第3章 井伊直弼と安政の大獄


 1. 井伊直弼の登場

(1) 譜代の棟梁

 武田信玄軍団の最精鋭部隊は、赤備え(あかぞなえ)と称して、鎧や甲を赤く染めていたため、戦場で非常に目立ちました。徳川家康は、武田氏滅亡後、この赤備えを使用することを、井伊直正(なおまさ)の部隊に許しました。とりもなおさず、井伊軍団に対して、徳川軍の最精鋭部隊であるというお墨付きを与えたに等しいことです。事実、その後、井伊の赤備えは、その精強ぶりを敵味方双方に畏怖されることになります。井伊直正は、関ヶ原の合戦に大功をあげ、明智光秀の拠点であった近江(滋賀県)佐和山18万石の大名となりました。

 その子直孝も大阪夏の陣の際に、木村重成(しげなり)=長宗我部盛近(ちょうそかべ・もりちか)の連合軍を撃破し、豊臣秀頼母子を自害に追い込むという大功をたて、近江彦根20万石の領主になりました。家光は、さらに5万石を加増して計25万石とし、彼を大老(たいろう)に迎えて幕政全体にわたって睨みを利かせるようにしました。

 この25万石という石高は譜代大名の中で最大の石高であったため、井伊家は、以後、「譜代の棟梁」と呼ばれるようになります。井伊家に対してはその後も再三加増があり、最大時には35万石となりました。

 大老というのは、徳川幕府では、老中の上席に立ち、幕政全体を統括する最高責任者です。が、常置の制度ではなく、特に問題が起きた時に限って置かれます。大老職に就けるのは井伊、酒井、土井、堀田の四氏に限られていました。特に井伊家の指定席的観があります。幕府存続中に9人が計10回大老に就任しましたが、そのうちの5人6回は井伊家からでていることから見ても、江戸幕府中における井伊家の家格の高さが判ると思います。もっとも、この家格の高さが災いして、井伊家は普通の老中には、なっていません(幕府の最初期に一人いるだけです)。大老になるか、溜まりの間に詰めて実質的に睨みを利かすというのが、井伊家の役割であったのです。


(2) 井伊直弼の前半生

 直弼(なおすけ)は文化12(1815)年、井伊家11代藩主直中(なおなか)の14男として生まれました。上に13人も男子がいては、普通なら間違っても家督を継ぐことなどあり得ない地位です。しかも将軍家斉が子供を大量生産して、あちこちの家中にむりやり養子として押し込んでいた時代ですから、彼には養子の貰い手もありません。このため、わずか300俵の捨て扶持を与えられ、32歳まで部屋住みとして暮らしました。自邸に「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていた、ということから、この時期の彼の絶望感が伝わってくるような気がします。

 しかし、この間、彼は決して無為に暮らしていたのではありません。武道としては居合いや槍、学問としては禅や茶道、国学等を学び、いずれも一流の域に達したといいますから、非凡な資質を持つ人物であったことは確かです。特に、その国学の師となった人物が、井伊直弼の引き起こした安政の大獄で、井伊直弼の腹心として暗躍することになる長野主膳です。

 彼が32歳の時、ようやく幸運が巡ってきました。藩主である長兄直亮(なおあき)の子が死亡し、この時には他の兄たちも様々な理由からいなくなっていたため、代わって世継の地位につくことができたのです。さらに嘉永3(1850)年、彼が36歳の時、直亮が死亡したため、ついに彦根藩主の地位についたのです。


(3) 大老就任

 井伊家は東海道の要衝彦根を押さえ、特に至近距離にある京都に睨みを利かす位置にあります。しかし、それだけに尊皇思想に染まりやすいといえます。特に直弼は、国学を学んだだけに、その精神的バックボーンには尊皇思想があったことは間違いありません。

 それと同時に、譜代の棟梁として幕府至上主義でもありました。そして、溜りの間詰めの譜代大名として幕府の財政事情の厳しさを知っていただけに、開国して貿易利潤を幕府が独占する必要性も理解していました。
彼は、溜りの間を代表して、阿部正弘の路線を、有力諸侯に迎合するものとして厳しく批判し、阿部正弘に代わって堀田正睦を老中首座に押し上げるのに成功しました。

 その後に大きな政争となった家定の後嗣問題に当たっては、血統主義の立場から紀伊慶福(よしとみ)を支持し、一橋慶喜を支持する松平慶永や島津斉彬と対立しました。この戦いは、前章で述べたとおり、将軍、大奥、幕閣、溜まりの間、とすべての政治勢力が紀伊慶福を支持した結果、早い段階から圧倒的に紀州派に有利でした。

 そこで、一橋慶喜擁立派では、最後の切り札として詔勅を得るべく、松平慶永が腹心の橋本左内を、また島津斉彬がやはり腹心の西郷吉之助(後の隆盛)を京都に送り込んで対朝廷工作を行いました。直弼は、これを察知すると、彼の腹心である長野主膳を送り込んで対抗策を講じました。一橋派の工作は、一時は成功して、詔勅案に明確に慶喜擁立派のスローガンである「英明・年長・人望」の三語を書かせることができました。が、彦根を拠点にしているため、京都の内情に詳しい井伊家の底力はすさまじく、長野主膳は、最終稿の段階で、関白九条尚忠(ひさただ)に、その問題となる文言を削除させることに成功し、その結果、将軍継嗣に関する勅書は曖昧なものになりました。

 また、条約に対する勅許を得るのに失敗した堀田正睦の意見が慶喜擁立に変化したのを素早く察知し、彼が江戸に戻る直前に、直弼自らが大老の地位につくように将軍家定の説得を行い、成功しています。こうして、安政5(1858)年4月23日、直弼は大老に就任し、幕府建て直しのため、その強権を振るい始めるのです。


2. 条約の締結

 大老に就任すると、まず彼は、将軍後嗣を正式に紀伊慶福と決定し、5月1日に家定に正式承認させます。それに伴い、先例にしたがい朝廷にその承認を請うています。
 また、日米通商条約については、堀田正睦にハリスと再交渉をさせ、7月27日までの時間を得ます。そこで、その時間的余裕を利用して改めて朝廷から勅許を得ようとしたのです。


(1) アロー戦争と条約の調印

 6月13日、米国蒸気フリゲート艦ミシシッピ号が浦賀に入港してきて、アロー戦争で清国が破れた結果、英仏と清国の間で天津条約が締結されたことをハリスに伝えてきました。

 アロー戦争というのは、イギリス商船アロー号の中国人船員を清国当局が逮捕したことを口実として、英国とフランスが清国を相手に始めた侵略戦争で、第二次アヘン戦争とも呼ばれます。その結果締結された天津条約が、清国の主権を蹂躙した非常に不平等なものであることは、言うまでもないことです。

 さらに、その余勢を駆って、英国からエルジン伯爵が、またフランスからはグロ男爵がそれぞれ全権大使として、艦隊を率いて日本に来航し、清国との間に結んだ天津条約と同様の内容の条約を日本に強要しようとしているというのです。偶然、その6月16日にプチャーチンが座乗するロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港し、この情報の真実性を裏書きしました。

 その前日の6月15日にポーハタン号が入港し、この時点における米国司令長官タトノールが座乗していました。先に紹介したとおり、このポーハタン号というのは、ペリーの2回目の来航時の旗艦だった船で、2415トンあり、当時としては世界最大、最強といえる艦の一つでした。つまりこの時点で、米国の強力な蒸気軍艦2隻が偶然浦賀に集中し、しかもそれを動かす権限を持つ人物が搭乗して来ていたわけです。ペリーの来航以来、最大の米海軍勢力をハリスは持ったことになります。

 極東におけるこの新事態こそ、条約調印に向けて日本の情勢を動かす好機と見て取ったハリスは、ポーハタン号に自ら搭乗し、江戸湾を神奈川沖まで侵入して堀田正睦と連絡を取りました。このような大型艦に神奈川沖まで侵入されては、幕府としてはかなりの威圧感を覚えざるを得ません。

