マスコミが報道するのは人命や社会・経済に大きく影響する部分が殆どだろう。被災地外に住む人はそれで終わりと思ってしまうのが普通。しかしちょっと興味を持って地域を覗くと知り及ばない多くの被害に接する。これらは特に農林業に携わる皆さんには深刻だ。しかしマスコミはそうした処までは興味が及ばない様に思えるがどうだろう。 気になっていたので当地山切から奥、即ち杉山・戸倉・梅島・大峰辺に足を運んだ。台風通過後暫く通行止めになっていたので心配していたが、道路には撤去した土砂や倒木の跡。そして川には流れ着いた皮の剥けた大木。さらに対岸には尾根近くから始まるがけ崩れ。根こそぎ倒れた大木が土砂と共にガードレールをへし折り川に流れ込んでいる。もし民家があったらひとたまりも無い状況だ。 写真は梅島地区第二東名先で崩れた林。尾根付近から植林した檜が一気に沢に流れ込みガードレールを押し倒している。オンマウスは杉山自治会館の裏山。こちらも同様だが樹木は雑木や竹など様々。何れも生活道路だ。こうしたところが随所にあり、台風15号の雨と台風のもの凄さを物語っている。 災害は忘れた頃にやってくると言うが、時々地域を歩いて土地を知る事も大切だと感じている。 |
台風15号は21日昼、浜松に上陸して北東に進み山梨方面へ抜けていった。上陸前から大量の雨を降らせたと思ったら、上陸後は更にとんでもない強風。大雨と強風で静岡県下に多くの被害をもたらしたが、その後通過した地域でも大変な状況だった。今回は停電と通行止が目立った。停電の多くが倒木による配電線の断線。倒木は道路も塞ぎ土砂崩れに連動していると交通回復は容易ではない。3日経過した24日でも随所で停電が続き、また孤立した集落へはヘリが救出に向かう程だ。どうなってんだとお怒りの御仁も居るかも知れないが、発生ヵ所が多く並ではなかった状況が見えてくる。こうした非常時の基本は自己完結の精神とつくづく思う。閑話休題・・・おかげで仕事も繁盛、24日昼まで可搬発電機による設備バックアップに奔走。そして家では、強風で倒れたポンカンやミカンの復旧作業に大忙し。その数は数十本。風で煽られ根はちぎれぐらぐら。実を付けトップヘビーなのがそれに拍車を掛ける。1年間丹精込めてきた事を思うと辛い。何とか実に色が着き収穫できる事を願っている。写真は根こそぎ倒れた青島温州ミカンと親父。オンマウスは角材と藁縄で固定したポンカン。幸いにも無線鉄塔やアンテナへの被害は軽微だった。 |
小型2サイクル発動機を動力にするハンディ農機具が幾つかある。チェンソー2台、草刈機4台、噴霧器1台…。壊れるまで整備をしない親父達の悪い癖。調子が悪くなると使わないから更に調子が出ない。19日はチェンソー1台と動かない草刈機2台を診た。チェンソーはスロー状態で止まってしまうがスロー調整で復活。ついでに弛んだチェンADJやオイルで固まった切粉を落とす。草刈機の1台はエアフィルタの目詰まりで起動するが止る。フィルタ洗浄して復活。もう1台は全くNG。排気口を確認すると混合気を吸っていない。プラグを外すと湿った感が無い。ははーこりゃキャブだと思い突き出す。分解してみるとフロートもニードルも無い。そうか草刈機は水平維持できないからフロートじゃダメなんだ。話に聞くダイアフラム方式だ。クリーナーで洗浄そして組み上げ。給油ボッチを指で押しキャブまで燃料を上げる。チョークを閉め神頼みで始動ロープを引くがウンでもスンでもない。エア吸入口に指を当ると十分な吸引があり、またプラグを外すと火花も十分。やっぱりもう一度キャブを診るかぁ・・・容易には修理出ししないと決心。 ところで、キャブを日本語で気化器と言うが、気化ではなく霧化だと思うが如何だろう。誰が最初に言い出したのだろうか。 |
単身赴任解消で、実家のR-390A・51S-1BにTRA3755・KWM-2/2Aが加わった。これまではR-390A/51S-1Bを切り替えるだけで良かった。増えた事で暫くケーブル・パッチで凌いでいたがやはり面倒。そこで福井時代に作った1:4の同軸SWを取り出しANT切替を構築した。ところが電源投入するとR-390Aのみ音が出ない。ケーブルやSW類のポジションを疑ったが問題ない。直ぐ終わる筈の作業は、R-390Aの修理と言う泥沼へ迷い込んでしまった。ラックから取外し様子をみる。RF-GAINでノイズレベルが変わるが、ANTをつないでもウンでもスンでもない・・・てことはMixかOsc?。真空管のヒーターを確認すると灯っていない奴が1本あった。V204/6C4(3rdMix)これだ!。交換すると見事復活。真空管機器が全くNGになる時は、経験的にヒーター断の場合が多い。このR-390Aは、購入後29年経つがヒーター断は今回が3回目。それ以外の障害で音が出なくなった事はない。しかし今朝まで聴いていたのに面白く、何とタイミングが良い事か。なお事のついでに、電源SW連動のマイクロSW接点の復帰不良を修理。これにはフロントパネルを外す必要があり大騒ぎになった。おかげでカミサンのリクエストに答えられず肩身の狭い一日になってしまった。 |
