ばっくなんばぁあ〜1


第 一 章 

「懺悔文、帰依三宝と開経偈」

さて、1回目のタイトルですが、全部ひらがなで書きますと、こうなります。
「さんげもん、きえさんぼう と かいきょうげ」
ということで、ここに含まれているお経は三種類あるんです。これはわかりますね。順番に見ていきましょう。

1、懺悔文(さんげもん)
懺悔と言う言葉は、普通皆さん「ざんげ」と読みますよね。ところが、仏教では「さんげ」と読みます。ですから、懺悔文も「さんげもん」と読むのです。どんな場合でも懺悔は、仏教では「さんげ」と読みますので、まず、この点ご注意ください。

さて、その懺悔文なのですが、次のようなお経です。聞いたことありますか?
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

これが懺悔文です。大変短いお経ですね。では、意味を説明いたしましょう。

*「
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)から・・・・。
字の意味でだいたいわかるかな、と思います。書き下し文にしてみますね。
「我、昔より造る所の、諸々の悪業」
となります。意味は
「私が昔から行ってしまった、様々な悪い行い」
と言うことです。ここでわかりにくいかな、と思うのは「悪業」でしょうか。
「業(ごう)」というと、いかにも悪い行為のように思われがちですか、これは単に「行為」という意味です。良くも悪くもなく、人間の行う行動全般を指し示す言葉です。
よく、変な宗教などで、「業」のことを「カルマ」などと読ませて、さも悪いことのように言う場合がありますが、それは間違っています。
「あなたのカルマは・・・・」とかね。妙に「カルマ」などという言葉を使いたがる方(そういう方は、一般に霊能者などと呼ばれていますが)は、あまり信用がおけないですね。「業」って言えばいいじゃないですか。いやむしろ、「あなたの行為は・・・」と言ったほうが、「業」の意味をよくわかっている方でしょう。「カルマ」=「業」=「行為」なのですからね。ですから「カルマ」という言葉を「行為」以外の意味に使っていたら、絶対に怪しい!と思って正解です。
やたら、インドの言葉や横文字、仏教語を多用する方は、ちょっと疑ったほうがいいと思いますね。余談でしたが。
と言うわけで、最初の文はよろしいでしょうか。わかりますよね。じゃ、次へ。

*「皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)です。まずは、書き下し文にします。
「皆、始め無き以来の貪・瞋・痴(とん・じん・ち)に由る」
となりますね。意味を説明致しましょう。
「皆」はいいですね。前文の「昔から行ってしまった様々な悪い行い」は「みんなすべて」ということですね。その悪い行為は、大昔から(始め無き以来)、「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)が原因なのだ。」と言っているのです。
さて、ここで問題になるのが、「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」ですね。これの意味がわからないことには何ともなりません。この「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」とうのは、簡単に言えば「むさぼり(貪)」と「ゆがんだ心(瞋)」と「愚かなる考え方」と言う意味なのです。具体的にお話しましょうか。
まずは「貪」。これは、仏教では「とん」と読みます。「どん」ではありません。
意味はわかりますよね。むさぼることです。自分の力量以上に欲しがる心のことを言います。満足を知らない状態ですね。例えば、収入をごまかし税金を払わず、エラソーなことを言っていたタレントさん、いましたよね。あの方そのものが貪りの人、ですね。我欲に固執して、金金金・・・・って感じですよね。
また、実力も無いくせにやたら地位を欲しがったり、財を求めたりする方もいます。そういう方の行為を「貪」というのですね。
小さいところでもありますよ、「貪」。例えば、自分は絶対お金を払わず、或いは出費を惜しんで、他人のお金ばかりアテにしている方、いませんか。ケチ、倹約、とはちょっと違うんですよ。もっと汚い、というか・・・。タダだと、先走って、人を押しのけてでも、もらっちゃおうと思う、その時の心が「貪」なんですよ。
ま、わかりますよね。云わんとするところ・・・・。身近にいませんか?。
貪りの心、それが「貪」です。
次に「瞋」。これは「じん」と読みます。字の意味は「怒り」です。ただし、怒る、不正に対しての怒り、というものではなく、「間違った怒り」のことです。
とは言え、よく意味がわかりませんね。ですから、「怒り」というより、「ゆがんだ心」と言ったほうがわかりやすいので、そういう意味に解釈しました。具体的に考えてみましょう。
「瞋」とは、「ゆがんだ心」。例えば、「ねたみ、そねみ、うらみ、ひがみ」と言った、人間のゆがんだ心のことなのです。単なる「怒り」ではなく、相手や世の中に対し、いつまでも不当に「怒ること」なのです。そして、その結果「ねたみ、うらみ、ひがみ、そねみ」の心が生まれてくるんですね。
例えば、ここに非常に優秀な技術者(科学者でもいい)がいたとしましょう。その技術者(もしくは科学者)は、優秀なのだけれど、どうも世の中に認められない。運が悪いせいなのか、性格に問題があるのか、なかなか世の中に認められない。そのうちに「俺を認めないのは、世の中が間違っているからだ」と怒り出してしまいます。すると、その心は次第に世の中を怨むようになるんですね。そうして、マッドな、ちょっとおかしい技術者(あるいは科学者)が誕生してしまうのです。
ちょっとおおげさだったかも知れませんが、でも、そういうちょっとひがみっぽい人、いませんか?。自分の努力のなさや運の悪さを世の中の責任にしたり、周りの人間のせいにしたりする人・・・。
「自分は実力があるのに、社内で冷遇されているのは、あの上司のせいだ・・・」なんて、ひがんだり、うらんだりしている人、いませんか?。いますよねぇ・・・・。
そういう心のことを「瞋」と言うのです。ですから、もし、身近にそういう方がいましたら「ああ、あいつは『瞋(じん)』だぁ〜」と思ってください。
続いて「痴」ですね。これは「愚かな考え方」と言う意味です。愚かな考え方とはどういうことかと言いますと、簡単に言えば「自分の考えに頑固に固執し、人のアドバイスには耳を貸さず、いつまでも同じ考えにこだわっている状態」のことを言います。(うっ、返って難しい言い回しになったかな?)
例えば、いつまでも過去にこだわって、同じことをじくじくと言っている方、いますよね。で、そういう方に何かアドバイスしても、ちーっとも聞き入れず、やっぱりいつまでもウジウジしている。そういう考えを「痴」というのです。また、いつまでも頑固にしている方、いますよね。何でも頑固に反対したり、いこじになったりして、他のアドバイスを聞き入れない方、いるでしょ。そういう頑固な考え方を「痴」と言うのです。
何が正しくて、何が間違っているか、それをしっかり判断することが重要なことで、それができない状態を「痴」というのです。
ということは・・・・。世の中「痴」の人間が如何に多いことか。特に大人にね。意味、わかりますよね。政治の世界も、経済の世界も、教育の世界も、如何に「痴」なる人々が多いことか・・・・・。
この「痴」がなくなれば、正しく考えられますから、「貪」も「瞋」もなくなります。すべては、「痴」なる「愚かな考え方」が元なんですね。

