があります。言語で言えば、「アミターバ」であり、「アミターユス」となります。「アミターバ」は「無量の光」と言う意味です。「アミターユス」は「無量の寿命」と言う意味です。この二つを兼ね備えたのが阿弥陀如来と言う如来なのです。ですから、阿弥陀さんには、「人々を導くための無量の智慧の光」があり、阿弥陀如来そのものは「無量の命、寿命を持っている」のです。つまり、阿弥陀様は永遠に、その身体が存在する仏様なのです。
では、その阿弥陀様はいったいどこにいるのでしょうか・・・・・。
阿弥陀様と言えば、すぐに思いつくのが「極楽浄土」ではないでしょうか。極楽浄土、或いは、西方浄土とも言いますね。その極楽浄土は、この地(この我々が存在している世界は、お釈迦様の娑婆世界−しゃばせかい−と言われています。)より、西の方へ十億万土を超えたところ(つまりは人が行き着けない遥か宇宙彼方ということですね。)に存在しつづけているのです。存在しているのですから、「ない」のではありません。ただ、歩いてや飛行機に乗って行けるところではないのです。そこに行くには、善人にならなければなりません。あるいは、阿弥陀様をよ〜くお参りし、どんな辛いことがあっても「すべては阿弥陀様の計らいごと」と信じて、耐え忍んで生きていけば、阿弥陀様の極楽へ転生することができます。ただ、「ナンマンダブ〜」と唱えていればいい、というものではありません。結構厳しいものがあります。
いずれにしても、阿弥陀様は極楽浄土の仏様であり、今も説法をし続けているのです。阿弥陀様は、そういう仏様なのです。
日本の宗派では、浄土宗・浄土真宗(西も東もともども)などのご本尊として礼拝されています。なお、真言宗寺院や天台宗寺院でも本尊として祀っているお寺があります。それは、どちらの宗派も密教だからです。密教では、どの仏様を祀らなきゃいけない、という決まりがないのです。縁のある仏様を本尊とすればいい、というのが密教だからです。余談でしたが、ご参考までに・・・・。
阿弥陀様の像ですが、多くは下の図のように彫られたり、描かれたりしています。図1は、座っている場合の像や画に最も多いタイプで、阿弥陀定印(あみだじょういん)という印を結んでいます。この姿は、禅定に入っている姿を表したものです。その印は、親指と人差し指をくっつけて残りの三指を真っ直ぐ延べ、左手を下にして重ね合わせるものです。図1aの印図を参考にしてください。

