この章で取り上げるのは、ほぼ家治が将軍だった時代です。すなわち、家治は1760年に将軍位に就き、1786年に死亡します。しかし、その2年後の1788年から寛政の改革が始まりますので、この章では、少し家斉将軍時代に入りますが、この1788年までを対象として検討していきたい、と思います。
この時までに、わが国の市場経済化の趨勢はきわめてはっきりしたものとなってきており、もはやそれを無視して、幕府の財政改革は不可能な状況になってきています。しかし、家重政権では、それに対して基本的な問題意識は見られ、積極的な制度整備は行われたものの、前章に紹介したとおり、その治世の短さもあって、具体的な政策にまでは至りませんでした。
こうした市場経済の状況を前提に、家重の用意した基盤の上に立って、年貢米の増徴策を排した積極的な財政改革を行おうとした最初の人として現れる田沼意次が、この章の主役です。
田沼意次が世に出ることができたのは、吉宗のおかげです。
意次の父、意行(おきゆき)は、もともとは紀州家の足軽でした。足軽というのは、一応武士ということにはなっていますが、これより下はないという低い身分です。赤穂浪士の事件があったのは1702年のことですから、意行と同時代といえますが、彼らは最終的に幕府の重大罪人ということになって全員死罪が申し渡され、また、その子達も男子であれば15歳以上のものは全員遠島、15歳未満の者は15歳になるのを待って遠島という厳しい処分を受けました。ところが浪士中ただ一人の足軽であった寺坂吉右衛門は、実際に討ち入りをしたにも拘わらず、別に処罰されることもなく済んだのです。つまり、幕閣の目からは武士に含めて考えられていなかったからです。この当時における足軽とは、その程度の、本当に低い身分と考えればよいでしょう。
意行の能力や人となりについては詳しいことは判りません。しかし、おそらく足軽の中にあっても、見る人が見ればそれと判るほどの有能な人物であったのでしょう。徳川吉宗が越前丹生3万石の藩主であった時代に、彼に見いだされてその小姓となりました。足軽としては信じられないほどの大抜擢といえるでしょう。
あるいは、彼はその時点で浪人で、その才能を見込んだ吉宗が、その当時の彼の持つ限られた権限内でできる唯一の手段として、足軽ということで採用した上で、とり立てていったのかもしれません。何故そういう想像も成り立つかというと、吉宗が紀州宗家の主人となる以前の時点での、紀州家の家臣の名簿には、彼の名がないからです。
ただ、吉宗の小姓になれただけでは、さほど将来性のある話ではありませんでした。何といっても、吉宗はその時点では紀州家の第三子であるに過ぎません。上に2人も兄がいては、紀州家当主になることさえ、とても望めない地位だったからです。ところが、第4章で詳しく紹介したとおり、この一代の幸運児は、一気に将軍となって江戸城に入りました。それに伴い、意行も幕臣となり、そのまま小姓として吉宗に仕え、昇進して小納戸頭取にまでなり、禄高600石といいますから、堂々たる旗本にまで出世したことになります。
意次は、その意行の嫡男として、1720年に、奇しくも、後に彼のライバルとなる松平定信と同じく、田安屋敷で生まれました。1734年、16歳の時に、吉宗の命で将軍世子家重の小姓となりました。父親が上述の通り、文字通り吉宗の子飼いの側近であったことから考えれば、順当な人事ということができます。ちなみに彼の弟である意誠(おきのぶ)は、家重の弟宗尹(むねただ)に仕えています。これも同様に、吉宗の意向による人事といえるでしょう。彼も兄同様に有能だったらしく、後、宗尹が一橋家を創設するとともに、その家臣となり、用人から最終的には家老となって、兄の改革を間接的に支援します。
意次は1747年に小姓組番頭格で御側御用取次見習いに昇格し、さらに翌1748年に小姓組番頭となります。なお、翌1749年に、後年彼を大いに補佐した嫡男、意知(おきとも)が生まれます。
吉宗の亡くなった1751年秋に、意次は家重の御側御用取次となります。吉宗時代は、これが側衆としての最高の地位でしたから、それまでの常識でいえば、出世の一つの頂点に達したといえます。ただ、この時点では彼はあまり注目を引かなかったようです。
それは大岡忠光の存在のためです。彼より11歳年長の大岡忠光は、彼より早くに御側御用取次になっており、その1751年秋には1万石の大名にとり立てられて、御側御用取次中の筆頭としての地位を確立していました。しかも、1756年には、吉宗が名称としては廃止していた「側用人」という身分を、家重はわざわざ復活させた上で、大岡をこれに当てています。ちなみに、側用人は、身分的には老中に準ずる格(大岡忠光は実際に若年寄とされています)ですから、御側御用取次より一格上ということになります。
家重は、側用人大岡忠光は、話し相手として、常に側から離しませんでした。それとは反対に、意次については、その政治的能力を非常に高く買っていたようです。そこで、むしろ積極的に外に送り出そうとします。それがはっきりした形で表面に現れたのが、1758年に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆に関する裁判です。
この裁判そのものの詳細は、既に前章で紹介しましたからここでは繰り返しません。しかし、この裁判が、意次の人生に大きな転換をもたらします。家重は、この裁判に意次を積極的に関与させるために、加増してあわせて1万石を越す大名にするとともに、御側御用取次の一人にすぎない意次に対して、評定所の式日に列座することを命じたからです。これ以降、意次は幕政に関与するようになってきます。
この裁判の結果に意次がどの程度の影響を与えたのかは資料がなく、はっきりとは判りません。しかし、彼の意見を参考にするつもりがなければ、家重はそもそも彼をわざわざ加増した上で、評定所に送り込むというような面倒な措置を執るはずがありません。老中や若年寄まで処断する厳しい判決を家重が下した背景には、意次の的確な進言があったと見るのが妥当でしょう。
この裁判の結果、意次はにわかに、今後の幕政の鍵を握る人物として注目を集めるようになります。たとえば、佐渡奉行石谷清昌(いしがやきよまさ)は佐渡奉行所の改革案を上申したとき、老中と同時に、権限的には全く関係のない意次にも同じ書類を提出しています。旧来の意次観を墨守する日本史の学者は、これを単に意次に迎合してのことと見ているようです。しかし、佐渡奉行所という財政に縁の深い官署の改革案であることを考えますと、この時点で既に意次が、財政に造詣が深いこと、そして積極的に改革を推進する、進取の気象を持つ人物であることが知られてきたために、改革への側面援助を期待しての行動と見る方が素直でしょう。なお、この石谷は、翌1759年に勘定奉行に栄転し、1762年から1770年までは長崎奉行も兼任して、その時期における財政政策の中心人物として活躍することになります。
先に述べたとおり、1760年に大岡忠光が死亡すると、親友を失った家重は気落ちして隠居します。かわってその息子である24歳の家治が将軍位につきます。しかし、意次は、この家治にも信頼されていたため、引き続き新将軍の御側御用取次をつとめることとなります。
むしろ、ここからが、意次の本格的な出世となります。1765年に遠州相良、すなわち先に本多忠央が没収された領地を中心に、2万石の大名となります。このころになると、意次の政治的権力は非常に大きなものに成長しています。1767年ごろのことと思われますが、意次の無礼を咎めた老中秋元涼朝(すけとも)は、その直後、彼の報復を恐れる家臣たちの要望で、老中を辞任したという逸話があります。
その1767年に、彼は家治の側用人の地位につきます。同年に5000石が加封されます。さらに1769年に老中格とされます。地位的には、この時点でこれまでの側用人の出世頭である柳沢吉保と並んだことになります。そして1772年、意次54歳の時にとうとう老中となります。側用人で、正式の老中になったのは、意次が最初です。しかも特に「昵近(じっきん)もとの如し」と命ぜられて側用人の職も、そのまま行うこととなりました。同年には、三河に5000石を加増され、1777年には遠州及び駿河に合わせて7000石を加増され、さらに1781年に和泉に1万石を加増され、1785年に遠州、三河、河内の三国に合わせて1万石を加増されます。この一連の加増の結果、最終的に合計5万7000石の大名となります。
