*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【会長の指導性?】

 社会教育関連の組織は,構成上の弱点を持っています。先ず社会教育委員の会が,規約上各組織体の代表の寄せ集めです。経験知を結集するという名分が優先されていますが,組織としての一体性を備える仕組みが欠落しています。もちろん,その他の連絡協議会や連合会といった上層組織から各種団体という下部組織に至るまで似た事情にあります。
 あらゆる他のチームの4番打者を揃えて新しいチーム作りをすることと同じで,活性化したチームにはなりません。組織はそれぞれが異なった役割を果たすことで一つの働きを生み出すことができるものです。船頭多くして船山に登る,という故事は最低限の組織構成上の注意です。
 メンバーの公平性を保つために,組織の規約では会長職を互選とするという形式をとっています。青少年育成関連の組織では,行政上の各組織を巻き込むために,首長部局や議会関係のしかるべき人をトップに据えるという便法が罷り通っていることもあります。会長職が実権を付与されることなく,名目的になるという弱点を露呈するようになります。
 組織としての意志決定が民主的な運営を確保するために,総会や役員会,運営委員会などの名称で呼ばれる会議に付託されます。その形式自体は十分に意味があります。そこでもう一歩のだめ押しをしていなかったことが問題です。運営をするという観点が欠けているのです。簡単に言えば,組織は人であり,人が動かすものです。人が動かせるような仕組みになっていないと,組織は生きた活動ができません。
 多くの組織では,いわゆる事務局が差配をしています。たとえば,会議などで質問があっても会長や役員は答えられず,事務局が答弁する体たらくです。それを当たり前とするところが,組織の低迷をもたらします。会長は組織に対する責任を背負わなければなりません。それはどういうことでしょうか? 答弁を事務局に任せるということは,責任を事務局に押しつけることなのです。会長自身は知らなかったと言い逃れできるのです。それを卑怯といいます。会長とは名誉職であってはなりません。名誉職の会長を戴く組織は,誰も責任を取れない無責任組織になります。
 これまで,そのような組織形態が生き延びてきた背景には,事務的な処理だけで事が済んできたという事情があります。前年通りの活動,寄せ集めの活動を形式上整理すれば済んでいたからです。責任を負う者がいなくても,何の支障も無かったのです。でも,時代の動きはそんな組織を置き去りにしようとしています。構造改革のかけ声が発せられるのは,責任を持てる組織が求められているのです。
 状況に応じた活動を進めるためには,新しい活動を選択し決定し実行しようとする意志が不可欠です。その意志を体現する人物が会長なのです。手続きは協議制を採用するとしても,協議に諮る役割を会長が果たさなければなりません。何か提案はありませんかという,消極的な方針探しでは何も生まれてきません。誰かが提案しても,必ず反対する意見が出てくるものです。最終の選択権限を持った人が不可欠なのです。
 どんな方針も完全ではあり得ません。メリットデメリットの加減を,エイヤッと決断しないと先には進みません。会長が決断したことなら,組織はそれにしたがって動くことができます。責任は会長が取ってくれるのですから安心です。一方,みんなで決めたということは形式的には素晴らしいことですが,何かトラブルがあった場合に誰も責任を取ることができません。みんなというのは,ある意味で無責任なのです。その緩みがいい加減な組織活動につながっていきます。
 事務局任せにしていると,事務局は責任を回避する安全を最優先にします。それが保守的な活動推進として定着するので,マンネリ化や状況についていけない遅れになります。突き上げられることをおそれるあまり,守りの態勢に入るからです。実のところは,誰も突き上げなどはしないでしょうが。
 もちろん,事務局は運営上の不可欠な部署ですが,それを指揮統括する会長がいればこそ,その職責を十分に全うすることができます。会長が何も指揮せず,任せっきりでは,事務局としても機能しようがありません。ましてや,会長はじめ役員が事務局の職務を突き上げるようなことがあるなら,それは本末転倒であり,会長も事務局も職務の怠慢です。あくまでも会長が承認した事項を事務的に処理するのが事務局の役割であるという共通理解がなければなりません。
 組織運営をするということは,会長が果たさなければならない職務です。それを引き受けるつもりが無いなら会長には就任しないことであり,そのような会長を選べないような組織は意味がありません。形だけで実態のない組織になります。生きた組織に構造改革しませんか?

(2003年04月23日)