図1 阿弥陀定印

図2 施無畏印

図3 施無畏印
図1a 阿弥陀定印
上品上生(じょうぼんじょうしょう)
図2a施無畏印
上品下生(じょうぼんげしょう)
図4 説法印
上品中生(じょうぼんちゅうしょう)
図2、3の場合は、「施無畏印(せむいいん)」と言われる印を結んでいる姿です。前回、お釈迦様の話の中にも出てきた印ですね。お忘れになった方は、バックナンバーをご覧下さい。阿弥陀様の場合、この印でも、親指と人差し指をくっつけて輪を作っています。お釈迦様は輪を作ってはいませんでしたね。ここに、阿弥陀様とお釈迦様の大きな違いがあります。
もっと詳しくお話しますと、輪作っている指が異なる阿弥陀様の像や画もあります。親指と中指、親指と薬指で輪を作っているのです。で、その組み合わせによって、印に特別の名前がついています。
話が専門的になり、ちょっと難しくなりますが、ま、参考までに読んでください。図1aのように右手の親指と人差し指で輪を作り、重ね合わせる場合は、阿弥陀定印という名のほかに「上品(じょうひん−じゃなく、じょうぼんです。上品−じょうひん−の語源でもあります)上生(じょうしょう)」という名前があります。
こういう名前の場合、右手が「品(ひん)」と呼ばれ、左手が「生(しょう)」と呼ばれます。「品」は阿弥陀様の状態を表し、「生」は我々衆生の信心を表します。
で、右手の場合、親指と人差し指をあわせて輪を作ると「上品」になります。親指と中指の場合は「中品(ちゅうぼん)」、親指と薬指の場合は「下品(げぼん、です。げひん、ではありません。ちなみに下品−げひん−の語源です)」といいます。
意味は、阿弥陀様の心がどこに向っているか、を表しています。上品の場合は瞑想中なので仏界へ、下品の場合は我々衆生の方へ、中品の場合はその中間、ということです。
次に左手は、手のひらを上に向けているときは「上生(じょうしょう)」、手のひらを胸の前に置き、正面を向けている場合は「中生(ちゅうしょう)」、手のひらを下向きにしている場合は「下生(げしょう)」と言います。(親指とどの指を合わせるかは、右手に準じます。)
意味は、我々衆生の信心を表しています。「上生」の場合は衆生も瞑想中ということで、信心は最高の状態です。「下生」の場合は衆生の気持ちはすさんでいます。「中生」の場合は衆生は「法を聞こう」という気持ちになっています。ですから、図4の印は、中品中生ですが、説法印とも呼ばれているのです。
こうしたことを考慮して図を見てみましょう。
図1の場合は、阿弥陀様・衆生ともに禅定の中に入った状態を意味しています。覚りの最高位を表しているのです。図2・3の場合は、「上品下生」ですから、「信心をなかなか持たない衆生をも仏界へと導きましょう。」という気持ちを表しているのです。衆生においては覚りの段階は低いことを表しています。しかし、阿弥陀様の導きは極楽へ、という意味なのです。
図4の場合は、衆生が教えを聞く気持ちになっているので、それにあわせた教えを説きましょう、という意味を表しています。しかも、上品ですから、最高の教えを説いているのです。
こうしてみてみると、同じ阿弥陀様のお姿でも、手の形や位置が変わっただけで、その像や画の表現している内容が変わってくるのですから、奥が深いですよね。
なお、阿弥陀さんの場合、いままでお話した以外にも、来迎図(らいごうず−臨終の時、極楽から阿弥陀様が菩薩や天人を引き連れお迎えに来てくれる、という瞬間を表した図)や山越え図(下図参照)もあります。また、阿弥陀如来単独で祀られたり、描かれたりすることもありますが、多くは脇に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ−観音様のこと)と勢至菩薩(せいしぼさつ)を伴って、三尊一対で祀らる場合が多いです。
そう言えば、前回お釈迦様の脇の菩薩を紹介し忘れました。お釈迦様の場合は、文殊菩薩と普賢菩薩が伴います。で、釈迦三尊(しゃかさんぞん)となるのですね。
おわかり頂けたでしょうか。これで阿弥陀如来の像や画が見分けられますね。次回は、薬師如来についてお話しいたします。合掌。

山越え阿弥陀三尊
向って右、蓮台を持っているのが観世音菩薩。向って左、合掌しているのが勢至菩薩。


3回目 お薬師様

薬師如来様は、仏教が日本に入ってきた当初から、信仰を集めた仏様です。特に、奈良時代や平安時代初期に造られたお寺のご本尊として祀られていおることが多いようです。薬師如来が本尊のお寺は、歴史が古いところが多いのです。高野山の金堂のご本尊も薬師如来です。
薬師如来は、釈迦如来や阿弥陀如来のように、インドの言葉を音写したものではなく、翻訳した名前がついています。元々の名前は、発音が難しいので省略いたしますが、薬師如来という名前のほかに、「大医王仏」とか「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」などとも称されます。「瑠璃光」というのは、薬師如来の仏国土−つまりは浄土−を示しています。薬師如来は、瑠璃光浄土という名の浄土を持っているんですね。

如来は、それぞれ浄土を持っています。有名なところでは、阿弥陀如来の「極楽浄土」です。これは、前回にもお話しましたが、遥か西方にあります。つまりは、西の浄土ですね。
釈迦如来は「娑婆浄土」を持っています。現在、我々が住んでいる地球がそうです。浄土というには、大変汚れていまして、残念なのですが、本来は美しい世界なんですよ。汚しているのは人間ですからね。ま、それはいいとしまして、この娑婆浄土−地球−は、北にあります。宇宙の中の北にあるんですね。
で、薬師如来の浄土はというと、これは「瑠璃光浄土」といい、東にあります。東の浄土なんですね。
ちなみに、中心は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ−いわゆる大日如来ですが、正確には多少異なります。詳しくは次回に。)の蓮華蔵世界(華厳浄土)です。南方についても、いずれまたお話しいたします。あまり知られていない如来ですので。
話がそれましたが、如来にはこのようにそれぞれ浄土−仏国土−があるのです。薬師如来は、東の瑠璃光浄土というわけです。ここはどんなところかというと、まず、病がありません。身体的な障害などもありません。皆健康で、皆平等で、身体的差別はないのです。