*「従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)」を見ていきましょう。
これを書き下し文にしてみますね。
「身と語と意に従って生まれるところ」
となります。意味は
「身体と言葉と心によって生まれ出てくる」ということですね。
「身」とは、「身体」のことです。身体で犯してしまう罪のことです。これには、三種類あります。それは「殺生、窃盗、邪淫」です。「殺生」というのは「命を奪う」ことですが、それだけではなく「命を傷つける」ことも含まれています。つまりは暴力のことですね。
最近、児童の虐待が話題にされることが多いようです。自らの子供や預っている子供たちに、日常的に暴力を振るう。或いは、突発的に暴力を振るってしまう。悲しいことですね。なぜ、暴力を振るうのか、なぜ命を奪うのか・・・・・・。自分がそれをされたら嫌なのにね・・・・。
「窃盗」はもちろん「盗み」のことです。これには「盗み見」や「盗み聞き」も含まれています。「邪淫」は「浮気、乱れた性行為」のことをいいます。覚えのある方、いませんでしょうか?。
「語」とは「言葉」のことです。つまり言葉による罪ですね。これには四種類あります。それは「ウソ(妄語−もうご)、ふざけた言葉遣い(奇語−きご)、悪口(わるぐちですがアックと読みます)、二枚舌(両舌−りょうぜつ)」です。(括弧内は仏教語の言い方です)。
「ウソ」は説明は必要ないですよね。嘘をついてはいけません。昔から「ウソは泥棒の始まり」とか「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」といいますからね。ただし、ついていいウソと言うのもあります。それは、人を救うウソです。例えば、不治の病に罹っている方に安心を与えるため、嘘をついて本当の病名を隠すこともそうですね。或いは、知らなくていいことも世の中にはあるのですから、真実を隠しておくためにつくウソ、とかね。そういうウソは除外されます。ここで言っているのは「人心を惑わすウソ」のことです。
「ふざけた言葉遣い」は、まあ、流行語のようなものですね。あるいは、相手に不快感を与える言葉遣い、と言ったほうがいいでしょうか。現代の若者は、ほとんど皆これに当てはまってしまうかも知れません。そういう自分も・・・・・。あぁ、ヤバイですねェ・・・・・。
「悪口」も説明はいいですよね。仏教では「あっく」と読みます。心無い悪口は人を傷つけるものです。
「二枚舌」もわかりますね。あっちでいいこと言っておいて、こっちで悪く言う、というものです。「ウソ」の中に入れてもいいと思うんですけどね。まあ、二枚舌は昔から別扱いのようですから・・・・。しかし、上手にペラペラと舌が動く方、いますよね。特に儲け話を持ち込んでくる人や勧誘電話などに。怪しくってね、そういうの。皆さん、二枚舌に引っ掛からないようご注意ください。
「意」は心のことです。意識の「意」ですね。心で犯す罪には、三種類あります。それは「貪、瞋、痴」です。これについては、前回説明しましたので、それを読んでください。
ということで、3番目の文は、「身体と言葉と心から生まれてくる、殺生や盗み、邪淫、ウソ、ふざけた言葉、悪口、二枚舌、貪り、ねたみ・そねみ、愚かさ」のことを言っているのです。
では、次、最終の文へ。