要するに、江戸封建体制の下で、親子二代をかけ、将軍三代にまたがってのことではありますが、足軽という最下級の軽輩から、幕臣として望みうる最高位までかけ上ったことになります。幕末の混乱期はともかく、これ以前には全くなかったシンデレラボーイということができます。
ただ、彼の出世なるものは、今日の感覚から見れば、そう異常なものとはいえません。彼の履歴を今日流にいうならば、若い頃に国家機関に事務官として奉職し、何人もの総理大臣に仕えつつ、秘書官、官房長と順調に昇進して、晩年に、政界に転じて、最終的に閣僚の一人になった程度のものだからです(首相に当たる老中首座には、最後までなっていません)。俸給も、その地位に見合う程度のもので、柳沢吉保のように異例の高禄というわけではないのです。
ただ、当時の門閥体制を前提にした場合に限っての異数の出世であるにすぎません。だから、その人物も、政治力も、その長期間にわたる官僚としての活動の中で練り上げられ、優れたものとなっていたと思われます。
意次というと、賄賂政治という言葉が反射的に出てきます。たとえば明治期において既に、徳富蘇峰は、その著「近世日本国民史」で意次に論及して次のように述べています。
「田沼は実に虎の威を藉る狐であり、〈中略〉賄賂は彼の政治の生命であり〈中略〉むしろ世の濁流に泳ぐ怪魚だった。」
しかし、本当にそのように賄賂をむさぼる人物であったかについては、相当疑問があります。そもそも、意次が賄賂をむさぼったという資料は、落首や流言飛語のたぐい、及びそれ同様に信頼性の低い文書をのぞくと、たとえば意次の政敵である松平定信自身の書いた「宇下人言(うげのひとごと)」や、肥前平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)の書いた「甲子夜話(かつしやわ)」程度しか、伝わっていないのです。静山は、定信の腹心ともいうべき松平信明の姉の夫で、自らの幕閣に加わりたくてかなり運動した人物ですから、明らかに定信派です(しかし、政治家としては無能であったらしく、寺社奉行にさえして貰っていません)。本章の最後に詳述しますが、田沼派と定信派は、その政権交代に当たって長期にわたって死闘を展開しました。いつでもそうですが、その様な死闘があった場合、勝者の側の話しか伝わらないのは、歴史の常です。
しかも、その政敵達の文章でさえも、記述は一般論を述べているのであって、自分の見聞した具体的な事例はほとんどあげられていません*。定信派は、重商主義を推進する出自の卑しい人物のやることだ、という主張の下に情報戦を展開していたと思われますから、賄賂をむさぼったという話も、その一環として、意識的に流されたと考えるのが妥当でしょう。というのも、享保の改革の項で紹介したとおり、吉宗の創設したお庭番という秘密情報組織は、噂が流布しているかどうか、に力点を置いた情報収集を行うので、相手に不利な情報を大量に流すことは、失脚させる非常に有力な手段だったからです。
仮に、世にいわれるほどの賄賂を受けているのであれば、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがありそうですが、そのようなものは意次にはありません。また、使わずにため込んでいたのであれば、その後、失脚した際に、巨万の財産が没収されたというような話が出なければおかしいですが、それもありません。
また、それほど膨大な賄賂は、当然送り手の側にとってもかなりの負担となります。この頃になれば、どこの大名でもきちんとした財政に関する帳簿を付けるようになっています。そういう帳簿はもちろん外部に公表する性質のものではありませんから、莫大な賄賂を送ったりしていれば、当然、そうした財政帳簿の中に、その事実が記載されていなければおかしいのです。そうでなければ、その藩の会計責任者が横領したと思われてしまうからです。ところが、そうした記録は皆無です。
それどころか、逆の内容の記録は見つかっています。仙台の伊達家文書には、こんな話があります。当時の藩主伊達重村は、自家と同格と信じている薩摩の島津家の当主が既に中将に昇進していたのに、自分が少将であることから、昇格運動に乗り出します。伊達家では、その実現手段として賄賂戦術を考え、その目標として、老中筆頭であり、かつ勝手掛であった松平武元、大奥取締の老女高岳および側用人田沼意次の3人を選び、面会を申し込みます。そうすると、松平武元は、目立たないように供の数も減らしてくるように、と指示して会った上で、その挨拶にはなはだ満足した、ということになっています。老女高岳に至っては、伊達家から家を一軒建てて貰っています。これに対して、田沼意次は「ご丁寧のこと、わざわざ御出にもおよばず」と面会することさえも断っているというのです。
そもそも、そのように賄賂をむさぼるような人物を、なぜ将軍が信頼したか、という問題があります。将軍に賄賂が効くわけはありません。だから、情実に訴えるのであれば、阿諛追従の方法しかないと思われますが、そのような形跡もありません。ふつう、阿諛追従によって出世した寵臣は、次代の受け入れるところとはなりません。柳沢吉保しかり、間部詮房またしかりです。しかし、意次の場合には、これまでに紹介してきたように、三代の将軍によって低い身分から段々と取り立てられているのです。しかもその3人はただの人ではありません。英明な君主として知られる吉宗が最初に彼を起用します。家重は、寵臣の大岡忠光を側に引きつける一方で、彼を積極的に政治面に投入します。最後に、本当に彼を重く用いたのは、24歳という希望に満ちあふれた時期に将軍に就任した家治です。このような若者に対して、前代の遺物である老人*のする阿諛追従が役に立つとは思われません。
少なくとも予算面で見ますと、意次の行為は、将軍に阿諛追従するどころか、その逆で、積極的に苦しめているのです。田沼時代には、大幅な財政改革が実施されますが、その一環として、当然支出の抑制も厳しく行われます。が、それは吉宗や後の松平定信のような、一律に倹約一本槍というのではなく、部署ごとに節減の程度に差異を設けるというやり方です。江戸町奉行所や伏見町奉行所のような民政を担当する機関の予算は、ゼロシーリングとなっています。これとは反対に、将軍の私生活を賄う御納戸金は、家重が幕政の実権を握っていた1750年には2万4600両でした。ところが意次が実権を握った1771年には1万5000両に削減されています。約60%にカットしたことになります。これほど削られては、将軍としても、さぞ日常生活全般にわたって具体的な影響がでて、苦しくなったと思われますが、それほどひどい目に遭わされながら、家治の意次に対する信頼は、その死の瞬間まで揺らぐことはなかったのです。
池波正太郎の代表作の一つに「剣客商売」があります。その作中では、準主役級の扱いで、禁欲的な生活を送る田沼意次が描かれています。老中が豪華な生活をしていては、将軍が質素な生活を送る気にもなれないだろうことを考えますと、賄賂をむさぼる意次像よりも、こちらの方がより実像に近いものと思われます。
このことから考えても、意次が、阿諛追従よりは、その能力を買われて取り立てられたと見るのが妥当でしょう。そして、彼のようなコースを通って、最高権力者まで上り詰めた最初のものであっただけに、激しいねたみを旧来の門閥勢力から受けました。さらに、彼の推進した財政改革が、従来の特権の上に眠る門閥勢力にひとかたならぬ犠牲を強いるものとなったことが、その軋轢をいやが上にも増したのです。
ただ、彼の同僚や下僚は、商人との密接な交渉の中で、ややもすると賄賂を受け取ることが多かったことは、様々な資料から見ても間違いない事実です。
ロシアや東欧圏などでは、共産主義国家であった時代に、資本主義を唾棄すべきものとして非難する教育を行っておきながら、最近、共産主義の行き詰まりから自由主義に方針を変更しました。その結果、資本主義としてももっとも忌むべき形で利潤を追求するような行動が横行し、アルバニアに至っては、国家そのものが崩壊の危機に瀕しています。