15日所用のため1泊で上京。その帰路16日、9年振りに恵比寿のファインアンテナを尋ねた。6日3.5MHzで上京する旨をオーナーN氏にお伝えすると、場所が変わったと注意を促がされた。CQ誌広告の地図を頭に入れていたつもりだったが、数百m歩いても目標のソバ屋がみつからず、こんな筈はないと電話でヘルプ。何と恵比寿駅を北西へ歩くとある5差路を渡った角(線路側)がソバ屋でその先に目的のビル。随分先まで歩いてしまったが、つまづきもまた良い思い出と妙に納得。4年前のハムフェアでお逢いして以来のN氏はお年(失礼!)を感じさせない元気さで終始熱弁をふるわれた。TL-922の安定運用、デジタル処理の限界、便利優先本質後回しの風潮、米国生活時代、業界裏話、モノ作りの効用…等々、次々に話題が展開。昼食にソバをご馳走になりながら2時間半も居座ってしまった。私よりン10年も先輩なのに、その元気さには圧倒される。そして今の自分はどうだろうと密かに反省の念。その後秋葉東京ラジオデパート1Fの桜屋電機の親父さん、ご主人が逝去された3Fの斉藤電気を訪ね挨拶。そして同B1のノグチトランスとネジの西川電子部品他数店を回り帰路に就く。メイドギャル達に駆逐さず、馴染みの店が元気でいるのは嬉しい。 |
20時過ぎに帰宅すると「月が出た!」とカミサンが騒いでいた。朝Hanaの散歩に出るときに、庭先にある萩の花が急に開いたと熱弁したのを思い出した。それでどうなったかと思ったら、縁側のテーブルにヘソ饅頭に萩の花を添えお月見セットが登場していた。 天気快晴で月は煌々と輝いている。縁側の明かりを点け何とか萩の花と枝を灯しバランスを取る。背景に西の稜線とそこに立つ鉄塔や、自宅の鉄塔が見える。こうした雰囲気ショットもいいなぁなどと呟くが、実は安物のデジカメではレンズサイズが足らない。デジタルズームを使ってもお月様のアップなど撮れない状況でお恥ずかしい。試しに35mmフィルム時代の望遠レンズを取り出して、何とかデジカメのCCDに結像しようなんてマニアックな事を考えるから始末が悪い。結局やらなかったけど、カメラ側は至近から望遠までOKなので何処かで像を結べるに違いない・・・でもAFだとどうだろうと妙な事を考え出す。 オンマウスは光学10倍レンズの別カメラで撮ったものだが、全くサイズが足らないため320x240pix枠で月をトリミングしたもの。良く見ると真ん丸に見えず横に膨らんでいる様な気がする。これって大気による歪か?・・・またマニアックな話になってくる。 |
写真は10日昼、ポンカン畑の端にある柿木に吊ったスズメバチトラップの中で必死にもがくキイロスズメバチ。ペットボトルにつめた秘伝の液体の匂いにスズメバチをはじめ多くの虫が誘われ飛び込んでくる。底には液体の魔術で仏様になったスズメバチとその他昆虫が多数・・・。夏が終わるとスズメバチがミツバチを狙ってやってくる。昔は待ち構えてタモで捕まえその場で足で踏み付けミンチにしていた。目的がミツバチなのでタモを持った少年など全く眼中に無いようだ。やや荒っぽいが、実家の庭先ではこれがこの時季の風物詩。 オンマウスは11日。この日は暑さがぶり返し家の温度計は35℃に達した。やや陽が傾いた14時半、草が生え放題だった尾羽畑総の僅かばかりの平地。草刈機を担いで1時間ばかりの作業と思って家を出たが、刈り倒すまでに3時間も要してしまった。何しろ直系30mmもある巨草が乱立。草刈機の大きさと比べるとその巨草かげんが分る。へとへとになり夕暮れを迎えた。泊り掛けのミニ同窓会から帰ったカミサンがHanaと一緒に冷えた飲み物を届けてくれた。雑木の向こう側からの眺望は中々のモノで、眼下の清水港から遠見の伊豆半島、そして日本平から静岡市街方面を臨む事が出来る。 |
