お気楽!!

仏教講座

バックナンバー10

48回のテーマは

仏教の歴史
その1
題名からすると、堅っ苦しいようですが、そんなに堅くない内容ですので、安心して読んでみてください。というか、しっかりした歴史は語れませんので、講義でもないし・・・。本当にざっくばらん、大雑把に話を進めていきます。なので、
「あれ、おかしいぞ。ここはもっと違うのでは・・・。」
と言うところも出てくるかもしれません。細かいことはすべてパスします。大体の流れがつかめればいいのですから。

お釈迦様がこの世にいらっしゃったころ、悟りを得た弟子たちは、インドの当時の中心地であるマガダ国やコーサラ国(ネパールに近い北インド)などにとどまることなく、各地に布教に出かけていきました。それは、一人で行ったり、少人数のグループで行ったり様々でした。向かった場所も広範囲にわたっています。中央から南インド、タイ、ミャンマー、スリランカ、あるいは西域へと・・・・。このときは、まだ中国にまで足を運んだかどうかは定かではありません。おそらく、中国へ仏教が入ったのは、もっと後のことだと思われています。

さて、お釈迦様が涅槃に入られたあとのこと。お釈迦様が残された仏教教団は、マハーカッサパが引き継ぎました。彼は、お釈迦様が入滅されたとき、一人の修行僧が
「やれやれ、これで戒律をうるさく言う方がいなくなった。あとは、まあ適当にやればいいな・・・。」
とつぶやいたのを聞き逃しませんでした。これを憂いた彼は、主だった仏弟子500人を集めて、お釈迦様の教え、戒律、それにともなう解説(論)を確認することをしました。遠くへ布教に行っていた弟子も呼び寄せられました。これが「第一回 結集(けつじゅう)」です。これで、教え・戒律・論の統一をしたのです。この結集でまとめられたこと以外は、仏陀の教えではない、と言うことになったのですね。このとき、統一された教え・戒律・論を記憶して、各地へ布教に出かけたもの、マガダ国やコーサラ国の主だった精舎に残ったもの・・・と分かれていったのです。弟子の多くは、マガダやコーサラなのどの精舎やその周辺の山に造られた精舎に残りました。紀元前400年ころのことです。

ところが、お釈迦様が入滅されてから100年も過ぎると、主たる仏教教団に乱れが出てきました。現在の北インドやネパール周辺には、多くの精舎ができていました。仏教の弟子も増大していました。そんな中、仏教教団の内部で対立が生じたのです。
一つは、「出家者のみが救われる」という出家至上主義。
もう一つは、「在家のものでも救われるのだ」とう大衆迎合主義。
です。その時代には、教団を引き継いだマハーカッサパは、もういません。弟子も孫弟子、ひ孫弟子・・・となっています。教えの乱れが生じても仕方がない状況ではありました。それは、第一回の結集でまとめられた教えの中に、
「一般在家の救いはどうするべきか」
「在家でも悟りは得られるか」
という部分に関してあいまいな内容があったようです。特に「在家でも悟りは得られるか」と言うことへの解釈に対立が生じたのです。
当時の仏教教団は、当然お釈迦様がいませんので、悟りを得た長老が中心となって、グループ単位で弟子の指導をしていました。そのパターンは、お釈迦様が存命のころから変ってはいません。変ったのは、疑問が生じたとき答えられるお釈迦様がいない、ということです。マハーカッサパたち、第一回結集に参加した弟子がいれば、きっと在家に関する疑問にも答えられ、見解が統一されたことでしょう。ところが、そのときには、そうしたお釈迦様の直弟子もいないんです。
なので、意見が割れてきても仕方がないのです。
悟りを得たと認められた長老たちのことを「上座長老(じょうざちょうろう)」と言いました。その上座の長老たちが、大衆迎合主義を憂い、2回目の結集を開くことにしたのです。
このときに決まったのが、
「悟りを得るには出家しなければいけない。悟りは在家では得られない。」
「仏陀の教えは、出家者中心の教えである。」
「仏陀の教えは、真実を求めるものである。自身の真実を求めるには在家の生活では無理がある。したがって、出家しなければ真理には至れないのだ。」
「戒律を重視し、守り通さねばならない。」
と、主にこのようなことでした。これより、出家至上主義の教えを「上座部仏教」と呼ぶようになったのです。

が、これに反発したグループがあったのです。これが大衆迎合主義の弟子たちです。いわく、
「お釈迦様は在家でも悟りを得られることはある、と説いている。コーサラ国王后のマッリカー夫人がその例である。」
「また、祇園精舎を建立したスダッタ長者も、阿羅漢の領域に達していたと思われる。」
「仏陀の遺骨などを祈ることにより、この世の苦から救われることがある。」
「仏陀は在家に対して、菩薩の行をすればやがて悟りを得られる、と説いている。」
「仏陀が求めたのは、真理を得ることであろうが、同時にこの世の苦を味わっている民衆すべてを救うことも目的としている。出家者のみが対象ではない。」
といったことを標榜し、出家者のみに向かっていた上座部を痛烈に批判しました。
当時、教団の多くの長老たちは、大衆や民衆の中に、あまり出て行かなかったようです。出かけるのは托鉢のみで、精舎に篭り、自らの修行に励むという毎日だったようです。
これは、おそらくはマハーカッサパの性格によるものと思われます。

お釈迦様は、食事の招待があれば断ることなく出かけていきました。そうした席に出かけ、民衆に対し教えを説いてきたのです。また、精舎に駆け込む一般大衆の相談ごとにも対応していました。出家者だけでなく、教えを聞きに来るもの誰に対しても平等に接していたのです。
ところが、マハーカッサパという弟子は、潔癖すぎるくらい潔癖だったようです。托鉢は、あえて貧しい家を選んで行っていたようです。貧しい家ほど施しをして、来世には裕福な家に生まれ変われるように徳を積ませるようにしたのです。したがって、富裕層からの食事の招待は受けることはしませんでした。
貧しいものは、日々の暮らしに追われ、教えを聞くような余裕はありません。ところが、富裕層は、食後に教えを聞く余裕があります。お釈迦様のころには、下級の身分の者たちも同席させ、教えを聞かせたこともありました。しかし、接待を受けないマハーカッサパは、富裕層に教えを説く機会も少なかったでしょうし、同時に富裕層の家庭で働く下層階級のものに教えを聞かせる機会も少なくなっていったのです。
また、マハーカッサパは、主に自己内部への悟りを中心として教えを説いたようです。一般大衆が持ち込む相談ごとには関心を示さなかったのでしょう。
「救われたいなら出家したほうがいいでしょう。」
「そういうことなら出家しなさい。」
と説いたのではないかと考えられるのです。
この時点で、マハーカッサパ以外の長老に中には、彼の態度に疑問を持つ者もいたのではないでしょうか。お釈迦様が入滅して100年後にいきなり分裂騒ぎが起こるはずがありませんからね。その萌芽はすでにマハーカッサパ時代にあったと思われるのです。
こうして、マハーカッサパの時代には、大衆は置き去りにされる傾向が強まったと考えられるのです。そこで、大衆にもっと目を向けよ、というグループが出てきたわけです。お釈迦様は、もっと大衆に優しかったぞ、ということですね。出家者だけが救われるなんて言っているのは、お釈迦様の本意じゃない、というわけです。
お釈迦様入滅後、100年を経て仏教教団は大きく二つに分かれたのです。

とはいえ、大衆部のグループは亜流であり、少数派でした。主流は上座部です。その後、上座部は大きな権力を持ち、アショーカ王時代にも結集を行い、出家至上主義の上座部仏教こそが正統な教義を伝承していると宣言しています。そして、インド各地にその教えを布教するために弟子を多く派遣しました。また、一説には、このときにその教義を経典としてまとめた、といわれています。
一方、亜流である大衆部は、まだまだ力なく、一部のグループで伝承されているのみでした。
その後、紀元前25年ころ、スリランカで第4回の結集が行われました。もちろん、上座部仏教を伝承する者たちだけが集まっています。目的は、経典の編纂でした。
そうです、このときにようやく「お経」が作られたのです。ただし、それは現代我々がなじんでいるお経ではなく、「読まないお経」です。お経というよりは、教えを説いた記録、と言ったほうがいいでしょう。これが、初期経典といわれるものです。教えと戒律、教えの解説(論)に分けて編纂しました。ここに「経・律・論」という分類が明確に生まれたのです。

