お気楽!!

仏教講座

バックナンバー6


27回のテーマは

輪廻の世界
@地獄の巻 その五
*地獄の世界D 地獄廻り四

6、焦熱地獄(しょうねつじごく)
この地獄は、初めの等活地獄の10万倍の苦しさといわれています。もうここまでくると、想像がつかないですね。はぁ、そうですか、大変な苦しさですねぇ、としか言いようがないですね。刑期も・・・もういいですね。長いんです。ともかく長いんですよ。
この地獄は、皆さんがイメージしている地獄に最も近いのではないかと思います。皆さんは、地獄といえば、血の池地獄・針の山を想像されるでしょうし、大きな鉄ナベで煮込まれたり、猛火で焼かれたり・・・・といったことを想像するのではないでしょうか。そんな地獄らしい地獄(というのも変ですが・・・)が、この焦熱地獄でしょう。
ここでの刑罰は、真っ赤に熱せられた鉄の棒で叩かれる、沸騰した毒液の中で煮られる、鉄板の上で焼かれるというのがメインです。ポピュラーでしょ。よくあるパターンです。
そんな中でも、やはり一つくらいは特徴のある刑罰があるものでして、ここでも焦熱地獄ならではの刑罰があります。それは、罪人の丸焼きです。
山奥のキャンプ場や川などに行ってバーベキューをしたことはないでしょうか?。そういうときに、川魚を波を打ったよような姿に串刺しにして、塩をたっぷり振って、焼いて食べたという経験はないでしょうか?。魚の串焼きですね。居酒屋さんでも焼いて出してくれる店もあることでしょう。
あの串焼きの魚の代わりに、罪人を串焼きにするのが焦熱地獄の特徴なんです。やり方は簡単です。お尻の穴に真っ赤に熱せられた細い鉄の棒を刺します。牛頭&馬頭は、罪人にいろいろなポーズをとらせ、ズブズブとその串を突っ込んでいきます。その先端は口から出てくるかもしれません、頭からかもしれません。ひょっとすると横にそれて首筋からとか、目の玉からとか・・・あぁ、書いていて気持ちが悪くなってきました。想像するとね、ちょっと気分が悪くなります。ホラー映画ですね。
とまあ、そのように串刺し状態にした罪人を猛火でゆっくりあぶるのです。罪人の丸焼きです。姿焼きですね。それを牛頭&馬頭は、食べるわけではありません。フゥ〜と息を吹きかけると、丸焼きの罪人は元に戻るので、またお尻の穴から焼けた鉄の棒を突き刺して・・・・と繰り返すのです。丸焼きにされたときの記憶がありますから、同じ事をまた繰り返されるのは、初回よりも恐怖です。こうして地獄の刑罰は、何度も何度も同じ事を繰り返します。で、罪人が恐怖に慣れてきたら、違う刑罰に変えるのです。
(これでもう魚の串焼きが食べられなくなる・・・・という方がいましたら、申し訳なかったです。素直に謝ります。ごめんなさいね。)

お経では、焦熱地獄の火の威力、熱さについても説いています。焦熱地獄の火は、今までの地獄の火とは比べ物にならないくらい熱いのだそうです。焦熱地獄の火にあえば、今までの地獄の火なんて雪か霜のようなもの、なんだそうです。また、焦熱地獄から豆粒ほどの火を人間界に持ち込むと、人間界はたちまち火の海になってしまうのだそうです。地上はすべて焼け野原になるのだそうです。それほど強力な火なんですね。

さて、これほど恐ろしい地獄にやってくるにはどうすればいいのでしょうか。一体どんな人間がこの地獄にくるのでしょうか。それは、わかりやすく言えば、
「他の意見を聞かず、自分一人で思い込んで、誤った考え方に取り憑かれ、暴行や暴力を振るったり、そのあげく死に至らしめたりしたもの」
がやってくるところなのです。
たとえば、わかりやすい例は、ストーカー殺人ですよね。勝手に思い込んで、誰が止めようと勝手に暴走して、そのあげく相手を死に至らしめます。また、最近多いのですが、幼女殺人者ですね。幼い子供しか相手にできなくて、その子をさらい、暴行して命を奪ってしまうものです。あるいは、快楽殺人者ですね。人の命を奪うことが快楽だ、というものです。そういうものが、この地獄に落ちるのです。
つまり、勝手に思い込んで、勝手に暴走して、世の中のルールを無視して、自分の欲望を満たすために、自分の快楽を追及するがために、他人の命を奪ってしまったもの、そういうものが落ちる地獄なんです。仏教的にいえば、「邪見により邪淫と窃盗・殺生を犯したもの」ということになります。
これを読んでいる方の中に、そのような方はいないと思いますが、もしあなたの中に誤った趣味趣向があるのなら、それは危険因子ですから、気をつけたほうがいいですね。ひょっとするとツキモノかもしれません。早めに対処した方がいいですよ。


7、大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)
この地獄、前の焦熱地獄に大をつけただけです。そろそろ地獄の名前も限界がやってきたような・・・・という印象ですね。この地獄の苦しさは、初めの等活地獄の100万倍です。刑期は、ついに1中劫の半分という表現になりました。焦熱地獄まではちゃんと数字で表されています。ちなみに焦熱地獄の刑期は、
1兆6200億年×8の5乗
です。これでも想像がつかないでしょ。なので今まで書かなかったんです。ところが、この大焦熱地獄は「1中劫の半分」という表現になってしまっています。それがどのくらいの長さなのか、さらに想像がつきませんよね。焦熱地獄よりも長いことは間違いないです。しかも、8の6乗ならば、経典にもそのままそう書いてあると思いますので、それよりも長いことも間違いないです。
ここで、劫(ごう)という単位について復習をしておきます。
1劫・・・一辺が約10キロ(この長さには諸説ある)の直方体の固い石があるとします。その石を百年に一度、天女が降りてきて、その天女の薄衣でさ〜っとなでます。で、その石がなくなってしまうまでの時間のこと。
これが1劫なのです。無限ではありません。有限です。たとえ薄衣といえども、なでれば磨り減ります。やがては固い石もなくなるでしょう。とてつもなく長い時間がかかりますけどね。
1中劫とは、1劫よりも大きい単位です。劫→小劫→中劫→大劫と進みます。この大焦熱地獄の刑期は、1中劫の半分、という表現ですから、それは当然小劫よりも長いです。詳しくは経典にないので、小劫は劫の10倍、中劫は小劫の10倍・・・・というようにしておきましょう。といっても、あまり意味はないですが・・・。(こんな計算、虚しいだけですよね。)
ともかく、長いんです。こんなところにいたら、今の宇宙はなくなって、新しいビッグバンがおきて、別の宇宙ができ、その宇宙も終わりくらいになって・・・・を50回くらい繰り返すほどの時間がたってしまうことでしょう。(こういう時間の単位の中にいると、人間ってちっちゃいな〜、と思えてきます。人間の苦しみなんて、悩みなんて本当に小さなもの・・・と思えてきますよ。)

