35年も保管し続けていた真空管式テープレコーダの処分を考えていた。鉄くずとしてゴミに出してしまおうかと気持ちが動いた。しかし取り出してみると余りにも勿体無い。製作者の心意気やそれを必要とした人達の思いや声が聞こえてくる。その末期には自分もお世話になった事も頭を過ぎり、とてもゴミになどには出来ない。さりとて保管スペースは圧迫するし、人目に触れる事もなくずっとこのままじゃ意味もない。そんな事情を拙作HPのBBSで訴えたところ四国の友人からある博物館の紹介があった。早々に博物館へ連絡を入れると返事があった。幾度かメールのやり取り後、遂に引取って頂ける事になった。善は急げ!。週末を待って本日、朝から梱包作業を行い、午後無事運送屋さんに引き取られていった。あわよくば公衆の面前で、あの良き時代の雰囲気を伝え続けていって欲しい。 写真は梱包作業中の様子。中央と右がツーピースのMT-1S型(1959年製)。左は戸棚の奥で発見した上部にヘッドがある一風変わったテープレコーダPT-14型(1956年製)。ご迷惑を承知で急きょ追加発送した。ちなみに両者ともソニー製。世界のソニーも当時は真空管に大きく依存していた。 |
引っ越し荷物は片付かず、家周りの所要も多く、自由な時間が取れない悶々の日々。退職挨拶は1ケ月以内に出したいと思っていたが期限が迫っている。腰は重かったがここにきてようやく尻に火が点く。文案を作成し一晩寝かせ手を入れる。途中カミサンのチェックも。そんな事の繰り返しで文案が固り25日晩いよいよ印刷。福井から持ち帰ったPM-G720、快調だったが途中から文字にカスレ。ノズル洗浄を試みると今度はインク不足で動かない。シャックのBJ-F900に取り換え再開するがこちらもインク不足でダメ。もう深夜、この日の作業は未完のまま終わる。翌26日、最後の頼り居間のPCとプリンタでトライ。何とか裏面の印刷完了。そしていよいよ宛名書き。WARDの差し込み印刷を試みるが年に1度あるか無いかの作業。やり方を思い出すまでに幾つも失敗を繰り返しようやく印刷。ところが事もあろうにプリンタ上面の停止釦を呉押し大騒ぎ。印刷頁指定が良く分からず元データのEXCELを編集して再トライ。そんなこんなで何とか完了する筈だったが最後はハガキ不足。27日は印刷済みハガキの投函と不足分ハガキ購入と印刷。ようやく一通りの作業が完了・・・疲れたぁ。写真は途中インク切れになったPM-G720・・・右奥にBJ-F900。 |
7月24日はアナログTV放送終了の日。我が家に真空管式白黒TVがやってきたのが5歳の時、1960年7月だった。丁度大相撲名古屋場所の真最中でその頃は民放も生中継をしていた。
TV放送はそれから7年前の1953年2月に東京で始まっているが、当地静岡日本平からNHK(JOPK-TV)の電波が発射されたのは1957年6月。当初は5chで始まったようだが、ch不足に対応するための周波数再編で1959年から9chに変更された。7chと8chが2MHz重なる苦渋のプランは当時の名残と聞く。ちなみに第1民放である静岡放送(SBS)は1958年11月に開局している。 初代白黒TVは14インチ日立製。そして1967年から日立製18インチカラー(真空管式)、さらに1981年から松下製20インチカラー(以降固体化)、1990年からシャープ製30インチBS内臓と来て、2006年シャープ製45インチ液晶デジタルに遷り変った。初代から数えると5代目を使用中だが、やはり生活道具、すべて覚えているから面白い。 TVが無かった時代を知る者には、TVの出現で良かった面と悪かった面を体験している。振り返るとやや複雑な心境だ。TVの出現はコンピュータやインターネットのそれよりインパクトがあったと思うがどうだろう。 昔は良かったと言いつつも、既に生活の多くでテレビ恩恵に預かっている訳で、容易には過去へは戻れない構造にジレンマを覚える。この先TVはどのように発展していくのだろうか…。 動画は24日23時59分、24時を前に停波するNHK(JOPK-TV)最後の映像。 |
7月24日正午のアナログ放送終了に備え家のTV受信環境に手を入れた。
福井から持ち帰った20インチのデジタルTVを、ダイニング&キッチンの壁に引っ掛けてある12インチのアナログTVと交換しようとした。
すると大きすぎるとカミサンから苦言。
暫くそのままになっていたが、2Fのアナログ25インチTVをリサイクル回収したこともあり、その後釜にすることになった。
あの重いブラウン管25インチに比べたら圧倒的軽量の液晶だが問題はアンテナ。
