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契冲歿後三百年・宣長歿後二百年記念講演會(平成十三年九月二十五日)

 

電腦時代を支へる契冲・宣長の偉業                         市 川 

 

電腦時代とは

  ワードプロセッサーからインフォメーションプロセッサーへ

情報處理の基本過程はワープロに同じ  入力  檢索  加工・編輯  出力

 

  地球規模の廣がりと全ての人々の參加と活用―日本語圈での日本語

 

日本語情報處理の問題點

  漢字コード化の後れ 

  表記法の多重化  漢字 (正漢字・常用漢字)  假名 (歴史的假名遣・現代假名遣)

 

電腦時代に於ける表記法統一の重要性

和歌の盗作檢索  「けふここのへに」と「きょうここのえに」

  聲、声、こゑ、こえ

現代假名遣のシステムとしての弱さ

用言語幹の變動―「はや」い→早い  お「はよ」う→お早う

      活用語尾の二行變化―「思わない」(ワ行) 「思う」(ア行)

      文語への對應不可―歴史的假名遣の亞流―圓周率が3では實用にならない

 

統一表記體系としての歴史的假名遣三百年の歩み

  元祿六年 「和字正濫鈔」序 

  安永四年 「字音假字用格」序

明治三十年代  國定教科書、口語體の成立

  大正元年・四年「疑問假名遣」

大正末期・昭和初期  圓本時代―出版文化の大衆化―第一次情報化

昭和二十一年「日本國憲法」(十一月三日)   「現代かなづかい」(十一月十六日) 

昭和六十一年「現代假名遣い」歴史的假名遣の復活

平成十三年  「正假名遣序」

 

歴史的假名遣と日本語の基本原理―五十音圖マトリックスの驚異

「言靈」を語り繼ぎ、言ひ繼ぐ(萬葉の歌人)―言語原理の時間軸での普遍性

「假名序」(貫之)―假名表記の空間軸での普遍性

「假名遣」(定家)―假名表記の時間軸での普遍性

萬葉代匠記から歴史的假名遣へ 契冲の偉業―「電腦で言靈を讀み繼ぎ書き繼ぐ」 

 


本日は森田先生、林先生竝びに鈴木先生の貴重な御講演をお伺して、洵に感銘深いものが御座いました。特に森田先生は、私の中學時代の恩師でいらつしやいまして、本日五十數年ぶりにお目にかかりました。これも契冲阿闍梨の御導と有難く思つてをります。當時まだ占領下でありましたが先生は「我々の愛する民族の爲に力を盡さう」と勵まされた事を記憶してをります。先生はまたユーモアに富む授業で、シェークスピアの生涯は一五六四年から一六一六年であるが、「人殺しはいろいろある」と憶えれば諸君は一生忘れないぞと。私は不肖の生徒で御座いますが、本日は末座からITの現場の問題點に就いて御報告をさせて頂きます。

先づ、電腦といふ事、これは中國ではコンピューターの譯語として用ゐられてゐるさうですが、同じコンピューターでもワープロとして使ふのと電卓ととして使ふのとでは、扱ふ人の腦の働きが全く異ります。ワープロでは變換した漢字の候補から適當なものを選んだり、文章を呼出して複寫したり、書き加へたりと所謂「頭を使ひ」ますが、電卓では腦は全く働いてゐないといふ違ひがあります。從つて我が國に於て電腦と申しまする場合には腦を使つて扱ふコンピューターと、範圍を特定して使ひたいと思ふのであります。

所で、このワープロでの語、即ちワードの入力・檢索・編輯加工・出力といふ一聯の手順は我々の情報處理の手順そのもので御座います。そこで、ワードの代りに情報、即ちインフォメーションをこの手順で處理するのにコンピューターを使ふ、つまりワード・プロセッサーの代りにインフォメーション・プロセッサーとして使ふ、これが電腦時代の具體的内容なのであります。

この電腦時代は、地球規模の廣がりをもつ事と竝んですべての人々が參加し活用するといふ特色があつて、そこでは言語の役割が共通の約束事として不可缺になつてまゐります。地球的廣がりといふ面からは、例へば英語といつた單一言語での統一が望ましいかも知れませんが、すべての人々の參加と活用といふ面では、地域毎の言語、即ち英語圈では英語、日本語圈では日本語で情報處理を行ふ事が必要となります。

以上を踏へた上で日本語情報處理を考へますと、現在二つの大きな問題があります。

一つは漢字コード化の後れですが、これに就いては、本日は時間の關係で省略致します。一つだけ問題を指摘して置きますと、現在JISでコード化されてゐる漢字だけでは、諸橋大漢和など大規模な漢字文獻をコンピューターに取込むには不十分です。英語だとOEDでも簡單に取込んで自由自在に活用してゐるのと較べるとその優劣の差は明らかです。

