*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【公共意識の復権?】


 きっかけがあって,日本国憲法を眺めていると,第12条に目が留まりました。「この憲法が国民に保証する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。又,国民は,これを乱用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。平たく解釈すれば,何をしようと勝手だが,それが社会的に益するものになるようにする責任があるということでしょう。さらに煎じ詰めれば,人に迷惑をかけないかぎり自由である,という庶民感覚に行き着きます。
 ところで,「公共の福祉のために」という言葉が届いていない事例を見受けます。「公共の福祉? それは行政の責任!」。「国民は自由であり,福祉を享受する権利を有するものである」という論陣が登場します。「公共とは皆のものですが,あなたの私物化できるものではない!」。そう言い聞かせる人もいなくなっています。例えば,道路脇の草むらには空き缶やゴミが放り込まれています。公共の道路を私物のゴミ箱と勘違いしています。類することは枚挙に暇がありません。
 そんな恥ずべき事柄が話題に上ると,「規則を作って取り締まるべきだ」という方向に話が進みます。規則がないと取り締まれないという現実が身に浸みているからです。さらには罰則が付随していればもっと効果的です。確かに規則ができれば,抑制行動が発動します。それでは,人は考えなくなります。その結果,すべての事柄に対して規則を作らなければならなくなります。また,監視する体制を築かなければなりません。いっそ厳罰にして見せしめが必要という極論まで飛び出してくるはずです。いたちごっこになります。
 核心と思われることは,公共の概念が希薄になっているということです。公私の別と言いますが,私という意識だけが肥大化し,公は一顧だにされていません。公は行政や企業に押し付け封じ込められ,私人には関係のないものになっています。私であり同時に公であるという個人の意識が未成熟です。「私たち」が公であるという前提が失われています。そうなってきた背景には,家族という意識の枯渇があります。親と子という関係の他に,家族という基本的な社会意識が確信的に育っていません。親は親,子どもは子ども,そこからは私人という気持ちだけが育ち上がります。公とはよそ事であり,私には何の責任もないのです。
 公共とは皆で作り維持し分かち合って享受する領域です。パーキングエリアのゴミ箱に私的ゴミを持ち込んで廃棄する人が後を絶ちません。自分ひとり,ちょっとぐらいはいいだろうという甘えがあります。甘えは子どものときにやり終えておくべきことでしょう。社会的に成長するということは,公人になるということです。
 社会教育の分野では「成人教育」という学習領域がありますが,現状ではほとんど機能していません。児童生徒にはそれなりの教育が行われていますが,中学・高校から大学までの青年期における成人になるための仕上げの教育が皆無です。その結果としての巷間に囁かれている独身アパートの入居者による無軌道振り・迷惑振りからも伺うことができます。公人としての責任あるいは義務というしつけの消滅が,社会生活の基盤を蝕んでいると考えるべきです。
 このような指摘をするだけでは,何の意味もありません。どうすればいいのか,何をすべきなのか,そのような課題に対して実践を生み出すことが不可欠です。生涯学習のテーマとして意識しつつ,啓発の方策を考えなければなりません。説教するという短絡的な手法ではなくて,在るべき姿を知らせる努力が求められます。「あなたの無分別のお陰でこんなに困っている人がいる」,「あなたの気配りでこんなに皆が喜んでいる」,そんな具体的な状況を情報化して発信することもできます。また,「あなたの私的な生活は,身近にいる見ず知らずのたくさんの人に支えられている」という具体的な事例を知らせることもできます。その際に大事なことは,見ず知らずな人があなたのためになることをしてくれているという事実を強調することです。知らない人のお陰を受けているということに気付かない限り,社会感覚が生まれないからです。「それは見知らぬ人の職務に過ぎない」という意識の壁に小さくても穴を開けることが必要です。
 「お陰様で」という言葉がありました。その言葉によって見えない公共に生かされている自分,お互い様の助け合いの社会意識を培ってきました。人の意識は言葉を得ることによって効力を発揮します。お陰様でという言葉を置き忘れたことで,社会意識も置き去りにしたのです。古い言葉が新しい言葉に置き換わることはあり得ることですが,言葉を失うことは精神の萎縮につながります。言葉のルネッサンスか,新語の創造が急務です。前号で,「もったいない」の復活に呼応して,「わざわざ」を思い起こすことを提案したことも,ここでの考察と符合しています。「知り合う」から一歩進んで,わざわざ「助け合う」という段階に至る社会教育が望まれています。
(2006年08月20日)