この経典の編纂は、皮肉にも大衆部に大きな影響を与えることになりました。
徐々に力をつけはじめていた大衆部のグループも、経典を作り、自分たちの教え、自分たちの仏教を広めようと思いついたのです。彼らは、北インドからネパール方面を拠点として活動していたようです。上座部が、スリランカや地方の野山・森林で修行するようになったのに対し、大衆部は都市に近いところに拠点を構えたのです。それは、お互いの教団の性質によるものでした。出家至上主義の上座部は、修行の妨げにならぬよう山深い地域を好んだのは当然でしょう。逆に、一般大衆を救うことを目指していた大衆部が都市に近いと場所を選んだのは当然のことなのです。
これが、その後の明暗を分ける要因の一つでもあったのではないかと思います。人から人の口に伝わることの威力はすさまじいですからね。

さて、大衆部も上座部にならって、経典を編纂することにしました。上座部に遅れること50年〜100年ほどですが、その経典の編纂は、紀元1世紀〜10世紀近くに渡るまで続きました。もっとも、日本に影響をあたえたのは、7世紀以前に編纂されたものですが・・・。
紀元1世紀、最初に編纂された経典は、「般若経典類」といわれています。一切は空である、と言うことを中心に6種類の実践行、また般若と言う仏陀の持つ智慧の完成を説いています。こうした般若に関する経典がまず編纂され、それは大般若経600巻で完成したと言ってよいでしょう。
この般若経典類は、未だ出家色が濃いように思います。空を理解する、般若を完成するには、「できれば出家したほうが早い」というようなニュアンスが感じられますね。
この般若経典類を掲げて一派を立てたグループがあります。後に「三論宗」と呼ばれる派です。詳しくは後日お話いたします。
さらに、この般若思想を在家側から説いたお経「維摩経」が誕生します。在家者である維摩という富裕者が、仏陀の直弟子を次々論破するという物語で書かれています。大衆部から上座部への痛烈な批判が込められたお経ですね。しかも、在家のままでも空は悟れることを説いており、般若経典類よりも一歩在家よりに書かれています。当時の大衆部の言いたかったことがたっぷり込められており、大変面白いお経になっています。
こうした、般若経典類や維摩経などは、後々「禅」という思想を生む元になっています。

また、そのころ、教えの解説本である論書が盛んに編纂されるようになりました。悟りを得るためにはどうすればいいのか、という参考書ですね。そうした論書は、大衆部のグループに大きく影響を与え、大衆部という大きなグループは、論者の傾向によってさらにグループができてきたのです。
同時に経典類も編纂されます。仏教教団の大衆部は、それぞれのグループに応じて、経典を編纂していきます。やがて、できあがったお経は
「法華経」
「華厳経」
「浄土経典類」
「涅槃経」
などです。
つまり、その当時、すでにそれだけの派に分かれていたらしいことが想像できます。これは、中国に仏教が伝わり始めたころのことです。

お釈迦様から始まった仏教は、100年を経て上座部と大衆部に分かれました。上座部は、数回の結集を経て、お釈迦様以来の出家主義を貫き、戒律を重視する教えを説きました。
大衆部は、在家も救われることを掲げて誕生しました。しかし、その大衆部の中でも、上座部に近いグループや論書により修行を選ぶグループ、主に心の分析に力を注いだグループ、菩薩の救いを求めたグループ、瞑想を重視したグループ、易行を求めたグループなどに分かれていったのです。
また、もう一つの流れができていました。それは、仏教の枠を超えて、他派の教えや儀式、あるいはインド古来の土着宗教を積極的に取り入れた流れです。それはやがて「密教」と呼ばれるようになるのですが、もう少し先の話です。
ともあれ、仏教が中国に伝わるころになると、大衆部として一つであった仏教教団の亜流もさらにいくつかのグループに分かれるようになったのです。それについては、次回にお話いたします。
合掌。


49回のテーマは

仏教の歴史
その2
前回、お釈迦様の教えは出家至上主義のグループと大衆を相手にするグループとに分かれていったとお話いたしました。で、大衆相手のグループは、さらに様々なグループに分かれていきます。このような大衆を相手にしたグループは、「大乗仏教」と呼ばれるようになります。大勢の人々を救うことを目的としていますので、自分たちの教えを「大きな船」にたとえて「大乗」と称したのです。
一方、出家至上主義のグループは、多くの人々を救うことを目的とした大乗仏教に対し、自分自身が救われるだけの教えとされ、大乗仏教のグループから「小乗仏教」と蔑まれるようになります。自分一人しか救われないから「小さな乗りもの」と譬えたのです。が、出家至上主義のグループは、お釈迦様以来の長老の教えなので、「上座部仏教」と自らは称していました。
さて、その上座部仏教ですが、結局のところインドでは消えてしまいます。当時インドで発展した仏教は、大乗仏教へと流れて行ってしまったのです。その流れは、止めることはできなったのですね。
上座部仏教が残ったのは、インドの中南部、及びスリランカでした。その地方は当時にしてみれば「辺境の地」だったからです。人口も少なく、大乗仏教を伝えるものもいなかったのでしょう。大乗仏教にしてみれば、インドの辺境の地へ布教に行くよりも中国を目指したほうがよかったのです。
それほど、中国は発展していたのです。大変大まかですが、ざっと中国での仏教の発展の流れだけを見ていきましょう(中国の仏教史は小難しいのです。なので、バッサリと省略させていただきます)。

さて、中国に仏教が伝わったのは、紀元前後と言われています。当時はまだ上座部仏教が主流でした。ですので、上座部仏教がまず伝わったのです。
当初は、大まかに仏教という形でした。まだ宗派のようなものはできていません。しかし、その中にもいろいろなグループが生まれていました。それらのグループが、やがて現在に見られる宗派となってくるのです。
インドで新たに大乗経典が作られると、それはすぐさま中国へ次から次へと伝えられました。インドの僧侶もどんどん流入してきます。インドの言葉サンスクリット語やパーリ語で編纂された経典類は、次々と漢訳されるようになりました。中国では仏教が爆発的に流行するようになるのです。特に空の思想関係の教えは中国で大いに受け入れられたようです。
やがて、インドで大乗仏教のグループが力を持ち始めると、中国でも大乗仏教のグループが上座部仏教に対して反乱を起こします。こうして、上座部仏教は廃っていき、大乗仏教が興隆するようになるのです。
やがて、細かく分類されるようになります。インドに発生した大乗仏教は、中国人の手を経て様々なグループに分けられ、分類されるようになったのです。こうして、いろいろな宗派が生まれたのです。
*三論(さんろん)
*法相(ほっそう)
*律(りつ)
*華厳(けごん)
*禅(ぜん)
*天台(てんだい)
*密(みつ)
です。こうして生まれた宗派は、そのまま日本に伝わっています。これらの詳しい内容は、日本の仏教の各宗派の教えで解説いたします。今は、簡単に説明をしておきます。

初め中国で特に人気があったのは、空を論じた三論でしょう。中国では、まず空の理論が盛んになったのです。
皆さんもよくご存知の三蔵法師・・・本名を玄奘(げんじょう)といいます。三蔵法師は称号ですね・・・が活躍します。
(三蔵とは、経・律・論・・・教え・戒律・論書・・・のことをいいます。で、三蔵法師とは、これら経・律・論によく通じた僧侶に与えられた称号なのです。名前ではありません。ですので、他にも三蔵法師はたくさん存在しています。)
玄奘三蔵は、西遊記でも有名ですよね。インドのナーランダー寺へ経典を受け取りにいった僧侶です。西遊記は、中国からインドのナーランダー寺までの旅路を元に創られたお話です。もちろん、史実ではありません。
この玄奘三蔵がもたらした般若経典600巻により、空の思想が流行します。般若経典を中心とした空の思想ですね。これは、日本に「三論宗」として伝わります。