 この結果、ハリスに言わせると、「日本政府は初めて敏速に行動した」のです。すなわち、交渉担当者の岩瀬忠震と井上清直の二人は、取るものもとりあえず咸臨丸に飛び乗って神奈川沖に駆けつけ、17日の深夜、ポーハタン号に乗船し、ハリスに面会しました。ハリスは、数十隻からなる英仏の連合艦隊が来航中であり、時間はきわめて切迫していると説きます。また、日米条約が締結されていれば、米国は日本のために友好的調停者として行動するであろう事を誓約するというのです。これに説き伏せられた岩瀬達は、引き返して堀田正睦の説得に成功し、この問題は閣議にかけられることになります。夜を徹して続けられた閣議は紛糾しました。が、堀田正睦、松平忠固の二人が即時条約断行論を唱えたため、井伊直弼もどうしてもやむを得ないのであれば無勅許調印をしてもよいという決断を下し、将軍の裁可を仰ぎました。

 岩瀬と井上がポーハタン号に戻ってきたのは、6月19日の正午過ぎでした。彼らは井伊直弼の命に反して、調印延期の可能性について全く交渉することなく、直ちに調印することとしました。この命令違反に対して井伊直弼の持った不快感が、後に岩瀬忠震らに大きな悲運を招く原因の一つとなります。

 そこでポーハタン号上に調印場が作られ、両国政府代表が日米通商条約の調印を行いました。ポーハタン号からこれを祝って放たれた21発の祝砲が、江戸湾に殷々ととどろき渡りました。この瞬間に、幕末は、新しい段階を迎えたわけです。


(2) 一橋派の弾圧

 井伊直弼は、6月22日に諸大名に総登城を命じて条約調印を発表しました。同時に、閣議の席で条約の即時調印を主張した堀田正睦、松平忠固の二人を、違勅調印を理由として老中から罷免することで、一橋派の攻撃の矛先を交わそうとしました。自分も、その決定に最終的に同意したことは、井伊直弼の、自分に都合のいい記憶からは抜け落ちていたのでしょうか。

 A 一橋派の一斉不時登城

 一橋慶喜は、これに対して、純然たる尊皇論者の立場から、翌23日、登城し、違勅調印について直弼を責め立てました。

 他方、政治闘争で一敗地にまみれた一橋派では、今後の打開策について検討しました。松平慶永を始め、彼らの中には開国主義者も多いのです。が、この違勅調印に井伊内閣の弱点があると見て、ここを攻めれば倒閣できるのではないか、と考えました。

 そこで翌24日、本来の登城日でもないのに一斉登城を決行し(これを当時の言葉で「不時登城」といいました。)、直弼を責め立てました。今流に言えば、労働組合員が勤務時間外に出勤して管理職を吊し上げるようなことをやったわけです。ただしこの場合は、吊し上げをした水戸斉昭・慶篤親子や尾張慶恕、松平慶永の方が、吊し上げられた井伊直弼より家格が上なので、井伊直弼はひたすら平身低頭するしかない、というまことに辛い状態でした。

 勢い込んだ一橋派では、翌25日にも不時登城を決行し、さらに吊し上げを続行しようとしました。しかし、井伊直弼は、彼らに、将軍後嗣が、朝廷の承認を受けて、紀伊慶福に正式に決まったことを発表することで、その出端をくじきました。

 B 直弼の反撃

 吊し上げを受けて怒り心頭に発した井伊直弼は、7月5日になって反撃に転じます。水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜及び水戸慶篤に「登城停止」をそれぞれ命じたのです。松平慶永は隠居に伴い春嶽と号する事になります。この号はよく知られているので、本稿でも、以後、彼のことは春嶽と呼ぶことにします。

 なお、家定はその直後、1858(安政5)年7月6日にわずか35歳で死亡します。脚気衝心(かっけしょうしん)、すなわち今日の言葉でいうところの心臓脚気が死因ということです。これにより、紀伊慶福が、その名を家茂(いえもち)と改め14代将軍となりました。ただし、井伊直弼は、次に述べるような一連の新規施策をする都合上、この段階で家定の死を公表することができず、その死の正式発表は1ヶ月後の8月8日となりました。



3. 安政の五カ国条約締結

(1) 専任外交機関の設立

 井伊直弼は、日米条約交渉を通じて、外交を担当する専門の機関を設立する必要性を痛感しました。そこで、まず閣内に、外国御用係老中を設けました。今日の外務大臣に相当する職と考えればよいでしょう。

 これまで、綱吉の改革以来、今日の大蔵大臣に相当する勝手係老中がいたことは紹介してきましたが、それを除けば、初めての専従制を導入したわけです。初代の外国御用係には、太田資始、間部詮勝、脇坂安宅(やすおり)、久世広周(くぜ・ひろちか)の4老中が任命されました。

 これに対応する形で幕府は安政5(1858)年7月8日に外国奉行の職を設けます。すなわち外務省を設置したわけです。外国奉行は今でいえば外務事務次官に相当します。初代奉行として水野忠徳、永井尚志、岩瀬忠震、井上清直、堀利煕(としひろ)の五名を任命します。ただし、このうち井上清直は、従来どおり下田奉行を、また堀利煕は函館奉行をそれぞれ兼任することとされました。むしろそれら開港地で外国人と折衝するにあたり、外国奉行の肩書きを与えたと言っていいでしょう。したがって実質的には、水野、永井、岩瀬の3人が初代奉行として活動することになります。

 この職は、高2000石とされましたから、高3000石の勘定奉行等に比べると少し低い職ですが、高1000石の普通の遠国奉行に比べると、ぐっと重職というところです。実をいえば、水野忠徳も勘定奉行経験者ですし、永井尚志に至っては、直接勘定奉行から外国奉行に配置転換されています。したがって、彼らにとっては、形式的には左遷気味のところがあります。が、むしろこの段階では適材適所が貫かれたと見るべきでしょう。それと処遇がかみ合わないのは、過渡期にはやむを得ないところです。外国奉行設置に伴い、海防係は廃止されました。

 なお、これまで長いこと勘定奉行兼海防係として対外交渉の第一線で活躍してきた川路聖謨は、井伊直弼の大老就任に反対してその逆鱗に触れて、これに先立つ5月6日に、既に西の丸留守居役に左遷されていたため、この人事から漏れています。この川路聖謨の左遷は、後に安政の大獄の一環として吹き荒れる人事粛正の嵐の、前触れともいうべきものです。

(2) 対英交渉

 この7月に、オランダ、ロシア及び英国の大使が、いずれも通商条約の締結を求めて江戸に入ってきました。水野忠徳達は、まずオランダ、ロシアと交渉して、米国と同一条件での条約を調印しました。オランダは日本との長い交渉がありますから、基本的に日本に同情的です。またロシアはまだ資本主義が未発達でしたから、日本との通商に強い要求をもっていなかったのです。そこで日本としてはいずれも交渉のしやすい相手だったわけです。

 その後で、やおら英国大使のエルジン伯爵との交渉に臨んだのです。英国の方では、ハリスが言ったとおり、6月に清国と天津条約を締結しており、本国政府は彼に、日本とも、天津条約と同一条件の条約を締結するように指示してきていました。しかし、水野らは米、蘭、露三国と同一条件の条約でなければ締結しないとがんばり、エルジンにそれを承知させて7月18日に、ほぼ同一の条件で日英条約を締結します。

 実は、この時点においては、アジアで活動中の英国商人はともかく、英国政府そのものはまだ日本との交渉に切迫感をもっていなかったのです。そのため、エルジンはロンドン出発に当たり、次のような指示を受けていました。

「強硬手段を用いて日本に新条約を押しつけることは、女王陛下の政府の意図するところではありません。我々は日本の政府と国民の好意を得ることを望んでいるのです。」

 この好意を象徴する行動として、日英条約が調印された18日に、エルジンは伴ってきた蒸気客船エンペラー号を日本に贈呈しています。日本名を蟠竜(ばんりょう)丸と呼ばれる船です。このような柔軟な対日姿勢が、やがて英国が米国に代わって対日列強外交の主導権を握るに至る原因をなすのですが、それは後のことです。

