2026 年 05 月 17 日(日曜日)

日本語の分かち書きをあきらめない

岩瀨順一

§1 なぜ分かち書きをあきらめそうになったか

「うどん」は漢字で書けば「饂飩」だが、udon でよいであろう。

「素うどん」は suudon か。

「かけうどん」は kakeudon か kake udon か。 どちらもあり、だと思う。そば屋の値段書きに、次のようにあることがある。 (原文は縦書き。)

• かけそば
うどん
七〇〇円

「きつねうどん」は kitune udon か。カナなら続けて書くかもしれない。

「なべやきうどん」になると、nabeyaki udon と切る人が多いのではあるまいか。

では、どこまで長くなったら切るか? 決められるか?

高取由紀氏に英語の場合を尋ねたら、最後は辞書を見て決めるのだそうだ。 Microsoft のアプリケーション Word で、 警告の下波線が出るかどうかでもわかる。 icecream には警告が出るが、 ice cream には出ない。

将来、分かち書きが一般になれば、分かち書きについて辞書が載せるようになる。 よって心配はいらない。あきらめなくてよい!

§2 分かち書きの一般論

分かち書きには、国などが決めたルールはないと言ってよい。

辞書がひけるのだから、分かち書きは可能である。

「天気がよくなかったので仕事には行かなかった」を、辞書でひける語の頭で切る。 「『天気が『よく『なかったので『仕事には『行かなかった」。 これで tenkiga yoku nakattanode sigotoniwa yukanakatta と切れた。

いわゆる「学校文法」にならうなら、「自立語は前の語から切り離す」となる。

残ったのは、 「複合語を一つに書くか、分けて書くか」 「助詞・助動詞を前の語から切り離すか」 の二つである。 例:minsyusyugi か minsyu syugi か、kakimawasu か kaki mawasu か。 kakimasu か kaki masu か。

複合語は無数にあるので、机の上で決められるものではない。 助詞・助動詞は数が限られているので、一つずつ決めてゆけばよい。 同じものが幾度となく使われるので、自然に覚えられる。

いまの段階での私のルールは次のとおり。

いまの、私の「分かち書き心得」は次のとおり。

§3 田丸式分かち書き批判

名詞の頭文字を大文字にすることのへ批判も含めて扱う。

田丸卓郎『ローマ字國字論』(1930 年、岩波書店)。

175 ページ。

文章の中で一つの物事を表はして居る詞や、一つの役目をして居る詞を一つの語と見て一つに纏めて書く。

「これでうまくゆく」というのは、ひとつの仮説である。

175 ページ。

それぞれ、英語の parent(s) of the three, three parents の訳語か。

どちらも漢字かなまじり文では「三人の親」であるが、 それで意味がわからなくなることはない。

田丸卓郎先生は、 「日本語を改良するには、西洋語、とくにドイツ語の発想に近づけなければならない」 と考えたのではないか。

ドイツの「牛肉缶詰ラベリング作業監視業務委託法」は「Rindfleischetikettierungsüberwachungsaufgabenübertragungsgesetz」と表される (ウィキペディア「長大語」より)。 長い複合名詞である。ドイツ語では名詞は頭文字を大文字で書く。

176 ページ。

どちらも漢字かなまじり文では「のに」で紛れない。

前につけるのと離して書くのとがあるのは no, ni, to, na, wa, mo など。

179 ページ。

ue, sita, migi, hidari, uti, hoka, naka, soto, mae, usiro, noti, aida などには、後ろに ni, no を添えた形を認める。 Tukue no ueno Hon など。

これではむずかしい! いまは ni, no はすべて切って書く。

田丸卓郎『ローマ字文の研究』(1981 年、日本のローマ字社)。

97 ページ。

subeteno Gen'in と書けば「いくつかある原因のすべて」の意味であり、 subete no Gen'in と書けば「すべての事柄の原因」の意味になる。

漢字かなまじり文ではどちらも「すべての原因」で困っていないではないか!