薬師如来の信仰が広まったのは、その働き、御誓願によるものでしょう。昔の人々は、病気に随分苦しんでいました。疫病が流行れば、死を待つしかありません。また、障害者として生まれれば、謂れのない差別を受ける運命にありました。(現代でも不当な差別はありますが・・・。)。その救いにあたったのが、薬師如来です。疫病の流行を抑えるため、病気の平癒のため、身体の健全のため、身体障害から受ける差別の苦しみから救われるため、人々は薬師如来に祈ったのです。現代でも、原因不明の病に苦しむ方や健康を祈る方たちの信仰を集めていますね。
薬師如来は、病を無くし、病気による差別を無くし、身体的障害を無くし、また、その差別を無くすために、その力を発揮しているのです。それが薬師如来です。

さて、そのお姿ですが、皆さんよくご存知でしょう。そう思いまして、写真を用意していませんでした(いや、単なる手抜きだろう、という突っ込みはご勘弁を・・・。)。しかし、写真の掲載がない、というのも寂しいので、一応掲載いたします。下をご覧下さい。

              

上の図は、両方とも同じなのですが、薬師如来は、このパターンしかない、と言ってもいいくらいなので、この図を掲載しておきました。
特徴は、ハッキリしています。左手に薬壷を持っています。形状は、像によって多少異なります。本当に壷を持っている場合もありますし、銅製でふたがついている壷状のものを持っている場合もありますし、上の図のように饅頭型の入れ物を持っている場合もあります。しかし、いずれにしても、左手に必ず薬入れを持っているのです。これがないと薬師如来とはいえないでしょう。その薬壷が、薬師如来の象徴なのですから。
右手は、多くの場合、図のように施無畏(せむい)印をしています。たいていの場合、薬指を少々曲げております。或いは、薬指と親指で輪を作っています。薬師如来ですから、薬指にも特徴を示してあるんですね。
薬師如来は、先程も言いましたが、他の姿は、まずありません。多少異なったとしても、必ず薬壷は持っています。ですから、見間違うことはないでしょう。最も見分けやすい如来ですね。

また、多くの場合、薬師如来は、日光菩薩(にっこうぼさつ)・月光菩薩(がっこうぼさつ)と共に祀られています。これで、薬師三尊像と呼ばれているのです。さらに、薬師如来を守り、薬師如来を信仰する人々を守る十二神将(じゅうにしんしょう)を伴っている場合が多いですね。十二神将の名前を一応あげておきましょう。中には知っている名前もあるかもしれません。
十二神将・・・宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんちら)、アジラ、珊底羅(さんちら)、因陀羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まこら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しょうとら)、毘羯羅(びから)
アジラだけが、漢字がありませんでしたので、カタカナで書いておきました。もっとも、どれも当て字ですけどね。

おわかり頂けたでしょうか。以上、薬師如来でした。合掌。


4回目 大日如来

大日如来は、密教の根本の本尊様です。すべての如来の中心に存在している如来です。今回は、その大日如来について、お話いたします。

大日如来は、インドの言語のままの発音では、「マハー バイロチャナ」と言います。音写して「摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)」といいます。翻訳して「大光明遍照如来」となります。
ここで、「あれ?、大日如来という名前がでてこない」と思われた方。なかなか鋭いですね。そう、大日如来というのは、正式名ではなかったのです。

大日如来は、「その如来の智慧の光明は、昼夜の別のある日の神の威力をはるかに越え、絶えず光明を降り注ぎ、影を作ることなし。」という意味を取って名付けられたのです。つまり、日の神よりも偉大であるから、大日となったわけです。これは、「大日経(だいにちきょう−大毘盧遮那成仏神変加持経−だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)の解説書である「大日経疏(だいにちきょうしょ)」に説かれています。
これが元で、「大日如来」と呼ばれるようになったんですね。で、こちらの名前のほうが有名になってしまったのです。

ところで、大日如来には、実は二人います。
一人は、金剛頂経というお経の教主であり、その世界を描いた曼荼羅−金剛界曼荼羅−の中心に座している「金剛界大日如来」(下図1参照)です。
もう一人は、大日経の教主であり、その世界を描いた曼荼羅−胎蔵界曼荼羅−の中心に座している「胎蔵界大日如来」(下図2参照)です。
この二人の大日如来は、外見も異なりますが(印−手の形、下図3,4参照)、その働きも異なります。
「金剛界大日如来」は、理知を表しています。すべての智慧にまさる智慧、完全なる智を表しているんですね。理路整然としていて、何の矛盾も無い、すべてが整った世界を表しているのです。その世界と智慧は、金剛(ダイヤモンド)の如く堅固なものであるので、金剛界と言い表わされるのです。
これに対し、「胎蔵界大日如来」は、慈悲を表しています。そして、すべてを生み出すパワーをも表しているのです。それは、どんな母体よりも優れており、あらゆるものを生み出すので、胎蔵と言い表わされるのです。
この二人の大日如来が、一つとなって、本当の大日如来となるんです。金剛界と胎蔵界のそれぞれの大日如来は、二つであって、実は一つなのです。これを「不二一体(ふにいったい)」と言います。