おそらく、それと同様に、商行為を卑しむべきものとする儒学教育を行っておきながら、突如として商行為を為政の中に積極的に取り込むという方針の転換が起きたために、商業道徳に悖るような行為を行うことも、新政策の下では許されるような錯覚が、下級官僚に生じたのではないかと思われます。その意味で、田沼時代が賄賂の横行する時代であったということ自体は否定できないでしょう。そして、そのことについては、最高責任者の一人として、田沼意次も責任を免れないところです。
もっとも、これに対して意次は積極的に取り締まり努力を行っています。勘定方の監視機関たる勘定吟味役機構の整備は、家重時代に始まったことは前章に紹介しましたが、意次の時代にはその整備が一段と進んでいるのです。
具体的にあげますと、まず1761年に3月に勘定吟味役付の部下の事務分掌が決まります。ついで同年9月には吟味方改役及び吟味方改役並という職制が設けられ、吟味方は総員28名となります。1767年には、吟味役に下役が置かれます。下役というのは抱席、すなわちその身一代限りの奉職者のことで、町奉行所の同心などに相当します。いわば検査活動の手足に当たるものですが、これが8名置かれます。翌68年には、早くも17名に増員されます。
こうしてみますと、不正根絶のためかなりの努力をしていたことは確かです。
なお、勘定所そのものについても、1761年にその分課分掌規則が整備されます。この時の職員数を見ますと、勘定組頭12名、勘定134名、支配勘定93名、支配勘定見習い12名で、合計252名という大組織に成長しています。さらに1767年に勘定の増員があり、計259名になったといいます。
田沼時代と一口にいいますが、実は、それが何時から何時までかは必ずしもはっきりしません。
始期については、彼が徐々に幕政に権力を持つようになっていきましたので、明確にどこからが、彼の個性を反映した幕政なのかがはっきりしないからです。
一番早い時点としては、御側御用取次に昇格した1751年から、と考えることもできます。中間的な考え方としては、1758年の郡上一揆裁判以降がそうだ、と考えても良いでしょう。もう2年遅らせて、家治が将軍になってから、というのも一つの線の引き方でしょう。1769年に老中格として幕政に正式に関与できるようになりますので、ここで線を引くのにも理屈があります。1772年に正式の老中となりますから、この時からと考えても構いません。
田沼意次という人を否定的に捉える論者は、さらに遅らせて考えます。すなわち、1779年に、それまで老中首座を勤めていた松平武元が現職のまま死亡しますが、それまでは、武元に抑制されて、意次は本領を発揮できないでいたと考えるのです。その場合には、この1779年以降の10年ばかりが田沼時代とする見解をとることになります。
以上から判るとおり、田沼時代があるとしても、その始期に関して1751年から1779年まで28年もの幅があります。このどこを採っても間違いとはいえないのです。
先にも一言したとおり、彼は最後まで、老中首座になっていません。それどころか、財政改革の中心である勝手係老中にさえもなっていないということから考えると、田沼時代なるものは錯覚で、実はない、といっても間違いとはいえません。
なぜ、このように始期について幅があるかというと、そもそもなにをもって田沼時代というのか、という基本的な問題が不明確だからです。
老中首座になって、初めて政策に影響力を持つようになった松平定信や水野忠邦の場合であれば、その首座にいる期間が、彼らの改革期間と定義されます。しかし、同様の観点からこの時代を見るときは、先に言及した松平武元が79年に現職のまま死去するまで老中首座の地位にありましたので、このときまでは武元時代というべきでしょう。なお、その時の勝手係老中は、武元自身が兼任していました。
その後の老中首座は松平康福(やすよし)でしたから、その前を武元時代と呼ぶなら、以後は康福時代と見るべきでしょう。この時代の勝手係老中は、主として、水野忠友(ただとも)でした。ただ、忠友の養子に意次の四男意正がなっていたような関係にあり、この時代の意次の影響力は非常に大きなものとなります。そこで、先に述べたように、この康福時代を田沼時代と限定する見解もあるわけです。
なお、財政政策の実行責任者というべき勘定奉行は、武元時代と康福時代で交代しています。武元時代には、先に名を紹介した石谷清昌と安藤惟要(これとし)が財政改革の中心にいました。康福時代になりますと、1779年に石谷が留守居役に転出し、代わって勘定吟味役であった松本秀持(ひでもち)が起用され、また安藤が1782年に大目付に転出し、代わって京都奉行であった赤井忠晶(ただあきら)が、それぞれ就任して、財政政策の実行に当たることになります。
終期は、一般には1786年の、老中から失脚した時と考えられています。しかし、その後も老中首座を水野忠友がつとめる等、1788年に彼が死亡する時期くらいまでは幕閣の主要メンバーは依然として田沼派で占められ、その政策がそのまま遂行され続けました。たとえば後であげる田沼時代の重要政策である南鐐(なんりょう)二朱銀の発行は、1788年まで続けられます。
すなわち、松平定信は、1787年に老中になります。が、同年中に井伊直幸を、翌1788年に水野忠友、松平安福をそれぞれ老中や大老から辞職に追い込むことで、ようやく田沼派を一掃して、幕閣を自派で固め、いわゆる寛政の改革に本格的に乗り出すことができるようになったのです。
要するに、田沼時代というものは、田沼意次という一人の独裁者がいて、すべてを仕切っていたのではありません。老中から御側御用取次に至るメンバーで構成されたチームで、田沼政治といわれるものは行われていたのです。そのため、彼一人が失脚しても、その政策は依然として続けられるということが起きるのです。
本稿は、意次の運命を見ようとしているのではなく、その財政政策を見ようとしていますから、終期についても、その政策の終期を採るのが妥当でしょう。
このように重点を政策に置いて考えますと、始期についても田沼自身の経歴に基づく細かい議論をする必要はないでしょう。忘れてならないことは、この家治時代も側用人政治であり、側用人政治の成立用件は、強い将軍の存在だ、という点です。家治自身が市場志向型の政策の必要を痛感し、そうした政策を有する者を幕閣に起用していますから、同一傾向の政策を有するチームができあがるのです。そのチームの全盛期に、将軍と老中部屋の連絡係という要の位置に田沼意次が座っていたに過ぎません。そこで、本章冒頭にも述べたとおり、家治時代をほぼ田沼時代と把握すればよいことになります。
この時代の財政政策は、幕府としては未知への挑戦です。その結果、依然として家重時代と同様に、試行錯誤の連続であり、したがって、成功したものもあるが失敗したものも数多いという状況にあります。順次見ていきましょう。
家重施政期の後半に、いったん平年並みに戻っていた米価は、家治時代に入った直後の1760年から、再び下がり始めました。そこで、幕府では、1761年12月に目付や勘定吟味役を大阪に派遣して市場調査を実施し、抜本対策を検討させました。その結果、出されたのが1762年1月の宝暦の御用金令です。
吉宗が、全国の商人に命じて値下がりの際には買い出動に出させることで、米の値段を高めに設定する方策を採ったことは前述しました。しかし、そのように、商人自身に買い出動させるやり方では、家重時代の暴落のように、市場の先行きに対する見通しが暗い場合には限界があります。損をすると決まっているような買い出動を、一片の命令のみの力で、商人に行わせることは、不可能というべきことです。
そこで、この時考え出されたのは、あらかじめ商人から幕府が資金を借り入れて、幕府自身が随時買い出動に出る体制を採る、という方法です。原資は大阪商人に対して総額170万3000両を強制的に割り当てる、という方法で確保します。これを使って幕府が大量の米を買い上げ、高くなったところで売り払うことで、幕府及び大名を救済しようというのです。これがこの御用金令です。理屈としては正しいといえるでしょう。
問題は原資の調達です。商人からの借り入れは、月0.1%という大変な低利率なのです。ちなみに寛政の改革で、松平定信が借金に苦しむ幕臣の救済のため、棄捐令を出して強引に金利を下げさせますが、それによる低下後の金利が月1%です。したがって、この金利では、もちろん任意に貸す者はいません。そこで、大阪町奉行所では、出金者に指名された者を白州に呼び集め、「不埒な者は牢に入れるから、再度我が家に帰れる所存ではあるまいな」と明け方まで恫喝するという強引な手法で、資金を提供させました。