それと同時に、空を体感するための座禅も大いにもてはやされます。禅の祖は達磨大師です。皆さんもよくご存知のダルマさんのモデルになった方ですね。
(なにゆえダルマさんがあの形になったのか・・・。達磨大師は、空を悟るため洞窟の中で壁に向かって座禅をすること9年間に及んだそうです。面壁九年、といわれてます。そのため、手足がなくなったのだとも・・・・。まあそれは出まかせなんですが、あのダルマさんの姿は、面壁九年の達磨大師の姿なのです。空を悟るため、じーっと座禅していた姿ですね。それを禅のお寺さんが利用して、祈願用のダルマさんにしたのですよ。本来は、「祈願が成就するために耐え忍ぶこと」を意味していたんですけどね・・・)。
禅は、その達磨大師を祖としているのですが、この達磨大師は宮廷へも出入りが許され、国王とも面会できるほどの力を持っていました。それほど、当時の中国では禅が流行していたのです。
が、日本では禅が流行するのは鎌倉時代以降です。

同じころ、唯識という仏教の学問が発展を遂げます。唯識というのは、心のありようを細かく分析した学問です。悟りに至るには、心がどう作用しているのかを分析したんですね。一種の心理学です。西洋でフロイトやユングが登場するはるか昔に、仏教では心の分析を終えていたのですよ。この唯識学は、「法相宗(ほっそうしゅう)」として日本に伝わります。

律は、戒律のことです。様々な教えが中国で流行する中、正式な出家者、出家作法が問題になってきました。また、勝手に僧侶になられては国が乱れますので、国の管理が必要になりました。このあたりが中国的ですね。インドとは全く異なります。いろいろな宗派がたつのは構わないのですが、いい加減な僧侶は許されない、ということです。インドでは、どんな修行者でも聖者として成り立つんですけどね(実際に、インチキな聖者は当時から現代でもいます。しかし、民衆がこれを受け入れているんです。また、いい加減といっても、そうした聖者は貪欲ではなく、日々暮らしていければいい・・・程度の布施しか要求しません。中国人や日本人とは欲の度合いが初めから異なるんですね。)。
で、正式な出家作法を取り仕切っていたのが「律」のグループなのです。代表的な僧侶に「鑑真」がおります。鑑真は、律のエキスパートでした。
この律のグループが提唱した戒律が中国でも日本でも正式な戒律として定着しています。

天台は、法華経を最上とした教えです。我が国の最澄さんが学んだ教えですね。天台とは、中国の浙江省にある山の名前です。隋の時代の智(ちぎ)という高僧が天台山に住し、開いた宗派なので天台宗と言います。隋から唐代にかけて大いに流行します。

華厳とは華厳経をもとに成立した宗派です。華厳経は、お釈迦さまが悟りを開いてすぐの境地を説いたお経と言われております。ですので、内容は悟りそのものを直截的に説いたもの、といわれております。そのため、華厳宗は自分たちの教えこそが、お釈迦様の教えを直接伝えていている、と主張していました。
華厳宗は、中国だけでなく、朝鮮半島にも伝わっていきます。もちろん、日本にも早くから伝わっています。

密は、密教のことですね。この密教だけは独特の流れをもっています。隋の時代にはそれほど目立つことはなく、まだ経典類も整備されてはいませんでした。それが次第に整備され、唐代に不空というインドの僧侶が中国にやってきて以降、爆発的に密教が流行し始めます。不空は宮廷にも出入りし、皇帝のために様々な修法を行い、皇帝の要望にこたえました。そのため、皇帝の信仰は厚く、国は密教を頼るようになっていくのです。不空の弟子の恵果阿闍梨(けいかあじゃり・・・弘法大師の師)も宮廷からの信任厚く、唐の時代は密教全盛期を迎えます。このため、他の宗派は、影をひそめることとなるのです。
しかし、中国は広く、当時の人口は世界一でした。ですので、密教が全盛期であっても、他の宗派も滅びることなく継承されています。

とさて、このように中国において大乗仏教は大きく発展を遂げ、いろいろな宗派が誕生します。そしてそれらの宗派の教えは、すべて日本に伝わっています。

日本に初めて仏教が伝わったのは、西暦530年ころ(550年ころか?)とされています。しかし、しっかりした教えが伝わったのではなく、中国や高麗などで流行している仏教という信仰がある、という程度だったようです。それでも、貴族の間で仏像を造ったり、草堂を造り仏像を安置したりすることが見られるようになったそうです。
西暦500年代後半になりますと、新羅や百済から僧侶がやってくるようになります。最新の仏教が伝わり始めるんですね。それは、貴族や権力者たちの間で流行するようになります。大きな寺院の建立も始まります。やがて、聖徳太子が執権を握ると(最新の歴史では聖徳太子はいなかったかも、といわれています。まあ、それに代わる人物はいたのでしょうが)、仏教は国の宗教として定着し始めるのです。500年代末から600年代初頭にかけ、奈良では次々と大きな寺院が建立されるようになります。法隆寺もその一つですね。
622年聖徳太子が亡くなっても仏教は廃ることなく、ますます権力者たちの間で広まっていきます。そして、日本に初めて宗派としての仏教が伝わります。
まず、日本に最初に伝わった仏教の宗派は、三論宗でした。625年のことです。その後、遣唐使が始まり他の宗派の仏教も伝わるようになります。奈良仏教の始まりですね。
次に伝わった宗派は、大化の改新のあと、660年に法相宗が伝わります。これを契機に、宮廷は様々な経典にのっとって、鎮護国家の法会を営みます。あるいは、殺生を禁じたり、生き物を解き放つという放生会(ほうじょうえ)を行ったりもします。すべては、天皇の身体健全・玉体安穏のためですね。
680年ころになりますと、寺院の数や僧侶の人数、経費などを国が管理するようになります。法が定められるんですね。このころ、薬師寺の建立が始まります(698年に完成)。
役行者(えんのぎょうじゃ)が活躍するのもこのころです。役行者は、国が認めた正式な僧侶ではありません。勝手に出家し、勝手に悟り、神通力を身につけ、民衆の間に民衆のための仏教を広めた方ですね。
600年代は、日本に仏教が定着し始めるころです。このころに、国の仏教と民衆のための仏教が生まれてくるんですね。次回は、日本での仏教の流れをもう少し詳しく見ていきましょう。
合掌。


50回のテーマは

日本仏教の歴史
その1
今回から日本の仏教の歴史について、ちょっと詳しくお話しいたします。
日本に初めて仏教が伝わったのは、西暦530年ころ(550年ころか?)とされています。しかし、それ以前から少しずつですが、仏教は伝わっていたようです。ただし、しっかりした教えが伝わったのではなく、中国や朝鮮半島などで流行している仏教という信仰がある、という程度だったようです。
一説によりますと、西暦522年に大和高市郡に草堂を建立し、仏像を安置したそうです。現在のところ、これが日本の仏教に関するもっとも古い記録のようです。
一応、仏教伝来は538年(あるいは552年か)とされています。このとき、百済の聖明王が日本に仏像と経論を贈ったとされています。これが、仏教伝来ですね。
554年、百済から僧がやってきて、五経・易・歴・医学などを伝えました。日本からも使者が派遣されているようです。577年、百済の威徳王より、経論と律師・禅師・比丘尼(びくに)・呪禁師(じゅごんし)・造仏工・造寺工が送られてきます。律師とは、主に戒律を授ける役目の僧侶です。禅師は禅の僧侶ですね。当時、中国を中心に禅の思想が大流行していたので、禅僧がやってきたのでしょう。比丘尼とは尼僧さんのことです。呪禁師は呪術を行う僧ですね(僧というよりは道教の師と言ったほうがいいでしょう)。あとは仏像を造る仏師と寺院を建立する棟梁です。そうした技術者も日本にやってきたのです。そうした文化は、百済や新羅など朝鮮半島から日本に入ってきました。

