【世相百断 第49話】


直木賞候補作『半落ち』の評判





 横山秀夫の初長編『半落ち』(講談社)は読み応えのある傑作で、販売部数もずいぶん伸びたようだ。週刊文春の「傑作ミステリーベスト10」と宝島社の「このミステリーがすごい!」の国内部門の1位に選ばれたとのことで、いい本を読ませてもらった一読者として、けっこうなことだと思っていた。本は売れさえすればいいというものではないが、広範な読者が質の高いこの作品を支持したということだろう。

 ところがとんだところでミソがついた。第128回直木賞にノミネートされ、結局受賞はならなかったのだが、朝日新聞の報道によると、選考会後の講評で選考委員の林真理子から、作品の重要な要素となっている受刑者である主人公の骨髄移植が「現実には許可されない」という指摘が出た。林真理子言うところの「世評は高かったが、委員の評価はそれほどでもなかった」だけのコメントなら、選考委員の価値観の問題だから読者も作者も文句を言う筋合いのものではないが、作品の骨子となる題材が現実には成立しない、すなわち作者の決定的な事実誤認による欠陥作品だと言われたのである。

 その後、この論争を取り上げた3月19日付の朝日新聞によると、このときの林真理子は事実誤認の指摘の後、さらに「ミステリーとして成立しない」「(調べる人がいない)ミステリー業界も悪い」とも発言したという。

 何が問題とされているかをわかっていただくためには、ざっとストーリーを紹介せねばならない。

 W県警教養課次席の梶警部(49)は、骨髄性白血病で死んだ我が子の命日さえわからなくなったアルツハイマー病の妻の懇願に負けて、彼女を扼殺してしまう。そして2日後、自首する。梶は殺害状況や動機は素直に供述するのだが、殺害してから自首するまでの2日間の行動については口をつぐんで語ろうとしない。この謎の2日間をめぐってストーリーは展開していく。

 物語は6章立てになっているのだが、最終章でこの謎が明かされる。

 梶は一人息子を白血病で亡くしたあと、骨髄バンクにドナー登録をしていた。そして登録から2年後、適合者に選ばれて1人の患者の命を救うことができた。妻殺害後、天涯孤独の梶は自死しようとするが、新聞の投書で自分が救った患者が東京・新宿の歌舞伎町のラーメン屋で働いているらしいことを知っており、絶望の中で自分と血のつながりがあるその提供者をひと目見てから死のうと歌舞伎町に出掛けていく。しかし犯罪者となった自分が骨髄提供者であることをその若者に知られてはならないと、梶は2日間の行動を黙秘していたのである。

 これが謎の2日間の正体なのだが、死んだ息子とほぼ同じ年の提供者が元気に生きていることを目の当たりにして、骨髄を提供してもう1人、命を救いたいという思いに駆られて自死を思い直し、生き恥さらして自首の道を選ぶ。骨髄を提供できるのは50歳まで。梶は受刑者として51歳の誕生日まで生きようと心に決める。

 この設定に決定的な事実誤認があると林真理子は言うのである。つまり梶の骨髄移植が「現実には許可されない」という。そればかりか、この「決定的な事実誤認」を発見できなかった出版社やミステリー界も同罪だと言わぬばかりのもの言いなので、関係者は騒然となった。

 出版元の講談社は、自社のWebサイトで文芸局長名の読者向け「見解」を発表したが、これがもうひとつ迫力がない。「作者の横山氏と編集部は刊行以前に充分な調査を重ねた上で、このケースは妥当な設定であると判断し、作品中にはそのことを示す配慮を施して刊行したことをお伝えいたします。」と書いているが、何をどう判断してどういう配慮をしたのか、第三者にはさっぱりわからない。半分言い訳に聞こえて、「決定的な事実誤認だ」と言い切っている林真理子に分があるように感じられる。

 前記3月19日の朝日新聞によると、林真理子はさらに『オール読物』3月号の選評で、「落ちに欠陥がある……しかしそれほど問題にもならず、未だに本は売れつづけている。一般読者と実作者とは、こだわるポイントが違うのだろうか」とまで書いている。自信満々。自分が欠陥作品と指摘した本が売れつづけていることが我慢ならないらしい。

 もし林真理子の言うとおりだとするなら、決定的な事実誤認を見抜けず感動した多くの読者も欠陥作品に酔いしれた節穴目の持主ということになり、彼女に嘲笑われたに等しい。この作品に感動した一読者として、私もおもしろくない。一読者であると同時に、私も三十数年ものを書きつづけてきた物書きの端くれ。林真理子に言わせれば、実作者としても失格となる。彼女の言い分が正しいなら嘲笑されても仕方がないが、実のところはどうなのか。

