*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【幸道?】


 吉岡弥生は,小学校を首席で卒業したが,女の幸せは嫁に行くことという親の考えで,上級の学校には行かず,家事手伝いに精を出していました。15,6歳になって「このままお嫁に行って,家事や育児に追われながら一生を終わる生き方でいいのかしら」と疑問を抱き始めました。
 そんなある日,両親に「東京に行かせてください。兄さんたちのように勉強をして、女医さんになりたいの」と頼んでみましたが,両親ともに考えは変わりませんでした。弥生は諦めずに,父の医学書を読みあさり,また東京に出て行くために裁縫の内職に励んで貯金を始めました。
 2年の月日が経った弥生が18歳の春,休日を郷里で過ごすために帰ってきた兄の口添えがあり,父は許す気になったのか,2年の期限を付けて思い通りにやらせてみようということになりました。上京した弥生は民間の医学校に通い,一心に勉強して,1年後に医術開業試験の前期に合格し,3年後には後期も合格,女医の免状を取ってしまいました。明治25年,21歳の弥生は女医の草分けとなりました。先に上京した2人の兄は,後から来た妹に先を越されてしまいました。その後,弥生は東京女子医大の創設者になりました。
 父の後ろ姿を日頃から見ているから,生きていく道をごく自然に見つけてしまったのかもしれません。女医になった娘を,父親はどのように思ったのでしょう。よく知っている道であるだけに心配と安心の間をさまよう一方で,支える喜びも感じたはずです。その姿が,弥生に医学校の創設を思いつかせたのかもしれません。何となく道を選ぶのではなく,身近にある先達の道を歩く姿をしっかりと見届けていたからこそ,なすべきことにきっちりと励むことができたはずです。
 自分のことは自分が決めるのが,幸せな権利です。どういう道を選んで生きていくかは自分で決めることであり,それを実現するためにできることを見つけることで歩みを始めることができます。その継続的な実践を通して,自分だけではなく,周りの状況を整備していくことができます。そういうじっくりと取り組む姿勢が,今の時代には忘れられているように感じてられます。

(2023年10月08日)