もう一つが本日の主題で、表記法の多重化といふ問題であります。現在、漢字には正漢字と常用漢字の略字、更に同音の漢字による書き換へと稱する所謂宛字の三種、假名には歴史的假名遣と現代假名遣の二種類、つまり五種類の表記法が共存・混在してゐます。これをそのままコンピューターに入力して蓄積して行きますと、例へば、御歌會始めの詠進歌を選ぶ場合など、同じ歌が嘗て詠まれた事はないか、コンピューターで探せたらさぞ便利だらうと考へても、「けふここのににほひぬるかな」と「きょうここのににおいぬるかな」とは同一であるとコンピューターに判斷させる爲には非常に複雜な處理が必要となります。また「聲」といふ語を檢索する場合、「聲」、「声」、「こゑ」、「こえ」の四種孰れかに該當するものを全て拾はねばなりません。このやうな事は 一つ一つの處理は大した時間が掛らなくとも數が多くなると掛け算で利いて來て、大きな足枷となるのであります。

そこで少なくとも電腦上では表記法統一の必要性が浮上して來るのですが、それなら戰後づうつと使つて來た「現代假名遣」と常用漢字に統一したらよいではないかと一般には考へられるのですが、これでは實用的に、情報處理には無理があるのです。これは私が歴史的假名遣變換ソフト、「契冲」ですが、これを開發する段階で、コンピュータの裏側を垣間見て解つた事ですが、端的にいひますと、「早い」といふ形容詞では「はやい」でも「はやく」でも語幹の「はや」といふ假名の文字列が一定である事に注目して、これに「早」といふ漢字と對應させ、更にこれに色々な活用語尾を繋げるといふ事をする譯です。所で、「お早う」の場合どうなるか。歴史的假名遣では「おはやう」となるので何の問題もありません。ところが現代假名遣では「おはよう」ですから「はよ」にも「早」を對應させる必要があります。しかも問題はこれだけでは濟まないのです。この「はよ」は形容詞の語幹として扱ふ必要があるのに、他の活用語尾、「い」とか「く」が繋がつてはいけないのです。またウ音便の「う」も、「はや」とか「めでた」とか「ありがた」といつた形容詞の語幹に繋がつてはならないのです。日本人の人間であればかうした事は何の苦もなく辨へますが、コンピューターはさうは行きません。一定不變である筈の語幹が變化するだけで如何にシステムが複雜になるか御理解頂けると思ひます。

更に致命的な問題は「ハ行四段動詞」の活用で、歴史的假名遣では活用語尾は五十音圖の一行にきれいに納まるので、これを行と段の組合せとして論理的に取扱ふ事ができます。しかし、現代假名遣では「ワア行五段」と五十音圖の二行に跨がつて活用させるため、折角のシステム的整合性を自ら破壞してゐるのです。これ等の問題の解決法はいろいろありますし、またコンピューターの處理速度は人間には見えないくらゐ速いので、「おはよう」も「おもない」もスムーズに處理してゐるやうに見えます。しかしコンピューターの内部では餘分な處理が少なくとも一つ以上必要である事には變りがなく、これも小さいやうで、その所要時間は絶對にゼロになりませんから、處理データの量が大くなるにつれてやはり掛け算で利いて來て問題が顯在化してくるのです。こんな問題は「おはやう」或いは「おも」とする歴史的假名遣では決して起りません。つまり、現代假名遣は「おはやう」や「おも」は複雜だから「おはよう」や「おも」とするだけの、所詮歴史的假名遣の亞流に過ぎない譯で、恰度最近の小學校で圓周率が3・14では複雜だから3だと教へれば小數の計算をしなくて濟むなどと言ふのに似て、實際の役には立たない、システムとしての弱さは覆ひ難いのです。

一方嘗ては、文字は表音文字こそが最も進化した最終形態であるとして、歴史的假名遣が發音と游離してゐる、複雜で非合理的な表記法だとの批判がありました。また機械處理に便利だからといふ理由はをかしいといふ批判もあります。これらに對する學問的な反駁は既に決定的でありますが、ここでは、歴史的假名遣がコンピューター處理に適してゐるといふ事は、コンピューターがその手本としてゐる人間の腦にも適してゐる事であるとだけ申上げて、三百年の歩みを見て頂きたいと思ひます。レジュメに簡單に書いてありますが、特に、明治の三十年代に口語體が成立致します。今日世界の如何なる思想や概念をも表現出來るこの優れた文體に至るまでには、言文一致體とか雅俗混合文とか色々な文體が試みられたのでありまが、これらはすべて歴史的假名遣を媒體とし、基礎として、そしてそれ故にこそ、文語とも整合性のある、論理的な文體が完成したと言へます。また大正から昭和にかけて「圓本」に代表される出版の大衆化が進み、謂はば我が國に於ける第一次高度情報化が起りますが、これも歴史的假名遣が確立してゐた爲に古典の復刻も含め、あらゆる種類の書籍が統一した表記で大衆に提供できたのであります。これらの事から、歴史的假名遣の統一表記體系としての有效性が十分に證明でき、そして今囘の第二次とも言ふべき高度情報化の電腦時代を擔ふのも、やはり歴史的假名遣を措いて他にない事が結論附けられるのであります。