日本の朝廷の貴族たちは、他国から入ってきた仏教が大いに気に入ったようで、権力者たちは我さきに寺院を建立したり、仏像を自宅に安置したり、渡来の僧侶らを招き仏教の儀式をしたようです。昔も、日本人は他国の流行ものに弱かったんですねぇ。海外ブランドにあこがれる日本人・・・DNAなのかもしれません。
たとえば、583年には蘇我馬子が、自宅に仏殿を造っています。また、翌年には司馬氏の娘ら3名が出家をしています。これが日本初の出家者です。なんと、日本の出家第一号は女性だったのです。蘇我馬子は百済から購入した弥勒菩薩石像をその日本初の出家者の尼僧さんに供養させています。これが、日本人による法会第一号でしょう。
蘇我馬子は仏教をいたく気に入ったようで、その後塔を建立し法会を行っています。585年のことです。が、もちろん反対勢力もあります。仏教に対抗したのか、蘇我馬子に対抗したのか(おそらくは後者)、物部守屋が馬子の仏殿や塔を焼き払い、仏像を難波の海に捨ててしまいました。まだまだ、仏教は重んじられてはいなかったのです。

そんな折、天皇が病に倒れます。587年のことです。天皇は、仏教に帰依すれば助かるかどうかを家臣に諮ります。その結果、家臣の何名かが天皇の病気平癒を願い、出家し仏像と寺を造る決心をします。これはどうやら効果があったようで、仏教は朝廷に積極的に受け入れられるようになります。この勢いに乗じて、仏教信者であった馬子は、仏教反対者である物部氏を攻め滅ぼしてしまいます。まあ、有力者同士の争いに仏教を利用したのですね。仏教信者であった馬子側に味方が多くついた、仏教反対者であった物部氏側には味方がなかった、ということです。天皇が仏教を認めた以上、それに逆らうのは得策ではない、と判断した有力者が多かった・・・・ということですね。
仏教は、その思想は脇に置き去られ、早くも権力闘争に利用され始めたのです。宗教は、当時の国をまとめるには大変効果的な手段だったのです。

こうなると、誰も仏教導入に関し反対者はいなくなります。百済からはどんどん仏教関係の人や物が入ってきます。
588年には、初の仏舎利が伝わります。僧侶、寺院建立の大工、瓦技術者、画師など最新の技術がどんどん伝わったのです。これにより、建築物も飛躍的に大きなものになり、文化が発展し始めたのです。仏教とともに、多くの最新文化も輸入されたのです。
一方、日本からも百済に仏教を学ぶために留学をする者が出てきました。初の出家者である尼僧さん・・・善信尼という・・・も留学します。大和の国では飛鳥寺の建立が始まります。善信尼は、2年ほどで帰国します。
593年、聖徳太子が摂政に就任。仏教を基にした政治を行うのは有名な話ですよね。ですが、最近の研究によると、ひょっとすると聖徳太子なる人物はいなかったのではないか、ともいわれています。まあ、聖徳太子かどうかは知りませんが、仏教思想を取り入れた政治が始まったのは事実です。仏教が政治に色濃く影響を与えるようになったのですね。
聖徳太子は、四天王寺を建立し始めます。そして、翌年には仏教興隆の勅を発しています。また、高句麗の僧を自らの師として、仏教を深く学びます。
596年、飛鳥寺完成。馬子の子が寺司(寺の業務を司る職)に就任し、百済の僧侶を招きます。馬子も仏教を利用し、勢力拡大を狙っていたのですね。

601年、聖徳太子は斑鳩宮の造営に取り掛かります。その後も百済からは次々と僧侶や技術者がやってきます。そうした技術集団のリーダー秦河勝もこのころ渡来し、多くの最新技術を日本にもたらします。また、広隆寺の建立も開始します。604年には、十七条の憲法が発令され、仏・法・僧の三宝を敬うよう定められました。さらには、仏教の儀式も盛んに行われようになっていきます。
604年には聖徳太子が法華経などの講義を行っていますし、お釈迦様の誕生を祝う花祭りや盂蘭盆会を行いました。607年には法隆寺の建立に取り掛かっています(諸説あり)。また、遣隋使も始まっており、小野妹子が隋に派遣されます。一緒に、日本の僧侶が隋に留学をします。
聖徳太子は、その後も法華経などの経典の講話を622年に亡くなるまで、幾度も行います。翌年には、そうした聖徳太子の冥福を祈り、法隆寺に釈迦三尊像が奉安されます。この像は、有名ですよね。奈良へ行かれることがありましたら、拝観されるといいと思います。
624年、僧正・僧都・法頭の制度ができ、尼僧をその下に置くこととなり、尼僧の取り締まりが始まります。ということは、尼僧さんの規律が乱れていた、ということでしょう。どう乱れていたかは・・・・ご想像にお任せいたしますが。
翌年の625年、初の宗派仏教が伝えられます。それは高句麗の僧によって伝えられた「三論宗」です。もちろん、日本では、すぐに宗派として確立したわけではなく、三論という派があり、その教えはこういう教えだ、という形で伝わったのです。この年に、日本に三論宗という宗派ができたわけではありません。それは、もっと後のことです。

時は流れ、中国では隋から唐に変わり、遣隋使も遣唐使にとなりました。隋の時代よりも、船は多く出るようになり、遣唐使は盛んに行われるようになったのです。
大化の改新後、天皇は仏教の興隆を宣言し、国が寺院の管理を行うようになります。これより、国が寺院建立の管理や費用の拠出を行うようになります。国により仏教の管理が始まったのです。
寺院の建立や仏教の講話などは多くおこなわれるようになりました。そのほとんどは三論宗の教えに従っていたようです。さらに新しい仏教を取り入れるため、多くの僧が唐にわたりました。653年道昭という僧が唐にわたり、玄奘三蔵より直接教えを学びます。これが「法相(ほっそう)教学」といわれるもので、翌年道昭が帰国しその教えを持ち帰りました。この法相教学が後に「法相宗」という一宗派になります。この時点で、日本における仏教の教えは「三論宗」と「法相宗」が主流となったのです。
その後、多くの僧が唐にわたり、法相教学を学んできます。したがって、日本でも法相の教えが中心になっていきました。
しかし、世の中は乱れ始め、667年には大津へ遷都、670年ころには法隆寺を焼失(諸説あり)、672年には壬申の乱がおき、飛鳥へ遷都します。ここでようやく落ち着き、焼失した寺院の再建がはじまります。675年には殺生を禁じ、翌年には放生会(ほうじょうえ)が始まりました。おそらくは、世の中の乱れは、生き物の命を粗末にしたがため、と説いた僧がいたのでしょう。江戸時代にもありましたよね、生類憐みの令・・・などという悪法が。捕らわれた生き物を解き放つという放生会は理解できますが、殺生の禁止は民衆には受け入れられないでしょう。しかし、国家による仏教を基準にした統制はまだまだ続きます。それは、各国・・・地方ですね・・・に金光明経・仁王経の読誦と布教を義務付けます。国家鎮護・玉体安穏のためですね。
さらには、各国の大寺を指定し、地方の寺の管理をするようになります。地方の寺院が勝手な行動をしないように目を光らせ始めたのですね。朝廷付近では、大きな寺院の建立が進み、698年には薬師寺が完成します。その間、僧の位の整備がなされ、僧と尼僧の監督官を置くことが決まります。国による僧と尼僧の完全なる管理が始まったのです。
その背景には、日々の暮らしが苦しいため、勝手に僧侶になってしまう者が続出したからです。いわゆる「私度僧(しどそう)」と呼ばれる勝手に出家した僧侶です。こうした僧侶が増え始めたんですね。それでは、国の統率がとれません。なので、年間の出家者数を決めたり、僧侶や尼僧への食の配分を行ったりという管理を国がすることとなったのです。
その代表が役行者(役小角)です。

600年代後半、役行者が大活躍します。民衆のために橋をかけたり、水をひいたり、井戸を掘ったり、病を治したり、多くの霊験を示します。神通力を使い、民衆のための仏教を広めていきました。人々は、役行者に帰依し、役行者の教えにしたがい生活をするようになってきました。役行者に従って勝手に出家する者も多く出てきました。彼らは、奈良の大峰山を中心に活動し始めたのです。
これは国にとっては大いに邪魔です。朝廷の場所からも遠くはありません。これ以上、役行者が力を持つことは国家の危機だと感じた朝廷は、役行者を伊豆に流します(役行者は、伊豆に流されても神通力で富士山まで飛んで行ったそうです)。しかし、役行者がいなくなったあとも私度僧がいなくなることはありませんでした。彼らは彼らで独自に新しい仏教を取り入れていくのです。