 で、作者や講談社と林真理子のどちらが正しいのか、もう一度核心部分を読み直してみた。

 そのまえに、犯罪者の骨髄提供については誰から何が「許可されない」のか、ここを整理しておこう。

 梶が骨髄提供者としてもう一人、骨髄性白血病患者を救うには、骨髄バンクからドナーに選ばれた旨の連絡がこなければならない。作品の中で、受刑者の梶は自宅に郵便物が来ないかをしきりに気にしている。果たして適合者となった梶が服役中の犯罪者と判明しても、骨髄バンクは骨髄提供者に選定するのか。

 この点について、3月19日の朝日新聞によると、直木賞の選考委員の一部には事実確認が必要との認識があったようで、「北方謙三さんらが選考会前に骨髄移植推進財団(骨髄バンク)に問い合わせたところ「受刑者は骨髄移植のドナーになることはできない」との回答」を得たそうだ。

 実は1999年に、最高裁が死刑相当として広島高裁で差し戻し審中の被告から、脳死した場合の臓器提供の意思表示があり、手始めに骨髄バンクへの登録をするため、手続きに必要な2時間程度の拘留執行停止を広島地検に申したてる、という出来事があった。刑事訴訟法第482条には「懲役、禁錮又は拘留の言渡を受けた者について左の事由があるときは、刑の言渡をした裁判所に対応する検察庁の検察官又は刑の言渡を受けた者の現在地を管轄する地方検察庁の検察官の指揮によつて執行を停止することができる。」とあり、八つの事由が挙げられていて、この場合は八番目の「その他重大な事由があるとき」に該当するかどうかが検討された。その結果、「骨髄バンクに登録する高い必要性はない」「仮に罪を償うための行為でも、自由を拘束している以上は認めるべきではない」との結論に達し、勾留一時停止の申し立ては却下された。

 この前例があったため、骨髄バンク側は前記の回答をしたようだが、梶の場合はこれとはいささか事情が違う。この被告は裁判・拘留中にドナー登録をしようとして拘留の一時停止の申し立てを却下されたのだが、梶の場合は罪を犯す前にすでにドナー登録を済ませ、実際に過去に骨髄を提供して一人の患者の命を救っている実績もある。こういうケースで、もし梶がただ一人の適合者として骨髄を提供しなければ患者の命を救う道がないとしたら、法務・検察当局がどう判断するか、その前例はない。

 思うに、事実確認をした選考委員は『半落ち』の設定を正確に説明したうえで回答を得たわけではないのだろう。だから骨髄バンク側も一般論としての回答をした。それを鵜呑みにして林真理子は記者会見で「事実誤認」と言い切ったようだし、ほかの選考委員にも「お話作りのためのお話」と作品を否定する人が出てきたようだ。

 事実、この論争が広く社会に知られるようになって、前掲記事によると骨髄バンク側は小説の設定に沿ってどう判断するかの再検討をしている。その結果、「適合者が一人しかいない場合、法務省に協力を要請する」との見解にいたり、法務省も「検察官が事案と被収容者の事情を総合的に勘案して検討する」と判断にふくみをもたせている。『半落ち』の問題提起によって、受刑者の骨髄提供に大きな前進があったといえるだろう。

 と同時に、結果としてであるが、事実誤認だと断定した林真理子の判断が早計であった、ということになる。

 もともと、選考委員の中で受刑者の骨髄提供についての事実確認の必要性に気がついたのは、前掲記事によると北方謙三だったらしい。だから記事の中でも「北方謙三さんらが……問い合わせたところ」という書き方になっているし、選考作業の中で「指摘したが、ノンフィクションではないのでこだわる必要はない」と発言したとの北方謙三のコメントも記されている。欠陥作品だと講評のなかで言い切った林真理子がどれだけ熱心に事実関係の確認とそれに基づくこの作品の読み込みをしたのかは不明であるが、その後の傲慢としか言いようのない発言からすると、おそらく自分では何も確認をせず、ほかの選考委員の発言を真に受け、選考会後の講評のなかで前記の断定的な発言が出てきた、というのが事実ではないのか。だから林真理子の発言が思わぬ波紋を巻き起こしたことに困惑した北方謙三は、「講評の記者会見は経緯を知っている僕がやっておけばよかったかな」と当惑げに語っている。

『半落ち』が事実誤認があるかどうかのレベルだけで論争されるのは不幸なことだが、以上一連の経緯からは、林真理子の軽率な言い掛かり、と判断するほかはない。

 そのうえで、核心部分に注意して作品を読み返してみた。

 結論を言うと、私はまったく違和感を覚えなかった。梶は自分が骨髄提供者として1人の患者を救ったことは絶対に知られまいとしたうえで、できればもう1人救いたいと願望しているだけである。作品のなかで、梶が現実にドナーになって、その是非が判断されるという設定にはなっていない。あくまでも彼の心の中の僥倖を念じた願望・決意の結果、梶は自首し、受刑者になっているわけである。これは作者が逃げを打っているわけではなく、これだけの設定でこの作品は充分に成立しているからこういう設定にしたにすぎない。だから百%ドナーになる可能性がなくなったら、自死しようと梶は覚悟を固めている。