 そういうわけで、この時点では、エルジンはそもそも無理押しする意思はなく、したがって、水野が力こぶを入れるほどの問題ではなかったというのが真相であったようです。そもそもエルジンは、日本側との通訳さえ用意せずに来ていました。だから、ハリスがヒュースケンを提供すると、喜んで受け入れたのです。そして、ハリスが粘り強い交渉により獲得していた不平等条約もまた喜んで受け入れたというわけです。

 もっとも、細かく見ていくと、この日英条約は色々な点で日米修好通商条約に比べて、さらに英国に有利な内容になっています。エルジンの交渉技術の巧みさを示すものといえるでしょう。

 第一に、天津条約にあったのと同じ、一方的な最恵国待遇の規定が、日英修好通商条約には入っていることが注目されます。後年、英国領事のパークスは、日本とオーストリアとの間の通商条約締結に大いに尽力をします。それは決して博愛的な行動ではなく、その条約の中に、甚だしい不平等規定を挿入し、それにより英国も同一の条件を獲得するためのものだったのです。

 第二に、英国は、同国の主力輸出品である綿製品及び羊毛製品を5%関税にする事にも成功します。つまり、ここで簡単に幕府が譲ったことで、ハリスが日米条約の形で行った英国進出阻止の謀略は失敗に終わったわけです。

(3) 対仏交渉

 遅れてきたフランスのグロ男爵も、ハリスの斡旋でほぼ同一の条約を承諾し、9月3日に調印します。ヒュースケンは、フランス語も流暢でしたので、その際にも通訳として活躍します。フランス代表のグロ男爵は、フランスワインを日本に輸出するために、アルコールにかけられる35%という高率関税を軽減するように交渉しましたが、これは失敗に終わりました。

 これにより、いわゆる安政の五カ国条約がそろったことになります。

 結論的に言えば、ハリスの6月17日における英仏の脅威を強調した言動は、いわゆるお為ごかしの恫喝でした。彼の語った脅威は実際には存在していませんでした。もし幕府が、彼の恫喝に負けずに、事前に獲得していた期限までに何らかの手段で朝廷の勅許を獲得していれば、その後の歴史の流れはかなり違っていたものと思われます。歴史でifを言っても無駄なことではありますが・・。

 これらの条約は、明治にまで悪影響を及ぼした不平等条約でした。しかし、当時アジア諸国が欧米から押しつけられていた条約に比べると、遙かにわが国の主権を確保できたもので、その点では高く評価できます。実は、明治において不平等が云々されるに至る原因は、この時点での条約内容よりも、その後2回行われた条約の改悪による影響が大きいのです。それらについては後にお話しすることにしたいと思います。

 この時外国奉行であった者たちは、阿部正弘に抜擢されて以来、多年にわたりわが国外交の第一線で苦労してきたわけですから、五カ国条約の調印が済んだときには感無量の思いだったことでしょう。しかし、実はこの時既に、このエリート官僚達の運命は、彼ら自身の預かり知らないところで暗転していたのです。



4. 安政の大獄

(1) 戊午の密勅

 孝明天皇は、勅許もないのに幕府が調印を決行したということを聞き、激怒しました。そこで、井伊直弼に対して、無断条約調印の釈明を求める沙汰書を発し、それは安政5(1858)年7月6日に直弼の手元に届きます。それには、御三家並びに大老に対して、釈明のため、早々に上京するように命じていました。しかし、直弼は、三家は処分中であり、自分は政務多忙で、いずれも上京できない、と素っ気なく拒絶し、そのうちに使いの者が状況の上説明する予定である旨の返事を7月8日に送っただけでした。

 閣内で調整した結果、外国係老中の一人である間部詮勝(まなべ・あきかつ)を、事情説明に上京させることにし、その旨を7月末になって京都に伝えています。間部詮勝は、その姓で判るとおり、家宣の時、側用人として異数の出世を遂げ、新井白石とともに正徳の治を主導した間部詮房の子孫です。この時は、越前鯖江5万石の城主で、罷免された堀田正睦の代わりとして、井伊直弼によって6月23日に老中に任命されたばかりでした。

 この頃、政争に一敗した一橋派では、失地回復の手段として、再び朝廷カードを切ろうとしていました。まずその手始めに、井伊派である関白九条尚忠(ひさただ)を脅迫して辞職に追い込みました。そして、井伊直弼の素っ気ない態度にいよいよ怒り狂っている孝明天皇に近づき、8月8日にいわゆる戊午(ぼご)の密勅を発っさせる事に成功しました。戊午というのは、この年の干支です。この密勅の内容については、幕府に正式の記録がなく、写しと賞する文書がいくつか世の中に流布しました。しかし、大同小異ですので、そのうちの一つを、適宜現代語訳しつつ次に紹介します。

「この度、幕府諸有司から、宿次の奉書により、朝廷の許可なく仮条約に調印した旨申し来たった。右の通りならば、せっかく天朝より勅命を下した甲斐もなく、大樹公から京都に許可を求めに来た趣意も立たない。大樹公が賢明であるのに、幕府の有司はいったい何を考えているのかと(陛下は)不審に思われた。このようでは、外夷はさておき、国内の人心の折り合いにも影響して来るであろうと陛下はお心を悩ましていらっしゃる。その上、水戸前中納言、尾張、越前の諸侯も蟄居を命ぜられているという。どのような罪があったのかは知らないけれども、三家家門の儀は柳営の羽翼というべき大切な家筋であり、外夷入津・国事多難の日にあたり、このような状況では実に徳川家の盛衰に関わるので、陛下はお心を悩ましていらっしゃる。(したがって)三家、三卿、大老、閣老、国主、外様、譜代にて会議し、陛下のお心を安心させるような処置を執るようにと陛下は思し召されている。」

 冒頭にでてくる「宿次」というのは、宿場ごとに手紙をリレーして送る飛脚のことで、当時としてはもっとも早い手紙の送り方です。「大樹公」とは将軍を、また、「柳営」とは幕府をそれぞれ意味します。括弧書きは原文にはありませんが、補った方が判り易いと考えて挿入したものです。

 この勅書は、要するに、井伊直弼の一連の施策に対するあからさまな批判であり、また、水戸斉昭や島津斉彬の雄藩連合構想に対するお墨付きと言っていいものです。

 しかも問題は、この密勅が、まず水戸家に下され、ついで幕府に下された点にあります。このため、幕府としてはその内容が諸大名に漏れるのを防ぐことができないのです。

 このような密勅を周旋する行為は、当然の事ながら、禁中並びに公家諸法度をはじめとする幕府の法令の厳禁するところです。阿部正弘が、水戸斉昭の京都工作を暗黙のうちに認めて以来、その禁令にふれる行為が日常化してきて、ついにこのような密勅が下されるに至ったわけです。

(2) 間部詮勝上京

 ここにいたって、井伊直弼は、幕法を厳正に適用することにより、京都を徹底的に粛正することを決意します。したがって、間部詮勝の使命は、単なる釈明旅行とは全く異なる色彩を持つに至りました。詮勝は「この度は天下分け目のご奉公と存じ、一命にかけ勤め候心得にござ候」と悲壮な覚悟をして京都に乗り込みます。

 長い間、全く取り締まりがなかったため、水戸家の家臣をはじめとする勤王の志士たちの多くは全く無警戒でしたから、幕府としては違法活動の証拠を発見するのに苦労はしませんでした。

 間部詮勝の上洛に先行して、まず京都所司代酒井忠義(ただあき)の手により、この密勅の首謀者である梅田雲浜(うんぴん)が、9月7日に逮捕されます。

 さらに9月17日に間部詮勝が京都に入るとともに、京都と江戸にまたがる大量逮捕が開始されます。水戸藩では、家老安島帯刀(あじま・たてわき)以下20数名が逮捕され、越前藩では慶永の腹心橋本左内が逮捕され、さらに多数の公家の家臣が芋蔓式に検挙されるに至ります。また、薩摩の西郷吉之助も危うく捕まりそうになり、かろうじて逃走に成功しています。