さて、中央では中心的存在であった僧侶道昭が亡くなり、火葬されます。これが日本人初の火葬、と言われています。701年には大宝律令が完成され、翌年には僧の位も「僧正・大僧都・小僧都・律師」となります。こんなころ、初の「大般若法会」が修法されます。
710年平城京に遷都。民衆が勝手に僧となる私度僧の禁止を強化、役行者のあと民衆のために活動をしていた行基を取り締まり、行基の民衆のための活動を禁じます。民衆仏教の弾圧ですね。仏教は、国だけでいいのだ、天皇のためだけ、また国家に関わる権力者のものであって、民衆のためのものではない、ということですね。今も昔も国家権力により苦しむのは庶民なのです。
このころの仏教は、三論宗の教えと法相宗の教えが中心でした。唐へ留学した僧侶が、新たなる三論や法相の教義をもたらしました。また、同時に法華経信仰が盛んになり、740年には諸国の大寺に法華経10部を書写することを命じています。
740年、華厳経の講話が初めて行われます。のちに華厳宗と呼ばれるあらたな教学が登場したのです。華厳宗の教えは勢力を持ち始め、その影響で741年には当寺の天皇であった聖武天皇により国分寺・国分尼寺の建立が命じられます。また、743年には華厳経世界を具現するため大仏の造立を発願します。2年後、現在の東大寺の位置にて大仏の造像がはじまります。奈良の大仏ですね。
奈良の大仏・・・華厳経に説かれる如来・盧遮那仏(るしゃなぶつ)・・・が完成したのは749年のことです。聖武天皇は東大寺を参拝し、三宝に帰依することを誓います。3年後の752年、大仏開眼法会。754年には鑑真和上が来日し、聖武天皇らに戒を授けます。また、正式な出家作法を伝え、東大寺に戒壇院を建立しました。これより後、東大寺で戒律を受けた者のみを正式な僧侶とするようになったのです。出家するなら東大寺でのみ、ということですね。鑑真は、その後唐招提寺を建立します。ここに、戒律に関する教義を中心とした律宗という派が誕生します。
戒壇院は地方にも作られます。地方から都へ出てくるのが大変だ、という声に応じたものでしょう。そこで、下野薬師寺と筑前観世音寺(太宰府)にそれぞれ戒壇院を建立しました。こうして、僧侶の管理がますます強化されたのです。
日本の仏教は、すべて国の管理のもと、国が推奨する教えのみに統一されていたのです。この時点で、国が推奨する仏教教学は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗となったのです。

764年藤原仲麻呂の乱をきっかけに、道鏡(「仏像がわかる」バックナンバー9参照)が台頭してきます。やがて、道鏡は法王まで上り詰めますが失脚し、下野に左遷されます。ついに権力者になろうとする僧侶が出てきたわけですね。これをきっかけに、天皇や皇后の看病等にあたる僧侶は一人に任せるのではなく、すぐれた僧10人を選び、十禅師としました。
このころ、世は乱れ始めました。784年には長岡に遷都しています。世間が乱れた時、優秀な僧侶が登場するものなのですね。
785年、最澄さんが東大寺で戒を受け、正式な僧侶となります。その後、比叡山に草庵を造り、ここに篭ります。788年には比叡山寺(のちの延暦寺)を建立。三論宗・法相宗・華厳宗しかなかった仏教界、ダレ切った当時の仏教界に新たなる風を吹き込もうとしました。それは法華経を中心とした天台教学でした。
794年平安京に遷都。最澄さんの活躍は目覚ましく、天皇からの信頼も得ていました。802年には高雄山寺にて法華経の法会を開いています。そして804年には本場の天台教学を学ぶため、入唐します。最澄さんは第二船。そのときの第一船に乗っていたのは弘法大師空海さんでした。
最澄さんは東大寺で戒律を受けた正式な僧侶でした。ところが空海さんはというと、国が嫌っていた「私度僧」だったのです。空海さんは勝手に僧侶になった方なんですね。で、唐に渡る前、慌てて東大寺ではない寺で戒律を授かり、一応出家者として認められる身分で唐に渡っています。

最澄さん・空海さんが帰国し開いたのが、天台宗と真言宗です。ここに、日本の仏教は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・天台宗・真言宗が成立したのです。
天台宗の教えは法華経を最上位とした教えだったのですが、世間は空前の真言宗(密教)ブームでした。そこで、世間に対応するため、天台宗も密教化が進められます。しばらくの間、仏教界は真言宗と天台宗の密教が中心となるのです。合掌。


51回のテーマは

日本仏教の歴史
その2
前回の続きで、日本の仏教の歴史について、ちょっと詳しくお話しいたします。今回は、平安時代以降の仏教の歴史についてお話しいたします。
平安時代の前半は、最澄と空海という二大宗教者の時代でした。特に空海さんは現代にも大きく影響を残した方ですね。日本に本格的な密教をもたらしたのです。
平安時代の前半・・・西暦800年代前半・・・は、空海さん中心の仏教でした。国は、密教一色の時代であった、と言っても過言ではないでしょう。そのためか、最澄さんの比叡山は影薄い存在となっていたのです。
そんな折、空海さんが高野山で入定します。835年のことです。その3年後、比叡山の修行僧・円仁が唐に渡り、密教を学んできます。10年ほど(847年)で帰国し、比叡山に新しい密教を取り入れます。また、853年には同じく比叡山の修行僧・円珍が唐に渡り、5年ほどで帰国し密教を学んできます。こうして、円仁と円珍により、法華経を第一におくという天台の教えを継承した比叡山は密教色の強い宗派へと変わっていきます。しかし、密教色が強くなったというだけで、そこには密教だけでなく法華経の教え、禅の教え、浄土の教えが混在していました。空海さんが開創した高野山や空海さんがその根本道場とした東寺は、密教で固めていました。他の宗派の教えは混在せず、密教により整備されていたのです。
ところが、比叡山はそうではありませんでした。いろいろな教えが混在し、並行して存在していたのです。これが、鎌倉時代にいたって、他の宗派を生むもととなるのです。

しばらくは、密教の時代が続きます。天台宗も密教色を強くしてからは、忘れ去られるようなことはなく、活動します。密教の本場である高野山側も活動範囲を広げていきました。高野山で修業し、都や地方へ布教に行く僧侶も多くいました。まさに、世は東密(高野山・東寺)と台密(比叡山・園城寺)の二大密教時代となったのです。

平安時代の終わりころになりますと、世が乱れ始めます。各地で戦乱や飢饉がおきます。そんな中、登場したのが空也でしょう。彼は念仏を唱えて諸国を歩きまわりました。930年代のことです。念仏を唱えることで救われると、庶民に説いて回ったのです。新しい宗教の芽生えです。しかし、それはあくまでも庶民の間のことです。朝廷や身分の高い公家の間では、まだまだ密教が盛んでした。
が、時代が進むにつれ、巷には密教ではなく浄土を求める声が強まったのです。985年には源信が「往生要集」を記します。このようにその頃、盛んに極楽浄土についての著作が登場します。
こうした浄土を説いた僧侶たちは、いずれも比叡山で修業した僧侶たちでした。比叡山での教えの中の浄土の部分を取り上げて、密教ではなく阿弥陀如来による救いを説いたのです。空也も源信も比叡山にて学んだ僧侶でした。世の中のニーズも密教一色ではなくなってきたのです。
そうした情勢の中、比叡山が比叡山派と園城寺派で揉め始めます。内部分裂ですね。この分裂は、以後、続くこととなります。時代は混沌としてきます。宗教界も落ち着きをなくしはじめ、揉める本山、法を説いて歩きまわる僧侶、という状態が続きました。
この法を説いて廻る僧侶の存在は大きく世の中に影響します。世の中は、浄土信仰へと大きく動いていくのです。その象徴が、藤原頼道が建立した宇治の平等院でしょう。平等院は阿弥陀如来を本尊とし、極楽浄土を再現した寺と言われております。どうしても死後に極楽へ生まれ変わりたい、浄土へ往生したいという願いを込めて頼道が建立した寺でした。そのころの人々は、この世の苦しみは仕方がない、せめて死後極楽へ行けるように・・・という信仰だったのです。
そうした中、比叡山の揉め事は深くなります。僧兵が誕生し、園城寺と延暦寺の争いは、暴動と化すのです。ついには、園城寺が焼かれてしまう事件が起きました。僧侶も大きく乱れたのです。僧侶同士の争いは、前代未聞のことです。僧侶が武装化し、武器を持ち、火を放つ・・・・。信じられない光景でした。
都を中心に乱れた世の中ですが、高野山側の密教は衰えることなく、伝法院を建立したりしていました。しかし、内部の揉め事はやはりどこでもあるもので、僧侶の間で派閥が生まれ、勝ったほうが負けたほうを追い出す・・・ということもしばしば起こるようになったのです。そのため、一つでまとまっていた真言宗も、新義真言宗(根来寺)と古義真言宗(高野山・東寺)とに分かれることになります。
平安時代末期、僧侶たちも浮足立ち、名誉や地位の争いが多くなってきたのです。