これは大名救済策をかねていましたので、このうち3分の2は米の買い出動用に使われ、3分の1は大名への低利貸出資金として使われました。
こうしたかなり無理のある方法で、資金の大量吸い上げが行われましたので、大阪の金融市場は一気に冷え込みました。大名が大阪町人に資金融通を頼んでも、御用金を理由に断られることから、大名の不満も高まりました。こうして、御用金が56万両あまり集まった2月28日に、御用金令は、突如うち切られることになったのです。
借り集めた資金は、3月以降に順次返済されることになっていました。が、松平定信の批判を信ずるなら、実際には踏み倒しに近いことになったようです。
これに懲りて、幕府は、これ以降、米市場についてはレッセ・フェールの方針を貫き、特別の介入はしなくなりました。後に天明の大飢饉の時に、この方針が問題となります。
江戸通貨に、金と銀という二種類の本位通貨と銅という補助通貨が存在していて、江戸が金中心であるのに対して大阪が銀中心であったため、相当混乱していたため、大岡忠相がこれに挑み、強引な手法を採ったため、失脚したことは、享保の改革の際に述べました。
改めて問題点を簡単に述べますと、この金銀交換レートの変動のため、幕府等は、一般に不利な方向に、かなりの影響を受けました。それは次のようなメカニズムからです。すなわち、幕府や大名は、米を金銭化するために大阪に送ります。米が季節商品であるために、一時期に市場に集中せざるを得ません。そこで、価格は必ず下落します。その代価は銀で支払われます。これを幕府を初めとする諸大名では江戸での消費に当てるため、送金します。しかし、江戸は金本位経済ですから、江戸で使うには、この銀貨を金貨に両替する必要があります。しかし、一時期に大量の銀貨が江戸に流れ込みますと、銀に対する金の交換レートは上昇しますから、ここでまた幕府や大名の手取り額は減少することになります。このように、金銀二重本位経済であるために、米→銀、銀→金と2回に渡って、幕府等は交換差損を出すことになります。
この当時、既に為替決済システムが江戸=大阪間で確立していましたから、この銀貨の大量流入といっても、それは帳簿上のことで、実際には、銀貨は江戸に移動していません。
そこで、米相場への挑戦に失敗した翌年の1762年になって幕府が考え出したのは、実際に銀貨を運ばせれば良い、ということでした。なにより幕府等は、現銀がくれば、江戸でもそのまま使えない訳ではありませんから、金貨に両替することによる差損がある程度は防げます。そのうえ、大阪の現銀が不足してくれば、金に対する銀の交換レートが高くなるという方向に、レートの変動に影響を与えるのではないか、というアイデアでした。
そこで、大阪で集められた現銀はすべて現物を江戸に送り、他方、大阪に所在する幕府機関の活動に必要な資金は為替で送金するという方法で、どんどん大阪市場の資金を吸い上げるという施策が採られました。1767年にこれが中止されるまでに、大阪から江戸に送られた銀貨は約10万貫に上ります。
しかし、為替送金システムは、双方向への資金の流れがほぼ均等だから成り立つのです。このように強引に、流れを一方向だけに限定されたのでは、システムは崩壊せざるを得ません。したがって金融市場そのものが機能を停止してしまったのです。
こうして1767年には再び、大阪から江戸への為替送金が行われるようになりました。
* * *
御用金令といい、この現銀の輸送作戦といい、ほとんど思いつきに近い事を、果敢に実行しますが、失敗したと見ますと、さっと撤退するところは、いかにも将軍とそれを取り巻くスタッフたちの若さを感じさせます。一国の為政者が、このように思いつきに走られては、国民たる者としてはたまったものではありません。
が、その積極的な挑戦には、現在という安全な場所から見る私としては、何とはなしにほほえましさを感じてしまいます。
こうした試行錯誤の中から、彼らは次第に実効性ある政策を見いだしていくのです。
商品経済を支えるのは通貨です。したがって、通貨改革は、商品経済をより発展させ、それを基礎とした租税政策を実行あるものとするためにも、欠くことのできないものでした。
金貨と銀貨が別個に価格が変動し、固定レートができない原因の一つは、銀が秤量通貨であった点にあります。当時、銀貨には、丁銀と豆板銀という2種類がありましたが、どちらもその重さは一定ではなく、そのため使用に当たっては一々秤でその目方を確認する必要がありました。
これが、金銀レート変動の原因ではないか、ということを思いついた幕府は、早速65年に、元文丁銀・豆板銀と同じ46%の純度ですが、正確に五匁の重量を持つ五匁銀を発行しました。そして、これを幕府公定レートにしたがい、いつでも12枚で金貨1両と交換させようとしました。
しかし、五匁銀は、単に秤ではかる必要がなくなったというだけのことで、金額表示のものではありませんでしたから、幕府の金貨と銀貨の固定相場を作ろうとする意図に反して、市場では、相変わらず、市場レートにしたがって、金貨と交換されていて、発行の目的は達成できませんでした。
そこで、両者を一本化するためのエースとして1772年に発行されたのが南鐐二朱銀です。これは素材が純度98%という、それまでわが国通貨史上に登場したことがない、非常に良質の銀貨です。このため、通貨の純度に対する信仰のあった当時の市場には受け入れられやすい、という大きな特徴を持っていました。しかも、二朱という、金貨における通貨単位をもっているため、金貨と固定的な相場で兌換できるという奇抜とも、斬新ともいえるアイデアでした。
なお、金貨の通貨単位としては、小判における「両」が良く知られていますが、その下は「分」といいます。4分で1両となります。分の下が「朱」です。4朱で1分となります。従って、二朱銀であれば、2枚で1分に相当し、8枚で1両に相当することになります。南鐐の表面には、8枚で1両に相当する、ということが明記されていました。
銀貨を金貨として使用させるという点に、市中には若干の抵抗感もあったようですが、元禄期の荻原重秀や享保期の大岡忠相の改鋳のように悪貨に変更するどころか最高の品位であり、また従来の通貨を廃止するような強権的な方法を採らず、漸進的な改革であったため、特段の通貨混乱が起きることもありませんでした。
南鐐という名称は、輸入した良質の銀という意味です。すなわち、この時期、長崎貿易は、それまでになかった全く新しい新局面を迎えていました。それまで、長崎貿易の悩みは、片貿易のために、金、銀、銅という基本的な金属資源が激しい流出を示すという点にありました。
しかし、貿易により、そうした金属資源を輸入することで、国内的な品薄を解消できるということを、この時期の幕府は考えついたのです。
1763年といいますから、先に何度か触れた勘定奉行石谷清昌がわざわざ長崎奉行を兼任していた時期に当たります。その年の記録に、中国から「足赤金、八呈金、九星金」をそれぞれ146匁4分、「元寶足紋銀」を117貫179匁、「中型足紋銀」を37貫752匁9分、「元絲銀」を240貫73匁2分2厘6毛輸入したといいます。金や銀についている変わった名称の意味はよく判りませんが、それぞれの塊の形を意味するもののようです。これを単純に合計しますと、銀は計395貫という事になります。白石の長崎新例による対中国貿易制限額が年3000貫でしたから、その1割程度で、国内的に強いインパクトを与えるほどではありません。が、幕府創設以来の流れが逆転し、金銀が海外に流出する代わりに流入するようになった、ということの意義は大きいといえます。この年を皮切りに、以後、毎年のようにかなりの金銀の輸入が始まります。
同年から1782年までの10年間の、中国からの輸入総量は金が88貫474匁、銀が6374貫772匁余といいます。このうち3829貫919匁9分9毛9絲を溶かして、南鐐二朱銀を126万650片を鋳造したといいます。額面金額に直せば、15万7581両あまりです。
このほか、1765年から、オランダからもやはり銀の輸入を開始しています。オランダの場合には同国の銀貨そのものを輸入していますから、これは輸入というより、相手国通貨による貿易の決済といった方がよいでしょうか。当時のオランダの銀貨は、デュカットという単位でしたが、1770年には、輸入限度額を1万5000デュカットと決めていますから、大体その程度の輸入額があったと考えて良いでしょう。当時の日本人には、デュカットという発音が聞き取れなかったらしく、テカトンという表記になっています。1782年までの集計では、1417貫068匁余となっています。