 詮勝は、こうして十分に公家を威嚇した上で、10月19日には親幕的な九条尚忠を再び関白に復職させ、24日には家茂に対する将軍宣下を実現しました。そして、この日、入洛後37日目にして初めて参内(さんだい)すると、条約を無許可調印した責任は、水戸斉昭らの陰謀にある、と人を喰った報告をしました。

 その後も、儒者頼三樹三郎(らい・みきさぶろう=頼山陽の息子)を逮捕するなど、粛正を続行しました。その結果、12月31日には、条約調印はやむを得ざるところと「御氷解」したという天皇のお言葉をいただき、事実上、条約調印の勅許を獲得するのに成功したのです。

 こうして逮捕された者達は、あるいは厳しい取り調べに耐えきれずに獄中で死亡し、生き延びたものも、切腹、死罪、遠島、追放その他の厳しい処罰を受けたことはよく知られているとおりです。

(3) 一橋派の再弾圧

 この機会に、井伊直弼は、一橋派の徹底壊滅を計ることを決意し、安政6(1859)年2月に、一連の行政処分を下します。安政の大獄というと、上記の刑事罰の方が有名ですが、実は日本史的には、こちらの行政罰の方がはるかに重要です。刑事罰の対象者は小物であったのに対して、行政罰対象者は、この時点で現実に日本史を動かしていた大物ばかりだからです。

 皇族では、青蓮院宮(せいれんいんのみや=後の中川宮)に対して御慎永蟄居が命じられます。永蟄居というのは一生家から出てはいけないというのですから、今日の言葉でいえば、自宅監禁という終身刑です。公家では、戊午の密勅に名を連ねた太閤鷹司政道(たかつかさ・まさみち)や前内大臣三条実万(さねむつ)、左大臣近衛忠煕(ただひろ)、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)等が、辞官・落飾(らくしょく)・御慎の処分を受けました。落飾とは、出家することです。

 また、大名では、尾張慶恕・堀田正睦等に対しては隠居・慎みが言い渡されました。

 もっとも峻厳を極めたのが水戸家に対してで、主犯格の斉昭が水戸にて永蟄居、当主の水戸慶篤に対して御差控(おさしひかえ)、一橋慶喜に対して御隠居・御慎みという処分が下されたのです。水戸斉昭は、結局この命令に活動を封じられたまま、万延元(1860)年8月15日に病没することになります。享年61歳。死因は脚気衝心といわれます。

(4) エリート官僚達の弾圧

 こうした政敵処罰は、先の刑事事件と直結していますから、理解可能です。が、井伊直弼は、さらにこの機会に、常識的には理解不可能な行動にでます。これまで彼の外交・内政の施策を忠実に実行してきたエリート官僚達に対して、一斉に処分を下したのです。

 直弼から見た場合に、彼らの言動が一橋派と見えたからに他なりません。処分された理由は大きく分けて二つあります。

 一つは13歳とまだ幼い家茂が将軍についたため、将軍そのもののリーダーシップは期待できなくなりました。そこで、官僚達は将軍に後見職を設け、それに一橋慶喜を当ててはどうかと井伊直弼に具申したのです。後見職を設けろという意見そのものは妥当ですし、挙国一致体制を作ろうと考えるならば、その職に慶喜を起用するのもまことに妥当です。

 しかし、政敵を起用する意思は、直弼には、全くありませんでした。後見職には、結局、田安慶頼を就任させています。この人は、実兄の松平慶永が、俗人中の俗人で、最悪のおべっか使いと酷評した人物です。そのような人物を起用し、正論を具申してくる職務に忠実な官僚を処罰するというあたりに、井伊直弼の政治家としての器量の小ささを端的に見ることができます。

 今ひとつは、遣米使節問題です。日米通商条約の調印の際、岩瀬忠震は、日本人に米国を見せることによって、条約締結に対して朝野に好ましい反応を引き起こすことが期待できるのではないかと考え、正式批准をワシントンでするのはどうかと、ハリスと交渉したのです。ハリスもそれは良いと積極的に賛同しました。

 岩瀬忠震は、自らが全権大使となって米国に渡り、それと同時に幕府及び諸侯中の家臣で、気概識見のある人々をも使節団のメンバーに加え、直接に米国を見せれば大いに啓発されるであろうと考えたのです。より端的に言えば、条約の締結に反対しているような人物でも、実際に米国を見せれば意見が変わるだろうと考えたわけです。少し後のことになりますが、長州藩では攘夷派の伊藤俊輔(後の博文)や井上聞多(後の馨)等を英国に密航させて欧米の文化に触れさせることにより、攘夷論者から開国論者に豹変させるのに成功していますから、この考えは悪い考えではないのです。

 しかし、諸侯中で、条約締結に反対している気概識見のある人といえば、この当時の状況下ではかなりの者が一橋派となります。したがって、これもまた、政敵を起用したり、便宜を図ったりするつもりなど、間違っても持っていない井伊直弼の逆鱗に触れることになりました。

 処罰のされ方には、人により厳しさに差異があります。が、それは、こうした一橋派を利するような考えを、直接井伊直弼に意見具申に及んだ者は首謀者として厳しく処断され、単なる一味徒党と見なされた者が比較的軽かったという事から来る違いです。

 水野忠徳は、前年9月に日仏条約に調印した直後、すなわち京都による粛正が始まると同時に既に罷免されています。

 岩瀬忠震も同じく前年9月にいったん作事奉行に左遷されていました。が、結局この時改めて永蟄居が命ぜられます。彼は、文久元(1861)年、失意のうちにわずか44歳で死亡することになります。死因は脚気衝心といわれます。
 永井尚志は、この時いったんは新設された軍艦奉行に転出しますが、結局8月になって罷免の上永蟄居が命じられます。

 川路聖謨は、この前年の5月、井伊直弼の大老就任の直後に、既に西の丸留守居に左遷されていた事は前述したとおりですが、井伊直弼の憎しみはなお消えず、この時改めて隠居・慎みが命じられています。

 井上清直は小普請奉行に左遷されました。比較的処分が軽かったのは、おそらく彼自身が政治的行動をしたのではなく、兄の川路聖謨の処分に連座したのでしょう。

 結局、初代の外国奉行のうち、この粛正を無傷で切り抜けたのは、遠い函館にいた堀だけでした。

 彼ら官僚達は、個人の意見は意見として、井伊直弼政権の下でも忠実にその職務を果たしていたことは、前節に紹介したとおりです。このむちゃくちゃといって良い粛正により、初代の外国奉行は壊滅状態となります。

 井伊直弼という人は、このように人に対する好き嫌いの感情の激しい人で、一時どんなに親しくても、嫌いになると我慢ができません。嫌いな人でも、有能であれば、その能力を生かすというやり方がまったくできないのです。先に初代の外国御用係老中(外務大臣)として紹介した間部詮勝など4人の老中達は、いずれも彼の盟友といって良かった人々ですが、彼らも、この前後の時期に、全員が老中から罷免されています。


5. 遣米使節

(1) ポーハンタン号

 井伊直弼には、外交という行政の一分野における高度の専門技術性が理解できなかったようです。すなわち、条約というものは、締結のために交渉することも確かに困難なことです。が、締結した条約を、現実に実施する段階になると、遙かに困難な事態が次々と起こり、その処理には有能な実務官僚が必要になる、という単純なことが判らなかったのです。そこで、条約締結が済んでしまえば用済みだから、いつ逆らうか判らない獅子身中の虫は処分してしまうのが一番、と考えたに違いありません。

 彼らエリートに代わって任命された新たに外国奉行に任命されたのは、村垣範正(のりまさ)や新見正興(しんみ・まさのり)達です。前者の村垣範正は、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番の家筋です。お庭番の中では出世頭といえます。国内で、各地の情報の収集や分析をやらせれば、非常に有能な人物であったことは間違いないでしょう。