さて、この大焦熱地獄なんですが、その刑罰は焦熱地獄とほぼ変わらないようです。火の強さが焦熱地獄よりも強いだけです。
ただし、この地獄と次の地獄には、別の特徴があります。それは、これまでの地獄は、そこへ落とされるものは直接やってきたのですが、この大焦熱地獄と次の地獄だけは、それまでの地獄の苦しみの声、うめき声、叫び声、助けを求める声を散々聞かされながら、落ちてくるのです。それも長い年月をかけて・・・・。これも刑罰のうちの一つなのです。
他人の苦しみの声、叫び声、恐怖に引きつる声、助けを求める声、うめき声・・・・こうした声は、聞きたくないですよね。聞いているほうは怖くなってしまいます。それどころか、頭がおかしくなってしまいますよね。精神が崩壊してしまいます。崩壊して狂ってしまえば恐怖は感じなくなりますからね。人間の脳はうまくできています。
ところが、それで許されないのが地獄なんですよ。罪人の精神が崩壊して、狂ってしまい、恐怖を感じなくなってしまったら、牛頭&馬頭が罪人をゆするんです。すると、罪人は正気に戻ってしまうんですよ。もちろん、精神が崩壊してしまった瞬間の記憶をともなって・・・・。
これは苦しいでしょ。肉体的な苦しみよりも精神的な苦しみのほうが、つらいですからね。その精神的苦しみが、とめどなくやってくるのです。何度も何度も何度も・・・・。精神が壊れてしまったら、また元に戻されて・・・・。しかも、その精神が壊れた瞬間の記憶や意識を伴って・・・・です。
精神が壊れてしまったものは、その精神が壊れてしまった瞬間を覚えていません。意識していません。それは当然です。あまりの苦しみ、恐怖から逃れるために、脳が自分自身を壊してしまったのですから、その瞬間は覚えていないのです。それは恐怖が最高潮に達したときでしょうからね。そのために壊れたのですから、覚えているわけはないのですよ。
ところが、これを呼び戻されてしまうのです。なんと恐ろしいことでしょう。恐怖のピーク時の記憶が戻るんですよ。普通、そうなればまた脳は自爆するでしょう。しかし、そんなことは牛頭&馬頭がさせません。こうして、何度も何度も精神の崩壊を繰り返しながら、恐怖に苦しみながらやっとの思いで大焦熱地獄にたどり着くのです。

で、このような地獄へ落ちるものはどんなものかといいますと、今までの罪プラス尼僧さんを犯す・殺す、という罪によります。焦熱地獄は、邪見により窃盗と邪淫と殺生を重ねてしまったものが落ちる地獄でした。ここでは、それに尼僧さんを犯す、あるいは殺す、という罪が加わるのです。
皆さん、ほっと安心したでしょ。尼僧さんを犯したり、殺したりすることなんて、現代じゃあないことです。戦国時代ならいざ知らず。なので、皆さんが、この地獄へ落ちることはないので、安心してください。万が一、憎たらしい尼僧さんと出会っても、傷つけないように注意してくださいね。ちなみに、戦国時代の武将で、尼僧さんを殺した者は、未だ大焦熱地獄には至っていません。まだ、落ちている最中なんだそうです。まあ、その武将も供養されていれば、助かっているかもしれませんけどね。
(と、ここまで書いて大事なことを忘れていました。坊さんの中には、無理やり尼僧さんを襲ったりする者がいないとはいえないんですよね・・・・。あ〜、恐ろしい・・・・。)


8、阿鼻地獄(あびじごく)
阿鼻叫喚地獄ともいいます。苦しみは等活地獄の10億倍です。大焦熱地獄が100万倍でしたから、1000万倍かな、と予想していたら、とんでもありません。この地獄だけは特別です。刑期は1中劫です。ですから、宇宙の誕生と消滅を100回以上繰り返すほどの時間が過ぎてしまいます。それでも、無限ではありません。有限です。永遠ではないのですよ。
阿鼻地獄の「阿鼻」とは、インドの古い言葉の音写です。意味は「間がない」です。つまり「無間(むけん)」です。今までの地獄は、罪人は刑罰の途中で死んでしまいます。あるいは精神が崩壊して狂ってしまいます。で、牛頭&馬頭によって生き返されたり、精神を正常に戻されたりしました。一旦、元の姿に復活するんです。その復活するまでの時間が、初めの等活地獄は長く、大焦熱地獄に向かうほど短くなる、という違いはありますが、一度は死ねるんです。休息できるんです。瞬時にしても。
が、阿鼻地獄だけは死ぬことは許されません。精神の崩壊も許されません。ここには、恐怖に慣れる、ということもないのです。延々と苦しみが続き、恐怖が続くのです。たとえばこんな刑罰があります。
罪人は、身体を縛られ、立たされます。で、頭に火をつけられるんですね。いわば、人間ローソクです。普通のローソクは次第に縮んでいきますが、人間ローソクは縮みません。じわじわと身体を焼きます。その炎は、骨の髄まで達することでしょう。でも死にません。死ねないのです。いつの間にか身体が戻り、また初めから焼かれるのです。恐怖のみが連続しています。
こんな刑罰もあります。全身を小さな虫が食い破ります。皮膚も内臓も、どんどん小さな虫が食い破っていくのです。徐々に徐々に食っていくんですね。もちろん、脳の中も。でも、死なないのです。いつの間にか、身体は元に戻り、虫が身体を食っているんです。恐怖のみが連続しています。
または、熱せられた針の山を登ったり降りたりさせられます。途中で身体はボロボロになります。肉は飛び散り、血は大量に流れ、目玉は落ち、手足ももぎ取られ・・・・、でも死ねません。もう何もそげ落とせないくらいに肉が落ちてしまったら、いつの間にか元に戻っているのです。恐怖のみが連続しています。
鉄板の上で焼かれます。黒焦げになるまで、炭になってしまうまで焼かれます。でもいつの間にか復活しています。恐怖のみが連続しています。
とまあ、こんなところです。これ以上書いていると、気分が悪くなりますのでやめます。
ところで、こうした刑罰は、他の地獄でもある刑罰です。この阿鼻地獄では、他の地獄にある刑罰をすべて経験します。しかも、何倍もグレードアップして。さらには、休憩もできないで。恐怖は連続しているんですよ。脳は自爆できないんです。もちろん、自殺もできません。苦しみは連続していて、徐々に徐々に苦しみの度合いを増していきます。この地獄の刑罰に比べたら、等活地獄の刑罰なんて、そよ風が吹いた程度でしょう。等活地獄が極楽に感じることでしょう。それほど苦しい地獄なのです。