平清盛の晩年のころ、それまで庶民の間で流行っていた念仏や公家の間で盛んになってきた浄土信仰に中心的人物が現れました。法然です。
法然も比叡山で修業した僧侶でした。しかし、争いの絶えない比叡山に見切りをつけたのか、延暦寺を去り東山吉水に移り、浄土宗を開きます。
世はますます乱れ、平重衡により東大寺・興福寺が焼き打ちにされます。こうした情勢の中、武家が台頭し、鎌倉時代へと流れていきます。
東大寺は、頼朝の時代に再建されます。1185年のことです。仏教界は、法然を中心に浄土信仰が盛んになっていました。そんなころ、宋で禅を学んでいた栄西が帰国。臨済禅を広めます。栄西ももとは、比叡山で修業した僧でした。天台宗の教えの中で禅に惹かれ、宋に渡り本場の臨済禅を学んで、帰国したのです。1191年のことでした。
ここに、浄土宗と臨済宗の2宗派が誕生したのです。
1201年、親鸞さんが比叡山を去り、法然さんの弟子となります。翌年、栄西は建仁寺を建立し、真言・天台・禅の三宗を学ぶ道場としします。
1207年、法然・親鸞ともに京を追われ流されます。念仏に対する弾圧が始まったのです。しかし、浄土や念仏信仰は衰えることはありませんでした。
1212年法然上人が亡くなります。しかし、浄土門の僧侶たちは、次々と念仏関係の教えの書を記します。12年後の1224年には親鸞上人が浄土真宗(なお、宗派名は当時は一向宗といいます。浄土真宗を名乗るのは、明治時代以降)を開きます。世の中の浄土信仰はますます盛んになっていったのです。そのほかにも、踊り念仏を唱えた一遍上人の時宗も誕生します。世はまさに念仏時代でした。
1227年、道元が宋より帰国します。道元も初め比叡山で学んでいたのですが、その中でも禅の教えに惹かれ、宋へ渡っていました。帰国後、臨済禅とは異なる禅の教えを提唱します。
こうして、これまでに、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・道元の禅(曹洞宗)と、宗派が乱立する状態が生まれたのです。
そこにもう一人重要な僧侶が現れます。日蓮さんです。
日蓮上人も比叡山で学んでいた僧侶でした。しかし、比叡山の教えに飽き足らず、各地を回り、また修行を重ね、ついに法華経こそ、人々を救う教えである、という境地に至ります。そして、題目を唱えることを説き、京や鎌倉にて激しい説法を繰り返すのです。1253年には千葉県清澄寺にて法華宗(のちの日蓮宗)を開きます。
こうして鎌倉時代の仏教がすべて揃いました。こうした宗派は、現在でも引き継がれています。この時代に誕生した宗派は、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗です。浄土宗や浄土真宗、臨済宗は、すでにその内部で派がいくつか誕生していました。また、真言宗も、新義と古義に分裂しています。天台宗も比叡山派と園城寺派に分裂しました。
まさに、鎌倉時代は仏教の宗派が乱立し、またその内部でも派閥が生まれた時代なのです。これ以降、主な宗派は誕生してきません。江戸時代に隠元さんが来日し、新しい禅である黄檗宗(おうばくしゅう)を開くのみです。1654年のことです。

以上、日本における宗派が誕生した経緯です。日本の各宗派をまとめておきましょう。
@奈良時代
三論宗・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗・倶舎(くしゃ)・律宗・華厳宗 以上、南都六宗。
ただし、成実宗は三論宗に含まれ、倶舎は法相宗に含まれる。
また、公に認められてはいませんでしたが、役行者を開祖とする修験道の宗派もあります。

A平安時代
天台宗、真言宗

B鎌倉時代〜江戸時代
浄土宗・時宗・浄土真宗(一向宗)・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗(法華宗) 以上、鎌倉時代
黄檗宗(おうばくしゅう) 江戸初期

これが、日本の仏教の各宗派です。これらの宗派以外は、仏教ではありません。(創価学会は仏教宗派ではありません。新興宗教です。ご注意ください。)

さて、仏教は日本の歴史に大きな影響を与え続けてきました。朝廷は仏教を利用し、国の平定を成し遂げましたし、鎮護国家を仏教に求めました。また、庶民も生きていく苦しみから救われるため仏教にすがりました。江戸時代には、生活文化に仏教の教えが溶け込んでいきました。仏壇の誕生などがその最たる例でしょう。
また、江戸時代は、戸籍係を寺が担うようになりました。キリシタン防止のためもありますが。人々は、すべて近くのお寺に名前を登録されたのです。これが檀家制度の始まりです。
こうして、仏教は、身分を問わず、日本の中に浸透していったのですが、危機が訪れます。それは、明治政府の方針でした。
それまで神仏一体であった寺院は、神仏を分け、廃仏毀釈へと向かうのです。
そもそも、神社もお寺の中にあったものです。日本の神は、仏教の御仏の化身とされ、また仏教守護の神とされ、寺院の中に一緒に祀られていました。ところが、明治政府の方針である「神国」に仏教は不要となったのです。神国日本にインドの教えである仏教はいらない、ということですね。
このことにより、江戸時代各お寺に与えられていた戸籍係としての役割は取り上げられます。また、本山・末寺の関係をはっきりさせ、それまで曖昧であった地方寺院の宗派を決定しました。宗派に属さない寺院は認められず、廃寺となったのです。また、寺を管理するため、僧侶の妻帯を許可し、世襲式を提唱します。
葬儀は、神職もしくは僧侶が行うこととし、寺院の葬式寺化が進みます。寺の意味が大きく変わっていくのです。それまで自由に修行していた修験道は真言宗か天台宗に属するよう、命じられます。こうして国が寺院を管理していくようになります。
その後、各宗派も、それぞれ分派を起こし、たとえば浄土真宗は東本願寺(大谷派)と西本願寺派に分かれますし、真言宗も18本山に分裂していきます。こうして、現在に至るわけです。

さて、ざ〜っと日本の仏教の歴史を見てきたわけですが宗派が誕生した経緯はご理解いただけたでしょうか?。現在ある主な宗派のほとんどは、平安時代と鎌倉時代に誕生した、といっても過言ではないでしょう。しかも、鎌倉時代に誕生した宗派は、すべてが比叡山で修業した僧侶が生み出したものです。それは、密教一色で固められなかった比叡山の宿命でもあるのかもしれません。
ということで、各宗派が生まれたわけは述べましたので、次回からは、その各宗派の教えについてお話ししていきます。なお、簡単に省略してしまう宗派もでてくると思いますが、ご了承ください。合掌。