 さらにいえば、作品の中で梶の心情は一切書かれていない。謎が解き明かされる最終章でも、梶は一切ものを言わない。彼が発言するのはただ一箇所、骨髄を提供した青年と引き合わされ、(提供者は)「私じゃない」と搾り出すように呟くときだけである。梶の心情は、彼と骨髄を提供された青年の違法な面会に立ち会う刑務官の古賀の推測として描かれている。古賀の推測も、梶を取り調べ、彼の自死を阻止しようと真実を追究している警察官・志木の調査結果を聞いたことに基づくものであって、梶のなんらかの供述に基づくものではない。梶は受刑者の骨髄提供についての法務・検察当局の過去の判断事例を知っているかもしれないし、知らないかもしれない。

 この設定も作者が逃げを打っているからではない。もしモノローグの形であれ、謎解きの段階で梶の心情が直接書かれてしまったら、たちどころにこの作品は平板になってしまうだろう。梶の心情を一切書かないところに、作者の工夫がある。

『半落ち』は梶の犯罪がモチーフだが、梶だけが主役ではない。骨髄性白血病患者をもう1人救いたいと密かに念じて死の覚悟のもとに刑に服している沈黙せる梶を、なんとか死なせまい、生きつづけさせようとする警察官の志木、検察官の佐瀬、刑務官の古賀などの、自分の立場にリスクを負ってまで一肌脱いだ男たちの熱い思いとして描かれている。この男たちは、それぞれの官僚組織の中で、黒を白と言い換えてでも我が身ひとつの栄達を成就したいエリートキャリアの上司たちに心中密かに反抗しつつ、梶の事件をめぐって人間らしい自己満足を人生の中で一つだけでももとうと行動する。そういう点では、梶が受刑者の骨髄提供についての法務・検察当局の過去の判断事例を知っているかどうかは重要な要素ではない。仮に梶の骨髄提供が法的に不可能であったにしろ、この作品は充分に成立している。

 作者の目的は、6章のそれぞれに登場する6人の男たちと、そのすべてに通奏低音のように登場する梶の生き様を通して、人間らしい振る舞いとはどういうことかを描くことにあった。骨髄提供はそのための素材にすぎない。再読してみて、『半落ち』からは世界と人間を肯定的に捉えたいという作者の意志をあらためて強く感じ取った。それは充分に成功している。社会的弱者が追い詰められ、貶められる今の社会のありように対する作者のアンチテーゼを読み取ることができる。ミステリーとして成功しているだけでなく、人間と世界に寄せるそうした作者の想いが多くの読者の共感と感動を呼んでいるわけである。

 私は林真理子という小説家にまったく興味がない。だから彼女の作品は、小説はおろか、エッセイや短文すらひとつとして読んでいない。彼女がどれほど実証的で人の心を熱くする作品を書いているのか知らないが、今回の一連の出来事を追ってみると、彼女の発言の傲慢不遜が目につくだけでなく、直木賞の選考委員として果たしてどれだけこの作品をしっかり読み込んだのか、その点にすら疑問が湧いてきた。他人の作品を欠陥だと、メディアに向かってさかしらに言う前に、もうすこし真面目に作品を読んではどうかと思う。これでは横山秀夫が怒るのも無理はない。

 今回の林真理子発言事件であからさまになったのは、この程度のレベルの小説家が選考委員をしている直木賞の権威とはどんなものかがはっきりしたことではないか。所詮、賞はショウにすぎない。横山秀夫は、もう自分の作品を直木賞選考委員会に托すつもりはないと怒っているが、そうしたほうが賢明だろう。プロの小説家として、直木賞の看板は有用だろうが、そんなものがなくても、これだけの作品が書ければ充分読者の支持を得ることはできる。直木賞や芥川賞が文学の質を保証するものではなく、一種の社会現象化していることは、ずいぶん昔からつとに知られたことである。

 最後に、林真理子がこうした恥さらしを二度としないように、次の言葉を贈ろう。

……競争原理が煽られている日本の社会では、足の引っ張りが演じられています。……評価が流行していますが、良いところを見出し、それを伸ばしていこうという評価ではありません。日本では評価とは粗探しを意味します。「粗探し社会」から希望は生まれませんね。

(神野直彦/内橋克人「人間を中心とした経済社会へ」岩波書店『誰のための改革か』所収)

(2003年5月9日)

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