で、この地獄に落ちる者はどんな者かといいますと、最も多いのは、実は僧侶、坊さんなんですね。坊さんは、この地獄に行きやすいのです。なぜなら、この地獄に行く条件に、
「戒律を守らず、教えをも学ばず、人を導きもせず、お布施をもらって遊んでいる出家者」
とあるからです。こういうお坊さん、その辺にいるんじゃないですか?。私は、よく見聞きしますが・・・・。
この阿鼻地獄には、
「五逆罪を犯した者、仏教の教えを否定し、世の中のルールを守らず、好き放題・自分勝手に生きていた者」
が落ちるのですが、さらには、先ほど書いたような坊さんもやってくるのです。
五逆罪とは、次の五つの重罪のことを言います。
@母を殺すこと。 A父を殺すこと。 B聖者(よく修行のできた真面目な出家者)を殺すこと。 C仏様の身体を傷つけて血を流させること。 D仏教教団の和を壊し、分裂させること。
父母を殺してしまうことは、他の殺生の罪・殺人の罪よりも重いのです。この世に産んでくれた、育ててくれた、という恩がありますからね。この父母の殺害ということは、たまに報道されることです。まあ、いずれにせよ、他の命を奪うというのは許される行為ではありませんが。
Bは、滅多にないですね。だいたい、よく修行のできた出家者、聖者といわれるような坊さんや尼僧さんはいませんので。たとえ、坊さんを殺したとしても、この阿鼻地獄へは来ないでしょう。もう一つ手前で止まるでしょう。聖者のような出家者なんていませんから。
Cも大丈夫です。この世は無仏の時代ですから。仏様はいません。よって仏様の身体を傷つけ、出血させる、ということはありえません。たまに、この項目の罪を「仏像を傷つける」と置き換える方がいますが、それはないでしょう。仏像を傷つけただけで(こういう言い方はいけませんが)、阿鼻地獄に落ちちゃあたまったものじゃありません。それじゃあ、大掃除で仏様のすす払いもできません。たま〜に、すり傷をつけたり、指先をちょんと折ったり・・・なんてこともあるでしょうからね。もちろん、わざと折っちゃだめですよ。文化財保護法のできたきっかけとなった広隆寺・弥勒菩薩像の指折り事件、というのがありましたが、その事件のようにわざと仏像を壊すような行為をしてはいけませんよ。まあ、阿鼻地獄に落ちることはないでしょうが、他の地獄へは行くかもしれません。わざと、はダメです。
Dは、坊さんですね。こういうことをするのは坊さんです。大きな声ではいえませんが、各本山、どの宗派でも似たようなことだと思いますが、本山の役職を巡り、政治的な駆け引きや派閥争い、足の引っ張り合いなどが、無いとはいいません。その結果、一宗派が分裂した・・・ということも過去にあったことも確かです。なので、その原因を作った坊さんたちは、阿鼻地獄にいるんでしょうね。僧侶が、僧侶のやるべきことを忘れて政治的画策に走れば、それは阿鼻地獄への助走でもあるのです。
それと、この中には、偽坊主も含まれます。出家者じゃないのに出家したものの振りをしてお布施をもらうとか、覚ってもいないのに自分は最終解脱者だ、聖者だ、といって人々を騙したものが含まれます。(日本にもいましたね。裁判中ですが。聖者でもなんでもないのに聖者の振りをしていたもの。あぁ、そういえば、インドでも手品を使って何も無いところからモノをだし、聖者と崇められている方がいますが。ちょっと考えればわかるのにね。何も無いところから、物質が出てくるわけ無いでしょう。それは手品ですよ。手品。騙されないようにしてくださいね)。

とまあ、こうしてみてみると、阿鼻地獄というのは、父母を殺したもの以外は、堕落した出家者と偽聖者しか行かない地獄なのです。ですので、皆さんはご安心ください。父母殺害なんてひどいことさえしなければ、阿鼻地獄へ落ちることはありませんから。私は、その可能性がある側の人間なので、よくよく注意したいと思います。堕落しないように。


以上、すべての地獄を巡ってきたのですが、いや〜、恐ろしい限りですね。このような場所へは生まれ変わりたくないものです。まあ、地獄へ行くのも難しいといえば難しいのですけどね。しかし、絶対行かないとはいえません。何かの弾みで地獄行きの切符を手にしたり、地獄へ行ってしまうことはありうることです。お坊さんは特に・・・・ですね。
そこで、次回は、こういった地獄に来ない方法、来てしまったらどうすればよいか、助けてもらうにはどうすればいいか、ということについてお話いたします。備えあれば憂いなしですからね。合掌。




28回のテーマは

輪廻の世界
@地獄の巻 その六
地獄も一通り巡りを終えましたので、今回はその地獄に行かない方法、行ってしまった場合の脱出方法についてお話いたします。

*地獄へ行かない方法
これは簡単です。悪いことをしなきゃいいのです。地獄へ落ちるような悪いことをしなければ、地獄へなんて行きません。簡単なことですよね。
これまで、このような罪を犯すと地獄へ落ちる、ということもお話してきました。ちょっとまとめてみましょう。
1、等活地獄・・・・・・<殺生>の罪を犯したもの。殺生には、暴力やイジメも含まれる。
2、黒縄地獄・・・・・・<殺生>+<盗み>の罪を犯したもの。盗みには、覗き見、盗み聞き、他人の妻や夫を寝取る
             ということも含まれる。
3、衆合地獄・・・・・・<殺生>+<盗み>+<邪淫>の罪を犯したもの。邪淫とは、浮気・不倫・援交・売買春も含
             まれる。
4、叫喚地獄・・・・・・<殺生>+<盗み>+<邪淫>+<飲酒>の罪を犯したもの。飲酒とは、我を忘れてしまう
             ほど酒を飲むこと。
5、大叫喚地獄・・・・<殺生>+<盗み>+<邪淫>+<飲酒>+<うそ>の罪を犯したもの。人を救うウソのみ
             が許される。
6、焦熱地獄・・・・・・<殺生>+<盗み>+<邪淫>+<飲酒>+<うそ>+<邪見>の罪を犯したもの。邪見と
             は、因果の教えや空の教えなどを信じない、真理を知ろうとしない考え方のこと。
7、大焦熱地獄・・・・<殺生>+<盗み>+<邪淫>+<飲酒>+<うそ>+<邪見>+<尼僧の殺害>の罪
             を犯したもの。尼僧の殺害には、尼僧に対する陵辱・暴行も含まれる。
8、阿鼻地獄・・・・・・父母・聖者の殺害、仏様の身体に傷をつけ流血させる、仏教教団の和を壊し分裂させる、仏法
             を誹謗中傷したもの、破戒僧、お布施で快楽を味わう僧侶。
ということでした。
これをみると、「あ、俺ヤバイ」、「きゃ〜、あたしって地獄〜?」という方も出てくるのではないかと思います。不倫だってあることだし、盗み聞きだってついついしてしまったりすることもあろうし、覗き見たりすることだってありますよね。イジメに参加したことや、ついつい暴力を振るってしまったこととかもあるかもしれません。我を忘れるほどお酒を飲んだこともあるでしょう。そういう方って、少なくないですよね。
じゃあ、やっぱり多くのものが地獄へいくのでしょうか?。

そんなことはありません。地獄巡りをしたときも言いましたが、心から反省するものは、その罪を問われないのですよ。そう、大切なのは、「心からの反省」であり、「二度と同じ罪を犯さない」ことなのです。これができれば、地獄へいくことはないでしょう。
が、人間って、同じ過ちを繰り返すことが多いのです。浮気性の人は、いくら反省してもついついまた浮気をしてしまうし、もうこんな苦しい思いをするのなら二度と深酒するものかと思いつつ、また飲みすぎてしまったり、覗きで捕まってしまい、二度としませんと誓ったものの、いつの間にか常習者・・・・ということもあるでしょう。頭ではわかっているのに、ついつい己の悪い欲望の誘惑に負けてしまう・・・・。人間って弱いんですよ。
じゃあ、そういう人はやっぱり地獄なのでしょうか?。