           
1、金剛界大日如来         2、胎蔵界大日如来
       
3、智拳印(金剛界大日如来)    4、法界定印(胎蔵界大日如来)
さて、この二人の大日如来の見分け方ですが、その印で見分けるのが最もわかりやすいでしょう。
金剛界大日如来は、図3のように左手の人差し指を右手で包むような手の形−印−をしています。これを智拳印(ちけんいん)と言います。
これに対し、胎蔵界大日如来は、図4のように、右手も左手も手のひらを上向きに延べ、左手の上に右手を重ねています。で、左右の親指をくっつけています。手の上下関係は、胎蔵界大日如来の場合、必ず右手が上になっています。これを法界定印(ほうかいじょういん)と言います。
なお、この法界定印は、密教の瞑想−阿字観や月輪観−を行う時の印です。この瞑想を行う時は、自らが、胎蔵界大日如来と同じ印を結ぶことにより、大日如来と共に宇宙に存在することを実感するのです。

この宇宙すべては、大日如来の体内に存在している、というのが、密教の宇宙観です。ですから、私たち人間やこの地球に生きるものはすべて、大日如来の一細胞であるのです。あなたも私も、大日如来の細胞なのです。我々は、大日如来の中に生かされている存在なのです。大日如来の身体のどの部分の細胞かはわかりませんが・・・・・。
ということは、あまり私たちがこの地球を汚すと、それは、大日如来の細胞を汚していることになりますよね。知らない間に、私たちは、大日如来のガン細胞になっているのかもしれません。まったくできのよくない細胞だ、と思われていたりしてね・・・・・。
ま、それはさておき、密教の宇宙観は、このようにすべてが大日如来の中にある、と観じるものなのです。ですから、瞑想する時も、自分が大日如来と一体となったと観じ、すべての宇宙を内在させると観じるのですね。そして、それと同時に、宇宙そのものになってしまうのです。
このように観じるために、瞑想時には、胎蔵界大日如来の印を結ぶのです。

ところで、上の大日如来の図と、前回までの各如来の図を見比べて見て欲しいことがあります。
それは、大日如来以外の、他の如来の衣装というか、外見の違いです。そこに注目して欲しいのです。お気付きになりましたか?。

大日如来以外の如来は、すごく地味じゃないですか?。図が、ちょっと見難いかも知れませんが、色使いも大日如来は派手な感じがしませんか?。
如来は、すでに一切の欲望を超えてしまった存在ですから、本来、身を着飾るということはしません。如来以外の菩薩などは、いろいろな飾りを身につけたり、イヤリングをしたり宝冠をかぶったりしています。それは、人々の注目を集めるための方便なのです。注目され、目立たないと人々に存在を知られないですからね。存在を知られなければ、人々を救うこともできません。
しかし、如来は、そうしたことも一切超越しています。救うとか救わないとか、そういうことも超越してしまった存在なのです。ですから、身を着飾ることはしません。

ところが、大日如来だけは別です。宝冠をかぶり、派手なネックレス状のものを提げ、色の派手な衣装を身に着けています。これは、大日如来が、他の如来とは違い、すべての如来の中心にあることを表しているのです。如来の中の王である、ということを示すために派手な身なりをしているのです。

大日如来は、仏教が、出家者個人の救いを説いた初期仏教から、仏教を信じるものはすべて救われることを説いた大乗仏教への発展、さらには、あらゆる方法を使って安楽を得る、この世で生きたまま安楽を得ることを説いた密教へと発展する過程において、最終的にこの世に現れた如来です。これ以上の如来はありません。すべての如来や菩薩、明王などは、みな大日如来から生み出されたものです。ですから、すべての如来の中心に存在しているのです。特別な存在なのです。