この銀の対価として支払っていたのは、俵物と銅です。このうち、銅については増産といっても限界があるのに対して、俵物については、生産拡大の余地がありました。1764年に、幕府は中国輸出向けの煎り海鼠(なまこ)及び乾し鮑(あわび)を増産するように、諸国に命じています。すなわち、生の海鼠や鮑の漁業になれていない漁村や、せっかく生の海鼠や鮑を採っていても、中国人の好む製造方法を知らないために、加工していない漁村がかなりあったからです。そこで、そうした漁村は近隣のそうした技術を持っている漁村からそれを習って、増産に努めるように、と命じたものです。翌1765年には、鱶鰭(ふかひれ)の製造がきちんとなされていないために商品価値を落としている例があるので、製造方法に注意するように、というお触れが出されています。輸出を盛んにするために、それについては租税を免除する、というのです。
もっとも、南鐐二朱銀が輸入銀で製造されたというのは建前であって、実際には、かなりのものは、市中に出回っている丁銀を鋳潰して作ったのです。それによって幕府はかなりの出目を得ることができました。低品位通貨を回収して高品位通貨を発行する際に出目が得られるというのは、まるで手品のようで、意表をついたものですから、それまでの改鋳と違って人々の通貨不信を呼ばなかったのです。
そのからくりは次のようになります。南鐐二朱銀は1枚の目方が2.7匁ですから、8枚分(1両相当)では21.6匁になります。純度98%ですから、それに対する純銀量は21.1匁という計算になります。他方、通用中の元文丁銀は品位46%でした。幕府の公定交換レートは上述のとおり、金1両=丁銀60匁でした。この60匁の丁銀中に含まれる純銀量は27.6匁という計算になります。つまり丁銀を南鐐二朱銀に直すごとに、27.6ー21.6=6匁づつ出目が、1両ごとに発生するわけです。換言すると、1両相当の丁銀を二朱銀に直すことで、二朱銀が10枚以上もできることになります。
これまでの改鋳は、白石のそれを例外とすれば、まとめてドカッと行うと長期に渡って放置する、というやり方でした。ところが、この南鐐二朱銀の発行は、少量づつ、息長く行われました。そして、改鋳のたびごとに通貨供給量が二割程度増加するわけです。
これは、田沼政権の重商主義的経済運営によって発生する通貨需要の増大にふさわしい通貨発行量の増加をもたらしました。このため、この時代の物価は非常に安定しています。すなわち、南鐐二朱銀は、幕府財政政策と金融政策という二重の機能をもっていたわけです。
こうした数々の優れた長所があったため、以後、1788年に、田沼派が総退陣に追い込まれるまで南鐐二朱銀は定期的に発行されました。さらにその後、松平定信が寛政の改革に失敗して失脚すると、再び復活して行われるようになりました。発行総量は593万3000両になります。最終段階では、全通貨流通量の20%以上が、この南鐐二朱銀になったといわれます。
なお、長崎貿易において、銅が対価の主役となってきたことから、銅が不足し、銅貨の増発も思うに任せなくなっていたことは先にも触れました。そこで、67年に、初めて真鍮製の四文銭を発行しました。これも銅の使用量を抑えるための苦肉の策といえます。しかし、荻原が発効した十文銭と違い、これは鉄の一文銭の上位通貨として庶民に受け入れられ、1860年まで発行が続けられ、発行総量は1億5742万5360枚に達しました。
こうした様々な要素から、1736年の元文改鋳から次の改鋳である1818年の文政改鋳までの間に、通貨供給量は大体40%程度のびていただろうと計算されています。
封建経済から商品経済へと、社会の経済構造が変革していることを直視するとき、幕府財政の基礎を、そうした商品経済へと移す必要があります。同時期に、同じように財政危機に陥った諸藩で財政改革に成功したものを見ますと、たとえば徳島藩が藍を、熊本藩がろうそくの材料である櫨(はぜ)をそれぞれ専売にしたことに代表されるように、何らかの換金作物の栽培を奨励し、特産品化し、それを専売するという方法でした。
しかし、幕府の場合には、財政規模が大きいですから、そのような小手先の対策では限界がありました。どうしても、商業そのものに対して課税する方法を開発する必要があったのです。
ある税制が優れたものとして機能するためには、無駄なく、無理なく、少ない徴税コストで、できるだけ多額の租税収入を可能とするものでなければなりません。封建体制の下において、米が租税の中心となったのは、この条件を満たしていたからです。たとえば有毛検見法のように手間のかかる認定手段をとった場合ですら、農民にどれだけの収穫があるかは、その地方の特定の田圃のごく一部を坪刈りすれば十分です。そこから先は、農民ごとの耕作面積さえ把握しておけば、容易に課税総額を決定できるのです*。
商業に課税するというのは簡単なようですが、このような条件を満たす税制を開発できなければ、実効性を期待することはできません。ここで忘れてならないことは、この時代にはまだ商業簿記の技術は開発されていなかった、ということです。商人は、いわゆる大福帳なるもので、その取引の管理をしていましたが、それでは、なかなか年単位の収支の全貌を明確に把握することは難しいでしょう。また、仮に利潤が大福帳を解析して把握することが可能であったとしても、課税者側である幕府官僚にその帳簿の解析能力がなければ、結果は同じです。
今ひとつ忘れてならないことは、この時代の政府は、我々の想像を絶した小さな政府で、きわめて少人数で運営されていた、という点です。したがって、かって、わが国税務署がよく行っていた個々の商店の棚卸しまで税務職員の手で行って納税額を認定するというような、人海戦術的な課税手段は間違ってもとれません。
そこで導入されたのが、様々な登記、登録に対して、担税力の存在を認め、登録免許税を徴収するという手法です。この登録免許税を、当時は「冥加金(みょうがきん)」と呼んでいました。
また、この登記、登録の期間を一定に限り、その更新に対しても課税しました。これを、運上(うんじょう)といいます。登記、登録のおかげで、ある程度対象となる商業活動の内容が把握できるところから、冥加金が固定的な金額であったのに対して、運上は課税額が年によって変動するのがふつうでした。その意味では今日の事業税の性格を有しているといえます。
どんな場合に、その登記、登録という公的サービスを幕府が提供したかを以下に見ましょう。
株仲間とは、独占的な商工業者の同業組合のことです。江戸幕府では、織田信長の楽市楽座政策を承継し、金座、銀座など一部の業種をのぞいて座の結成を原則的に禁じていました。しかし、大阪では1710年代には既にほとんどの業種で株仲間が結成されていたといいます。また、江戸でも元禄期に十組問屋(とくみどんや)*が誕生しています。享保の改革の際には、大岡忠相が、物価の引き下げや贅沢品取り締まりの目的から株仲間の結成を強制した御免株(ごめんかぶ)のことは既に説明しました。
田沼時代の幕府では、このように放置しておいても結成される株仲間を、幕府として積極的に公認する代わりに、公認料として「冥加金」を徴収するという方式を導入しました。公認を得るには、問屋や仲買は、仲間の判形帳(はんぎょうちょう)を幕府に差しだし、冥加金を納める必要があります。こうして、幕府としては、商工業者の実態を把握することで、商工業政策の基礎が得られると同時に、財政収入の確保が可能になるという、一挙両得の方策でした。また、結成後は、運上を徴収することで、継続的な財政基盤としました。
この公認の株仲間を願株(ねがいかぶ)と呼びます。大阪では、この時期に大問屋から、小売り商人、職人までが冥加金を納めて株仲間として認可を得ています。江戸の十組問屋に対応する江戸積二四組問屋も1784年に株仲間となりました。その結果、願株は130種にも及んでいます。庶民の生活の全般にわたって、株仲間が存在していたことになります。
この株仲間の公認は、大岡忠相の御免株のように幕府の政策によって初めて株仲間ができたのではなく、むしろ、陰に存在していたものが表面化したに過ぎないことは留意する必要があります。表面化させることにより、幕府は商工業の全般に渡ってコントロールする可能性が開けた、という意味で、単なる租税対策の域を越えた優れた施策と評価するのが正しいでしょう。