*「一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」です。まずは、書き下し文にします。
「一切を我は、今、皆懺悔す。」
となりますね。意味は、
「一切を私は、いま、すべて懺悔いたします。」ということです。
「一切」というのは、全文からの続きで、「身体と言葉と心から生まれてくる一切の罪」ということを意味しています。ですから、この最後の文は、「自分が犯してきた罪をすべて白状し、誤り、反省いたします。」という文なのです。
お釈迦様がいらした時代、出家してお釈迦様の弟子になりたい、と望むものは、お釈迦様の前、もしくは高弟の前で、それまで犯してきた罪をすべて白状しなければなりませんでした。
例えば、「私は盗みを働いていました」とか「浮気ものです」とか、「悪口をいいました。人を騙しました」などなど、それまで自分が不用意に、或いは故意にしてしまった罪−身体と言葉と心で犯した罪−をすべて洗いざらい打ち明けなければならなかったのです。それができて初めて出家が許されたのです。
ただし、その罪に対しての、許す許さないはありません。告白することが重要なことであって、その告白した罪に対しての判断は下さないのがお釈迦様なのです。ですから、出家者の中には、殺人者もいれば(有名なのはアングリマーラと言う弟子です)、盗みを重ねたもの、浮気もの、ほら吹き男、などなど、多種多様な人物がいました。自分が犯してしまった罪を告白できれば、お釈迦様は出家を認めたのです。
それは、罪の報いは、自分自身にやがて返ってくるものですから(身から出た錆び、ということですね)、お釈迦様が罪に対して、許すとか許さないとか、判断を下すものではないからです。
しかし、出家者は別です。出家者の場合、月に2回反省会があったのです。その日は、お釈迦様を始めすべての出家者が集まり、自分が出家後、犯してしまった罪を懺悔するのです。罪を犯したものは、皆の前で、「私はこのような罪を犯してしまいました」と告白するのです。で、そこに集った弟子達が「許されるかどうか」を判断し、最終的にはお釈迦様が判断したのです。これは出家者に対してのみです。出家者には厳しかったのですよ。今、お釈迦様がいらしたら、さぞお嘆きでしょうねぇ。最も重い罰である教団追放になるでしょう(これをハライ罪(ざい)と言います。お祓いの語源です。)。
仏教では、このように自分の犯してきた罪を告白できるかどうか、が重要視されるのです。自分の罪を認められないものに幸運の来る余地なし、ということなのです。まずは、自己反省、ということです。
ですから、この懺悔文が初めに唱えられるのです。

では、全文の意味を書いておきますね。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

我、昔より造る所の諸々の悪業は、皆、無始以来の貪瞋痴による。身と語と意に従って生まれるところの一切を我は、今、皆懺悔す。」
「私がずぅーっと大昔からつくってしまった悪い行いは、みんなはるか大昔からある貪りの心やゆがんだ心や、愚かさかが原因なのです。身体と言葉と心によって生まれ出てくる一切(の罪)を私は、いま、すべて懺悔いたします。」

と言うことです。
ところで、このお経は、「華厳経」というお経の中から抜粋されています。他にも懺悔文のお経はいろいろありますが、このお経が最も一般的です。
懺悔文を読んで、自分の犯してしまった罪があれば、こっそり告白してください。在家者である皆さんは、告白することが重要なのですからね。出家者の方は(これを読んでいるとは考えられませんが)、罪をなるべく犯さないような生活を心掛けたいですね。私ともども・・・・・・。反省!です。以上、懺悔文でした。


2、帰依三宝
続きまして、「帰依三宝」についてお話いたします。高野山真言宗では、「三帰依文(さんきえもん)」と言います。では、まず、その経文を紹介しましょう。あ、ただし、これは高野山真言宗での読み方です。他の宗派は、経文が多少異なりますので、その点ご了承ください。

*「帰依三宝(きえさんぼう)」 或いは「三帰依文(さんきえもん)」
弟子某 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧
(でしむこう じんみらいさい きえぶつ きえほう きえそう)

これが三帰依文(帰依三宝)です。これも大変短いお経です。これだけなのです。読むときは、これを三回繰り返します。その理由は、後ほどお話いたします。

「三宝」というのは、「仏法僧」のことを表しています。「御仏と御仏の教え、その教えを実践する僧侶」は、三つの尊い宝物と言われていたので、「仏法僧」のことを「三宝」というのです。
では、お経の意味をお話いたしましょう。一句ずつ見ていきます。

*「弟子某(でしむこう)
これの意味は、そのままですね。「弟子、それがし」という意味です。「弟子」は、もちろん「御仏の弟子」という意味です。「某」は、自分のことですね。ですから、「弟子某」は「仏の弟子である私は」と言うことになりますね。

*「尽未来際(じんみらいさい)
これも字のままですね。「未来が尽きるまで」という意味です。「未来永劫」ということですね。つまり、この経文を読んだ時だけじゃなく、この先もずーぅっと、ということですね。