なお、大日如来が我々のところにあらわす姿は、毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)といわれます。この如来は、東大寺の大仏様として知られています。東大寺の大仏様は、大日如来とは異なります。お釈迦様でも阿弥陀様でもありません。この如来は、大日如来が、より人間界に近付いてきた姿なのです。ですから、大日如来の本名の摩訶毘盧遮那如来から、摩訶をとってあるんですね。摩訶とは、「偉大」という意味です。また、毘盧遮那如来は、華厳蔵世界(華厳経に説く世界)の如来でもあります。

大日如来については、詳しく説きだすと大変難しくなってしまいますので、このくらいにしておきます。


5回目 その他の如来 曼荼羅を中心として

今回は、如来の中でも、あまり知られていない如来についてお話いたします。そういう如来は、たいてい曼荼羅の中には描かれておりますので、ついでに曼荼羅についてもお話いたします。ただし、曼荼羅については、深くはお話できません。極々簡単にお話いたしますので、その点、ご了承ください。

まずは、アシュク如来についてお話いたします。(アシュクの字がありませんでしたので、カタカナで書きます。尤も、漢字は当て字ですが。)アシュク如来は、本尊や像としては、あまり知られていません。しかし、古くから信仰はされていたようです。供養の時の諸縁仏である十三仏(初七日不動明王、二・七日釈迦如来、三・七日文殊菩薩、四・七日普賢菩薩、五・七日地蔵菩薩、六・七日弥勒菩薩、七・七日薬師如来、百箇日観世音菩薩、一周忌勢至菩薩、三回忌阿弥陀如来、七回忌アシュク如来、十三回忌大日如来、三十三回忌虚空蔵菩薩の十三仏)にも入っています。

アシュク如来の名は、「アキショービヤ」の音写です。意味は「心不動なり」を表しております。つまり、何事にもゆるぎない心、という意味ですね。この如来は、東方にその仏国土−浄土−を持っております。それは、東方妙喜世界、といわれております。
その姿は、右手は、手をひざの上でだらりと延べ、手の甲側を見せ、中指で大地を触れる印−触地印、降魔印−をし、左手は、袈裟の角を握っています。(下図1参照)。この姿はアシュク如来独特のものです。

アシュク如来は、実は曼荼羅の中にも描かれております。それは、金剛界曼荼羅です。その中心部分の成身会(じょうしんえ)の下の丸の中の中心に描かれます。
他の曼荼羅上の如来と合わせてお話し致しましょう。
                     
   1、アシュク如来        2、金剛界曼荼羅         3、胎蔵界曼荼羅
           

       4、成身会(じょうしんえ)        5、中台八葉院(ちゅうたいはちよういん)
曼荼羅には、大きく分けて金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅があります。大きく分けて、と言ったのは、その他にも様々な曼荼羅があるからです。(星曼荼羅、一字金輪曼荼羅、六字曼荼羅などなど・・・・)。まあ、代表的な曼荼羅は、この「金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅」です。(上図2,3参照)。

金剛界曼荼羅は、金剛界大日如来を中心として、九つの世界に分かれており、理知を表しています。その中に描かれている如来や菩薩の数は、枠の周りの三千仏を入れなければ、1461尊になります。
その一尊一尊についてお話をするわけにはいかないので、中心の成身会(じょうしんえ)について簡単に説明いたします。

成身会(上図4参照)は、五つの世界に分かれています。それは、大日如来を中心に四方の浄土を表しているのです。図4の右側の図を見て下さい。その図で、下の方が東になります。で、向って左が南、上が西、向って右が北になります。それぞれ如来がいて、その周りを菩薩が取り囲んでいます。ここでは、その如来だけをあげておきます。
中央−大日如来。下方−東方−アシュク如来。左−南方−宝生如来。上−西方−無量寿如来。右−北方−不空成就(ふくうじょうじゅ)如来。
となります。大日如来については、前号を参照にしてください。アシュク如来は、先程お話しましたね。無量寿如来は、阿弥陀如来のことです。不空成就如来はお釈迦様と同じです。
で、抜かした宝生如来ですが、この如来は宝を生むという如来です。すべてが黄金でできている浄土を持っている如来です。
尚、金剛界曼荼羅は、金剛頂経(こんごうちょうぎょう)に説かれています。

次に、胎蔵界曼荼羅ですが、この曼荼羅は真中の蓮の花上にある中台八葉院を中心として、13の世界(十三大院といいます)に別れています。それぞれの世界は、如来や菩薩、明王などの世界になっています。描かれている如来や菩薩などは、全部で414尊になります。
胎蔵界曼荼羅は、慈悲を表している、といわれますが、本来の意味は、すべてを生み出すエネルギーを表しています。胎蔵界の胎とは、母胎のことで、中心の大日如来から、一切のものが生み出され来る様を表しているのです。