いや、そうとも限りません。なぜなら、人間って「いいこと」もしているからです。悪いことばかりしているわけではないからです。少ないかもしれませんが、ちょっとした親切やボランティア、寄付などもしているでしょう。みんなが嫌がるPTAの役を引き受けたりもするでしょう。嫌々ながらも、友達の愚痴に付き合ったりもするでしょう。お寺参りだってするでしょう。先祖の供養もしたりするでしょう。これらは、みんな「善いこと、功徳」なんですよ。
そうしたちょっとした「善いこと」が積み重なって、大きな「徳」になっていくのです。小さなことといってバカにしちゃあいけません。チリも積もれば山なんです。
で、こうした溜まりに溜まった「徳」が、繰り返される「罪」から差し引かれるのです。それに、まったく反省していなかったわけではないでしょうから、その「反省」の部分も考慮されるのです。
ということは、一般の方ならば、多少の罪があっても地獄へ行くことはないのです。安心してください。だからといって、悪いことばかりしていてはいけませんよ。反省したからいいや、といって繰り返し悪いことをしてはいけません。それはウソの反省になってしまいます。できるなら、二度と同じ過ちは繰り返さないことですよね。とはいえ、地獄へ落ちるのも難しいことなのです。

なのですが、思いもよらず地獄へ落ちてしまった場合、どうしたらいいのか。ひょっとしたら、そんなこともあるかもしれません。備えあれば憂い無しですから、そんなときのための脱出方法を伝授いたします。これは、地獄ならずとも、他の苦の世界(餓鬼や畜生、修羅)からの脱出にも使えますので、覚えておくといいでしょう。


*地獄からの脱出
@子孫・縁者に供養を願う。
まずはこの方法が最もよいですね。地獄の苦しみから脱出するには、供養をしてもらうのが一番早いです。ですから、子孫がある場合は、その子孫に「助けてくれ」という信号を送ることです。子孫がない場合は、「縁者」にその信号を送ります。縁者は、縁のある方なら誰であっても構いません。
その信号の送り方は簡単です。あなたの子孫や縁者で、最も印象が深い人、またはかわいがっていた人、あるいは最も助けてくれそうな人、そんな人を心に描き、強く「助けてくれ」と念じればいいのです。
すると、その念じられた子孫や縁者は、何らかのトラブルに遭遇します。事故や病気かもしれません。人間関係のトラブルかもしれません。経済的なトラブルかもしれません。何かはわかりませんが、いずれにせよ何らかのトラブルが発生するのです。
すると、そのトラブルが発生した子孫や縁者は、それに対して様々な対処をすることでしょう。その対処の中には、「供養」が含まれるかもしれません。賭けですが・・・。まあ、その賭けに勝って、子孫や縁者が供養をしてくれれば、あなたも無事に地獄から脱出できますよね。
でも、もし、供養をしてくれなかったら・・・・。
そうならないためにも、生きているときから子孫や縁者に言っておくことです。
「私が亡くなった後、もしもお前に何らかのトラブルが起きたら、私を供養しておくれ。毎月毎月、必ず供養しておくれ。そうすれば、そのトラブルからお前は救われるからね。」
この言葉を残しておくべきですね。そうすれば、地獄へ落ちたとしても、早く脱出できるでしょう。

A地獄を破る言葉・真言を覚えておく
これは便利です。この真言を知っていれば、地獄を破ることも可能です。
よく私は「地獄は坊さんだらけ」といいますが、まさにそれは当たっているのですが(破戒僧は地獄って決まってますからね。で、この世の坊さんはほとんどが破戒僧ですから。お布施でのうのうと暮らしてますからね。)、お坊さんは地獄へ落ちても、割と平気なところがあるようです。なぜなら、地獄を破る言葉を知っているし、その言葉の有効な使い方を知っているからです。
その言葉を紹介しておきましょう。その中で、あなたが最も覚えやすく、「これだ!」と思うものを覚えておけばいいのです。で、日常その言葉を唱えておけばいいのですよ。そうすれば、いざ!というとき、自然に口から出てくるでしょうから。

〜地獄からの脱出用パスワード〜
イ、南無阿弥陀仏
誰もがご存知でしょう。心から唱えれば極楽の阿弥陀如来に届き、蜘蛛の糸をたらしてくれることでしょう。みんなでその糸を登れば、きっと救われることでしょう。

ロ、南無妙法蓮華経
これもよくご存知ですね。やはり、心から真剣に唱えることです。そうすれば、地獄の牛頭&馬頭の振り下ろす刃も、悉く破壊され、地獄の苦しさから逃れられることでしょう。

ハ、南無大師遍照金剛
お大師様は、ちょっと厳しいお方ですが、一心にお大師様の救いにすがれば、あなたを地獄からの脱出路へと導いてくれることでしょう。お大師様と共に、地獄から脱出するのです。アクション映画の如く、牛頭&馬頭の攻撃をかいくぐりながらね。なんといっても、お大師様は「同行二人」ですからね。いつもそばにいて、励ましてくれますよ。一人で脱出するより心強いですよね。

ニ、南無観世音菩薩
これも皆さんよくご存知でしょう。観音様の慈悲にひたすらすがることです。そうすれば、地獄の猛火も暖かい温泉へと変じるでしょうし、針の山も寝心地のよい布団に変じてしまうでしょう。観音様のすることですから、牛頭&馬頭も手出しはできません。安心して地獄で暮らせますよ〜。で、ゆっくり脱出すればいいのです。

ホ、光明真言(こうみょうしんごん)
どんな真言かといいますと、
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
という真言です。うまく唱えられない方は、お近くの真言宗のお寺か、うちの寺まで来てください。教えてあげます。
さて、光明真言は、一心に唱えれば、不成仏霊も成仏させ、地獄を破る、といわれている真言です。我々真言僧は、供養のとき、必ずこの光明真言を唱えます。光明真言で加持された砂は、あらゆる死霊を成仏させる、とも言われています(光明真言を唱えながら砂に御仏の力を入れる秘法があるんですよ)。
この真言を知っているから、真言宗のお坊さんは、地獄に落ちても安心なんです(と、経験者は語る)。どんな功徳があるかといいますと、「光明真言和讃」にそれが説かれていますから、紹介しておきましょう。

☆オンの一字を唱えれば、三世(過去世・現世・来世)の御仏に悉く会うことができ、香や灯明、お供え物を施したことと同じ功徳を得られる。
☆アボキャと唱えれば、あらゆる如来や菩薩が、願いを受け入れてくれ、人々を救ってくれる。
☆ベイロシャノウと唱えれば、大日如来と一体となれる。
☆マカボダラと唱えれば、一切の衆生を覚りの道へと導いてくれる。
☆マニと唱えれば、様々なご利益や福寿を与えてくれる。
☆ハンドマと唱えれば、いかなる罪も消滅し、蓮台に乗せてもらえる。
☆ジンバラと唱えれば、無明も明となって、浄土へと導いてくれる。
☆ハラバリタヤと唱えれば、自分と如来や菩薩が「不二一体」となり、安心の状態に導いてくれる。
☆ウンの一字を唱えれば、あらゆる罪障も消え去り、地獄も悉く破れ、たちまちのうちに浄土へと変じてしまう。

すごいでしょ、光明真言の功徳は(まあ、ややオーバーな表現ですが・・・)。尤も、一心に唱えなきゃいけませんよ。微塵の疑いも持っちゃいけません。一点の曇りもなく信じて唱えることです。そうすれば、地獄も何のその。牛頭&馬頭もカメハメ波にあったが如く、吹っ飛んでしまいます。いや、地獄そのものが吹っ飛んで、浄土へと変じてしまうのです。まさにスーパーパワーな真言なんですよ。

