*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【真っ直ぐ?】


 あるとき,徳川吉宗が大岡忠相を召して尋ねたことがありました。「善・悪とはどんなものか」と。
 忠相はすぐさま宿に引き下がり,起き上がりこぼしを持って参上し,吉宗の前でそれを転がしてみせました。
 「殿,ご覧くだされ,いくら転がしても起き上がります。これが善でございます。いかに倒そうとしても倒れるものではありません。しかし,・・・」
 忠相は途中から一枚の小判を取り出し,起き上がりこぼしの背に結わえました。
 「しかし,これも黄金を背負って,欲に迷うと悪に変わります。この通り倒れて,再び起き上がることができなくなるのです」。

 その通りと思って,分かった気にしてくれるたとえ話です。何かを説明しようとするとき,逆のことを持ち出す方法があります。例えば,陰を描くことで,描けない光を描いているように見せます。健康とはどういうことかは,病気になったときに分かるということもあります。大事なものは無くしてみないと分からないという考え方です。ただ,この場合の分かるというのはそれが在るということに気付くというだけで,それが何かということを理解することには至りません。先のたとえ話では,確かに善と悪の有り様が整理されてはいるのですが,善と悪が何かという疑問とはすれ違っています。
 人権を説明するときを考えてみましょう。「人権は人間であるという理由だけでだれもがもつ諸権利である」。「人権は全ての人が平等・普遍的かつ永久に持つ」。「人権は人間が尊厳を持って生きることができるために不可欠な基本的基準である」。人権の有り様について説明がなされているだけで,人権には直接言及されていません。人権の拠り所である世界人権宣言では,平等権,自由権,財産権などが掲げられています。これらの諸権利は侵害された経験によって見えてきた個別の権利の集大成です。
 啓発をする際には目標が必須です。さまざまな人権侵害があるから,人権を擁護する必要があるというスタンスが普通です。そのような対処療法も必要であり,分かりやすくはあるのですが,もう一つ先の目標を見据えておくべきです。それは人が尊厳を持って生きるということがどういうことかを定義することです。平たくいえば,幸せに生きるとはどういうことかを身近な言葉で真っ直ぐに定義しないままでは,人権啓発の目標は見えてこないのです。ワタシが幸せに生きている条件をワタシの言葉で箇条書きに定義してみませんか?

(2014年09月17日)