*「帰依仏 帰依法 帰依僧(きえぶつ きえほう きえそう)」
「帰依」というのは「信じて従う」という意味です。ですから、「帰依仏」は「御仏を信じて従います」という意味になりますね。同様に「帰依法」は「御仏の教えを信じて従います」となります。「法」はお釈迦様が説かれた教えのことです。で、「帰依僧」は「御仏の教えを実践している僧侶を信じて従います」となるのです。
「僧」とは、もちろん、お坊さんのことです。インドの言葉で出家者や修行者のことを「サマナ」といいますが、その音写が「僧」になったのです。ですから、「僧」は出家者、修行者のことですね。まあ、簡単に言えば、坊さんのことです。
しかし・・・・。御仏やその教えを信じることはいいでしょう。仏様に手を合わせ、そしてその教えを学び、実践していくことは大切なことでしょう。だけど、坊さんは・・・・・。
と思われる方がいらっしゃるのは、当然のことかもしれません。信頼を無くしている坊さんは、はなはだ多いように思われます。TVに出て、コメディアンに成り下がってしまった坊さんもいれば、贅沢三昧をしている坊さんもいます。出家者本来の厳しさ、修行者としての自覚を忘れてしまったような坊さんは、確かにいます。また、こういう方が目立つんですね。真面目に修行しているお坊さんもいるんすけどね。こういう方は目立たないんです。まったく、困ったもんです。

話がずれたついでにもう少し余談を。私は、「坊さん、僧侶」というものは、「職業ではない」と思っています。坊さんという職業はない、のです。出家者は−つまりは坊さんですが−絶えず出家者でなくてはならないのです。わかりますか?。お経を読むから坊さんじゃないのです。衣を着ているから坊さんじゃないのです。出家した時点から、その出家者は坊さんになったのです。坊さんという職業についたのではないのです。どんな時も、いつ何時も出家者は出家者であらねばならないのです。ここのところを履き違えているから、クダラナイ坊さんが出てくるのでしょう。坊さんは、坊さんであって、特殊な職業についているわけではないのです。衣を脱いだ時も、食事をしている時も、外を散歩している時も、買い物に出かけたときも、旅行に行ったときも、オフ会に参加した時でも、どんな時でも坊さんは、坊さんなのです。そのことを忘れては、真実の出家者とはいえないでしょう。最近、あまりにも、坊さんでない坊さんが目立つので、ついつい、書いてしまいました。余談でしたね。

話がそれてしまいました。無理やり戻しましょう。
皆さんも、「帰依僧」というのなら、信用にたる出家者に帰依してくださいね。

ということで、まとめて意味を解釈いたしましょう。
「弟子某 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧
(でしむこう じんみらいさい きえぶつ きえほう きえそう)」
「御仏の弟子、それがしは(ここは自分の名前でもいい)、未来が尽きるまで、永遠に、御仏を信じ、従います。御仏の教えを信じ、従います。御仏の教えを実践している僧侶を信じて、従います。」
という意味になります。これは、一種の誓いの文なのですよ。お釈迦様の時代、出家しようと思うものは、まず、それまでに犯した罪を懺悔します(告白するのです。前回参照。)。そして、この三帰依文を唱えて、お釈迦様に誓うのです。未来永劫変わらない気持ちを。
で、三度唱えるのですが、それは、インドの風習でもあり、お釈迦様の時代からの慣わしです。3回も誓えば嘘はないだろう、ということですね。念押しの上に、さらに確認も・・・・ということですね。

ところで、高野山真言宗のお経本では、この後に「三竟文(さんきょうもん)」というお経を読みます。お経文を書いておきましょう。
「弟子某 尽未来際 帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟
(でしむこう じんみらいさい きえぶっきょう きえほうきょう きえそうきょう)」
「竟」とは、「おわんぬ」の意味です。つまり、先程の三帰依文で仏法僧への誓いを立てたので、さらに、念押しの意味で、「仏法僧への帰依の誓いを終わりました」と宣言させているわけです。これも、三度読みます。

参考までに、この三帰依文の原文を掲載しておきます。海外の仏教寺院では、この経文を読んでいます。
「ブッダン サラナン ガッチャーミー (帰依仏)
ダンマン サラナン ガッチャーミー (帰依法)
サンガン サラナン ガッチャーミー (帰依僧)」
これは、全世界の仏教寺院で通じます。仏教徒としては、知っていて損はないでしょう。仏教徒でなくても、知っていてもいいですよね。

三帰依文は、仏教を信じるものにとっては、最も基本であり、最も重要な経文です。初心忘るべからず、ですね。帰依仏、帰依法、帰依僧は、出家者である私たちも忘れてはいけないお経なのです。


3、開経偈
さて、次は、「開経偈」について、お話いたしましょう。まずは、その経文を書いておきます。
*「開経偈」
無上甚深微妙法  百千萬劫難遭遇
(むじょうじんじんみみょうほう  ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持  願解如来真実義
(がこんけんもんとくじゅじ  がんげにょらいしんじつぎ)