どのパスワードを用いるかは、皆さんの自由です。しかし、いざというとき、すらすらと口から出るようにだけはしておいてください。ひょっとして、地獄に落ちるかもしれませんし、地獄ではなくても、他の苦しみの世界に落ちるかも知れません。ここに紹介したパスワードは、地獄以外の苦しみの世界でも有効ですから、ぜひ覚えておいてくださいね。普段から、よくお唱えしておくといいでしょう。


さて、次回ですが、地獄を終わりましたので、地獄の上の世界「餓鬼界」のお話を致します。餓鬼って、その辺にいるんですよ(といっても、いたずらばかりしている悪ガキとは違います。)。
合掌。




29回のテーマは

輪廻の世界
A餓鬼の巻 その一
地獄の世界のお話が終わりましたので、今回からは餓鬼(がき)の世界を紹介いたします。

餓鬼というものを皆さんはご存知でしょうか?。子供のことを「このガキどもが!」と言ったりすることがありますが、その語源となったのが、仏教で言う「餓鬼」なのです。そもそもは、子供のことを表現する言葉ではないのですよ。たまたま、餓鬼の世界に生きるものの姿や行動が、昔の子供たちに似ていたため、いたずらしたり悪さをしたりする子供のことを「ガキ」と言ったのですね。まあ、そのあたりのことも含めて、これから餓鬼の世界をご案内いたしましょう。

*餓鬼の世界
餓鬼界というのは、地獄界の上にあります。餓鬼界も当然、苦しみの世界なのですが、地獄よりはマシです。どうマシかというと、まず刑罰を受ける期間が違います。地獄は、一番軽い等活地獄でも1兆6200億年でした。これは、とてもオーバーな数字ですが、長いことは間違いないです。ところが、餓鬼の世界はそんなには長くないんです。しかも、地獄のように八種類に分かれていることもありません。ですので、餓鬼の世界の寿命は、みんな同じです。その長さは、およそ1万5千年といわれています。どうですか?。地獄に比べれば、大変短い寿命でしょ。たった1万5千年ですからね。あっというまですよ。

さて、餓鬼の世界に生まれ変わるとどんな姿になるのかご存知でしょうか?。地獄は、亡くなった時の姿に生まれ変わりました。亡くなった時と同じ容姿・年齢で地獄の世界を生きるのです。しかし、餓鬼はそうではありません。餓鬼という生き物に生まれ変わるのです。その餓鬼の姿とは・・・・。
身長はおよそ二尺〜三尺・・・ですから、約60センチ〜約90センチくらいですね。小さいです。頭が大きく毛はまばらにしか生えてません。ほとんど抜けた状態です。そうですね、落ち武者の毛がまばらに抜けたような頭髪です。顔つきは年寄りです。シワシワで肌のつやもなく、ハリもありません。顔色は土気色ですね。
眼は落ち込んではいるのですが、今にも飛び出して落っこちてきそうな感じの眼です。ギラギラとしていて、ねっちりとした視線を発します。暗がりでは餓鬼の眼は爛々と光ります。
鼻と口は大きいですね。特に口は大きく、歯はまばらにしか生えてません。歯槽膿漏や虫歯がひどく、その吐く息たるやねずみ男(ゲゲゲの鬼太郎のキャラです)をもしのぐ臭さです。口から絶えず血を流していたり、よだれを垂れている餓鬼もいます。
のどは異様に細く、針のようです。これでは食べ物はのどを通らないだろう、と思われるくらい細いのです。胸も肉はついていなくて、ガリガリです。肋骨が透けて見えるくらいですね。
ところが、お腹は大きく膨らんでいるのです。もうパンパン状態ですね。食べすぎでもそんなには大きく膨れ上がらないだろう、というくらい膨らんでいるのです。一応、ヘソらしきものもあります。しかし、それは赤くただれ、血が流れ出しています。見るからに痛そうですね。
手足もガリガリに細く、骨に皮がついているだけ、と言った感じです。まっすぐ立つことはできますが、移動するときは、腰を曲げてしか歩けません。何かに躓いて転んだりすると、手足が外れたりすることもあります。歩くときは、骨がきしみガチャガチャと音がでます。
身体の色は、全体的にどす黒く、あちこち皮膚が破れ、どす黒い血が流れだしています。皮膚病がいたるところにできており、体臭もひどく、まるで腐った食べ物のようなにおいがします。
これが餓鬼の姿なんです。こんな姿には、なりたくないでしょ。

さて、こんな姿をした餓鬼はいったいどこにいるのでしょうか?。餓鬼の世界はいったいどこにあるのでしょうか?。地獄は、地下はるか彼方にある、ところでした。餓鬼の世界は地獄の上ですから、やはり地下深くにある、と思われるでしょう。確かに、餓鬼の世界は、地下深くにあります。人間が決して行けないような場所にあるといわれています。しかし、そこだけが餓鬼の生きる世界ではありません。実は、餓鬼はこの人間界にも生きているのです。
ほら、あなたの隣、ほら、そこそこ・・・、その暗がり・・・・。そんなところにも餓鬼はいるんですよ。
餓鬼の世界は、決して地下深く・・・だけではないのです。この現実世界のそこかしこに餓鬼は存在しているんですよ。ただ見えないだけです。

私たち真言僧は、修行中に施餓鬼(せがき)という儀式を毎日行います。時間は午後8時以降です。餓鬼は、昼間は活動しません。だいたい午後9時以降に活動を始めます。午後8時ころは、「さて、そろそろ起き出そうかな・・・」と餓鬼が思っている時間です。そういう時間に「施餓鬼」という作法をして、餓鬼に食べ物を与えるのですよ。
その作法は、東の方角の縁側で行うのが普通です。修行道場は、たいてい四方に縁側がついています。で、道場のまわりは、庭を隔てて林や森、草むらになっています。
午後8時過ぎ、その縁側で施餓鬼作法を行っていると、庭の向こうの草むらに赤く輝く光がたまに見える・・・ようです。その光は、たいていの場合、二つ並んでいます。それが、あっちに・・・こっちに・・・・。たまに風もないのに草がゆらゆら・・・。静かな夜なのにガチャガチャ・ゴソゴソ・・・・。あ〜、確かに餓鬼が集まっているんだなぁ・・・と実感します。
が、目の前に現れることはしません。餓鬼は臆病なんです。むやみやたらに人間の前に現れることはありません。ですから、我々修行僧の前にもその姿ははっきり見せることはありません。たまに、通り過ぎる姿を見る修行者はいるようですが・・・・。
このように、餓鬼はこの世界にも存在しているんですよ。餓鬼の中には、人が集まるにぎやかな場所が大好き・・・という餓鬼もいます。繁華街には、食べ残しのゴミが散乱していますからね。そうした人間が捨てた食べ物を狙って餓鬼がやってくるのです。