ただ、株仲間を通じて商業の実情を把握するためには、その株仲間が、その商品をほぼ完全に押さえている必要があります。このため、田沼政権では、大阪市場のもつ実質的優位性を法によって与えられた特権的地位にまで高めていきます。この状況を、燈油の統制を通じてみてみましょう。
燈油については、斉藤道三がその販売を通じて巨富を積み、美濃一国を奪い取るに至ったことで知られているように、古くから、非常に人々の暮らしに直結した貴重な物資でした。そこで、徳川幕府では早くから、その株仲間の設立を強制して計量単位を統一させ、1672年には時価を毎月幕府に報告するように命じるなど、物価調査の対象ともしていました。享保の改革では、その一環として、燈油を扱うものすべてを株仲間に加入することを強制し、その代わりに、業者ごとの営業区域を定めて、その地域内における特権的販売権を認めています。これにより、燈油価格の安定を目指したのです。
しかし、こうした保護政策にもかかわらず、原料の調達面での問題から燈油価格が騰貴したことから、家重は、従来よりも大阪の特権的地位を高めることにより、株仲間を通じた価格コントロールに乗り出します。それは次のような理屈によるものです。すなわち、大阪に燈油が集中すれば、燈油の市場価格も安くなるのに、中国地方などで作られている燈油が、大阪を飛び越していきなり江戸に運ばれているので、大阪市場の燈油が品薄になり、ややもすれば騰貴する、というのです。そこで、諸国の燈油は必ず大阪の株仲間に売却するように強制するようになったのです。
田沼政権も、この政策を継承し、強化します。1766年に出した法令によると、たとえ村の中で使用する燈油といえども、つくってそのまま消費してはならず、いったん大阪に運べ、としています。これは、随分無理な法令といえます。そこで、翌1767年には、江戸に燈油の株仲間の設立を認め、関東地方の燈油は、ここに独占権を認めるとしています。燈油商にこのような特権を認める代わりに一軒あたり、毎年銀50枚の冥加金の納付を認めるというやり方をとるわけです。これを明和の仕法と呼びます。
このように、独占権を認めることで物価の安定を図るという発想は、今日の我々から見るとかなり狂ったものといわざるを得ません。しかし、これは上述のとおり、江戸初期から一貫した発想です。田沼政権は、これを幕府直轄領であると大名領であるとを問わず、全国一律に大阪の優越的な地位を保障する、という形で徹底させたに過ぎません。
質というと、ふつうは担保に入れる物の占有権を債権者に移して行う担保物権のことです。しかし、ここでいう家質(かじち)とは、江戸時代の町方で行われた家屋敷を担保とするもののことで、今日の民法学でいう譲渡担保のことです。家を担保として金融を得るために、その家を質に入れては居住する場所がなくなり、困ります。そこで、債務者は債権者に売券(ばいけん=売却証明書)と借家請状(うけじょう)をワンセットで差し入れて担保とするのです。利息は家賃の支払いという形式をとって支払われることになります。期限までに借金の返済ができないときは、正式に帳切(ちょうぎり=名義の書き換え)が行われるわけです。商品経済の発達していた大阪で、低利で確実な庶民金融として発達しました。
しかし、このままでは公示性が低いため、取引の安全を確保することが難しいのが問題です。そこで、享保の改革の一環として、家質証文には五人組と町年寄りが加判する事になりました。しかし、加判者がその地位を悪用するような事態が現れたため、より客観性ある公示機関の設置が必要となりました。
そこでまず1767年に、大阪に町人の出願により家質会所(かじちかいしょ)が設けられる事が認められました。これは会所が証文に奥印を与えて、公示性を確保するという手法です。
ここに担税力の存在を認めた幕府は、翌1768年にこれを家質奥印差配所に切り替えました。差配所では、家質証文に奥印を与えるに際して印賃を徴収しました。これは今日の言葉で言えば抵当権の設定に当たって登録免許税を徴収するという手法です。
しかし、家質による資金運用の秘密がすべて幕府に握られることを意味しますので、大阪町人は強く反対し、結局、差配所からの収入額と同額の川浚い金を大阪に課すことで、1775年に廃止されました。大阪市民に課した川浚い金は、総額9950両でしたから、大体その程度の額が毎年幕府の歳入に上がっていたはずです。
* * *
先に述べたとおり、幕府勘定所の当時の細かな歳入内容については不明です。このため、この冥加金や運上が、幕府財政の改善にどの程度寄与したかは判っていません。しかし、こうした運上を徴収するという税制は、この時以降確立しました。明治政府が徳川幕府から継承した小物成り(こものなり=田畑に課される本年貢以外の雑税を意味する)、運上等は、合計で1500〜1600に及ぶといいます。これらが明治期の、所得税などはほとんど無きに等しかった時代における租税の中核である消費税へと発展していくことになります。
諸藩では、財政改革の手段として、その地域の特産品を藩の専売とすることを、重要な手段としましたが、田沼政権でも、一部のものについて、幕府の専売制度を導入しています。
輸出の中心物資である銅については、吉宗による元文の改革の際、銅座が設けられていましたが、業務は銀座が片手間にやっている程度のものでした。そのため、あまり実効性が確保できないでいました。
田沼政権ではこれを強化し、まず長崎銅会所というものを新たに大阪に設置し、これが実質的に銅座の業務を行うようにしました。そして、従来銅や金を扱っていた商人の株仲間が処理していた事項も、すべて銅座が指揮することにしました。また、銅座が取り扱う銅については、課税対象外としました。そして銅座に納入するのを奨励するために、直接銅座から銀貨で直ちに代金を支払うのを原則としました。そして、組織を勘定奉行、長崎奉行及び大阪奉行の共管におき、規定を詳細に整備しました。1766年のことです。銅座が実質的に成立したのはこの時と見るべきでしょう。
朝鮮人参は、和漢薬のエースとでもいうべき存在で、朝鮮貿易の中心でもありました。
田沼政権では、これを国産化することを企てます。そこで、朝鮮と似た風土を探して上野国の今市付近を選定して種をまき、栽培してみたところそれに成功し、薬効も朝鮮産のものと異ならない、という結論が出ました。そこで、これを幕府の専売として、人参座を作ったのです。1763年のことです。当初は勘定所の役人が兼務で処理していましたが、業務量が多く、とても無理ということから、1766年からは、専門に担当する職員をおくようになっています。ずっと後、1819年のことですが、国産の朝鮮人参を中国に輸出したということです。金銀の流出原因だった朝鮮人参が、逆に外貨を稼ぐ産業にまで生長していったのです。
* * *
残念ながら、これらの専売事業によって、どの程度の利潤を獲得できたかははっきりしません。
蝦夷地、すなわち北海道は、江戸時代、松前藩の領地でした。しかし、松前藩の統治形態はきわめて異例のものでした。ふつうの藩では、家臣に知行地を与えますが、松前藩では、アイヌ民族の居住地に、藩の独占的な交易の場所を作り、そこで交易する権利を家臣に与えるという形で知行としていました。これを「商場(あきないば)」あるいは単に「場所(ばしょ)」と呼びます。初期には、藩では自営の船等を派遣して交易して利を得るという形態でした。
ところが、武士にとってはそれは面倒なので、徐々に、商いそのものを商人に請け負わせるという形態に変化しました。商人は、場所で、単に交易を行うだけではなく、漁業経営を行うようになってきました。この商人を場所請負人、請負金のことを運上金、場所経営の拠点のことを運上所と称しました。商人たちは、アイヌ人を交易相手から漁場の下層労務者へと転落させ、酷使、収奪しました。
こうした弾圧に抗してアイヌ民族は、1669年に、大酋長シャクシャインを中心に反乱を起こしました。幕府もこれを重視し、幕臣を派遣するとともに津軽藩にも出兵を命じるなどしました。結局、松前藩側は和睦と騙してシャクシャインを謀殺し、反乱の鎮圧に成功しました。