これが開経偈です。これも大変短いお経です。このお経は、読む時は繰り返しません。1回だけです。では、内容についてお話いたしましょう。一文ずつ見ていきます。

*「無上甚深微妙法」(むじょうじんじんみみょうほう
これは、そのまま書き下し文にすれば意味はよくわかると思います。書き下し文にすると、
「無上で、はなはだ深く、微妙な法は」
となります。ここで問題となるのは、「微妙」でしょう。仏教では、これを「みみょう」と読みます。この「微妙(みみょう)」は、現在使われている「微妙(びみょう)」とは、意味がまったく異なります。
「微妙(びみょう)」というと、「言葉では言い表わしにくいような感じ」のことをいいますよね。「微妙な違い」とか。ところが、仏教語の微妙(みみょう)は、「計り知れないほど見事、大変すぐれていて見事」という意味になるのです。ぜんぜん違うでしょ。今、使われている微妙(びみょう)の語源は、仏教語の微妙(みみょう)なのにね。
あと注意して欲しいのは、「法」ですね。これは、「仏の教え−仏教、仏法」のことです。
というわけで、この句の意味は、
この上なく、はなはだ深く、計り知れないほど見事な仏の教えは
となるのです。

*「百千萬劫難遭遇」(ひゃくせんまんごうなんそうぐう
これもまずは、書き下し文にしてみましょう。
「百千万劫にも遭い遇うこと難し」
となります。ここで、わからないのは、「劫(こう)」ではないでしょうか。
「劫」というのは、時間の単位です。それも、大変長い年月を経る時間の単位です。どのくらい長いかというと、様々な説があるのですが、その代表的なものを紹介しておきましょう。

劫とは・・・・。
いっぺんの長さが40里(1里は4kmですから、160kmですね。)の直方体の石があったとします。で、その石を100年に一度、天女が降りてきて、その天女の衣で擦ります。たとえ100年に一度とは言え、その石は、擦られていくのですから、いつかは磨り減ってなくなってしまうでしょう。
そう、その石がなくなるまでの時間が1劫なのです。とてつもなく長い時間ですよね。想像できないでしょ。しかし、無限ではありません。期限があるのですよ。

一般的には、1劫は、「一つの宇宙が出来上がって、過去・現在・未来と経て、やがて宇宙がなくなり無に帰す」、という長さを言い表わしているのだ、と解釈しています。簡単に言えば、「一つの宇宙の一生の時間」ですね。
お釈迦様が教えを説いたのが今から約2500年前。インドでは、それよりも以前から、劫の時間的意味はありました。つまり、そんなに古くから、宇宙は無限でなく有限である、宇宙は(もちろん我々が住んでいる地球を含め)誕生し、やがて死する、という思想があったわけです。すごいですよね。インド人が、こういう宇宙観をもって天体の研究をしていたころ、西洋では、まだ、キリストの誕生をも迎えてはいないのです。そう思うと、インド思想の奥深さがわかりますよね。西洋思想がそれに追いつくのは、まだまだ先のことです。何千年も前に、インドでは、宇宙もやがては滅ぶ、ということを認識していたんですよ。すごいですよね。

「百千万劫」とは、この劫が百千万年あるのです。ですから・・・・はぁ〜、まあ、メチャクチャ長い時間、と言うことにしておきましょう。それぐらい長い時間をかけてもなかなか出会えないんですね、仏教には。
ということで、この句の意味は、
大変なが〜い時間をかけても、なかなか出会うことは難しい。
となるのです。


*「我今見聞得受持」(がこんけんもんとくじゅじ
これも、まずは書き下し文にして見ましょう。
「我、今、見聞し、受持することを得たり」
となります。これは、わかりますよね。難しい仏教語も無いですし。
私は、今、見聞きし、受け持つことができた。
ということですね。これは、大丈夫ですね。では、次へいきましょう。


*「願解如来真実義」がんげにょらいしんじつぎ
これも、難しい仏教語は含まれていないですね。書き下し文にしますと、
願わくば如来の真実義を解したまえ
となります。
如来は、もう大丈夫ですよね。完全なる覚りを得た仏陀のことです。一切の欲望を超越した存在です。で、その如来の真実の意義を教えてくれ、といっているわけですね。簡単に言ってしまえば。
ですから、この句の意味は、
願わくば、如来の説かれた真実の教えを私たちに理解させてください。
となるのです。


では、以上をまとめておきましょう。

「無上甚深微妙法  百千萬劫難遭遇(むじょうじんじんみみょうほう  ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持  願解如来真実義(がこんけんもんとくじゅじ  がんげにょらいしんじつぎ)」
「無上で、はなはだ深く、微妙な法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。
我、今、見聞し、受持することを得たり。願わくば如来の真実義を解したまえ。」
「この上なく、はなはだ深く、計り知れないほど見事な仏の教えは
大変なが〜い時間をかけても、なかなか出会うことは難しい。
ところが、私は、今、その法を見聞きし、受け持つことができた。
願わくば、如来の説かれた真実の教えを私たちに理解させてください。」