餓鬼は、その名前からもわかるようにいつも餓えてます。飢餓状態ですね。なにせ、のどが細いし、歯も満足にないので、十分な食料が取れません。ですので、いつも餓えてます。食料を探して這いずり回っているのです。
(この姿が、昔の子供に似ていたため、子供のことをガキと呼ぶようになったようです。江戸時代以前、もっと古く、子供たちは飢えていました。いや、多くの庶民が飢えていました。食料を求め、子供たちは徘徊したことでしょう。背が低く、ガリガリに痩せ細った子供たちが、食料を求めウロウロする・・・。まるで餓鬼の姿そのものです。だから、子供のことをガキというようになったのですよ。あまりいい言葉ではありませんよね。今では考えられないことですし。なので、子供のことを「このガキが!」などとののしるのは、よくないことですね。余談でしたが・・・)。
ですから、繁華街にも湧いて出てくるんですね。ですので、繁華街を歩くときは気をつけてください。ひょっとすると、餓鬼と出くわすこともあるかもしれません。とはいえ、餓鬼の活動時間は夜ですからね。夜に外出しなければ、安心です。餓鬼には会わないでしょう。
あぁ、そうそう、一つだけ注意しておきます。餓鬼が食事をとるときの姿は、決して見てはいけません。それを見ると・・・とり憑かれます。餓鬼にとり憑かれてしまうのです。
私たちが施餓鬼作法をするときも、このことは注意します。施餓鬼作法とは、餓鬼に食事を施す作法なのですが、餓鬼は我々人間がいるときは、食事には手を出しません。我々修行僧が作法を終え、立ち上がって縁側から堂内に入るのを見て、食事に手を伸ばします。しかし、そのとき、修行僧の誰かが振り返ったりしたら・・・・・。餓鬼は怒り狂い、その修行僧にとり憑いてしまうのです。餓鬼がとり憑くと・・・・それは恐ろしいことになります。
ですので、あなたが夜、繁華街を歩くときは、捨てた食料がおいてある周辺は見ないようにしてくださいね。餓鬼がゴミに首を突っ込んで食事をあさっているかも知れません。そんなところを見てしまったら・・・・あぁ・・・あなたも餓鬼になってしまうかもしれません。人間の姿のままね。

このような餓鬼ですが、どのような人間が餓鬼に生まれ変わってしまうのでしょうか?。それは第一に「モノを惜しむもの」です。また「モノを粗末にするもの」も餓鬼へと変貌しやすいですね。そして、「満足を知らない」ものも餓鬼へと姿を変えてしまうのです。
モノを惜しむ・・・・つまりケチです。他人へ分け与えるという気持ちがないもの、自分さえよければいいという心の持ち主、そういう方は、餓鬼に変身する要素を持っている方です。お気をつけください。たとえば、何か頂き物をしたとき、自分だけそれを得て、他者へ譲る・おすそ分けをするということをしなかったもの、そういうものが餓鬼になるのです。家族の中でも、自分だけお饅頭を取っておいて、こっそり食べる・・・なんていう方もいますよね。そういう方は、危ないですよ。餓鬼に変身しかかっています。
あるいは、人にたかることばかりで、自分は一切お金をださない・・・そういう方もいますよね。みんなで食事にっても、自分は「あぁ、持ち合わせが足りないや」などと言い訳をして支払いをしないとか、奢ってもらってばかりとか・・・。で、「今度出すから・・・」などといっておいて、一回もお金を出さないケチなヤツ。いますよね。こういう方は、餓鬼に生まれ変わる可能性が大変高いんですよ。危ないですよね。
節約は大切です。でもあまりケチケチするのも、美しいものじゃありません。あまりせこいことばかりしていると、いずれは餓鬼になってしまうことでしょう。節約とケチ、その違いをよく理解しておいてください。

モノを粗末にするものが餓鬼になる、というのはよくわかりますよね。食べ物をどんどん捨てていってしまう現代。餓鬼候補の人間が如何に多いことか!。
まだ食べられるのに、まだ食材として使えるのに、平気でどんどん捨てていってしまいます。そういうことをしていると、いつかは食べられない時がやってくる・・・・ものですよね。もう少し、食べられる、食べさせてもらっている、食べることができることに感謝したほうがいいと思います。

満足を知らない・・・。実は、こういう人が最も餓鬼になりやすいんですよ。何事においても、これで十分だ、もういいんだ、という気持ちを持たず、「もっともっともっと!、もっとお金を!、もっと儲けを!、もっと贅沢を!、もっと上を!」と思ってばかりいる者は、餓鬼界へまっしぐらです。際限を知らない欲の深いもの、そうしたものが餓鬼へと生まれ変わるのです。
餓鬼は、ガリガリに痩せ細っています。このガリガリとは「我利我利」という字を書きます。「我利」・・・すなわち「我が利益のみ」ですよね。自分の利益のみを際限なく求めるもの、それが餓鬼へと生まれ変わるものなのです。「我利我利亡者」とはよく言ったものです。「我利」に執着するものは、この世で死を迎えると、「ガリガリ」に痩せ細った餓鬼になるのですよ。あまり欲深く求めないことですね。自分の器をよく知ることです。

餓鬼にならないようにするには、「モノを惜しむ」ことをしない、「モノを粗末にする」ことをしない、「際限なき欲を持つ」ことをしないようにすればいいのです。
しかし、結構、これって難しいことだったりします。まあ、ケチ・・・って方は、あ、います?。あなたの周りに?。節約と言っては、他人にたかっている、おこぼれ頂戴している?・・・あぁ、浅ましいですねぇ・・・・。そういう方は、餓鬼になっちゃいますね。
モノを粗末にしてきた?。じゃあ、今日から改めてください。モノを大切にしましょう。なるべく無駄のないようにね。食べ物を捨ててばかりいてはいけませんよね。
満足を知らない・・・・。もっと欲しい、もっとよい生活がしたい、贅沢がしたい・・・・。まあ、目標を持つことはいいことですよ。いずれは豪邸に住みたいな、だから一生懸命勉強して、いい会社に勤め、高給を取ろう・・・・そう思うのは悪いことではありません。しかし、それが実現できなくても、ある程度のところで終わってしまっても、恨んだり、妬んだり、羨んだりしないことです。自分は自分。分相応でいいんだ、と思ってください。そうすれば、餓鬼には生まれ変わることはないでしょう。
しかし、成功したものや贅沢しているものを羨んだり、妬んだりしていると、餓鬼になっちゃいますよ。ひょっとすると、生きたまま餓鬼になってしまうかもしれません。
そう・・・、最も恐ろしいのは、餓鬼は、死んでからなるだけではない、ということです。現在生きているこの姿のまま、心だけが餓鬼になってしまうこともあるのです。現代ではそうした餓鬼がたくさんはびこっています。生きたまま餓鬼になってしまった、餓鬼にとり憑かれてしまった方が、たくさんいるんですよ。
餓鬼の恐ろしさは、死んでから餓鬼になるばかりではない、というところにあるのです。次回は、そのことについて、昔の餓鬼と現代の餓鬼を紹介しながらお話していきましょう。合掌。




30回のテーマは

輪廻の世界
A餓鬼の巻 その二
今回は、「昔の餓鬼VS現代の餓鬼」の話を致します。
「昔の餓鬼」というと、ちょっと誤解を受けるかもしれません。昔の餓鬼は、現代では滅んでしまったわけではないのです。昔の餓鬼がいなくなったのではなく、現代では、昔の餓鬼に現代版の新たなる餓鬼が増えた、と理解していただいた方がいいでしょう。昔の餓鬼というより、本来の餓鬼、と言った方がわかりやすいかもしれませんね。
まあ、そのように言ってもよくわからないでしょうから、まずは昔の餓鬼(本来の餓鬼)にはどんな種類の餓鬼がいたのか、紹介いたしましょう。

餓鬼には大きく分けて次の三種類がいます。
@無財餓鬼(むざいがき)
A少財餓鬼(しょうざいがき)
B多財餓鬼(たざいがき)
字を見たらなんとなくわかると思うのですが、というか、おそらくは「えっ?」と思われるのではないでしょうか。「餓鬼なのに財が多いの?」・・・・と。その疑問はさておいて、順にお話しいたしましょう。