 彼らに予定されていた一番の大仕事は、米国軍艦ポーハタン号に乗ってワシントンに行き、日米通商条約を正式に締結してくることでした。おそらく、井伊の頭では、情報の収集は、お庭番に任せるのが適材適所という意識があったのではないでしょうか。しかし、外国情報の収集は、従来の日本国内での情報収集活動とはかなり事情が異なります。何よりも、それに先行する一般情報をもっているか否かが重要になるからです。ハリスも、この人選に対しては強い不満を表明しました。が、井伊直弼の人事は変わりませんでした。

 翌年1860年1月には、新任の外国奉行を団長とする遣米使節団が米国軍艦ポーハタン号に乗って出発し、無事に条約批准という使命を果たしてきました。が、気の毒にも、彼らは”忘れられた遣米使節”と歴史家に呼ばれています。
 遣米使節団の派遣目的は、確かに形式的には修好通商条約の批准です。が、実質的狙いは、わが国の歴史にインパクトを与え得るような人材に、実際に海外の文物に触れる機会を与えることにより、その後のわが国の国内世論そのものに影響を与えようということでした。

 しかし、それほどの能力を持つ逸材を乗せようとすれば、井伊直弼の逆鱗に触れることは、その直前の初代外国奉行の粛正に明らかです。そこで、村垣等の人選が事なかれ主義に終始するのも無理はありません。その結果、この使節団に参加した人々で、その後歴史上に名を出す人は、わずかに目付として随行した小栗忠順(おぐり・ただまさ)ただ一人に過ぎませんでした。

(2) 咸臨丸

 その護衛艦という格付けで、しかし実際には別行動を取った咸臨丸は、日本人初の太平洋横断という壮挙を行いました。それに加え、艦長勝義邦(海舟)や福沢諭吉など、その後の歴史の主役がずらりと参加していました。このため、この脇役の方が遙かに我々の印象に強く、遣米使節はこちらのような錯覚を覚えます。

 この航海では、便乗者となってされていたジョン・M・ブルック大尉の記録では、日本人に航海能力はなく、ほとんど彼とその部下が操縦したとなっています。これに対して、艦長だった勝義邦はもちろん、彼と仲の悪かった福沢諭吉も、口をそろえて、日本人だけの力による航海だったと強調しています。

 これは水掛け論で、厳密にどちらが正しいと決定することは不可能です。が、おそらくブルック大尉の方が正しいと考えて良いでしょう。なぜなら、この当時、日本人の航海術はお話にならないくらい低かったからです。

 幕軍が鳥羽伏見の合戦に敗れ、徳川慶喜が謹慎した後、榎本武揚は8隻の幕府海軍を率いて函館五稜角に脱走しますが、彼の艦隊のうち、実に6隻までが航海術のミスのため沈没しています(1隻は軍資金獲得のため売却し、明治時代になって外交問題になっています)。このため、彼の海軍は自然消滅してしまうのです。したがって、それよりかなり前のこの時点での幕府海軍の航海術は、それよりさらに低かったと考えるべきです。

 しかもこの年の北太平洋は、米国司令長官タトノールがその長い海軍生活の中で見たことがないというほどの悪天候で、ベテランの船乗りをそろえた巨艦ポーハタン号でさえ、予定外のハワイ寄港をしなければならないほどでした。それなのに、小艦の咸臨丸は、その悪天候をついて、驚いたことに無寄港でアメリカまで行っています。榎本艦隊のことを考えれば、この時点で、米海軍を上回るほどの卓絶した航海技術を咸臨丸乗組員が持っていたはずはないと断定できるでしょう。これに対して、ブルック大尉は、航海術と測量に関しては、世界史に名を残している名航海者でした。



6. 貿易の開始

(1) オールコックの着任

 安政5(1859)年5月、神奈川開港の数日前に、英国は駐日領事としてオールコック Rutherford Alcockを来日させます。彼は中国領事を経て日本に着任した練達の外交官です。後に本国の許可なく、独断で四カ国艦隊を組織し、下関砲台を攻撃させた責任を問われて本国に召還されるまで、英国の対日本外交をリードし、幕末史に大きな影響を与えた人物です。その3年間の日本滞在中の見聞を「大君の都」という著書で、世に残したことでも知られています。

 これより以後、ハリスの離任まで、オールコックとハリスは在日外交団の主導権を巡って死闘を演じることになります。

(2) 初期の貿易状況

 安政の五カ国条約と一口に言いますが、その条約の効力の発生時点は、それぞれの条約により異なりました。先に、日米修好通商条約で決まっていた神奈川及び長崎の開港日は西暦1859年7月4日と紹介しました。しかし、その後に締結された一連の条約では微妙に開港日が違い、一番早いのは日英修好通商条約で、西暦1859年7月1日とされていました。日本の年号でいうと、安政6年6月2日のことになります。そこで、最恵国待遇の規定から、これが神奈川の開港の日になったのです。

 実際には、水野忠徳の献言により、東海道の神奈川宿に代えて、そこからほど近い横浜が開港されることになります。最初、列強側は条約違反と文句を言いましたが、現地を見ると、船が停泊するのに、横浜の方が確かに優れているので納得しました。

 貿易を開始してみると、アジアに既に拠点を持っているイギリスが、わが国輸出入量の半ば以上を示すという調子で、最初から圧倒的に大きな貿易量を示しました。

 それでも米国はこの最初の年はわが国からの輸出に関する限り、全体の3分の1程度を占めるというまずまずの実績を示しました。しかし、翌1861年から南北戦争という国内戦争が始まったために、海外進出の余力がなくなってしまいました。そこで、米国は、以後、急速に対日貿易量が減少していってしまいます。南北戦争のピークである1863年には、対イギリス貿易量は、わが国の全貿易量の80%以上に達します。ペリーに始まる米国の一連の努力は、結果として英国を益するための、露払い的活動に過ぎないことになってしまったのです。

 とにかく、井伊直弼がベテラン官僚を2月に切り捨てて間もないこの安政6(1859)年6月に、英国の対日進出が本格化するわけです。この時点では、横浜、長崎、函館の3港が開かれました。



7. 貿易に伴う問題の発生

 貿易の開始されたとたんに、通商条約の抱えていた問題が表面化しました。

(1) 輸出の急増と国内物価の高騰

 第一の問題は輸出量の急激な増大です。それまでの鎖国時代においては、わが国は一貫して大幅な輸入超過状態で推移してきたことは、江戸財政改革史において紹介したとおりです。その時の主力輸入品は一貫して絹と木綿でした。初期においてはそれに対して金銀を以て支払い、後には金銀の流出を抑えるため、銅や俵物という輸出産品を開発することで、何とか輸入品代金の支払いを行うことを可能にしていたのです。おそらく幕府側としては、開国といっても同じような状況が、ただ対象国数が増えるだけ大型化して続くものと予想していたと思います。

 A 生糸の輸出急増

 横浜等を開港してみると、わが国の伝統的な輸入品である絹が、いきなり主力輸出品と化す、という誰も予想しなかった事態が起きました。最初期には、わが国からの輸出量全体の7割程度を生糸が占めているのです。

 欧米諸国は、日本の絹の品質の高さに驚嘆しました。世界最高の品質と、当時の書物には書かれています。なぜこんな逆転現象が起きたのでしょうか。

 開国前の文政から天保にかけての時期、幕府財政も疲弊していましたが、諸藩の財政もまた破綻の一歩手前でした。しかも諸藩は幕府と違って、金銀改鋳という打ち出の小槌を持っていませんでしたから、いずれも殖産興業により財政建て直しを行おうとしたのです。その場合、少ない生産量で換金価値の高い商品を狙うのは当然で、その結果、絹の生産量が延びていたことは確かと思われます。しかも、同じ生産量なら品質の高い生糸の方が高価に売れますから、品質管理に神経を集中するのも当然です。農家に副業的に生糸生産をさせるのではなく、品質管理をやりやすいように、小規模ながらマニュファクチャ生産に移行していたといわれます。これが、欧米の驚いた高品質の秘密と思われます。

 しかし、生糸は、この直前の時期まで我が国の主力輸入品だったほどですから、国内生産量が延びているといってもたかがしれていたはずです。これが爆発的に海外流出を始めたのですから、国内市場では大変な品薄になり、その結果、国内価格は一気に上昇しました。