一方、そのころ、北海道を巡る世界情勢は急迫していました。すなわち、ロシアのシベリア経営は16世紀後半に始まりますが、1696年にはロシア領はカムチャッカまで到達し、このころには千島までロシア人が進出し、アイヌ人との交易も始まっていました。それにも関わらず、松前藩は、上述のとおり、アイヌ人を収奪するのみで、何ら建設的な方策を採らないことを憂えて、仙台藩医工藤平助は83年に「赤蝦夷風説考*」を著しました。
意次はこれを内覧し、勘定奉行松本秀持(ひでもち)に蝦夷地調査を命じました。秀持は配下の御普請役5名、下役5名の10名を特別に建造した回船に乗せて蝦夷地調査に向かわせました。いかにも田沼時代らしいと思うのが、この回船の運航を回船商人に請け負わせ、その際、アイヌとの交易も実施するように雑穀、茶、タバコなどの交易物資を搭載していたことです。調査活動そのものがある程度採算がとれるように配慮しているのです。
また、同時に赤井忠晶にも命を下して、戯作者平秩東作(へづつとうさく)を幕府の蝦夷地調査団の派遣に先立って蝦夷地の内情調査に行かせました。相互に独立した二つの調査班を送り込んで、情報の客観性の確保を図った、という点も、江戸時代にはあまり例のない話で、意次の非凡さを示しています。
それらの調査結果に依ってでてきた結論は、従来の松前藩の報告とは異なり、蝦夷地は決して不毛の大地ではなく、十分に米作りなども可能という結論でした。実は、松前藩ではそのことは十分に承知していましたが、アイヌ人を農耕民族化すると、松前の代表的な産物である毛皮等の入手が困難になることを恐れ、禁止していたのです。
蝦夷地をロシアの南下から守るには、このように消極的な松前藩に委ねておいてはだめなことは明らかです。しかし、蝦夷地を直轄化し、幕府の手により防衛するためには膨大な費用がかかります。そこで、意次は、蝦夷地内部に116万6400万町歩の開発計画を立て、実行に移そうとしました。農耕者としては、まずアイヌ人に農機具や種子を与え、作り方を与えることで確保します。しかし、それだけでは不足するので、非人、すなわち被差別部落の人々をこの地に送り込んで、農耕民として救済する、という方策です。
蝦夷地の防衛と、農耕地化、そしてアイヌや非人という被差別者の救済という、一石三鳥のこの計画は、江戸期のプランとしては、実にすばらし
いものと思います。
結局、この直営構想は、このときは意次の失脚により実現しませんでしたが、このように積極的に民間の建言に反応したところに、意次という人物の特徴が現れます。このプランは、明治期になって屯田兵という形で実現することになります。
1783年、浅間山が大噴火し、それをきっかけとしていわゆる天明の大飢饉が始まります。それから3年の間に奥州一ヶ国での餓死者がおよそ200万人といわれます。
この時の全国的な収穫量は判りません。しかし、幕府直轄領は、全国的に分布していますから、その年貢米の徴収量の推移を見れば、日本全体の作柄が見えるはずです。そこで飢饉の3年間を挟む前後7年間のそれを見てみますと、次のとおりです。
1781年 114万7934石
1782年 113万8370石
1783年 96万8418石
1784年 117万2935石 天明の大飢饉
1785年 109万3200石
1786年 85万1493石
1787年 116万4205石
これで見ますと、確かに1783年の徴収量は前年よりも大幅に落ち込んでいますが、この段階では飢饉は大したことはありませんでした。本当に飢饉が深刻化を始めた1784年の方は、全国的に見れば、その当時としてはむしろ豊作だったことが判ります。参考までに紹介すれば、吉宗が将軍位に就いた1716年の年貢米徴収量は107万4035石にすぎません。それに比べれば1783年と1786年を除けば、いずれも豊作といえます。また、飢饉が終わった後の1786年の方が、飢饉の始まった83年の凶作に比べても、深刻な凶作だったのですが、この時にはほとんど餓死者は出ていません。
その意味で、天明の大飢饉なるものは、全国平均で見る限り、実は豊作の年に起きたといえるのです。要するに、この事件は、東北各藩が、1783年の凶作にも関わらず、財政が苦しいために、例年並の年貢収奪を強行し、自藩内に食糧を確保しなかったために起きた人災ともいえる事件だったのです。
庶民の方では、凶作の年に例年並に収奪されたのでは冬が越せなくなることは判っていますから、どこの藩でも早い段階からかなりの抵抗活動がみられます。例えば弘前藩では、1783年の7月下旬以降、上方への廻米積出港である青森、鰺ヶ沢、深浦などで打ち壊しを伴った都市騒動が連続的に発生しています。腕ずくで、米の移出を防ごうとしたのです。
享保にも同じような凶作がありましたが、その時は、飢饉の中心が西日本であったため、幕府は城詰め米を各地に大量に輸送して救援することが可能でした。しかし、天明の飢饉の際は、飢饉の中心が東北地方だったのが致命的でした。冬に入って飢饉が本格化した頃には、当時の拙劣な航海技術では、荒れる北の海に救援米を乗せた船を走らせることは不可能になっていたため、為政者としては手の打ちようもなくなっていたのです。
1786年の大凶作に飢饉が発生していないのは、この厳しい教訓から、各藩も少しは学ぶところがあったためでしょう。
飢饉に対して、意次の採った対策は、1784年正月に、関東、陸奥、出羽、信濃など凶作に見舞われた地域に対して、米の買いだめや売り惜しみをしないように、という法令を出すに留まります。
確かに、凶作といっても全国的な現象ではなく、関東、東北に限られた問題であるに過ぎませんから、自由市場にゆだねておけば、アダム・スミスなら「神の見えざる手に導かれて」というところだろうところの現象により、自ずと適当量の米の供給がなされるはずでした。
しかし、その凶作に経済チャンスの存在を認めた商人達が、買い占め、売り惜しみに奔ったため、飢饉がどんどんひどくなっていったのです。
商人だけではありません。為政者の中にさえ、買い占めに奔ったものがいたのです。その筆頭が、意次の政敵、松平定信でした。彼は、天明の大飢饉に際して、白河藩において適切な措置を講じたため、東北地方にあってただ一人の餓死者も藩民から出さなかったことから、名君といわれます。すなわち、1783年に奥州白河12万石に初めて入部しますと、まず質素倹約を訴えて家臣の俸禄を半分に下げます。そこから捻出した資金で、大阪等において米6950俵を買い占め、また会津藩に懇請して米1万俵を取り寄せて、これを家臣や窮民に与えた、といいます。この政策は、先に述べた幕府の禁令を、公然と無視して実施されたのです。
このように抜け駆けで、米の買い占めをする藩が出れば、米は騰貴し、商人は売り惜しみをして流通が阻害されるのは目に見えています。定信の抜け駆けが、人災の度合いを増したことは確かです。換言すれば、定信は、他藩の農民の犠牲において自藩の農民だけを救済する方策を採用したのです。
このことから、定信を、藩主としては優れていても、全国視野の行動ではなかった、と批判するのは容易です。事実、日本史学者の中にはそう批判する者もいます。しかし、今日の我々は、アダム・スミスと違い、自由市場を無条件で信じることの危険さを知っています。したがって、もし今日、同様の事態が起きたならば、政府としては、意次のように自由市場を信じてレッセ・フェールに徹するのではなく、何らかの対策、少なくとも積極的に豊作の地方から年貢米を輸送して凶作の地方へ無償で放出する(あるいは貸し付ける)等の措置を執るでしょう。
その意味で、この時の対策としては、意次ではなく、定信の方に軍配を揚げざるを得ません。実際、定信は、後に政権を握ると、積極的に、封建政治なりの社会福祉政策を推進するのです。
日本史の教科書には、よく、田沼意次が印旛沼の干拓工事を行おうとした、と書いてあります。が、誤りです。重農史観で歴史を読んでいますと、明々白々たる歴史資料でさえも読み間違える、という良い例です。吉宗の時代でさえも新田開発が完全に壁にぶつかっていたのですから、ましてこの頃には新田開発を行っても意味がありません。そのことがよく判っていて、重商主義への転換を図ろうとしている意次が、印旛沼を干拓して、新田を開発しようとするはずはないのです。
彼がしようとしたのは、印旛沼の中に、水路を開削して、江戸への物資輸送の近道を造るということだったのです。