なほ、このレジュメに就いて若干補足致しますと、昭和二十一年に「現代かなづかい」の告示により歴史的假名遣は大きな打撃を受ける事になります。この僅か十三日前に公布された日本國憲法と共に、「日本人自らの意志で」といふ名目で行はれたアメリカの占領政策の周到さ、日本に對する本質的理解の深さを見る事ができると思ひます。四十年後の昭和六十一年やうやく歴史的假名遣の復權が認められましたが、その後の復活普及は遲々として進んでをりません。その理由として手輕に使へる歴史的假名遣の基準や手引がない事に着目して私たち國語問題協議會と電腦文字研では先づ、その基準として「正假名遣序」を編輯し、現在最終審議段階で、近く世に問ふ豫定であります。その中心となられましたのが、本日御見えの齒科醫の、「司會」ではなく、齒醫者さんの、高崎一郎先生であります。なほ、この原案はホームページに公開されてをります。

さて歴史的假名遣にこんな力があるのは何故かといひますと、私なりの結論でありますが、これが日本語の基本原理を表現してゐるからだと思ふのであります。そしてこの基本原理は、これも私の獨斷になりますが、和歌を通じて、既に萬葉の歌人、人麻呂や赤人、憶良等が此の基本原理を「言靈」として直感的に理解し、これを語り繼ぎ、言ひ繼ぐべしとその時間軸での普遍性を意識してゐたのであります。そして平安・鎌倉時代の大歌人貫之や定家も和歌の道を通して國語の原理に達して「假名序」や「假名遣」として結實したと思はれます。特に定家の假名遣には惜しくも方法論的な缺陷があつたとはいへ、假名表記の時間軸に於ける普遍性を初めて意識したといふ點で高く評價されなければなりません。そして、萬葉代匠記などの著作研究を通じて同じく和歌の道の深奧に至り、音韻の變化で見え難くなつた國語の原理を再發見し、これに歴史的假名遣といふ表現形式を與へたところに、契冲の偉大さがあるのだと思ふのであります。恰度ニュートンが運動の基本原理を微分積分といふ數學形式で表現した事にも比せられ、茲に於て、國學を始めとして日本文化そのものの獨立と發展が大いに促進される事になつたと言へませう。現代假名遣の和歌を平氣で作歌なさる今の歌人はこの事を如何思はれるのでせうか。

電腦時代がいよいよ本格的に始る今こそ私たちはこの契冲・宣長の偉業を單に欣仰するだけでなく、これを高度情報化の中に活かし、空間軸と時間軸とに共軛する統一性と普遍性を持つ言靈を、歴史的假名遣によつて、語り繼ぎ、言ひ繼ぐと共に「讀み繼ぎ、書き繼ぐ」のでなければならないと、私は前線の現場から聲を上げてをります。しかし前線からの聲は司令官が採用してこそ效果を發揮するものであります。本夕御出席の皆樣方は夫々各方面で司令塔の御役目を擔つてをられます。敢て直ちに全軍に號令なさらずとも、御自身が正字・正假名を實踐して頂くだけでも十分なのであります。御贊同と御支援を頂ければ幸で御座います。

 

(講演を終つて‐補遺)

森田康之助先生は本日の御講演で、「文化文政時代から維新迄の五六十年程の間に千八百人もの勤皇の志士が輩出したが、暗殺や刑死、また藩主からの切腹仰附けなどで、維新當時は纔かに二百名ほどに激減し、洵に廖々たるものであつた。この事は志士の中心思想であつた水戸學の衰頽を意味した。これに代つたのが、契冲・宣長の流を汲む國學であり、これを擔つたのは富裕な町人や農民層であつた」との御見解を示されました。

翻つて國語問題を考へてみますと、「現代かなづかい」の告示から今日までやはり五六十年の間、國語改惡を糾彈し、正統表記への復歸を訴へる論客は數多く、昭和三十九年、國語問題協議會が「國語問題に關する國民運動」を提唱した折には、千三百名に上る各界の錚々たる名士が贊同し、正統派言論人は歴史的假名遣で健筆を揮ひました。しかし今日歴史的假名遣を實踐なさる方は、森田先生は勿論の事、なほ有力文化人の中にも少くないとはいへ、往年の名士の方々は多く鬼籍に入られ、或いは出版ジャーナリズムの兵糧攻めに遇はれ、一般刊行物で見る限り、その數は洵に廖々たるものであります。併し、森田先生の御講演を拜聽して、幕末の町人や農民が實務家として日々の生業の傍ら、「歌まなび」を通じて國學を擔つたやうに、この電腦時代にも實務として、また日々の生業の傍らコンピューターに親しむ人々の中から、歴史的假名遣が復活してくる豫感が、胸の中に湧き起つてをります。