52回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その1  三論宗
今回から、日本の仏教の各宗派の教えについて、大まかに説明をいたします。私は真言宗なので、他宗派の教えについてはそれほど詳しくはありません。ですので、だいたいのところ・・・しかお話しできません。さらに詳しく学びたい、という方は、専門家に従って学んでください。
なるべくわかりやすく説明しようと思いますが、少々小難しい話になるかもしれません。専門用語の使用もなるべく避けたいのですが、そういうわけにはいかないと思います。わからないところは、メールか掲示板にてご質問ください。
また、現在では、あまり活発に活動されていない宗派についても説明いたします。まずは、日本にある仏教の宗派をもう一度、あげておきます。
@三論宗・成実宗(じょうじつしゅう)
A法相宗・倶舎(くしゃ)
B律宗
C華厳宗 (以上、南都六宗)
D天台宗
E真言宗
F浄土宗
G時宗
H浄土真宗(一向宗)
I臨済宗
J曹洞宗
K日蓮宗(法華宗)
L黄檗宗(おうばくしゅう)
とまあ、これだけの宗派があるのです。意外とたくさんありますよね。皆さんは、どのくらいご存知でしたか?。聞いたことはあるけど、漢字にされるとわからない・・・・ということもあるかもしれませんね。
さて、これらの宗派、一つ一つ、その教えの中心は何か、という話をしていきたいと思います。

@三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)
成実宗を並べたのは、この成実宗は三論宗に吸収されたような形になっているからです。奈良時代、成実宗はあったにはあったのですが、三論宗に含まれてしまったんです。教え自体も似ていたし、教えの完成度も三論宗のほうが高かったので、吸収してしまったのでしょう。というか、成実宗の教えを発展させたのが三論宗の教えなのですから、三論宗に成実宗が含まれてしまったのは、当然といえば当然でしょう。ですから、奈良時代から成実宗は、三論宗の付録のような扱いだったようです。ですので、三論宗を語れば、同時に成実宗の教えも語っていることとほぼ同じなので、ここでは三論宗についてお話しいたします。

三論宗は、日本に初めて伝わった宗派仏教です。日本に伝わったのは625年と言われております。それまでは、宗派として確立された仏教は伝わっておらず、仏教という宗教がある、お寺を造って仏像というものを安置してお参りすればご利益がある、というような大まかな仏教が伝わっているのみでした。いわば、三論宗が伝わって初めて本格的な仏教が日本に入ってきたといえるでしょう。つまり、日本最古の宗派が三論宗なのです。
さて、三論宗の名前の由来ですが、これは三つの論書によってその教えが確立されている、ということによります。三つの論書とは、中論・百論・十二門論です。中論と十二門論は大乗仏教の祖と言われている龍樹(りゅうじゅ)の著作で、百論はその龍樹の弟子で提婆(だいば)の著作です。
話はそれますが、龍樹についてお話を少々。
龍樹は、西暦150〜250年ころに活躍した高僧です。インド人で、名前をナーガールジュナといいます。漢訳して龍樹です。大乗仏教の祖として崇められ、記した論書も数多くあります。南インド出身で、もともとはバラモンであったようですが、のちに仏教に転身。上座部仏教を学び、初期の大乗仏教発展に大いに貢献しました。というより、龍樹が大乗仏教の思想を確立したといっても過言ではないでしょう。また、仏教の空の思想を確立したとして空思想の祖とも言われています。
主な著作に中論、廻諍論(えじょうろん)、大智度論(だいちどろん)、十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)(なお、この2著作は他者の著作という説あり)などがあります。
なお、弟子の提婆は、2〜3世紀ころの人で、スリランカの王子として生まれました。インド名をアーリヤデーヴァ、提婆は音写です。成長し、王子の位を捨て龍樹の弟子になったと伝わっています(諸説あり)。主な著作は百論です。
空思想のほかにも菩薩思想を説きました。

話を戻します。
三論宗は、龍樹の作である中論と十二門論、提婆の作である百論をもとに確立した宗派です。
中論とは、般若経に説かれた空の思想を体系づけたもので、龍樹の基本思想の論書とされています。五百の偈文(げもん、一種の詩ですね)からなっており、中心的な教えは「八不中道」(後でお話しいたします)と言われるものです。
十二門論は、空の思想を十二門に分けて述べたもので、中論を具体化したもの、と思ってください。
百論は、仏教以外の思想を排斥した論書です。百の偈文からなっているのですが、漢訳されているのは、前半の五十偈文だけだそうです。
とまあ、難しい話ばかりですが、つまるところ、三論宗は「空の思想」を中心とした宗派なのです。

空思想は、般若経典ができたころ・・・初期大乗仏教の時期・・・から、さかんになった思想です。お釈迦様がいらしたころから空の思想はインドにはあったのですが、仏教の空の思想とは異なるものでした。古来からあった空の思想は、瞑想時に何も感じない、この世には何もない、と瞑想するだけの空でした。
しかし、仏教の空は、無我の境地を説く空です。何もないのではなく、何もないことも意識しない空ですね。さらには、我を滅したところにある空なのです。
話が難しくなりました。空は、説明しにくいんですよ。
さて、その仏教の空思想ですが、初めてこの空を説いたのは成実宗のグループでした。というか、空思想を説いたグループの僧たちが、成実宗として一派を建てたわけです。

成実宗の空は、般若心経に説いてあるように
「すべての生命や物質は、色受想行識の五蘊が仮に和合したものであり、従って我は存在しない(我空)し、五蘊も実体がないのですべては空である(法空)」
とする思想でした。
生命体において我というものは空であるといういう我空。
すべての存在も空であるという法空。
この二つの思想を合わせて我法二空(がほうにくう)といいます。
まあ、難しいことは説きませんが、般若心経の最初のほうにお説いてある内容そのものだと思ってください(般若心経の内容については「やさしいお経入門―般若心経編を参考にしてください)。
ところが、成実宗の空へのアプローチには少々癖があるんです。成実宗では、一切の物質を細かく細かく分析していくんですね。分子→原子、さらに微細(みさい)に細かくしていくと、結局のところ何も残らない、従って空である、という空へのアプローチなのです。ここが、他からの批判を浴びたところなんですね。
三論宗では、同じ空を説くのですが、空へのアプローチがまったく逆なんです。全体を大きく見て空を体観するというアプローチの仕方なんですね。どちらかというと、禅的な空へのアプローチです。
細かく分析せずとも、五蘊は因縁によって仮にできあがっているにすぎないのだから、それがそもそも空である、すなわち何もかも初めから空の姿であろう、というのが三論宗の立場なのです。
そうした観点から眺めれば、この世の現象、ありとあらゆるものは、すべて因縁によって仮に存在するものであるから、空なのだ、となります。それを体観すればいいのだ、ということですね。
同じ空の思想でも、成実宗は細かい細かい方向性を持っていますし、三論宗は大きく大きくという方向性を持っています。
のちに、各宗派・・・特に禅宗・・・でも空を説きますが、基本は三論宗の空思想です。それは、すなわち龍樹が説いた空思想なのです。だからこそ、龍樹はすべての仏教宗派の祖と言われるんですね。
ともかく、三論宗では、空の思想を説いている、宗派なのです。

さて、三論宗の教義の中心ですが、それは三種あります。
1、破邪顕正(はじゃけんしょう)
2、八不中道(はっぷちゅうどう)
3、真俗二諦(しんぞくにたい)
です。

1、破邪顕正(はじゃけんしょう)
破邪顕正というと、「悪しきを排除して正しきを顕す」と思うのではないでしょうか。TVの時代劇のお白州の場で、よく「破邪顕正」と書かれた書が掛けてあるようですが、ご存知でしょうか?。四文字熟語の意味でも「邪説、邪道を打ち破り、正義を明らかにすること」とあります。検察や裁判所にはぴったりの言葉ですね。
しかし、元の意味はちょっと異なります。もともとは、三論宗の教えの言葉・・・・仏教語・・・・なのですよ。
「破邪顕正」の「破邪」とは、一切の執着心を打破し、空を得ることなのです。執着心は、物事や生ある者を正しく見ていないことから起こります。すなわち「邪見(じゃけん)」しているわけです。正しく見ていない、ということですね。
世間を正しい目で見れば、一切は空であるということがわかります。これが「破邪」なのです。邪見を破る、ということですね。
「顕正」は、空と知ったあとも、その空にとらわれない境地、絶対的客観の境地のことです。つまり、一切は空と知っても、その空にもとらわれない境地です。な〜んにも執着がない、という状態ですね。
つまり、「破邪顕正」は、「一切は空であることを知り、その空であるというとにもとらわれない、絶対的客観を会得すること」という意味なのです。
はぁ〜、難しいですね。どうすれば、絶対的客観になれるのでしょうか?。それを示したのが八不中道なのです。