となります。これが、開経偈です。お経を読む前に、ほとんどの宗派でこのお経が唱えられています。なぜ、このお経がお経を読む前に唱えられるのかというと、それは、この開経偈が、
「御仏の教えは、大変出会いにくいものであり、難しいものであるのだが、私はたまたま、その教えに出会うことができたのだから、その内容をしっかり教えてください。」
という内容だからでしょう。
お経は、お釈迦様が説かれたこと、即ち、仏法・仏教そのものです。お経を読むということは、仏法を読む、と言うことになります。お経を理解するということは、即ち、仏法を理解することになるのです。
ですから、お経を読む前に、開経偈を唱えて、お経の内容を理解させてください、と願うのですね。

確かに、仏教は知っていても、なかなかそれを学ぼうとか、理解しようとか、そういう機会には恵まれないですよね。お葬式に立ち会うことは経験しても、仏教そのものというか、教えを聞かされる、教えを聞こうとする、そういう機会は、大変少ないのではないでしょうか。
京都のお寺などを周ったり、そこで写経や座禅を経験したりはしても、お釈迦様の説かれた教え、そのものには、触れることはなかなかないことでしょう。
そういう意味では、仏法には遭い難いものなのかもしれません。出会うことが難しいのかもしれません。また、真実の教えを説かれる僧侶が少ないのかもしれません。法を説かれる坊さんが少ないのかもしれませんね。
しかし、本来は、仏教というのは身近にあるものなのです。ただ、それに気付かないだけなんですよね。本当は、すぐ近くにあるんですけどねぇ・・・・・。
ま、それはいいのですが、これを読まれている方は、その遭い難い仏教に出会った方ですから、願わくば真実の教えを理解していって欲しいと思います。

ところで、この開経偈というお経は、実は、昔のお坊さんが作ったものらしいのです。つまり、創作文です。お釈迦様が説かれたものではありません。そりゃ、まあ、そうでしょう。内容からして、お釈迦様が説くものではないでしょうからね。教えを聞かされた側が唱えるものですから。
で、この偈文、どなたが作られたかは、まったく不明なのだそうです。参考までに・・・・。


4、十善戒、発菩提心、三昧耶戒
三帰依文と開経偈の間にある「十善戒、発菩提心、三昧耶戒」についてお話いたします。この経文は、高野山真言宗の勤行次第の懺悔文と開経偈の間にあります。まずは、十善戒からです。

*「十善戒」
弟子某甲 尽未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不奇語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見
(でしむこう じんみらいさい ふせっしょう ふちゅうとう ふじゃいん ふもうご ふきご ふあっく ふりょうぜつ ふけんどん ふしんに ふじゃけん)

これが十善戒です。これも大変短いお経ですね。このお経は、読む時は三度繰り返して読みます。十善戒については、「今月の説教部屋」にて、不殺生から順番に説明していますので、そちらも参考にして下さい(尤も、そちらはバックナンバーがないですが・・・)。
十善戒というのは、人が人であるための戒律です。いや、戒律というより、常識ですね。この世で生きている限り、やってはいけない常識です。しかし、その常識が今では、守られていないことが多いようですけどね。
では、その内容についてお話いたしましょう。

*「弟子某甲 尽未来際」(でしむこう じんみらいさい
これは、以前にもお話いたしましたね。「弟子、それがし、未来が尽きるまで」という意味でしたね。「某甲」には、心の中で、自分の名前を入れて唱えても構いません。というより、自分のことだと思って読むといいですね。


*「不殺生 不偸盗 不邪淫」(ふせっしょう ふちゅうとう ふじゃいん
書き下し文にするまでも無いですが、一応、書き下し文にしてみましょう。
「殺生せず、偸盗せず、邪淫せず」
となります。意味は、わかりますよね。「殺生してはいけない、盗んではいけない、淫らな性行為をしてはいけない」ということです。これらは、身体で為す罪のことでもあります。つまり、行為により犯す罪、ですね。
「殺生」は、「他の生き物の命を奪うこと」ですが、それだけでなく「暴力で相手に恐怖を与えない」ことが含まれています。というよりもそれが基本です。命を奪う以前に、暴力や威圧などによって、他人に恐怖心を与えないことをいうのです。何人もそれをなしてはならないのです。
これは、当然ですよね。誰だって、暴力をふるわれたくないですから。誰だって、命を奪われたくないですからね。暴力をふるう人や殺人を犯してしまった人には、その被害者の気持ちになって欲しいですね。罪を犯してしまった人自身、暴力をふるわれたいでしょうか?。殺されたいでしょうか?。そんなことはないでしょう。
自分の身が可愛いと思うのは、誰でも共通していることです。あなたが、自分の事を可愛い、と思うように、他人も自分の事を可愛い、と思っているのです。
ましてや、抵抗できない自分より弱いもの、幼児、動物などを虐待するなんて、最低ですね。自分が同じようなことをされたらどう思うのでしょうか。
不殺生は、人間が守るべき常識であり、人間が人間たるためのルールなのです。