6日、所要で熱海を往復。新幹線で熱海に着き伊東線に乗換え一番最初の来宮駅で下車。JRの車両かと思ったら何と伊豆急だった。どこかで見たマークだったが、どうやら東急電鉄の色違いに伊豆急の文字。系列なのだろうか…。熱海の地を踏むのは前の会社時代の2006年3月4日以来。所用で会社の保養所を訪ねたがそこは数年前に閉鎖された。若い頃は清水から車で良く訪ねた。海岸沿いに常春と言う喫茶店があり、そこから見る熱海の花火は格別と友人が教えてくれたが、その機会は一度も無かった。35年も前の話だ。熱海駅にある旅館の案内看板が、廃業したのか白く塗られているのが目に付く。一時の繁栄はないのだろうか。海岸から山にかける急斜面に展開する家並みは相変わらずだ。所要は1時間程で終わり来宮駅近くの「蕎麦のすゞき」で昼食をとり帰路に就く。台風一過で日差しが強かったが、心地良い風が通り熱海は秋の兆しだった。8-9日は1泊で車で下田へ。こちらも35年振り位で懐かしい。天城から河津へ下るループ橋を過ぎた辺りから下田へ山越え。変化のある地形は道中を退屈させない。下田にも古い友人が居るがどうして居るだろうか。写真は伊東線来宮駅前とオンマウスは下田寝姿山からのスナップ。 | family/kinomiya110906.jpg
毒荏(ドクエ)と言う木をご存じだろうか。当地では明治の頃まで、この毒荏の実から油を搾り出し、それを売って生活の糧にしていた。ところが明治途中から石油が導入されると、毒荏の油は石油に需要を奪われ生産も急落して行った。そして今、毒荏の木は数える程に減り地区に点在している。写真は、清水区杉山地区の旧青年夜学校の庭先に生息する毒荏から落ちた実。朝Hanaの散歩中に見つけ10数個を拾い集めてみた。実はこれらは台風12号による風雨で落下したもの。本来ならクルミの様に自然に落下し、皮が腐食して茶色の実が姿を現す筈だから今はちと早い。当地と水系がひと山東側の波多打川沿いにある広瀬地区の有志が、2003年10月毒荏の実から油を搾るイベントを行い新聞で話題になった。 ちなみに毒荏の実では生活が成り立たなくなった当地では、その後温州ミカンとお茶の栽培が行われるようになり全国有数の産地に発展する。前述の夜学校は今流に言うと地域の社会教育の場で、戦前まで青年たちが夜ごと集い勉学に励んだ学び舎。戦後は青年団や老人会の集会場として久しく使われていた。写真は朝の散歩で毒荏の実に戯れるHana。オンマウスは夜学校前の杉山バス停留所からのショット。 |
9月4日は拙作HPを開設して丁度10年。折しも4日は、台風12号がもたらす大雨で、紀伊半島を中心に大きな被害が出ている。被災された皆様にはお掛ける言葉も見つからない。行方不明者の捜索をはじめ、一刻も早い復興がなされることを願っている。 さて冒頭に記した様にHPは開設10周年。右はTopPageアクセス数を記録したECXELデータをグラフ化したもの。失念や出張で記録が取れなかった時は平均値で空白を埋めてきた。しかし良く続けたものだと我ながら感心する。初期は加速度的にアクセス数が増えたが4年で安定し、現在は毎年2万件程で推移している。この数字はTopPageカウンタによるものだが、GoogleAnalyticsによるとMainMenuPageはこの5倍、SiteTotalでは10倍を現在は示す。TopPage60件の日なら、MainMenuで300件、SiteTotalで600件程のアクセスがある。 内外からの多数のアクセスが平均してあり背筋をただす毎日で、時としてmail友達にまで発展している。今後もご愛顧のほどをお願いしたい。10周年を記念しAuction企画を考えたが、転籍で余裕が無かったと茶を濁すことにする。10年後はどんな時代になるのだろうか…このHPも継続しているのだろうか。オンマウスは初期のTopPage。 |
早いもので2011年ももう9月。当HomePageは9月4日で10周年、歳をとるわけです。ところで写真は最近読み終えた「モールス電信士のアメリカ史」。「ドレスを着た電信士マ・カイリー」も良かったが、こちらも同じ著者松田裕之氏が膨大な内外資料を紐解きまとめ上げたもの。モールス電信の黎明期からどのような人達が関わり、そして発展してきたのか資料を基に克明に記されている。松田氏の軽快なタッチが面白さを倍化させている。私はアマチュア無線で45年近く電信を愛好しているが新しい発見が幾つもあった。明治維新より遥か昔の米国南北戦争当時、既に有線電信による情報合戦が暗号で行われていたこと、また多くの女性電信士が存在したこと、さらに我々の知るモールス・コードの発案者は実は当のモールスではないこと、そして現在のIT時代に通ずる課題や示唆・・・。電信ファンのみならず是非ご一読をお勧めしたい。隆盛を極めた有線電信も電話や無線電信の台頭で100年足らずで役割を終え、現在はアマチュア無線や一部業務通信にその技能が受け継がれている。これを回顧主義と見る向きもあるが、実はSimpl is Best。この技能は修羅場(最新 メディアの停止)において最も威力を発揮するのではないかと密に思っている。 |