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『動向』第一六一五號(平成十三年十二月)掲載

     發掘された昭和の最高傑作「愛國百人一首」

「たまのまひゞき」出版に協力して                     巨\申閣代表    

 

佐藤利幸さんが、正字・正假名を世に弘めるといふ御志から、自ら出版社「日の本文化繼承」を設立なさつて、先づ最初の事業として「愛國百人一首」覆刻・三潴信吾先生題簽「たまのまひゞき」制作のお話を持つて來られた時、最初若干の戸惑を感じた。それといふのも昭和十七年頃、即ち大東亞戰爭中、當時まだ小學生、正確には國民學校の生徒であつた私は、それまでの小倉百人一首歌留多の代りに、新しく愛國の歌を集めた「愛國百人一首」が出來たとして、その二三の歌を聞き知つたのであつたが、全部の歌に接した譯ではなかつた。勿論撰者の名前も聞いた覺がないし、實際にこれで骨牌取をした經驗もない。戰後は「愛國」といふ題名に拒否反應もあつてか、世間では「愛國百人一首」は完全に忘れ去られ、私もこれまで全く關心がなかつたのである。

佐藤さんは本書に説明の通り、昭和十八年發行の「愛國百人一首早わかり」の古本を入手なさつたものの、當時の出版社を尋ねる宛もなく、しかし同時に著作權も切れてゐるので、兔に角これを飜刻しようといふことになつた。原本には假名遣の誤植などもかなりあり、また正字・正假名を博く讀んで頂く爲に、總ルビに近いルビ振や語句の説明も數多く追加插入をする必要があつて、本文の一次入力を外注しても二度手間になる虞があるので、全て自分で入力しながらの組版となつた。しかし何分にも本職の入力オペレーターではないので、隨分誤打があり、何囘もの校正を要した。佐藤さんは歌の考證に毎日のやうに國會圖書館に足を運んで、解説文の補完に心血を注いでいらつしたから、度重る校正が餘計な負擔となつた事を申譯なく思ふばかりである。

しかし、何度も校正を繰返すうちに、この「愛國百人一首」に祕められてゐた見事な構想が姿を現してきた。一つ一つの歌は、愛國心を直接鼓舞するやうなものはむしろ少なく、例へば遣唐使使人母「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽裹め天の鶴羣」や上田秋成「かぐ山の尾上にたちて見渡せば大和國原さなへとるなり」など心を和ませる歌が多い。最初の柿本人麻呂から讀始めて行くと、君民一體の國柄の歴史を辿りつつ、蒙古襲來を卻くる愛國の念と神助とを見る。江戸時代に入れば國史を闡明する國學の先達の歌が多く收めてあつて、國學が和歌を根柢として發展する流に至る。この流に棹す志士たちの歌も亦胸を打つ。最後に萬葉集の撰者に擬せられる橘諸兄から算へて三十九世の子孫、橘曙覽「春に明けてまづ看る書も天地の始めの時と讀みいづるかな」と讀了へると、「ああ、何と素晴しい美し國、日本といふ國を祖先たちが我々に貽してくれた事か、此の國を更に發展させて次代に傳へたいものだ」といふ「愛國」の心情が油然と湧上るのを感ずるのである。

即ち「愛國百人一首」は單に「愛國的な」歌を百首選んだだけの歌集ではない。歌集そのものが詩篇による一つの國史となり、讀む人の心に祖先を蘇らせ、國を愛する氣持を醗酵させるのである。その意味で「愛國百人一首」は歴代和歌集の中でも出色の大傑作であり、昭和を代表する文學作品としてもつと高く評價されて然るべきであらう。特にこれが前の大戰中戰局漸く多難となり人心もとかく不安定となる時期に編まれただけに、當時の讀者は如何ばかり心を癒されたことであらう。そして昭和を生きた一人として、平成の若い方々に本書をお渡しできる一助となり得たのは大きな幸であり又誇でもある。是非御一讀をお薦めしたい。

かくも美しく雄大な構想と的確な選歌は一體誰方の御手に成つたものであらうか、答は佐藤さんの「はしがき」の最終原稿で知れた。撰者は全部で十二名、佐佐木信綱、齋藤茂吉、窪田空穗、折口信夫、尾上柴舟、太田水穗、川田順、吉植庄亮、齋藤劉、土屋文明、松村英一、北原白秋の諸大家。寔に寔に宜なるかな。