2、八不中道(はっぷちゅうどう)
龍樹の作である中論の中に「八不の偈文」というのがあります。これがそうです。
「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不異 不来亦不去」
八つとは「生・滅・常・断・一・異・来・去」です。これらが「不」なのです。
「不生亦不滅」とは、般若心経にもある句ですよね。「亦」の文字は入ってませんが。意味は、「生まれることなく滅することなし」です。生あるものは、因縁によって五蘊が寄り集まっているにすぎないので「生まれたわけではない」のです。生まれたわけではないものならば「滅することもありません」。なので、「不生亦不滅」なのです。生にも滅にも偏っていない、どちらでもない、ということです。
「不常亦不断」。世の中は、お釈迦様が説かれたとおり無常です。何一つ同じ状態ということはありません。常に変化しています。なので「不常」ですね。しかし、それは断絶しているわけではありません。途切れずに流れ続けているものです。ですから「不断」。常に変化はしているが、途切れているわけではない、常でもなく断でもない、ということですね。
「不一亦不異」。これも同じように考えればいいのです。世の中ずべてのことが一つということはありませんが、すべてが異なっているわけではありません。どちらでもないのです。
「不来亦不去」。これも同じです。来ることなく去ることなしです。本来、初めから因縁によって寄り集まったにすぎない、因縁によって起きた現象にすぎないのですから、来去はないのです。ただある、ただない、だけなんですね。

このように、すべてにおいて「偏らない」というのが、「八不中道」なのです。これが本当の空なのです。
よく「空」といえば、「無い」と思われがちですが、「無いのでもなく有るのでもない」のが「空」なのです。偏ってはいけないんですね。「空」を「無」とすれば「無」に偏ってしまいます。なので「空」は「不無不有」なのです。
ただし、「中道」にこだわれば、「中」に「偏る」ことになります。ここが難しいところで、最終的には「不中不偏」なのでしょう。しかし、こうして言葉にすれば、必ず偏ることになります。そこで、三論の説く中道は、
「言説を離れたところにある」
とします。ただ、それでは伝わらないので、衆生のために仮に言説を用いているのだ、としています。まあ、言い訳といえば言い訳ですけどね。よく空思想を説く場合は、こう言います。でも、実際、「空を説け」、と言われても、説きようがないので仕方がないのですが。

このことは、唯摩経にも説いてあります。
病気になった唯摩居士を見舞いに行った文殊菩薩に、唯摩が「空とは何じゃ」と問うのです。文殊菩薩は、これに対し「沈黙」で答えます。唯摩は、「さすが文殊菩薩、見事である」と感服します。
本来、空は言葉を超えたところにあるものであって、空を説明することは難解であり、矛盾が生じるものなのです。言葉、に偏りますからね。

3、真俗二諦(しんぞくにたい)
空を得ようとして空にとらわれてしまい、迷う・・・ということを説いている教えです。
「俗」とは、俗人=凡夫のことです。我々人間ですね。人間は、この世の存在や現象、物質や精神にとらわれて迷います。その迷いから救われようとして空を得ようとします。しかし、空を得ようとすれば、空にとらわれてしまいます。これを防止するため、お釈迦様は「とらわれない」ということを説きました。
これは、言葉を使用していますから、下手をすれば言葉にとらわれ、空を見失うという危険をはらんでいます。しかし、あえてお釈迦様は空を教えるために言葉を使用しました。
すなわち、お釈迦様(真)は、人々(俗)を空(とらわれないという教え=諦)へ導くため、言葉(空ではなく、とらわれである有という教え=諦)を説きました。これが、「真俗二諦」という教義です。
簡単にいえば、お釈迦様は、空を説くために、空ではない言葉を使用し、言葉や現象にとらわれないことを説いたのだ、ということですね。
すっごい屁理屈をこねているように聞こえますが、そうでもありません。

これは、おそらく、仏教以外の他宗教から問答を吹っ掛けられたのが元だと思います。つまり、こんな感じでしょう。
「仏教は、空を説いているくせに言葉を使うじゃないか。言葉は空じゃないぞ、おかしいじゃないか」
「いや、それは勘違いだ。確かにお釈迦様は言葉を使った。しかし、それは方便なのだ。空を教えるために、いったん空ではない有である言葉を使い、この有である言葉にとらわれないようになったとき空がわかる、と教えたのだ。有を説き空を教える、ということだね。これを非有非空という。有にあらず、空にあらず、だ。わかるかね?」
と、まあ、こういうことなのです。

空は言葉で言い表すことが大変難しいのです。なので、般若心経のような難解な言い回しになってしまうんですね。仕方がないことなのです。言葉自体が空ではないからです。それを説きたかったのでしょう。


このように、三論宗は、空の思想を中心にした教義をもった宗派です。ですので、いわば学問系の仏教ですね。衆生を救うという後々の大乗と比較すると、やはり出家者向け、と言わざるを得ません。衆生のほうを向いているわけではないのです。こうしたことから、あまり宗派として発展しなかったのでしょう。
なお、そんな三論宗のなかでも、大変共感できる教えが2点あります。
まず一つは、
「お釈迦様の教えは、優劣の差はない。したがって、どのお経が勝れていて、どのお経が劣っているということはない。すべてお釈迦様の教えなのだから、どの教えも平等なのである。」
と説いていることです。
お釈迦様の教えは、対機説法(たいきせっぽう)といい、教えを聞きにくる相手の器量に合わせて教え方を変えていました。理解力の乏しい人には優しい譬え話を多くして優しい内容の教えを説きました。理解力のある人には、ちょっと小難しいことを教えました。ある者には、「掃除をして心の塵を払えばいいのだ」と説き、ある者には「この世は空である」と説いたのです。
しかし、それは教えを聞いた相手に合わせたためにできた内容の差であって、その内容そのものが勝れているとか劣っているとかの差別はないのです。すべて平等に善い教えなのです。これは、大変いいことを言っていると思います。
現代でも、我が宗派が一番で他宗の教えはダメなんだ、と言っている仏教系新興宗教の団体がありますが、そういう連中にはぜひ三論宗の教えを学んでいただきたいですね。お釈迦様の教えはすべて本物です。優劣の差はありません。

もう一つは、三論宗は完全なる空を目指した、という点です。
仏教の最終目標は、悟りを得て仏陀になることです。つまり、成仏することです。しかし、なかなか悟りを得て仏陀になることは難しいです。しかし、長い年月はかかるかもしれませんが、いずれは誰もが、どんな生命も仏陀になるのです。
ですから、どんな生命体も成仏できるのです。不成仏ということはありません。仏陀になるまでの時間が、長いか短いかの違いだけです。本来、空なのですから、その時間が長いのも短いのも関係ありません。成仏できることに間違いはないのです。
であるから、成仏だの不成仏だのとこだわるのは、間違いです。それはお釈迦様が説かれた空とは異なるものです。俺の宗派は早く成仏できる、お前のところは遅い、俺の宗派は成仏できると説く、お前のところは成仏できないじゃないか、などと言い争うことは、お釈迦様の教えから離れていると指摘していたのです。それは完全なる空とは異なる、と。
完全なる空である以上、成仏だの不成仏だのこだわることはおかしい、と説いたのです。あくまでも、完全なる空、空にこだわらない空を説いていたのです。

三論宗は、このように宗派間の言い争いや、競争、批判から離れていた宗派であり、またそうしたことを戒めていた宗派だったようです。
このことは、大変重要なことですね。仏教や宗派、他の宗教に限らず、人間はやたらと優劣をつけたがります。差をつけたがります。競争し、批判し、どちらが優れ、どちらが劣っているか、言い合いをしてしまう生き物です。
三論宗は、その比較や批判、競争から離れ、空を目指した宗派だったのです。この考え方は、現代を生きる人々にも浸透させたいことですね。優劣や競争、批判からは、争いや恨みしか生まれてきませんから。
生きるように生きる、去るように去る、それが空の極意、三論宗の教えです。
合掌。


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