@無財餓鬼
無財というのですから、一切の財産を持たない餓鬼です。前回、餓鬼がゴミや食べ残しをアサル・・・というような話を書きました。ということは、餓鬼も食事をするわけです。ところが、餓鬼の種類によっては、食事が取れない餓鬼もいるのです。それがこの無財餓鬼なのです。
無財餓鬼は、まったく食事が取れないのです。食欲がないわけではありません。むしろ食欲は餓鬼の中でも最も激しいのです。もう食べたくて食べたくて食べたくて、いつも腹を減らしています。ですが食べられないんです。一口もね。哀れなんですよ、この無財餓鬼は・・・・。
この無財餓鬼も、他の餓鬼と同様に食べ物を探して徘徊します。だいたい夜の9時以降ですね。で、運良く食べ物を見つけたとします。骨をギシギシさせながら、必死の思いで食べものにたどり着きます。その細いガリガリの手で食べ物を掴みますよね。で、その食べ物を口に入れようとします。そのとたん・・・・。
食べ物は炎へと変化し、無財餓鬼の口を焼いてしまうのです。餓鬼は「ギャ〜」と叫んでのけぞります。口や手は炎で焼けただれ、のけぞった勢いで身体の骨が外れたりしています。かわいそうに、無財餓鬼は結局何も食べることができず、己の外れた体の一部を持って、そそくさと隠れてしまうのです。
あるいは水を飲もうとします。餓鬼は、どの餓鬼もきれいな川には近づけません。汚れ濁った川・・・悪臭を放つドブ川ですね・・・にしか近づけないのです。
午後9時以降になりますと、悪臭に誘われてドブ川に餓鬼が群がっています。その中に無財餓鬼も入っていきます。
「ワシも入れておくれ・・・。」
そういうかもしれません。で、ドブ川に手を伸ばします。両手でドブ川の水をすくい、口に入れようとすると・・・・。そのドブ川の水は熔けた鉄になり、手だけでなく口からのど、腹などを焼くつくすのです。
結局、無財餓鬼はドブ川の水すら飲めないのです。
それなのになぜ生きていられるのか?。
それは、無財餓鬼でも唯一食べられるものがあるからです。それは、お経の唱えられた食物です。つまり、お寺のお供え物ですね。もしくは、施餓鬼作法を行われた食べ物(おかゆ)です。それだけは、ほんの少し・・・けしの実ほど・・・ですが食べることが許されるのです。そうして命をつないでいるのですよ。ですので、お寺の周りには、餓鬼が住み着いているのです。まあ、皆さんには危害は加えませんし、見えないのですけどね。むしろ、お寺に食べ物やお米などを布施したりお供えしたりすると、餓鬼は喜びますので、そのお供えをした方に少しの幸運をもたらしたりもします。こんなふうに餓鬼どおしが話をしているかもしれません・・・。
「あぁ、今日はお寺にお供え物があがるかのう・・・。」
「そうじゃのう、あがるといいのう。」
「おや、あの人、なにやら包みを持っておるぞ。おぉ、お寺の中に入っていく。」
「どれどれ・・・。おぉ、和尚さんに何か包みを渡したぞ・・・。ふむふむ・・・、どうやら饅頭らしい。今夜はわしらにもおすそ分けじゃあ・・・。」
「そうじゃそうじゃ、わしら何にも食べられんけど、お供え物だけはほんのちょっとじゃが食べられるもんなぁ・・・。」
「おぉ、お供えをしてくださった御奇特な方が帰られるぞ。」
「おぉ、お礼に福を授けようぞ。」
「そうじゃそうじゃ、福を授けようぞ・・・。」
そういって、無財餓鬼は、そのお供えをした方にほんの少しの命を授けたのです。

餓鬼は、自分に食を与えてくれた方に、寿命を授けると言われています。食べ物を施した分だけの命を与えてくれるのです。ですから、施餓鬼作法は、長寿の作法・延命の作法でもあるのです。無財餓鬼は、お寺のお供え物しか食べられません。ですから、無財餓鬼の命を存続できるようにお供えものをすることは、無財餓鬼を助けることであり、その功徳は大きなものとなるのです。
えっ?、無財餓鬼の命を存続することがいいことなのかって?、むしろ、早く亡くなったほうがいいのではないかって?。
そうではないのですよ。無財餓鬼が、何も食べることができず、何も飲むことができぬままでいたら、すぐに死んでしまうかと言うと、そうでもないのです。決められた刑期は全うしなければなりません。飢えたままね。しかも、一回もお供えものをもらえなかった無財餓鬼は、餓鬼から脱出できず、地獄へ落ちてしまうのです。より苦しみの世界へと落ちていくのです。
ですから、無財餓鬼も必死なのですよ。食べることができてもできなくても、餓鬼でいる長さは変わりません。しかも、食べ物を得ることができなかったら・・・・地獄行きです。なぜなら、食べ物が得られないということは、お寺の近くにいなかった、ということであり、お寺の近くにいなかったと言うことは仏法(お経)を聞くつもりがなかった、ということになり、お経を聞いていないということは修行ができていない、ということになり、罰を受ける対象になるのです。ですから、地獄に落ちちゃうんですね。だから、餓鬼も必死なんですよ。お寺の近くでじ〜っと、お供え物があがるのを待っているのです。
これが無財餓鬼です。

A少財餓鬼
少財というくらいですから、無財餓鬼と違って、少しは食べることができます。とはいえ、食べられるものは汚物・不浄物だけですが。どのようなものを食べる少財餓鬼がいるのか、具体的に例をあげて紹介しましょう。
たとえば、汲み取り式便所に現れる餓鬼がいます。ここが昔の餓鬼なんですよね。現代では、汲み取り式の便所が珍しいですからね。特に都会では見られません。すごく田舎に行けばあるでしょうけど。その汲み取り式便所に溜まった糞尿を食事としている少財餓鬼がいます。

あるいは畑にある肥溜め。現代では知らない方もいるのではないでしょうか?。私が子供のころは、畑で駆け回っていて肥溜めに落ちてしまった子供というのがいましたけどね。その肥溜めに溜まった肥やしを食事にしている少財餓鬼もいます。肥溜めに溜まった肥やしも元は人の糞尿ですから、汲み取り式便所と同じですけどね。人に見られる心配は少ないですね、この場合。

あるいは飲み屋街周辺に現れる餓鬼もいます。その餓鬼は、嘔吐物を狙っているのです。嘔吐物しか食べられない少財餓鬼もいるのです。これは、昔も現代も変わらずにいる餓鬼ですね。

あるいは、死者に群がる餓鬼もいます。死者と言っても、野焼きした死体やその辺に埋めた死体に群がるのです。これも昔にしか見られない餓鬼です。昔は、火葬といっても野焼き同然でしたでしょうし、土葬と言っても決められた場所に埋めた、と言う程度です。現代のように火葬場で焼くわけでもないし、しっかりと土葬にするわけではありません。ですから、そうした死体に群がるのですね。死体を食べるのです。こうした餓鬼は現代には見られません。