元々と怪しい室内ワニ口リードアンテナ。
さすがに不安定。
そこで登場したのが、名古屋で地デジが始まった2003年頃試作したボトルダイポールアンテナ。
ダメ元だったが、2m程の同軸ケーブルをつなぎ、写真のご如く2Fのカーテンレールに吊るすと見通し外なのにアンテナレベルは80を超えた。
このアンテナは作り放しでも350〜550MHzで低SWRを示す超広帯域。
捕捉面積も大きく低Qで、ワニ口リード線ではとても得られない特性だ。
ちなみに日本平放送所までは約10.6Km。エッ、雨戸を閉めたらどうなるって?。
そりゃその時考えるに決まってるじゃん!。 ところで本日7月23日は57の誕生日。朝から遅れていたミカンの農薬散布を行ったが、これがまた暑くて午前中でギブアップだった。 |
ウィークエンドファーマー・・・聞こえは良いがカミサンに言わせると不謹慎、私は毎日よ!と返され頭が上がらない。引越しするとスペースを圧迫する不用品が目に付いてくる。それにはカミサンも同感。見回すとそれが相当な数。ゴミ焼却場へ運べる18日(月)に合わせ不用品やゴミ整理が始まった。祖祖母や祖母の嫁入り道具の箪笥はさすがに骨董品で手が出ない。子供の頃お世話になった机や壊れた椅子が先だ。それに山の如きビンやカン、ペットボトルに電球や蛍光灯などの生活ゴミ。そしてプラスチック製品にカーペットや衣類。集積すると軽トラに収まり切らない。極め付けは物置から出てきた「マムシ焼酎」4本。そういや子供の頃確かにあった。オヤジがマムシを捕まえる度に一升瓶に焼酎漬してきた物だ。当のオヤジはそんなもの有ったか?程度の記憶。栓を抜くと異臭を放ち、黄色に変色しどう見ても異様。水を注ぎ液体を流すがマムシは瓶の中。タイミングが合うと水を注いだ時に頭が出てくる場合があるが予測不能。止む無く針金の先を丸めて引っ張り出す。それが以外にしっかりしていて型崩れしないで出てくる。結局軽トラ2台分のゴミを積み焼却場を往復した。大変な週末だったが引越し荷物は未だ片付かず無線どころではない。 |
朝、送り火を焚いた後お盆の片付けを始める。するとオヤジがミカン畑に撒く除草剤の準備を始めた。一人で出来るのか思ったが、案の定危なくて見れいられない。所用で出掛る筈のカミサンが、薬調まで手伝っていたが・・・やっぱり一人じゃ無理。片付けを中断し除草剤散布に鞍替えするハメに・・・。朝から30℃を超える猛暑。午前の作業が終わる11時頃には34℃に達した。衣類は下着から全て汗でびしょ濡れ状態。日中にやる仕事じゃないとオヤジに告げるが、ご本人は相変わらず子供相手の如き講釈をぶちまける。暫くすると柿木の影に座り遠見見物ときた。時々何か喋っているが暑くて聞き返す元気も起こらない。カミサンは所用のため昼食の準備をするが、オヤジは黙っていても飯は出て来ると思っているらしい。何とか昼食をやり過ごすとオヤジは昼寝モード。除草剤は未だ残っており、日が傾く15時を待って別の畑で散布。この時はホースクランプ不良でホースが外れて暴れるハプニング。おまけにホースから放たれた除草剤が目に入るオマケ付。ポンプやホースを片付ける段になってオヤジが再び現れ洗浄方法で再び講釈。子供じゃないんだから黙っててくれと内心・・・踏んだり蹴ったりの一日だった。写真は暑くても元気なヒマワリ。 |
当地のお盆は7月である。7月12日に和尚さんがやってきてお経を上げることになっている。したがって必然的に妙な荷物は撤去しなくてはならず今週末は引越し荷物の片付けピッチが上がった。確かに縁側はもぬけの殻になった。 コンテナ倉庫にあった不要と見られるダンボール箱をカミサンの指示の下廃棄処分。奥壁にカラーボックスを積み上げ突っ張り棒で固定し捨てられない雑誌や書籍類はそこへ収納。母親と祖母の衣類や所持品を思い切って処分。アナログTVやPCモニター、そして自転車や鍋釜類をリサイクル業者へ持ち込む。これらにより驚く程の収納スペースを確保したが時間切れ、10日の午後からはお盆の飾り付けが始まった。片付けられなかった荷物は床の間に一時退避させて難を凌ぐことに。しかしそれにしても多い・・・。 実は1日、新職場で歓迎会を催してくれたのだが、足を滑らせ転んでしまいメガネの右レンズを割ってしまった。それ以来予備のメガネを使っていたが、2日レンズ交換をお願いしたメガネが9日ようやく届いた。遠近両用が使えないとこれ程不便なのかと身をもって体験した。 写真はコンテナ倉庫の奥に押し込んだ荷物とお盆準備中の仏間。 |