108 ページ。

元来は名詞であっても、そのままで、または語尾がついて、 他の種類の役目をしているものには大文字を使わない。

a. koto, mono, tokoro, hô, hito, kata (sonokata などの形で使う) などは代名詞に使われる。

b. kenkôna, ryûkôseino, amerikaryûno, kakugatano などは形容詞に使われる。

c. yôna, hûna, guaino, anbaino などは前の文句に続けて形容詞に使われる。

d. tukiduki, tokidoki, kekkyoku などは副詞に使われる。

e. toki(-ni), koro, tame(-ni), tôri (dôri), hodo, kekkwa, sue, ageku, aida などは前に来る文句に続けて副詞または接続詞に使われる。

f. ima, mukasi, kinô, kyô などは「時の副詞」として使われる。

g. monode, monono, tokorode, tokoroga などは接続詞として使われる。

123 ページ。

「東京から京都までの半分」というのでは、 「東京から京都まで」が「東京から京都までの道のり」の意味で、 上の文句はその道のりの半分の意味であるから、no を離す。

  Tôkyô kara Kyôto made no hanbun.

「東京から京都までの距離」では、 「この距離は東京から京都までだ」といえるが、 それと同様に「この半分は東京から京都までだ」 といっては、まるで意味が変わって来る。 これは、「東京から京都までの距離」の「の」は形容詞語尾の性質を持っているに反し、 「東京から京都までの半分」ではその性質を持っていないことの証拠である。

また、動詞の te (de) で終る形に no の続く場合でも、 その動詞が時の観念を備えた場合、 すなわち「何々しての」が「何々した上の」または「何々してからの」と同じ意味を持つ場合には、 no を離すほうが適切である。例えば、

  Seiyô kara kaette no Hanasi.

「電気についての話」は「この話は電気についてです」といえるけれども、 「この話は西洋から帰ってです」といえないのは 「電気についての」の「の」は形容詞語尾と見られ、 「西洋から帰ってからの」の「の」はそう見られない証拠である。

こういう、言い換えによる書き分けは、 「のどが『かわく』のは『口渇』だから『渇く』、 洗濯物が『かわく』のは「乾燥』だから『乾く』」という書き分けに似ている。 賛同できない。 ただし、こうやって、似た表現が実は異なっていることを、 日本語についての授業の中で考えることには、意味があるかも知れない。

いわゆる学校文法をやめ、新しくまとめ直しているが、空回りし、複雑な迷路にはいり込んでいる感じである。 最初の仮説「文章の中で一つの物事を表はして居る詞や、一つの役目をして居る詞を一つの語と見て一つに纏めて書く」は、 検討しなおしが必要だったのではあるまいか。

見るべきところもある。113 ページ。

「貴婦人令嬢方」の類は、Kihuzingata Reidyôgata のうちの前の gata が略されていると見て、Kihuzin- Reidyôgata と書くのが正当と思われる。 しかし前のつなぎを略して Kihuzin Reidyôgata としてもよい。

この xxx- yyy 型のハイフンの使い方は、ドイツ語に見られる。 Kinder- und Hausmärchen(子どもと家庭のメルヒェン集)(=『グリム童話集』) など。 英語ではまれである。

179 ページ。「文章の組み立て」。

文章は「題目」の部分と「言い立て」の部分とでできている。

「Hito ga kuru」で、Hito ga は「題目」、kuru は「言い立て」である。

この本にはないが、「象は鼻が長い」はこう解釈するとよい例であろう。 (「象は」が題目、「鼻が長い」が言い立て。)

付録の Kantanna Bunpô-zibiki は Kantan na Bunpô Zibiki とつづるのがよかろう。

文法字引がいるようでは、何のためにローマ字にするのか、わからなくなる。 読み書きを簡単にするのが目的なのだから。

たとえば「ageku」を見ると、小文字にすること、いつ agekuni, agekuno とするかが述べられている。 名詞を大文字で始めるのをやめ、かつ ageku ni, ageku no と助詞を切って書くことにすれば不要な項目である。