さて、ここでも胎蔵界曼荼羅すべてについて説明するのは、これも大変なので、中心の中台八葉院についてお話したしましょう。
上図5を参照してください。こちらも、大日如来を中心として、四方の世界に別れています。図の上方が東になり、向って右が南、下が西、向って左が北になります。それぞれの方位の如来をあげておきます。
中央−大日如来。上方−東方−宝幢(ほうどう)如来、右−南方−開敷華王(かいふけおう)如来、下−西方−無量寿如来、左−北方−天鼓雷音(てんくらいおん)如来。
となります。
詳しくは、大日経及び大日経疏(だいにちきょうしょ)に説かれていますが、ここでは省略いたします。

それぞれの如来は、金剛界曼荼羅の如来と相応しています。つまり、
方位−金剛界曼荼羅−−胎蔵界曼荼羅
中央−金剛界大日如来−胎蔵界大日如来
東方−アシュク如来− −宝幢(ほうどう)如来
南方−宝生如来−−−−開敷華王(かいふけおう)如来
西方−無量寿如来−−−無量寿如来(−−阿弥陀如来)
北方−不空成就如来−−天鼓雷音(てんくらいおん)如来(−−釈迦如来)
ということです。
曼荼羅は、金剛界・胎蔵界と別れてはいますが、その実、不二一体であるのです。

さて、この他にも如来は、いくつかありますが(一字金輪仏頂尊など・・・)、今回を持ちまして、如来についてのお話−仏部−を終わります。


6回目 番外編−仏・菩薩・明王・天部の違い

如来というのは、第1回目に少々書いたと思いますが、すべてを超越した仏陀のことをいいます。その代表は、お釈迦様ですね。如来=仏陀は、完全なる覚りを開いた方です。もうそれ以上の覚りはない、という段階に達した方です。そういう方は、歴史上ではお釈迦様以外一人もいません。現代や過去において、お釈迦様以外、仏陀となった方はいないのです。他の言い方をすれば、最終的な解脱を得た方は、お釈迦様以外にいないのです。
例えば、お釈迦様が涅槃に入られて以後、活躍された高僧の方々も、如来にはなっていません。最終解脱者にはなっていないのです。次にお釈迦様のような仏陀が現れるのは、お釈迦様が涅槃に入られてから、56億7千万年後です。その時に、現在菩薩である弥勒(みろく)様が、この世に仏陀になるために現れるのです。それまでは、無仏(仏陀がいない)の時代なのです。

ですから、どこかで「私は最終解脱者である」などと言うことを聞いたのなら、それは戯言です。全くのデタラメですね。仏教のぶの字も知らない方です。そういう言葉に騙されないように気をつけてください。
まあ、最終解脱者である仏陀は、すべての欲望を超越した方ですから、簡単にニセモノかどうかわかりますけどね。

ですから、如来=仏陀の像や図は、どの如来も何の飾りも無い、大変あっさりとした衣装しか身にまとってないのです。如来は、すべての欲望を超越しているので、その姿でいいのです。身を飾るものは、一切不要なのです。だから、あのような姿をしているのです。ただ大日如来だけを除いて。
大日如来だけは別です。それは、如来の中の如来、如来の中心、如来の中の王、だからです。他の如来とは、全く異なる存在なのです。ですから、他の如来と区別するため、如来の中の如来を示すため、宝冠を被り、派手な衣装に身を包んでいるのです。

大日如来を除いては、あとは皆、大変地味な、何の飾りも無い姿をしています。阿弥陀如来も薬師如来も、如来と付く方は、ほとんどがあっさりとした姿です。それは、何度も言いますように、すべての欲望を超越した、ということを表しているのです。これが如来です。


次に菩薩ですが、菩薩というのは、インドの言葉で「ボーディー サットバ」という言葉を音写して、さらに省略したものです。正しくは、「菩提薩垂(ぼだいさった・・・垂の字は土偏が付きます。とはいえ、当て字ですが・・・)」といいます。意味は、「覚りを求める者」という意味です。「菩提」が覚りで「薩垂」が「求める者」です。

とはいえ、菩薩は覚りを得ていないわけではありません。実は、菩薩はいつでも如来の状態になれるのです。本当は。ただ、菩薩は、誓ったことがあるのです。その誓いが達成されるまでは、如来にはならない、とも誓っているのです。言わば、二重に誓っているわけですね。
で、その誓いとは・・・・・。
「すべての生きとし生けるものから、苦しみを取り除く」ことです。「一切の生あるものが、安楽に過ごせるようにする」ことです。その誓いが完成するまで、如来にはならない・・・それが菩薩なのです。