偸盗」というのは、盗みのことです。これは、単に「ものを盗む」という意味だけではなく、「盗み見、盗み聞き」も含まれます。
ものを盗むことをする方は、そんなに多くないと思います。しかし、盗み見や盗み聞きは、ついついしてしまうのではないでしょうか。悪気があってではないでしょう。つい、聞き耳をたててしまう、つい、ちらちらと見てしまう、そんな程度です。そういうことは、経験あるのではないでしょうか。程度の問題もあるでしょうけど、注意したいですね。
そう考えると、芸能人などのスキャンダルを追っかけている週刊誌の記者などは、不偸盗を完全に破っていますね。そういう週刊誌を喜んで受け入れる読者も、まあ、似たようなもんですよね。知らない間に、盗み見や盗み聞きの片棒を担いでいる・・・・とも言えなくないですからね。あまり、週刊誌ネタを喜んで読むのもどうかと思います。

「邪淫」というのは、「妻以外、夫以外の相手との性行為、不特定多数との性行為」を意味しています。ようは、「乱れた性交遊」と言えばわかりやすいでしょうか。もっと簡単に言えば「浮気」のことですね。
不倫と言う言葉が一般的に言われるようになったのは、いつの頃からでしょうか。また、援助交際などという言葉が、平気で言われるようになったのは、いつの頃からでしょうか。
どちらも、邪淫ですよね。
「なぜ、邪淫がいけないのか。自由な交際はいいじゃないか。夫より、妻より、愛する人ができてもいいじゃないか。」と、問う方もいると思います。
なぜ不倫はいけないのか。それは、一つには盗む行為だからです。夫や妻の相手を盗み獲ることだからです。また、夫や妻の目を盗み、人の目を盗み、隠れてこそこそと行動をするからです。
そして、自分の妻や夫の気持ちを踏みにじるからです。心を傷つけるからです。夫や妻だけではありません。お子さんがいれば、お子さんの心をも傷つけることになります。それは、暴力です。
邪淫を犯せば、それは他人に対し、暴力をふるうこととなるし、盗みをすることになるのです。不倫と言う欲望の果てにあるのは、不幸というものでしかありません。
どうしても、不倫したいのなら、奥さんや夫と別れてから、自由に恋愛できる状態になってから、交際を始めることですね。あ、そうなれば、不倫とは言わないですねけどね・・・・。
「なぜ援助交際をしてはいけないのか。身体を売ってどこが悪いのか。」と問う方もいるでしょう。
答えは、簡単です。人間としての尊厳を持ちなさい。人間なのですから、金さえもらえば、誰とでも性行為をするというのは、あまりにもさもしくないでしょうか。特に、まだ未成年者がそういう行為をすることは、異常としか言いようがありません。人間としての尊厳を持ってください。どうしても、それが好き、そうしたいと言う方は、風俗関係に就職されたほうがいいでしょう。それは、ひとつの職業ですから。援助交際などという中途半端な生き方をするよりは、風俗関係に就職したほうがいいです。
私は、風俗関係の仕事は否定はしません。浮気をするくらいなら、風俗へ行った方がいい、と説きます。(もちろん、行かないのが一番いいのですが、どうしてもガマンできない方は、不倫や浮気より風俗の方がいいでしょう。)。風俗自体は、感心するものではありませんが、全く無くなると、それも問題だと思います。現実と理想は違いますからね。
ま、いずれにせよ、不倫や援助交際はするべきではないのです。人間としても尊厳を持って欲しいものです。尤も、こういう問題の多くは、男性側にあるのですけどね。少女売春でもそうです。買う方の(買うと言う表現は嫌いです。)男性側に問題があるのです。もう少し、欲を慎んで欲しいものです。

*「不妄語 不奇語 不悪口 不両舌」(ふもうご ふきご ふあっく ふりょうぜつ
これも一応、書き下し文にしておきます。
「妄語せず、奇語せず、悪口せず、両舌せず」となりますね。意味は、「
ウソを言ってはいけない、ふざけた言葉を使ってはいけない、悪口を言ってはいけない、二枚舌を使ってはいけない」ということです。これらは、口で行う罪です。
「妄語」とは、「ウソ」のことです。ですから、「不妄語」とは、「うそをついて、人心を惑わしてはならない」ということですね。そんな人心を惑わすような大胆なウソをつく方は、少ないと思いますが、ごまかすためのウソをつくことは、案外多いんじゃないでしょうか。責任回避のためのウソ、ですよね。これはいけません。また、人を陥れるようなうそも、もちろんいけません。
ただし、人を救うウソ、これだけは許されます。真実を告げない方が幸せな場合もあるのですから。うそも使い方によっては、よい行いになるんですね。「ウソも方便」です。

「奇語」というのは、「ふざけた言葉」のことです。簡単に言えば、「内容の無いクダラナイ言葉」ですね。流行語もここに含まれます。お釈迦様は、流行語などやふざけた言葉を使っていては、真意は伝わらないし、そういう言葉を使うもの自身、軽い人に思われるから、この戒律を説いたのです。
一般的に、ふざけた言葉遣いや、流行語を多用して話すような人は、信用が得られませんよね。会話をする時は注意したいものです。

「悪口」というのは、わかりますよね。他人の悪口は言わない方がいいものです。それこそ、常識ですね。ただ、批判を一緒にしてはいけません。批判と悪口は違うものです。最近では、批判めいた悪口が横行してますけど・・・・。