 B 茶等の輸出急増

 ハリスは当初から日本の茶に目を付けていたくらいで、多くの人が、茶は、開国前からわが国の米国向けの主力輸出品になると考えていました。実際そのとおりの推移をたどりました。もっとも、わが国が生産するのは緑茶であるのに対し、欧米人が飲むのは紅茶です。そこで、初期においては、茶はいったん上海に送られ、そこで紅茶に加工されて米国に運ばれていました。後には、わが国で紅茶への加工まで行われるようになったので、直接対米輸出が行われるようになりました。この輸出急増に伴って、茶もまた、国内価格が一気に上昇しました。

 また、銅器、陶磁器、漆器など、わが国の工芸品は、化政文化の爛熟により極めて芸術的なレベルに達していたこともあって、やはり海外で爆発的な人気を呼びました。そのほか、欧州人の目から見て価値のありそうなものは何でも、貿易取引の対象となりました。

 C 輸入の急増

 鎖国時代は、わが国は常に輸入超過状態でした。開国により、輸入はさらに急増します。上述のとおり、絹は開国に伴い、輸出品になりますが、木綿は依然として輸入の花形でした。万延元年の時点だと、輸入量の半分までが綿布でした。

 江戸財政改革史で詳述したように、今日の我々の常識と異なり、綿製品は江戸時代を通じて絹に次ぐ高級品でした。国内木綿産業は、この高価な輸入木綿を競争相手として成立したものですから、半田というような不自然な生産形態で、高価な金肥を惜しげなく使用しても、価格競争力を持っていました。しかし、製品の品質はお世辞にも高いとはいえません。手で紡ぐため、糸は太く、しかも太さが一定しないからです。

 そこに近代工業が機械で生産した廉価な海外木綿がなだれ込んできたのです。有名な産業革命で、英国は既に蒸気力を利用して大量生産を行っていました。したがって、糸も細く、しかも製品の質も均質です。為替レートの壁は、このような高品質、低価格な外国製品の流入を防ぐ力はありませんでした。しかも、木綿は生活必需品という分類に入っていたので、輸入税はわずか5%でした。これでは、育ちつつあった国内木綿産業を守る保護関税としての機能は果たせません。この結果、国産木綿は大打撃を受けることになります。

 ただし、国内綿織物業者は、輸入綿糸を使用して着物向けの小幅綿布を生産することで活路を見いだしました。すなわち、外国木綿の雪崩込みは、その後のわが国産業の基本形態である加工貿易を形成するきっかけを作りだしたことになります。

 綿作農民はかなりの打撃を受けた模様です。ただ、1861年から始まった南北戦争により、米国南部の綿作地帯からの綿糸が入らなかったことから、世界的に一時、品薄になったおかげで、ただちには壊滅しなかったようです。国内綿作が本格的に壊滅するのは、南北戦争が終わった後、すなわち明治に入ってからになります。

 しかし、こうして貿易により、綿布に関するそれまでの生産形態が根底から変動せざるを得なくなり、輸出ドライブ同様に、国内経済混乱の一因となりました。

 D 国内物価の急騰

 輸出が急増した商品は、そのいずれの産業構造も、国内消費を念頭に置いてできていますから、輸出が急増したからといって生産量がそれに応じて直ちに増えるというわけには行きません。その結果、国内市場において品薄となり、そうした商品の国内価格は一斉に跳ね上がったことは上記の通りです。

 それらの多くは日常生活に使用される品ですから、当然、国内消費者物価全体が、それに引きずられて高騰を始めることになります。したがって、一般庶民の生活は一気に苦しくなりました。

 普通であれば、国内物価がそんなに値上がりすれば、輸出に自然と抑制がかかりそうなものですが、この時は、そうはなりませんでした。為替レートが国内の実勢物価に比べてかなり低く、少々値上がりしても、英国商人としては輸出すれば十分に利益があるような状態だったからに違いありません。

(2) 為替レートの過小評価問題

 輸出ドライブの最大の原因であった為替レートの過小評価問題は、正確に言うと二つの問題に分けることができます。江戸財政改革史に述べたとおり、江戸時代には、金銀銅三重本位制が採用されていました。すなわち、金貨、銀貨、銅貨がそれぞれ独立して国内流通しており、相互の交換比率は市場の需給関係から絶えず変動していたのです。その結果、第一に、銅貨と銀貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があり、第二に銀貨と金貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があるのです。この二つの問題が同時に発生したのですから、為替レート問題が深刻だったのも当然です。

 A 銅貨と銀貨の交換レート

 おそらく、この時点でのわが国の為替レートは、最初にペリーが締結した、銀1分=洋銀1ドルあたりが妥当な相場だったのでしょう。ペリー来航の時点では、この三つの本位通貨のうち、銅貨の交換価値を基準に基本的な対外レートが決定され、これを国内交換レートを基準にして銀貨に置き換えて表現したのがこの銀1分=洋銀1ドルだったのです。

 ところが、前述のとおり、ハリスとの交渉において、銀貨の交換価値を基準に対外レートを決定し直した結果、いきなりペリーの時の3分の1に邦貨の価値が切り下げられたのです。つまり、銀貨と銅貨の国内交換レートが、国際水準から大幅に乖離していたことがこの混乱の原因です。そして輸出の主力商品はいずれも日用品ですから、国内価格は銅貨で決定されていたのです。ですから、国内物価が3倍に跳ね上がらない限り、国際的に見れば何でも割安感があったに違いありません。

 B 銀貨と金貨の交換レート

 銀貨と金貨の国内交換レートが国際水準と乖離していたことから発生した重大問題は、わが国金貨の海外流出です。先に紹介したとおり、安政の通商条約では、貨幣は金貨、銀貨それぞれに、金銀の含有量に応じて等価交換することになっていました。そして主要決済通貨は銀貨と決め、交換レートは岩瀬忠震が下田条約で決まっていた交換手数料の6%を放棄した結果、34.5セント=銀1分ということに決まっていたのです。

 先に財政改革史で述べたとおり、一分銀というのはこの当時採用されていた本位制の区分でいうと金貨で、したがって固定レートで小判と交換することができます。すなわち一分銀4枚で金1両です。したがって、1両は1ドル38セントという計算になります。ところが小判1両の含有する金を国際的に評価すると、3ドル以上の価値があるのです。つまり、100ドル相当の金を直接小判に換金すると、30両程度にしかならないのに、100ドル相当の銀貨をいったん一分銀に交換し、それをさらに小判に換金するという手間をかけるとざっと70両以上の小判を手に入れられるというわけです。しかも岩瀬忠震が締結した条約では、わが国金貨の海外持ち出しそのものを認めていました。

 この事を発見した英国商人達は、貿易をそっちのけにして、一分銀の入手に狂奔することになります。それどころか英国公使館の職員までがこの濡れ手で粟の事業に手を出した模様で、処罰者を出しています。もっとも日本の両替商も、利にさとく、外国人相手では両替レートをかなりつり上げたようですから、計算通りの利潤が得られたのは最初期だけのようです。それでも、安全に何割かの利益が得られるとなれば、十分魅力的な商売であったことは間違いありません。

 当時の外字新聞の示す数字では、開港第1年度のわが国からの輸出総額は、英価に換算して100万ポンドでしたが、そのうち、現実の商品取引は20万ポンドで、残り80万ポンドは実は小判そのものの輸出だったというのです。80万ポンド相当の小判とは、約100万両にあたります。当時国内で流通していた小判の総量は1421万両程度と推定されていますから、たった1年で国内金貨量の7%が消えてしまったというわけです。

 これだけ通貨量が減少すればデフレ効果で物価の鎮静作用が起こりそうなものですが、そうはなりません。なぜなら、国内市場の中心は大阪にあり、大阪市場は銀本位制で動いているからです。流出した金貨の代わりに大量の銀貨が流入していました。しかも、岩瀬忠震はその外国銀貨の国内流通をも承認していました。ドル銀貨という言葉がなまって、泥銀と呼ばれていたようです。その結果、むしろ銀貨に関しては供給過剰に陥っています。これもまたインフレ原因となりました。