江戸幕府は、鎖国政策の一環として、海洋を航行する能力を持つ船の建造を禁止していました。具体的には、船には竜骨があってはならず、またマストは一本に限る、とされていました。そのため、日本海側はともかく、太平洋側となりますと、東北地方から銚子までは何とか南下してこられますが、犬吠埼をまわって、黒潮を突っ切って江戸湾にはいるのは不可能でした。
そこで、利根川を遡航し、利根運河を抜けて、江戸川を下って江戸に入るというのが、この当時の標準的な物資の輸送路でした。地図を見れば一目瞭然ですが、仮に印旛沼を抜ける運河を掘ることができれば、江戸までの内陸水路はグンと短くなります。利根運河を経由するものに比べて3里5町も近道になるといいますから、これができれば、大変便利です。意次が狙ったのはそれです。それだけ便利な運河が完成すれば、通行料収入だけでも莫大なものが得られるはずです。
田沼意次が関与する以前の段階では、計画は、2案立てられていました。いずれも、印旛沼の水の利根川への放水路の使命も兼ねさせることで、干拓もしようというというものでした。第1案は運河の底幅は12間とされていました。その場合、掘削土量は50万立方坪と計算されました。第2案は運河の底幅は8間で、掘削土量は23万立方坪と計算されていました。
意次は、運河の幅をぐっと広く、底幅20間に変更しました。大型の川船が楽にすれ違えることを考えれば、確かにこのくらいは必要です。どのくらいの水深とする計画だったのかよく判りませんが、計画掘削土量が50万立方坪と、第1案の底幅12間の場合と同量であることから見て、その分水深を浅く計画し直したことは明らかです。放水路なら深い必要がありますが、平底の川船の通行に水深は不要だからです。彼の工事目的は、あくまでも運河の開設にあって、干拓にはなかったことがよく判ります。
1783年に起工しましたが、意外の難工事に、運河の底幅を6間と、ぐっと狭めることにしました。しかし、1786年の水害で大きな被害を受け、また、この段階で意次が老中を退くことになったため、残念なことに中断することになりました。
後に、水野忠邦がやはり印旛沼の開削工事を手がけますが、この時は昔ながらの発想で、やはり干拓が主たる狙いとしてありました。ひたすら運河だけを造ろうとしたのは、印旛沼の長い開発計画の中でも、意次ただ一人しかいません。ここにも彼の重商主義傾向がはっきりと見て取れます。
意次の諸政策の中で、もっとも問題があり、また、結局その命取りになったのが金融政策です。
客観的な問題認識は正しいものがありました。当時の最大の問題は、一人幕府のみならず、全国諸藩のすべてが、各地の商人や領内の地主等から多額の借金をしており、元利返済に難儀をしていたため、商人等に対して新たな借金の申し込みをしても、断られる、という点にありました。したがって、こうした大名たちに対して、新たな金融の道を開くということは、幕府として是非必要な施策であったことは間違いありません。
そこで、幕府が対大名金融に当たって実質的に保証人として行動することにより、金融の道を開くとともに、幕府収入も確保するという一挙両得をねらった企画を1785年に立てたのです。
当初は、いわゆる江戸、京都、大阪の三都商人から金融の道を開くことを考えていました。彼らに融資させる条件は、第一に、物的担保として、借入高に応じて、領主としての租税徴収権を提供することです。具体的には、期限に元利金の返済がない場合に、貸し主が幕府に請求すれば、幕府代官所が当該地域を管理下に置き、年貢米を徴収の上、貸し主に優先返済するというものです。第二に、金利を年7%とすること。ただし、そのうち1%は幕府が収納します。保証料というべきものです。
この構想は、宝暦の御用金令に比べれば桁外れに高い利息を約束し、しかも返済の保証付きという好条件ですから、初めて出されたものであれば、それなりの実効性をあげたかもしれません。しかし、宝暦の御用金令の時には、幕府を信じておとなしく出金したものほど損をした結果となりましたから、今回の場合には、町人側は頭から信用せず、ほとんど出金を得られませんでした。それでは、と、強制的に出金を集めようとしましたが、従来から借金のかさんでいる大名家は、その弱みから、逆に町人のために免除を陳情するなどの行動にでたのです。
そこで、翌1786年に、第二段の構想が立てられました。これは、簡単にいいますと、全国の不動産に対して時限的に固定資産税を課し、それからの収入を大名に対する金融の原資に使おうというものです。具体的には、百姓には持ち高百石について銀25匁を、町人に対しては家の間口一間について銀3匁を、それぞれ5年間御用金として出金するように、との触れを出したのです。ここでの全国とは、単に幕府の直轄支配領ばかりではなく、大名領、旗本領を含む、文字通りの全国です。
これは、基本的には、綱吉が1708年に、富士宝永山の噴火による被害復旧のため、と称して全国の農地に課した臨時不動産税と同一の発想です。あの時は、農地百石に対して2両の割で課されました。今回は、銀25匁ですから、5年間で計125匁となり、幕府の公定レートである金1両=銀60匁で計算すると、ほぼ同額の課税です。インフレが進んでいることを考えれば、それよりはかなり低額の課税とさえいえます。
しかし、今回は、ほとんどすべての大名が猛反対しました。
意次は、綱吉の時代との客観条件の差を軽視していたのです。
綱吉時代には、大名にはまだ余力がありました。しかし、綱吉が改易・減封と転封の巧妙な組み合わせにより、江戸初期に大名が行った新田開発等の利益をすべて幕府に吸い上げていました。この結果、この時代になりますと、大名の疲弊が一段と進んでいたのです。幕府直轄領の公定税率が40%であったにもかかわらず、実質課税率はじりじりと下がっていったことについては、何度か触れました。吉宗の下での神尾春央の剛椀を持ってしても3割強の徴収がやっとだったのですから、この時期には幕府直轄領の実質課税率はおそらく3割未満に落ち込んでいたでしょう。したがって、年25匁程度の臨時課税なら十分に吸収力があったのです。意次は、幼い頃から幕臣一筋できた人ですから、どうしてもそういう頭で、農村を考えてしまいます。
ところが、大名は、三都商人からの借金で首が回らなくなっているくらいですから、領民から、これに少しでも上乗せすれば一揆は必至という、ぎりぎりの線まで搾り取っている状況でした。具体的には、本来の建前の、課税率50%どころか、軒並み60%を越える課税率になっていたと思われます。このような情勢の下で、銀25匁の上乗せは、まことに厳しい、といわざるを得ません。大名としては、それが大名に金融の道を開く手段だといわれたくらいで、おいそれと新規課税に応ずるわけには行かなかったのです。
今ひとつの条件の違いは、宝永の課税は、将軍のイニシアティブだったことです。これに対して、意次の良き理解者だった家治は、この騒動の最中に、急死しました。代わりにわずか15歳の家斉が将軍位に就きます。こうした幼い将軍の下における老中の立場は弱いものです。
結局、この触れの出された3日後に、田沼意次は老中を解任されることになります。
その瞬間、一つの時代が終わりを告げることになります。それは、家柄的にはどれほど低い人間でも、十分に有能で、将軍にみいだされさえすれば、幕閣の最高に地位にあがり、幕政を左右できる、という時代の終わりです。
意次は、決して最後の側用人ではありません。彼の後に側用人になる者は、8名もいます。しかし、彼らにとっては、側用人は、単に一国一城の主が、幕閣の中で出世していく際の一つの里程標に過ぎません。無位無冠の身から老中にまで出世した者は、彼が最初であると同時に、最後となります。
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田沼時代の政策は、上記の通り、決して全て成功したわけでもありません。また、成功した政策も、次章で改めて詳しく検討しますが、長く続ける間にその矛盾が現れてきて、何らかの是正策が必要な状況も生じてきていました。しかし、市場経済下という時代の趨勢をしっかり見据えて対応しようという姿勢は、非常に正しいものがあり、また、その改革が狙いとした、幕府の財政基盤の確立には成功しています。すなわち、1770年には、奥金蔵の備蓄金は171万7529両に達し、綱吉以降における最高値を記録します。いわゆる寛政の改革と呼ばれるものは、この田沼時代の資産を食いつぶす形で実施されます。