7日午後から8日晩まで会社の研修があり上京。座って講師の話をじっと聞くのは50代後半の人間には辛く時折眠気が襲う。しかしこの道を選択したのは俺だと自分に言い聞かせ気合を入れる。 7日の晩は懇親会が催された。講師の一人が声を掛けてきた。まさかとは思ったが手にご自分のQSLカード。どうしてHamと分かったのかと尋ねると自己紹介のとき「無線はアマチュアで」と発した言葉。気になり私の名前をネット検索され、こりゃ可笑しな奴だと思われたようだ。話をし出すと数人のHamが居ることが分かり話の輪が広がっていった。アマチュア無線ってコールサインが名刺代わりになる。何の説明も要らずに話が始まるから面白い。 懇親会の流れで同期の同僚と某通信機メーカーの営業マンとで井の頭線脇の焼鳥屋「だるま」で深夜まで盛り上がる。毎回同じ様な話をしているのだが良く飽きないものだと我ながら感心する。 写真は7日昼過ぎ、神南の丸井百貨店エントランスで見たテツ&トモと地デジカによる地デジ普及イベント。アナログ停波(7月24日)まで17日しかない。いよいよの感強しだが皆さんのところの地デジ準備はどんなものだろうか。オンマウスは8日18時半頃の渋谷駅前。 |
北名古屋市で暮らす長男夫婦と孫が急遽帰省することになった。親ばかで朝からそわそわし、この忙しいときになどと口にしたりするが、実は嬉しくてたまらない様に見えるカミサン。要するに朝から照れ隠しの様相と言ったら言い過ぎだろうか。 早めに仕事を切り上げ18時頃帰宅すると凡そ3週間振りの対面。首も安定し体重も増え益々可愛くなった。声を掛けて表情に変化を求め写真を取り捲る。 夕食は家族でホットプレートの焼肉を囲む。爺さんの肉の焼き方講釈が始まりワンマンショウになり掛けた。テフロン加工のホットプレートでは心配無用と話を被せると理解したようで、ようやく会話にバランスがとれる。何にでも講釈を付けたくなる癖は相変わらず健在だが、それでも87で元気なのはまぁ理由抜きに有り難い。 それより家族4代が同じ屋根の下に居ることが妙に嬉しい。20時半過ぎ、カミサンの実家の両親を訪ね、北名古屋市へ帰る長男一家を見送った。僅か数時間だったが微笑ましい時間が流れた。 写真はHanaの散歩で見つけた道端にうずくまるギンヤンマ・・・羽化直後なのだろうか、指で突くと動いた・・何十年振りだ。 |
いいかげんに廊下を占拠した荷物を片付けないと家族から白い目で見られる。実は5年前に名古屋の拠点を静岡に移したときの荷物も未だ一部はダンボールの中。そんな状況だから片付けると言っても場所を移動するだけで隠す状態に近い。それでも生活エリアからなるべく遠ざけようと、自宅のコンテナ倉庫奥のレイアウトを変更し、PCラックや無線関係グッズをせっせと運び込んだ。機能より収納することに重きを置いていると言う訳だ。写真はコンテナ倉庫で奥にPCラック、手間にHPA群や測定器。実は入り口には草刈機やチェーンソー等の農器具が所狭しと並んでいる。こんなところで良いのかと思ったりするが今はそんな贅沢など言えない。 大分片付いたと思っていた16時前、所用が発生し急遽浜松市天竜区方面の山に登る事になった。静岡から2時間程車を走らせ、24時頃から登りだした。所用は徹宵で未明には完了し下山すると5時半。久しぶりにマイヘッドランプを付け真っ暗闇の山道を歩いた。福井時代に日常的に山歩きを楽しんでいたこともあり歩きは快適だった。ただこの年になるとさすがに夜中の作業は疲れが残る。しかしこれも仕事で使命と思えば何のそのだ。 |
新しく勤める会社の初日。名古屋でミーティングがあり日帰りで往復した。 どんな事でも最初は緊張するもので、どうもここ2・3日気が重いと思ったらそのミーティングを控えていたためだと今になって分かった。 もとよりTake_It_Easyをひとつのライフスタイルとして来たが、それには適材適所で濃淡があるのだとつくづく感じる。 まぁそう考えているのも、実は生真面目な性格を何とか誤魔化すために自分で考えた手法なんだなぁと思ったりもする。 Take_It_Easyは平常心を保つために自分なりに編み出した暗示なのかも知れない。と妙な独り言を言っているが、分からないだらけの赴任初日だった。 一緒に赴任した同期と名古屋の栄の寿司屋で昼食を取りながら先々の事を語り合ったが、同じファーマーの側面を持ち妙に話が合った。今は、この先どうなるか予測もできない心境だが、心機一転で新たな道を歩み出した。 写真は帰路に就く13時頃、名古屋駅新幹線ホームからツインタワーを見上げたスナップ。 |