(3) 伝染病の流行

 第三の問題は、この条約が検疫ということを全く予定していない点にありました。これまでわが国はほとんど外国との直接交渉がなく、わずかに開いた窓であるオランダ貿易も、オランダ人達を長崎の出島という隔離室に閉じこめる体制で行われていましたから、海外から伝染病が持ち込まれても、自ずと水際で防ぐ体勢になっていたわけです。その結果、いわば国全体が無菌室のようなものでした。そこに外国との濃厚な接触が始まり、検疫体制が皆無といっていい状況でしたから、もろに伝染病に侵入されたのでした。

 すなわち、安政4(1857)年にインフルエンザの流行があったのを皮切りに、安政5年にはコレラ、安政6年には麻疹がそれぞれ大流行するという具合に、連年、それまであまり縁のなかった伝染病が猛威を振るい始めたのです。

 インフルエンザや麻疹というと、今日の我々は少々熱を出して寝込む程度の軽い病気と思います。が、全くの処女地におけるそれは、ペストやコレラ並の高い死亡率を持つ恐るべき病気なのです。

(4) 外国人の殺害事件

 最後の問題は、外国人の殺害事件が続発したことです。今日の我々は、ややもすれば外国人が殺害された原因を攘夷思想に求める傾向があります。が、実はむしろ外国人貿易商人そのものが、殺されるのにふさわしい?下劣な品性の持ち主達だった点に、より大きな原因がありました。

 なにしろ彼らは、祖国から遠く離れたアジアで一旗揚げようともくろんでいる連中です。彼らを保護しなければならない立場にある英国大使オールコック自身が、彼らのことを「ヨーロッパのscum(滓)」と呼ぶような品性下劣な人間達が大半でした。

 しかも中国などで貿易活動に従事する間に、彼らは、アジア人というものは、怒鳴りつけ脅しつければ無理を聞くものだという固定観念を身につけていました。したがって、彼らの日本人に対する態度は、アジア人蔑視を絵に描いたようなひどいものでした。

 そうでなくとも、神国思想がはびこり、西洋人といえば動物にも等しい輩という偏見が日本人側にある訳です。そこに、その現物教育のようなひどい態度を見せられれば、問題が起こらないわけがありません。

 安政6(1859)年7月27日にロシア艦船の士官1名、水兵2名が横浜で殺されるという事件が皮切りになります。同年10月11日にはフランス領事の中国人下男が同じく横浜で斬られました。翌年1月7日に英国公使館付き通弁伝吉がその公使館前で斬られました。同年2月5日にはオランダ商船の船長等がやはり横浜で殺されました。こういう調子で、欧州人やその関係者と見られたものへの襲撃事件が相次ぎます。

 民衆はこれに喝采を送りこそすれ非難する者はいません。したがって殺人犯達は公衆の面前で悠々と犯行を行い、悠々と立ち去るのです。それにも関わらず、目撃者が見つからないのですから、犯人は誰一人として逮捕されません。

 このため、外国人の間では、これは幕府が犯人達をそそのかしてやらせている政治的殺人だという噂が流れる始末です。自然、在江戸外交団と幕府の関係はぎくしゃくしたものにならざるを得ません。

*      *      *

 このような困難な対外問題が山積みになっているのに、井伊政権は全くの無策でした。井伊直弼が暗殺されたとき、民衆が快哉を叫んだのは、こうした無策に苦しめられていたからに違いありません。これらの問題も、対処能力を持つベテラン官僚達をばっさりと大量処分したことから起きた問題である事は明らかです。



8. 軍艦奉行に見る人事の混迷

 話は少し戻ります。ポーハタン号に随行して米国に行った咸臨丸は、阿部正弘が嘉永6(1853)年にオランダに注文しておいた船ですが、これが日本に届いたのは安政4(1857)年のことでした。その翌年には、さらに朝陽丸と鵬翔丸がそれぞれ届きました。

 これらの船に乗せる将兵は、安政2(1855)年に阿部正弘が開設した長崎伝習所で、既に訓練中でした。そこではオランダからカッテンディーゲを始めとする海軍士官が訓練教官として派遣されてきていました。

 こうして艦船が届き、わずかながらも海軍らしきものが誕生し始めましたから、それに対応して幕府内部に海軍省にあたる管理機構も作らねばなりません。これが軍艦奉行で、安政6(1859)年2月に置かれます。高2000石ですから、外国奉行と同格の職ということになります。

 この軍艦奉行の、井伊政権下の人事を見ると、いかに井伊直弼が個人的な好悪の感情から人事を混迷させていたかが良く判ります。

 軍艦奉行の初代は、先に述べたように永井尚志です。永井尚志は、初代の長崎伝習所総督であったばかりでなく、長崎が江戸から遠すぎるために、江戸に開設した軍艦教授所の初代所長でもあります。したがって最適の人材といえます。井伊直弼としては、本来なら、岩瀬忠震や川路聖謨と同様に処罰したいところだったのでしょうが、何せ外に人材がありません。そこでやむを得ず、任命したわけです。

 しかし、井伊直弼は先に述べたとおり好悪の感情の強い人で、気に入らない人間を、部下として使用することができません。彼にこの年8月27日まで勤めさせますが、そこで罷免し、永蟄居を命じています。

 職務の特殊性を考えると、しかし、その後任として務まる可能性があるのは、いくら気に入らなくとも阿部正弘の抜擢したエリート達の外にありません。そこで永井尚志に代わって8月28日に任命されたのが、初代外国奉行の中でも最初に罷免されていた水野忠徳です。彼はこの年の10月28日までこの職にあります。が、そこで井伊直弼は辛抱できなくなり、西の丸留守居に左遷します。

 しかし、外に人がいないのですから、その後任としては、再び気に入らないエリート達の中から起用する外はありません。今度はすでに小普請奉行に左遷されていた井上清直を任命することになります。まさに猫の目人事です。

 彼になってようやくある程度直弼との関係が安定し、そうこうしているうちに肝心の井伊直弼が暗殺されましたから、彼はある程度長期に軍艦奉行を勤めることができました。



9. 井伊直弼の財政

(1) 財政状況

 阿部正弘や堀田正睦の時代には、新規施策に着手するだけで、あまり実際の財政負担は増大しませんでしたから、前章の終わりに書いたように、上納金等を命ずることにより、幕府財政は何とかやりくりできていたようです。

 しかし、井伊直弼の時代になると、歳出増が本格化してきます。すなわち、咸臨丸と朝陽丸はいずれも代価は10万ドルです。鵬翔丸については判っていませんが、これよりは安かったと思われます。いずれにせよ、この代金を支払わねばなりません。また、届いた以上、維持管理費もかかるようになってきます。これも、わが国国内にドックがないのですから、ちょっとした修理でも一々上海まで行かねばならず、かなりの額になったはずです。長崎伝習所の維持管理費やオランダ人教官達への給与の支払いも必要です。

 ところが、井伊直弼は勘定奉行として活躍してきたエリート官僚達を処罰したばかりでなく、外国奉行や軍艦奉行など重要な官職についても、担当者をくるくる変えるなどして、人事の迷走を引き起こしています。頻繁な人事交代は、事務引継その他でよけいな費用のもとになったばかりでなく、長期安定的な財政的施策を展開することを困難にすることは間違いありません。この点において、井伊直弼の無能ぶりは、これまでに紹介してきた歴代の権力者の中でもずば抜けているといえそうです。

(2) 安政の金銀改鋳

 では、そうした支出増をどうやりくりしたのでしょうか。新たな歳入源として海外貿易による関税収入が登場してきた事は間違いありませんが、貿易が本格化するのは万延元年からで、安政6年の段階では、輸出入を合計しても150万ドル程度ですから、関税収入は数万ドル程度にとどまります。したがって、井伊政権の財政に寄与するところはほとんどありません。

