*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【価値観論争?】

 毎年4月には,教育委員会にその年度の社会教育計画書を提言しています。前年度分から「前文」と「基本方針」の書き換えを行い,重点目標についても小さな修正を 施して社会教育委員の会議に付議しました。5月の教育委員会で協議をされて決し,6月には関係者に配布するという流れになっているので,4月の会議が最終の議論の場になります。そこで,次のような議論がなされました。
 重点目標の中の「成人教育」部門に掲げている短い説明文に,
 「個人の資質を向上し,多様な価値観を尊重し合うことのできる共生社会に向けた学習を活発に実践する○○町になります」
と書いておきました。
 多様な価値観を尊重し・・・という部分が大切であるという感想的意見が出ました。そのことに誘われて「多様な価値観」を尊重してはいけないのではという意見がありました。多様な価値観の中に最近目につくクレーマーも含まれてしまうのではという危惧があり,そもそも価値観とはあれやこれやあるものではなく単一でなければいけないのでは,という主張です。社会教育委員としては,大切な価値観を提示する責任があるのではということです。
 もちろん,多様な価値観の中に悪しき個人主義が紛れ込んでいることは皆が了解をしているのですが,それは特別なものとして,多様な価値観というキーワードが普通に使われている状況も認めざるをえません。思想信条の自由という意味での多様性は尊重されるべきであるという価値を配慮するからです。
 議論を聞いていて,それぞれが「価値観」という言葉に込めているイメージの違いを感じました。会長としてはこのような意見の違いを生じないような文面を書き上げる責務があり,整理をする必要に迫られました。当初の「多様な価値観を尊重し合うことのできる共生社会」という言葉に対しては,個人の持つ価値観が融合して,共生するための価値観ができることを期待するという,価値観の二重構造を想定していました。この二重性が意味の伝達を混乱させた理由だと思われます。有り体に言えば,多様な価値観と表現されている世情を前提として,多様な価値観がぶつかり合い共生の邪魔をしているという現状把握から,共生社会の実現を目指すプロセスによって乱れた価値観?を整理しつつ,本来的な価値観の復活の意図を込めたつもりでした。つもりは伝わらないということを気をつけていたのですが,迂闊でした。
 出直しをするために,辞書を引いてみました。価値観:そのものに,どういう価値(意義)を認めるかについての,それぞれの人の考え方,とありました。価値の選択の仕方と思えばいいようです。さらに言えば,価値の重み,優先順位の付け方が価値観ということです。考え方の違いは学習によって変わります。当然,選ばれる価値も変わるはずです。より広い価値に気づいてもらえれば,よりよい生き方も可能になります。
 議論の混乱は,価値観と価値との混同から生じたようです。以上のような協議と反省を受けて,次のように書き直すことにしました。
    「個人の資質を向上し,多様な考え方を尊重しつつ共生社会に不可欠な価値を共通理解するための学習を広く実践する○○町になります」。

 何となく言いくるめている気がしますが,あまり深みに入らないようにしなければなりません。言葉を深淵に導くと,読む人と乖離するからです。そういうものかという程度の距離感を保つ必要があります。つまり,深い話をしても,準備ができていない人にはついてこれないということです。啓発資料の宿命です。たった一行の文章ですが,会議の中でああでもないこうでもないというすり合わせをすることはいいことです。
(2008年04月30日)