「両舌」というのは、「二枚舌」のことです。あっちこっちで言うことがバラバラであったり、ごますりを言ったり、おべんちゃらを言ったりなどなど・・・。舌は一枚あればいいのです。真実を述べる口があればいいのですよ。

口による罪は、もっとも犯しやすい罪です。誰もが、故意でなく、ついつい出でしまうことが多い行為です。気をつけたいですね。

*「不慳貪 不瞋恚 不邪見」(ふけんどん ふしんに ふじゃけん
書き下し文にしますと「慳貪せず、瞋恚せず、邪見せず」となります。意味は、「貪ってはいけない。怒りに心をゆがめるてはいけない、誤まった考え方をもってはいけない」となります。
これは、懺悔文の中に出てきた「貪、瞋、痴」のことです。覚えていますか?。詳しくは、バックナンバーのその項の所に書いてありますので、そちらを読んで下さい。

以上、十善戒についてまとめておきます。
「弟子某甲 尽未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不奇語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見」
「弟子某甲 未来際が尽きるまで 殺生せず、偸盗せず、邪淫せず、妄語せず、奇語せず、悪口せず、両舌せず、慳貪せず、瞋恚せず、邪見せず」
「弟子、それがし、未来が尽きるまで 殺生してはいけない、盗んではいけない、淫らな性行為をしてはいけない、ウソを言ってはいけない、ふざけた言葉を使ってはいけない、悪口を言ってはいけない、二枚舌を使ってはいけない、貪ってはいけない。怒りに心をゆがめるてはいけない、誤まった考え方をもってはいけない」
となります。十善戒、ぜひ心掛けてください。


*発菩提心(ほつぼだいしん)
これは、お経ではありません。ご真言を唱えます。その真言は、
オン ボウジ シッタ ボダハダヤミ
です。
発菩提心とは、菩提心を起こす、という意味です。「発」は「ほつ」と読みます。
「菩提心」とは、「覚りを求める心」のことです。「菩提」とは、インドの言葉「ボーディー」の音写です。「覚り」を意味しています。ですから、発菩提心のご真言は、覚りを求める心を起こす、そういうご真言なのです。
覚り・・・というとちょっと大袈裟ですよね。そこまで大袈裟に考えなくて結構です。心が安定した状態になりたい、と願う気持ちを起こす、そう解釈してください。
なお、ご真言の訳は致しません。
まとめますと、発菩提心とは、心の安定を得たいと思う気持ちを起こさせるご真言のことで、
「オン ボウジ シッタ ボダハダヤミ」
と唱えることをいう、のです。


*三昧耶戒(さんまやかい)
「三昧耶」とは、インドの言葉の「サマヤ」を音写したものです。この三昧耶戒は、密教独特の戒律です。真言行者は、常にこの三昧耶戒を忘れないようにしなければいけません。真言宗においては、十善戒や出家者用の戒律よりも、重要な戒律です。これも経文ではなく、ご真言です。そのご真言は、
オン サンマヤ サトバン
です。
三昧耶戒は、「ただひたすら、如来の教えに従い、その慈悲心を仰ぎ、自分と如来・自分と他が同一であると感じ、きよらかな心を持ち、自らが菩薩として衆生を救うという行に励み、如来から与えられた命を大切にする」という戒律なのです。意味、わかりますか?。
簡単に言えば、「仏様の教えに従い、慈悲の心を持って、人々を救います」という誓いなのです。三昧耶戒とは、人々の為に生きるという誓いを立てることなのです。
しかし、在家の方々は、なかなかそういうわけにはいきませんよね。ですから、在家においては、
「自分の命を大切にし、その命を生かすように生きること。また、他の人に優しく接すること」という戒律だと思ってください。
命を大切にする、ということは、わかりますよね。自暴自棄になったりしないで、自分の命を大事にし、傷つけたりしないようにすることです。その命を生かすとは、自分のできることでいいから、人々の役に立てるような、そんな生き方をしよう、ということですね。何も、人に親切にしなきゃ、と構える必要は無いのですよ。単に仕事をしているだけでも、あなたは誰かの役に立っているのですからね。
人のことも考えず、自己本位で、職業も持たず、ブラブラしているような、そんな生活は、あなたの命を生かしているとは言えません。どんな些細なことでもいいのです。自分の命を生かすことを考える。そして、行動する。そういう誓いをする、それが三昧耶戒なのです。
ですから、三昧耶戒とは、もっとも厳しい戒律でもあるのです。自分の命を生かすことを考え、実行する、ということは、結構厳しいことですからね。
尚、三昧耶戒のご真言についても、訳は致しません。

以上をもちまして、第一章を終了いたします。次回からは、第2章「般若心経」を始めます(ばっくなんばあ〜2にあります)。
合掌。

追記・・・お経の読み方などは、私どもの宗派「高野山真言宗」のお経本に従っています。他宗派の読み方は異なる場合があります。詳しくは、あなたの家の菩提寺でお聞きください。合掌。

つづく。



ばっくなんばあ〜2 


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