 結局、彼がやったことは、財政に無能な幕府官僚の常套手段である金銀貨の改鋳です。

 安政6(1859)年に発行した安政小判は、それまで最悪の通貨であった天保小判が1枚3匁あったのに対して、1枚2.4匁と2割も重量が減少している、というずば抜けて劣悪な通貨です。同時に安政一分金も発行しています。これは一枚0.6匁と安政小判の正確に4分の1の重量です。両者併せて発行量は35万1千両です。その2割ですから7万両程度しか改鋳差益がありません。もちろん、改鋳の対象がより古い文政小判や元文小判であれば、差益はもっと大きくなりますが、いずれにしても、この当時の幕府財政規模からすれば高の知れた金額です。この程度のわずかの利益のために金貨の改悪を行ったという汚名を負わねばならないくらい、この時の幕府財政が逼迫していたことが判ります。

 また、一分銀の改鋳も行っています。すなわち、それに先行する天保一分銀は2.3匁の純銀だったのですが、銀の含有量を87.27%に落としたのです。したがって、12%程度の差益を手に入れられるというわけです。こちらの方は、明治初年まで改鋳が続けられ、発行総額は2547万1150両に達しています。しかし、このうち、井伊政権下でどの程度の発行量になったのかは判りません。

 天保一分銀の改鋳による差益が、阿部正弘政権下でも数十万両に達する巨額であったことを考えると、それより若干差益を拡大した安政一分銀による改鋳差益が、井伊政権を実質的に下支えしていたと推定して間違いないでしょう。

 しかし、この劣悪な一分銀の発行が、わが国通貨の対外価値を引き下げ、先に述べたとおり、国内的に大変なインフレを生んだのです。経済を全く理解していない愚策という外はありません。

 井伊直弼という人については、先に人事面から、厳しい評価をかきましたが、財政面から見ても、国際化時代の幕府を背負う器量のない小人物と評価せざるを得ないわけです。



10. 桜田門外の変

(1) 密勅の返納問題

井伊直弼の実施した一連の処分で、もっとも危機感を募らせたのが、水戸藩士でした。藩主一家が全員、身動きもできないほどの厳しい行政処分を受けたばかりか、家老をはじめとして多数のものが刑事処罰を受けたのですから、無理もありません。井伊直弼という人物の執念深さを考えれば、今後も改めて処罰が繰り返されることも予想され、下手をすると藩そのものが滅亡しかねないという恐怖をもったのも無理のないところでした。

 事実、追い打ちをかけるように、幕府は、前年朝廷が水戸藩に下した戊午の密勅を朝廷に返納するように、という勅書を獲得することに成功しました。この朝命を伝える幕府の使者として、12月16日に小石川の水戸藩邸に乗り込んだのが、この時点では若年寄であった安藤信正です。彼は殺気立つ水戸家の家臣に取り囲まれながら、堂々と水戸慶篤と交渉して、勅書を幕府を通じて朝廷に返還するという約束を取り付けるのに成功します。これにより、その有能ぶりを井伊直弼に認められ、彼は翌年正月に、老中に抜擢されることになります。

 しかし、勅書返納というのは、単に友達から来た手紙を出し手に返す、というのとは訳が違います。特にこの戊午の密勅の場合、永年尊皇にいそしんできた水戸藩の、一つの到達点とでもいうべき重要性を持つものです。したがって、これを返却するということは、それまでの水戸藩の努力のすべてを否定するに等しい意味を持ちます。そこで、藩内の尊皇過激派が激高したのも無理のないところです。

 井伊直弼という人は、自分に反対する者は、徹底的に叩き付けないと気が済まない人です。

 普通、幕府評定所で審理する刑事事件の場合、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行の三者が協議して判決原案を作ると、老中は、将軍の温情を示すため、その罪をいくらか減じて判決とするものなのです。が、安政の大獄において、井伊直弼は原案どおりどころか、場合によっては原案よりも数等重い判決を下しました。行政罰の実施にあたっても、政敵処分はともかく、忠実な官僚達まで処分する必要はなかったと思えます。

 そして、水戸斉昭等、直接の政敵を叩いたのは判るとしても、ぎりぎりまで追いつめようとしたのはやはり間違いであったという外はありません。松平定信も、田沼意次を、繰り返し執念深く叩たきました。しかし、田沼家は新しく成立したばかりの藩でしたから、いくら弾圧しても、平の藩士が牙をむいて来るというおそれはあまりなかったのです。が、徳川創業以来、天下の副将軍としての誇りを持つ水戸家となれば話が違います。

(2) 水戸家の内乱

 過激派の藩士は、藩主慶篤の説得にも関わらず、いうことを聞きません。老公斉昭が直接に説得すれば、あるいは効果があったかもしれません。が、斉昭は水戸で永蟄居となっているので身動きがとれません。そこで書面により説得を試みるのですが、それでは役に立ちません。

 斉昭はやむを得ず、過激派の中でも首領格の者二人を逮捕しようとします。しかし、二人はそれを知って出奔し、同志を集めます。最後の手段として斉昭は兵を出してこれを攻撃したので、彼らは支えきれずに逃げ散ります。安政7(1860)年2月の出来事です。

 水戸家では、このことを幕府に届けたので、幕府では、会津から房総半島にかけての諸侯に命じ、警戒態勢を取らせました。また、過激派が江戸に潜り込んだ可能性もあるとみて、井伊直弼に対して、登城の際の警備を厳重にするようにとの勧告が警備当局より出されています。

 しかし、井伊直弼は、幕法により定められた以上の供回りをつけるわけには行かないと、この勧告を拒絶しました。幕法遵守ということを旗印として安政の大獄を実施した井伊直弼としては、どうしてもそういわざるを得ない立場にあったのかもしれません。しかし、これにより惨劇の起こる最後の条件が整えられたわけです。

(3) 雪の桜田門

 井伊直弼は、安政7(1860)年3月3日、江戸城に登城の途中で、水戸脱藩士17名及び薩摩脱藩士1名の、計18名により襲撃され、殺されました。

 襲撃の合図として、浪士の一人が発射したコルト拳銃の銃弾が、井伊直弼の致命傷になったといわれます。彼の開国政策によって、浪士程度の者でさえそうした武器が入手可能になっていたというのは、歴史の一つの皮肉というべきでしょう。

 幕法の厳正な遵守という直弼の政治姿勢そのものが、彼の命取りになったということは、今ひとつの大きな皮肉です。

 戦国の世に、井伊の赤備えと多くの敵を震え上がらせた井伊家藩士も、すっかり太平の世になじんでしまっていました。このため、わずか18名の小勢に無惨に蹴散らされました。

 3月というのは現在の暦でさえ、もう暖かい時期です。まして旧暦ですから、新暦でいえば4月に入っている時期です。そのため、この日の天候は、季節はずれの大雪が降るというだけでなく、雪と雨とが交互に激しく降るという最悪の状況でした。このため、侍達は皆、雨合羽を着ていたのです。もしかすると刀には柄袋をかけていたかもしれません。そのため、襲撃されてもとっさに刀を抜くことができなかった、という悪条件にあったのです。しかし、事前に警備当局からの警告があったことを思えば、そのような身支度をしていたことは、やはり士道不覚悟と評価する外はありません。

 かろうじて小物一人が藩邸に駆け戻って急を知らせるというていたらくでした。井伊家から後詰めの一隊が現場に駆けつけたときには、既に浪士達は、直弼の首を切り取り、持ち去ってしまっていました。ここに井伊直弼の恐怖政治は頓挫することになります。

 安政という年号は、ペリーの再来日という大事件に震駭した朝廷が、今後の政治の安らかであることを祈ってつけられたものでしょう。しかし、安政年間は、条約交渉を巡る幕府と朝廷の衝突、安政の大獄、そしてこの桜田門外の変と、政治的事件が立て続けに起こり、とても安政とはいえる状態ではありませんでした。そこで、朝廷ではこの事件直後の3月18日に、年号を万延と変えます。

 普通、桜田門外の変は、万延元年3月3日といいますが、事件の起きた段階ではまだ安政でした。したがって、正確には先に述べたように安政7年3月3日と言うのが正しいのです。