間宮家と申は、甲州武田信玄公の一字を拝領し信高と名乗り、船手海賊の将として、永
 禄八年よりこの所に居住す。その頃は六ヶ村共に武田家の領分なり。東照宮様入国の慶
 長年中より元和元年迄当所に居住す。元和元年海賊残らず江府勤仕仰せ付けられ、江戸
 引越に相成り、間宮家は当所拝領の故に水主三十人残し置くなり。
一、向井将監   中屋敷 今の薬師堂なり
一、向井兵庫       今の最福寺なり
一、小濱民部   光念寺 今の中屋敷なり
一、千賀孫兵衛  本瑞寺 今の光念寺なり
一、間宮造酒之丞     城村なり
 その節迄は最福寺は西の濱、光念寺は上の御堂、圓正寺は東宝万町に御座候。向ヶ崎大
 椿寺は林村より引越なり。
一、間宮家拝領地坪数九百四坪、宜地坪数百七拾弐坪なり。
一、残し給ふ水主連名
 一、向井将監  中屋敷の所    谷口金兵衛
 一、同 兵庫  最福寺の所    吉田戸左衛門
 一、小濱民部  本瑞寺の所    脇谷金左衛門
 一、千賀孫兵衛 光念寺の所    渡辺茂右衛門
 一、間宮寅之助   城むら    湯井平右衛門
                  湯井七兵衛
                  鈴木次郎左衛門
                  塩瀬半右衛門
                  杉山三太夫
                  神戸金左衛門
                  神戸助六
                  佐藤四郎右衛門
                  杉井彦兵衛
                  塩瀬銀右衛門
                  志村勘右衛門
                  志村市右衛門
                  近谷忠兵衛
                  秋山助太夫
                  山口弥左衛門
                  大山金右衛門
                  澤権太夫
                  楠七郎右衛門
                  石井弥之助
                  高松六郎右衛門
                  高松源助
                  高松喜左衛門
                  池田八郎右衛門
                  脇谷忠兵衛
                  関七左衛門
                  吉田平右衛門
                 〆三拾人
 右の通り水主の者当所に居住して魚漁渡世致すなり。城村の儀前々より家居もこれ有り
 候。
一、船大工の初りは、城村源屋九兵衛と申者、舟作り初め候なり。この弟子に山田治左衛
 門と申者これ有り。船大工を職とす。船にかめを張る事は、万治年中山田善左衛門と申
 者初めしなり。城むら、その時分は西之濱と申せしなり。この山田善左衛門城むらに住
 居す。海士船持ちにて、その船にかめをはり候故に、今にかめ田丸と申なり。その後三
 崎にて久左衛門、彦右衛門と申もの両人にて海士船を初めるなり。その後同中之町に太
 郎右衛門と申者海士船を初め、人なきゆへ、原、宮川、向ヶ崎、その外の人を集め乗合
 候ゆへ、この船の名を六ヶ村船と申なり。向ヶ崎市兵衛と申もの、その舟に乗合候得共、
 ある日市兵衛手斧崎と申処へ、所持の畑農業に参り沖へ不参致し候。その日右の海士船
 鰹を釣り候て、壱人前に付き八百文づゝもふけ候。市兵衛は沖へ不参に付き、八百文取
 り申さず候故、その畑を今に八百文畑といふなり。
一、正保年中和泉国より呑海屋長左衛門、星野権兵衛、新明八左衛門と申三人当所へ来り
 住す。延宝二年の頃、新肴場御取り立てに相成り、肴直送り相止め候。天和元年新肴場、
 京梅伝右衛門と申もの城村を請浦にいたし候。その後呑海屋長左衛門、星野権兵衛城村
 を請け、新明八左衛門は西之濱を請け候なり。三崎町にては湯浅与兵衛と申者商内初め
 候なり。又その後米屋彦兵衛、大和屋彦右衛門と申両人、間宮家へ金百両差上げ十年の
 請浦にいたし候。その節三崎町名主は湯浅与兵衛、城むら名主は高松与兵衛両人に候。
 三崎御代官は三留源仁右衛門殿。この時より三崎町高三十石、城ヶ嶋高三十石と定るな
 り。三崎壱割舟初めは湯浅与左衛門、元禄年中に初めなり。同八年退役致し候なり。三
 崎町名主は天野彦右衛門なり。西之町壱割舟は正徳年中、同所中村八兵衛初めなり。城
 むらの壱割は湯浅与兵衛、大和屋彦右衛門両人にて十年季に請るなり。その後城むら壱
 割は、三崎町和泉屋四年請るなり。この訳は城むら高松六郎左衛門へ四年方より金七拾
 両借し候故、右の質物に酒株を取り候得共、右の金子返済申さず候故、年を定めず城む
 らの壱割を四年請け候なり。その後城むらの壱割は呑海屋長左衛門、星野権兵衛両人に
 て請け候なり。その節迄は新肴場へ直送なり。享保十二年十月城むら簀上にて肴売買い
 たし候事始る。これより十分壱を引事も初る。その前も城むら役金の儀は、家別に地代
 金弐分づゝなり。船主のものは大船、小船にかぎらず、船役壱艘に付き壱分づゝなり。
 御地頭所に上納役金二十五両なり。その後同御知行大津村代官倉之助と申者、押送り船
 は壱艘に付き役金壱分弐朱と定め、上納役金三拾四両に定るなり。この内金壱分は塩辛
 代引、五百文餝海老代引。
  〆金三拾三両弐分と鐚六百文なり。
一、城ヶ嶋へ当所より人渡り住居致し候事は、永禄元年なり。

     嘉永六丑年
         二月 これを写す