接尾語の -buru などの項目には意味がある。 gôketuburu は一続き、nippon-itino Gôketu butte は切る、など。 (私なら、eraburu は一続きに、gôketu buru は切って書く。)

sôsitemiruto のように、冗談のようなものもある。いまなら sô site miru to と書く。

古典のテキストなどの、一般人は読むだけのものでは、名詞を大文字で始めるのもよい。

Kimi ga Tame Haru no No ni idete Wakana tumu Wa ga Koromode ni Yuki ha huritutu (Kokin Wakasyû 21)

Hito ha isa Kokoro mo sirazu Hurusato ha Hana zo Mukasi no Ka ni nihohikeru (Kokin Wakasyû 42)

§4 数詞の分かち書き

その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった(旧約聖書『民数記』第 1 章第 46 節、口語訳) の「六十万三千五百五十人」をどう分かち書きするか? 欽定訳には Even all they that were numbered were six hundred thousand and three thousand and five hundred and fifty とある。聖書の翻訳では数詞は数字でなくつづり字で表す。 (現代英語では six hundred and three thousand and five hundred and fifty か。)

また、児童に数詞の読み方を教える際、かけ算九九を教える際にも、つづり字で書いてみせる必要がある。 よって、数詞の分かち書きも考える必要がある。 (田丸卓郎先生もつづり字で書くのが正式、と書いている。)

「rokuzyûmañ sañzen gohyaku gozyûnin」か?

いまの私の、仮の規則: 「八千」は hassen,「六本」は roppon なので、 「小さい数」に「大きい数」が続くときは続ける、 「大きい数」に「小さい数」が続くときは切る。 「人」「本」などは前に続ける。

例:「1234567890 本」は 「十二億三千四百五十六万七千八百九十本」。 これをばらばらにし、間に大小を示す記号を入れると 「十 > 二 < 億 > 三 < 千 > 四 < 百 > 五 < 十> 六 < 万 > 七 < 千 > 八 < 百 > 九 < 十本」。 zyû nioku sanzen yonhyaku gozyû rokuman nanasen happyaku kyûzyuppon.

rokuman を roku man と切りたくなるかも知れないが、「一兆」は ittyô で一体に書くしかない。 それに合わせた。

ただし、「十五夜」は zyû goya でよいか、といった問題はある。

§5 付録:字母名の、わたくしの案

ウィキペディア「ラテン文字」に、羅英仏独伊西語、ポルトガル語、エスペラントでの呼び名が載っている。 参考にした。

田丸卓郎先生はすべての字母の名前を一音にしている。 「ローマ字は アベセデエフゲ ハイヨカル マナオペクラサ タウヰワキヤゼ」。 短すぎて紛れそうなので、二音以上にしてみた。

エスペラントは、子音字はその文字の表すオトに「オー」を続けて名前としているが、 聞き分けづらいので、まねしない。

c は、新日本式でツェーを cê とつづるため、こうしてみた。 ラテン語では [k] のオトを表すので、ケーと呼ぶ。k と紛らわしいので避けた。

j は、言語によりいろいろに読む。ここではドイツ語をとった。 ラテン語では i と同じ文字。

l は、eru なので l のオトを含まないが、それでよいと考える。 h の英語での呼び名は h のオトを含まない!

v は、ラテン語では u と同じ文字の扱いである。

w は、ドイツ語では [v] のオトを表すのでヴェーと呼ぶ。それをまねしてみたもの。 ラテン語にはない。

y は、私はヤ行は j で表すほうがよいと考えるので、ローマ字書きでは使わない文字になる。 少し長いが、フランス語の名前をとった。ギリシアの i, の意味である。

aアー羅独仏
bベー羅独仏
cツェー
dデー羅独仏
eエー羅独
fエフ羅英独仏
gゲー羅独
hハー羅独
iイー羅独仏
jヨト
kカー羅独仏
lエル羅英独仏
mエム羅英独仏
nエン羅英独仏
oオー羅独仏
pペー羅独仏
qクー羅独
rエール
sエス羅英独仏
tテー羅独仏
uウー羅独
vヴェー
wウェー(独)
xイクス羅独仏
yイグレク
zゼッド英仏
 

岩瀨順一 Iwase Zjuñici