*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【研修会参加報告書?】

 私の町では,社会教育委員の研修に対して,一つの慣例があります。委員は10名ですが,全国大会に5名,九州ブロック大会に5名の参加旅費が予定されています。委員それぞれがどちらかの研究大会には出席するという責務が期待されています。
 完全に実施されていればいいのですが,実際上は変則的にならざるを得ません。委員になる方はそれなりの他の役職を持っており,2日とか,3日間の研修への拘束はかなり厳しくなります。時間的に自由のきく委員さんがダブらざるを得なくなることもあります。ただし,優先権は1回目の出席委員さんに与えられています。もちろん,県大会やブロック大会,地区大会といった一日研修は,全員参加が原則です。これらは,予算的に楽だからです。

 13年度までは,全国大会出席者には報告の義務が課せられていました。報告書を作成し,町長,教育委員会,社会教育委員会に配布してきました。参加した成果がありましたという意思表示をすることによって,研修を支援してくれている方へのお礼と,委員自らの責任を果たす意味がありました。下世話な理由を考えれば,社会教育委員は予算を使って研修に行っているらしいが何の研修をしているのやら?,と言われないための布石でもあります。
 ところで,14年度からは,全国大会だけではなく,九州大会,ブロック大会も含めた研修会参加報告書を作成することになりました。委員さんたちが自ら決めたことです。分科会には分担して参加するので,その成果を持ち寄ろうという純粋な動機からです。ありがたいことです。

 役割分担が決められます。まず分科会には分散して出席します。広く学ぶためです。そのほか,記念講演も担当が決められます。ただ,参加人数が不足するので,出席できない分科会も出てしまいます。そこは,会長が大会資料による誌上研修として短くまとめています。一方,身近な研修会では分科会の数が少ないため,複数の委員さんが同じ分科会に参加することもあります。そのときは全員が報告を提出するという原則に従っていただいています。

 会長として,一つの悩みがありました。それは報告書という形式を整える上で,各委員さん方から提出していただく原稿に様式を求めるか否かということです。結局のところ,様式は自由ということにしました。形にとらわれるという束縛は,研修への負担になることはあっても,それほどの意味がないと判断したからです。ただ一つお願いした点は,「研修したことから,本町の社会教育活動に対する提案を何か導き出して提出して欲しい」ということでした。それこそが研修に出席する目的だからです。

 期待と不安で受け取った原稿は,それぞれの委員さんの個性がうかがえるものでした。もちろんのこと,形式は不揃いです。報告書としてある程度の様式を整える作業は引き受けていますので,その中にはめ込む苦労があります。しかし,「こんなことがあるのか」といった貴重な情報や面白い事例を持ち込んでくれた原稿は,苦労を楽しさに変えてくれます。
 原稿のまとめ作業を社会教育課の職員に依頼することは全く考えていませんでした。余計な仕事を持ち込むことになるからです。社会教育委員の研修であれば,社会教育委員自らが果たさなければ意味がないからです。できないからと逃げることは,自分の仕事のたらい回しになります。各団体に対して自立することを指導している立場にある者が,それをしたら説得力が壊れます。
 さらに,委員さん方が何を研修してこられたか,それを把握しておくことは会長としての責任だと考えたからです。研修の報告から委員さんが何を学んできたかが分かります。何に関心を持たれたか,それを知っておくことは,適材適所を図る会長職務の一環でもあります。

 事例を知ることの意味は,「人にできたことなら自分もできる」という勇気を得ることです。確かに,条件が整っているからできたと言えるかもしれません。例えば,首長部局が積極的な支援態勢にあるといったことがあります。それが無ければどうしようもないという諦めも一つの道です。しかし,何とかできないかと考えることが,社会教育委員の役割でしょう。

 報告書は,前向きに取り組むための一里塚です。研修で発表されている事例は,先進活動です。ついていくのは簡単です。一歩を踏み出せる方向が明らかなのですから,迷うことはありません。自らの進む方向が提示されているのです。その上で,自分たちが今どこにいるのか,その現状認識から具体的な方策が見つけられることでしょう。
 これから,報告書を仕上げる段階に入ります。各委員さん方が提案した研修の成果を,どのように束ねたら活動推進の力が発揮できるのか,しばらく模索することにします。

(2002年11月17日)