菩薩とは、譬えて言えば、覚りの階段を最後まで昇っていき如来の境地まで達することができたのですが、振り返ってみると、苦しんでいる人々や生き物がたくさんいたので、その苦しんでいる人々や生き物を救うために、階段を少し降りてきた方、なのです。

ですから、如来と違って、一切の欲望を超越したわけではありあません。まず「苦しんでいる生ある者を救いたい」という強い欲望があります。その欲望を満足させるために、様々な方便を使います。菩薩の姿が派手なのもその一つです。また、美しい姿をしているのも、そのためです。美しく着飾ることによって、男性の目を引き付け、女性にとっては理想の姿を示し、仏教へ引き入れるきっかけを作っているのです。場合によっては、様々に変身したりもします。様々な方法を使って、人々から苦しみを取り除き、安楽を与える、という仕事をしているのが、菩薩なのです。
ただし、お地蔵さんだけは、僧侶の格好をしています。あまり派手ではありません。それは、お地蔵さんが、庶民の中に溶け込もうとしているからです。庶民と同等の位置にいる、ということを現しているのです。身近な存在なのですよ、ということを表すために、素朴な格好をしているんです。
まあ、しかし、その他の菩薩は、たいていは派手な格好をしていますね。たまに、お地蔵さんでも、派手な色使いをしている図像がありますけど。

生きとし生けるものから、苦しみを取り除き、安楽を与えるのが、菩薩の仕事・・・・。
ですから、広義な意味で言えば、歴史上の高僧も菩薩の一員と言えるでしょう。人々を救うために活躍したのですからね。今日でも、苦しんでいる人々のために働いている方たちは、菩薩と言えるかも知れませんね。
否、もっと広く言えば、誰でも菩薩になれる可能性はあるのでしょう。ちょっと困っている方を助けてあげる、それだけで、その瞬間は、あなたは菩薩になっているのですから。
それに、少しでも幸せになりたい、と思っているのなら、それは菩薩と変わらないのですから。なぜなら、菩薩は覚りを求める者だからです。覚りとは安楽の世界ですからね。
そう、あなたも菩薩なのです。


                       

1、一般的な如来の姿          2、大日如来だけは特殊      3、菩薩と言えば

                         

4、お地蔵さんは特殊        5、明王の代表お不動さん      6、天部

   
さて、次に明王です。明王と言うのは、ちょっと特殊です。
その姿は、イカツク、炎に取り巻かれていたりします。たいていは怒っている顔をしています。衣装は、あまり身につけていません。たいていは、上半身が裸です。腰から下に布を巻きつけたような、そんな衣装です。
身体つきも、菩薩のような優しさはなく、どちらかと言うと筋肉質な身体です。
明王は、怒り顔で、恐ろしい姿をしています。およそ、怒りとは縁遠い仏教なのですが、明王だけは、怒っているのです。

実は、明王は、特殊な存在で、如来の変化身なのです。如来が、人々の中に潜む「魔」を消し去るために、恐ろしい姿に変身して現れたのが、明王なのです。ですから、明王の場合、覚りを得ているとかは問題ではありません。
人々の中には、やさしい顔ばかりでは、言うことを聞かない者もいますし、また、「魔」は、優しさでは消えませんから、たまには怒ることも必要であろう、ということで、怒り顔をしているのです。しかし、その心は、慈悲で満たされています。慈悲の心による、怒りなのです。

明王は、人々の中に潜む「魔」を消し去るために存在する、といいましたが、「魔」というのは、もちろん、心の中にある「魔」のことですが、それだけではありません。実際の「魔」も消し去るのです。
例えば、病魔。つまり病気ですね。或いは、邪魔。つまり災難と言ってもいいでしょう。よく、不動明王に祈る護摩法要というものがありますが、あれは、たいていは無病息災を祈るものですね。
そして、悪魔。つまり悪霊ですね。本当の「魔物」です。お祓いの時には、不動明王に祈るのが普通です。