残飯を食べあさる餓鬼もいます。前回、繁華街に現れる餓鬼の話をしましたが、その餓鬼がこれですね。人々が残した食べ物、粗末にした食べ物、捨ててしまった食べ物に群がります。これは、昔よりも現代の方が多いですね。じっくり観察すれば、見つけることができるかも知れませんね。

自分を食べる餓鬼もいます。自分を食べると言っても、腕や足ではありません。腕や足はガリガリの骨と皮ばかりですから食べるところがないのです。ですから、頭をかち割って脳を食べるのです。餓鬼でも脳はあるんですね。で、石や鉄の棒で頭をかち割るのですよ。そこから滴る脳を食べるのです(気分が悪くなった方、ご容赦ください)。そこまでして食べたくなるものか・・・、と思うでしょうが、そこが餓鬼の餓鬼たるゆえんでしょう。とにかく飢えていて、なんでもいいから食べたい、自分を傷つけてもいいから食べたい・・・・それがこの餓鬼なのですよ。満足を知らないとこういう姿になってしまうんですね。

また、自分の子を食べる餓鬼もいます。なぜ子供が産めるのかわからないのですが、その餓鬼は、朝晩5人ずつ子供を産み、その子を食べてしまうのです。泣きながらね。やってはいけないことと思いながらも、食欲には勝てないのです。我慢できないのです。子供を産んでは、手が自然に子供を掴み、苦しい思いをしながらも食べてしまう・・・・。哀れな存在です。これは、我が子を食い物にした者の死後の姿なのです。

お経しか食べられない餓鬼というのもいます。お坊さんが唱えるお経を食事としているのですよ。この餓鬼は、名誉ばかり求めていたお坊さんがなる餓鬼です。いるんですよね、お坊さんの中には名誉を欲しがる方が。そんなに名誉職ばかりやって、何が嬉しいのだろうと思いますが、好きな方は好きなんですよねぇ。そんなに威張りたいのですかねぇ・・・・。そんなことばかりしていると、この餓鬼になってしまいます。ちなみにこのお経しか食べられない餓鬼のことを「食法(じきほう)」といいます。

「食水(じきすい)」という餓鬼もいます。無財餓鬼のところで、ドブ川に群がる餓鬼のことを書きましたが、この食水は、ドブ川に群がる餓鬼ではなく、川を渡る人のわらじに付いた水のしずくを飲む餓鬼のことです。現代では非常に珍しい餓鬼となりました。川を渡る人、が少ないですからね。せいぜい、水溜りにうっかりはまってしまった人の靴に付いたしずく・・・くらいしかないですよね。この食水餓鬼も消えつつある貴重な餓鬼です。

とまあ、少財餓鬼にはこのような餓鬼がいます。その中でも現代にはもう見られない、貴重な餓鬼もいます。ちょっとまとめときましょう。
*糞尿餓鬼・・・・・・糞尿を食べる。汲み取り式便所に現れる。都会には見られない貴重種。
*肥溜め餓鬼・・・・肥溜めに溜まった糞尿を食べる。これも都会では見られない貴重種。
*嘔吐餓鬼・・・・・・嘔吐物のみを食べる餓鬼。飲み屋街に現れる。昔よりも現代のほうが多い。
*死者餓鬼・・・・・・野焼きや適当に埋められたり捨てられたりした死体を食べる餓鬼。現代では超貴重種。
*残飯餓鬼・・・・・・残飯や捨てられた食べ物を食べる餓鬼。現代では頻繁に現れる。
*脳食餓鬼・・・・・・自分の脳を食べる餓鬼。出現頻度は不明。
*自子食餓鬼・・・・自分の子供を食べる餓鬼。昔のほうがよくいた。貴重になりつつあるが、現代では変化種が出現。
*食法餓鬼・・・・・・じきほう餓鬼。今でも各宗派本山には多くいると思われる。
*食水餓鬼・・・・・・じきすい餓鬼。昔の餓鬼。現代では貴重種。

とまあ、このような感じですかね。自子食餓鬼(じししょくがき)については、現代では変化種が現れているようです。それについては、現代の餓鬼でお話したいと思います。
それにしても、なんとまあ、恐ろしいのでしょうか。こんな餓鬼などというものにはなりたくないですよね。皆さん、お気をつけください。

B多財餓鬼
この餓鬼は、別名「富裕餓鬼(ふゆうがき)」とも言われ、餓鬼の中でも思う存分食べられる贅沢ができる餓鬼なのです。え〜、餓鬼なのに?、と思うでしょ。でも餓鬼の中には、こんな贅沢三昧の餓鬼もいるんですよ。
この餓鬼は、憑きものの餓鬼なのです。お金持ちにとり憑いて、その人に思う存分贅沢をさせるのです。で、その人の生命力や贅沢したと言う満足感を食べてしまうのです。満足感を食べられてしまうので、富裕餓鬼にとり憑かれた人は、満足できず、いくらでも贅沢をします。とり憑かれた人は、やがてお金や財産は尽き果て、野垂れ死にしてしまうでしょう。そうなったら、その富裕餓鬼は、別の裕福な人にとり憑くのです。つまり、この多財餓鬼は、お金持ちからお金持ちへと渡り歩いている餓鬼なのです。

この多財餓鬼にとり憑かれたら大変です。満足感を食べられてしまうので、いくらでも食べます。ですからぶくぶく太ってくるでしょう。そうなれば、身体は成人病の巣になってしまうでしょう。
また、食べ物だけではなく、何でも贅沢するようになってしまいますから、お金がいくらあっても足りなくなります。大きな資産を持っていても、それに満足できずに「もっとお金を!、もっとお金を!」と言っては、金儲けをしようとします。それは、どんな手を使っても行われます。犯罪なんて関係なく、他人の生活や不幸なんて無視して、金を儲けようとします。そして、贅沢三昧な生活をするのです。贅沢な食材、贅沢な住まい、贅沢な衣装、贅沢な調度品・・・・。お金と酒と異性に囲まれ、名声や名誉も手に入れようとし、満足しない・・・・。生活を縮めることなんてなく、どんどん贅沢の泥沼にはまっていくのです。

一度贅沢をしてしまうと人間はなかなか生活を縮めることができません。いや、多財餓鬼にとり憑かれているのですから、生活を縮めよう、節約しようなんて考えません。いつまでも贅沢を追いかけます。お金が尽き果てるまで贅沢を追いかけます。お金がなくなったら、犯罪を繰り返してでも贅沢をしようとします。たとえば、詐欺で儲けたお金で贅沢三昧をしていた・・・などという犯罪者っていますよね。こういうものは、実はこの多財餓鬼にとり憑かれているのですよ。ほら、そういう犯罪者の肩やお腹のところをよ〜く見てみてください。やたら口がでかく、のどが細く、髪の毛のまばらな変な生き物が見えませんか?。あの話題の人のお腹にもいたでしょ。そう、それが多財餓鬼なのです。

この多財餓鬼は、昔は少ない餓鬼でした。ところが、現代ではたくさんいます。バブルのころには、ゴキブリの数に匹敵するほどいたのではないでしょうか?(大げさですが)。バブルがはじけて、渡り歩く相手がいなくなり、多財餓鬼も少財餓鬼へと身を落としていったようですが、しぶとく生き残った多財餓鬼もいるようです。最近もよく見るようになりました。
この多財餓鬼にも色々な種類がいるようです。それが、昔にはあまり見られなかった現代ならではの餓鬼なのです。その「現代の餓鬼」については、次回にお話いたしましょう。
合掌。



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