不動明王の名前を出しましたが、不動明王は、明王の中の明王で、中心的存在です。なぜなら、不動明王は、大日如来の化身だからです。他には、例えば、阿弥陀如来の化身が大威徳明王(だいいとくみょうおう)、お釈迦様の化身が金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)、アシュク如来の化身が降三世明王(ごうざんぜみょうおう)などの明王がいます。先程、明王は如来の化身と言いましたが、観世音菩薩の化身の明王もいます。それは、馬頭観音です。名前に、明王とはついていませんが、馬頭観音は明王の仲間です。
他にも、有名なところでは、愛染明王という明王がいまして、この明王は、恋愛関係の明王様です。魔を消し去ると言うよりは、恋愛成就などを祈ります。
また、唯一、明王の中で、怒っていない明王がいます。それは、孔雀明王です。孔雀明王は、明王の中でも特殊で、その法は、秘密中の秘密です。

話のついでに、護摩についても説明しておきます。護摩は、不動明王の智慧の炎を僧侶が焚くことにより、様々な願いを祈る作法です。お不動さんの智慧の炎の中に、いろいろな供物とともに、願い事を書いた木を入れて、燃やします。炎は、不動明王そのものですから、直接、願い事を頼んでいるのです。それが護摩です。
護摩にも、いろいろ種類がありまして、無病息災を祈る護摩、商売繁盛・事業繁栄などを祈る護摩、良縁をもたらす護摩、悪を滅ぼす護摩などがあります。
護摩は、密教の祈願法としては、最高の儀式です。その法力は、驚くべきものです。御祈願のある方は、護摩祈願をされるのもいいかと思います。余談でしたが・・・・。


最後に、天部についてお話しましょう。天部と言うのは、いわゆる神様のことですね。しかし、神様と言っても、日本の神様とは違います。インドから、仏教とともにやってきた神様のことです。例えば、有名なところでは、帝釈天がそうです。他にも、弁財天(弁才天)、吉祥天、梵天、大黒天、鬼子母神、毘沙門天、聖天などなどいらっしゃいます。皆さんも、一度は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。

天部は、実は、如来や菩薩、明王とは根本的に違うところがあります。それは、寿命がある、と言うことです。如来や菩薩、明王は、六道輪廻の世界から解脱した存在です。覚りを得ていますから、当然ですね。
ところが、天部は、六道輪廻の世界の一つなのです。
六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天です。最後の天界が、天部の神々が住む世界なのです。ですから、天部と言えども、寿命がありますし、輪廻の世界の一員なのです。ですから、可能性としては、寿命が尽きたあと、地獄へ落ちることもあるかもしれません。
つまり、天部の神々たちは、覚りを得ているわけではないのです。ただ、人間とは異なり、仏や菩薩に、より近い存在ではあります。神通力も使えますし、いろいろな姿に変身することもできます。寿命でもメチャクチャ長いです。最低でも、何万年、という長さです。人間とは、ぜんぜん違います。

天部の神々たちは、どんな働きをしているのかと言いますと、それは、人々の願い事を叶えてあげることです。現実的な利益を、その神々を信じて祈る人々に与えて、「どうだ、仏様の力は、すごいだろう。こんなすごい力を持った仏様の教えを聞けば、もっと安楽が得られるぞ!」と説いているのです。
つまり、現実的な力を見せておいて、それから、仏道に引き入れているわけです。こうして、仏様の教えである仏教を広めているんですね。

ですから、天部には、大いに願い事をするといいですね。ただし、願い事を聞いてもらったら、はいさようなら、ではいけません。天部の神々は、現実的ご利益を与えてくれますが、そのあとが問題なのです。願い事を聞いてもらったら、今度は、叶えてもらった側が、天部の願いを聞かなければなりません。
それは、仏様の教えを聞くことです。そもそも、仏教に引き入れることが、天部の神々の目的なのですからね。そこのところを忘れると、与えてもらったご利益は、結局パァーになります。天部の神々は、気が短いところがありますから、ご利益を与えてくれるのも早いですが、仏様の教えを聞かないと知ると、助けることをやめてしまう事も早いです。まあ、寿命がるから仕方がないですけどね。より多くの人々を仏様の教えによって救うためにも、教えを聞かない者には、さっさと見切りをつけてしまう、というわけです。

なので、早く願い事を聞いてもらいたい、と思う方は、天部に祈るのがいいでしょう。ただ、願いを聞いてもらった後、仏様の教えを聞くことを忘れないようにしてください。
それと、天部にもそれぞれ役割というか、担当がありますので、そこのところを間違えないようにしてください。大黒天さんに、恋愛を祈っても仕方がないですからね。

以上、番外編としまして、如来・菩薩・明王・天部の違いをお話し致しました。



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