○上宮田村 元鈴木兵庫知行 大貫次右衛門支配
   高六百拾七石三斗四升五合 戸数弐百三拾戸余
鎮守 諏訪明神
笹塚不動尊 御朱印三石 社司松原石見。
      此尊像御丈二尺八寸座像、安阿弥作
浄土宗 十劫寺 江戸芝西応寺末
   此寺は昔しは真常寺と云。天火にて法堂悉く本尊とも焼失す。元和元年松原氏
  再建し寺号十劫寺と改む。

一向宗 来福寺 京都東本願寺末 元野比最宝寺末
 此寺和田義盛の菩提寺と云。
 同宗 光信寺 来福寺末
浄土宗 正覚院 十劫寺配下
三樹院 本尊三浦札所観音
薬師堂 地蔵尊 別府の宮 根の神
 

○菊名村 松平大和守領
   高弐百石四斗三升弐合 戸数六拾四戸余
鎮守 白山権現 別当修験天台大法院
        小田原玉瀧坊配下
禅宗 法昌寺 沼田海宝院末 此寺正観音像あり。
       海中出現の由 三浦札所也
浄土宗 永楽寺 津久井法蔵院末 此寺に地蔵尊あり。

 此所の濱に琴の音といへる磯あり。此磯海中に在て清水湧出り。昔法昌寺の観音上ら
 せ給ひし所とぞ云。其霊水今に湧出る。
 濱に蛭子の宮あり。
 

○金田村 大津新右衛門知行
   高四百三拾壱石壱斗弐升 戸数百五拾戸余
鎮守 走湯権現社 別當修験天台教法院
         小田原玉瀧坊配下
浄土宗 圓福寺 鎌倉光明寺末  此寺に地蔵尊有

禅宗 福寿寺 塔中南光院
  此寺は三浦平六義村の開基也。守本尊有り。寛政十午年紀州家臣三浦長門守再興也。
   義村法名 南光院殿前駿州大守義天良村大居士 暦仁元戊戌二月五日逝去。

  此地蔵尊は三浦駿河守義村の守護佛也。人皇八十一代安徳天皇壽永の春二月、平家
  の一族追討の為、源家の大将義経に属して三浦党摂州一ノ谷に馳向。鵯越の山路に
  迷ふて道を失ふ。然る処此地蔵尊義村の馬の頭に出現し給ふ。此故に峨々たる嶺を
  越て絶頂に至る。諸軍駿足を並て暫く猶予す。爰に義村の伯父佐原十郎義連に謂て
  曰、日来念じ奉る所の地蔵尊今目前に現じ給ふて、早く此坂を馳下すべしと告給ふ
  とぞ云、義連一諾して真先に馳下すを、続ひて義村及び諸軍須磨の城へ攻入り、千
  門万戸忽ちに烟となし、公候百士海上に漂流す。偏に此地蔵尊の霊徳也。故に此尊
  像を勝軍地蔵尊と称し奉る。義村は勇敢にして福寿延命也。是を以て福寿と号す。
  夫勇敢は陽也。陽は則南方に向ふ。故に義村の法名南光院殿と号す。此寺の本尊は、
  行基の彫刻正観音並恵心僧都の彫刻薬師如来を安置す。

禅宗 清伝寺 本尊観音札所也。鎌倉建長寺末
 

○松輪村 元松平大和守領
   高弐百拾石九斗六升 戸数百戸余
鎮守 神明社 社書抄曰、伊勢大神宮は人皇十一代垂仁天皇丁巳二十六年十月倭姫神託を
  蒙りて天照大神を伊勢国渡会郡宇治の里に移し奉る。今の内宮是也。倭姫は垂仁の皇
  女にして寿命七百余才。人皇二十二代雄略天皇二十二年九月十六日倭姫神託に依て天
  中主の尊を山田の新田に移し奉る。今の外宮是也。内宮より四百十八年後也。
 剱明神の社は大神宮の草薙の剱を祭る。熱田の神を勧請す。

禅宗 福泉寺
観音堂 正観音行基の作 寛永寺。札所也
 

○毘沙門村 元水野右近知行
   高弐百九石四升弐合 戸数七十三戸余
鎮守 毘沙門の社 慈雲寺持
神明社 天王社

堂ヶ島正観音札所也 行基の作。
禅宗 慈雲寺 鎌倉圓覚寺末
同宗 海應寺 同寺末
 

○宮川村 元松平大和守領
   高百四十四石壱升壱合 戸数七十余
鎮守 神明の社
 八景原と云絶景の地あり
 此村の民家に一向宗の開祖親鸞上人の真筆身代の名号とて、帰命盡十方無量光如来の十
 字名号有り。中古此家の妻常に信仰して、昼は賤業をなし夜は名号を薪部屋に掛ヶて拝
 をなし、名号を唱ふ。人目を偲ひて毎夜薪部屋へ通ふ事時久し。亭主是を怪て跡を付て
 伺ひけるに、密に私語声頻也。是正しく密夫を忍せ置しと思ひ、立帰り山刀を携へ行て
 無二無三にさし殺す。妻はアッと一声喚て倒れ伏す。亭主刀をさし通したる儘にて内に
 帰れば、女房は針仕事をして納戸に居れり。亭主不審に思ひ、是狐狸の所為かと疑ひて
 火を灯して薪部屋を見れば、こは如何に。名号の光の字の処に刀を差通してあり。夫よ
 り懺悔して夫婦心を合せ名号を尊ひ敬ひける。夫より遠近老若諸人聞て参詣今に絶ずと
 なり。
 

○向ヶ崎村 元上原新三郎知行
   高五十七石壱斗八升九合 戸数七十戸余
鎮守 諏訪明神
禅宗 大椿寺 京都妙心寺末
       此寺観音有り。運慶作 札所也
  椿の御所、昔し頼朝公椿を植させ給ふ御山荘を建て給ふ故に椿の御所といふ。三崎に
  桜の御所、二町谷の桃の御所皆御遊覧の地也。東鑑に建久五年甲寅八月三崎の津へ渡
  御有りて御山荘を建給ふと見へたり。
 

○三崎村 浦賀奉行所支配
   高四拾弐石弐斗壱升弐合 戸数五百四拾戸余
鎮守 海南明神 神主大井和泉守 下社家小坂因幡
        御朱印五石      大井数馬
  昔此濱へウツロ船にて流れ寄る神あり。村里の者海の藻苅に出て是を取上奉て海難明
  神と崇。此社南へ向ふ故にて後海南明神と改むるといふ。神主大井氏。
  神事毎歳十一月申の日
 此氏子の習にて出居外と云事有り。忌服有時は神事の日一日我家を出て外に在をいふ也。
 古来より仕来りといふ。
 此三崎は郡中の南海へ浮み出ツ。安房国洲の崎東海中に出づ。伊豆の国洲の崎は西海中に
 出づ。三方出崎鼎の三足の如し。因て其三つを取て此処を三崎と云。

 毎年正月十六日百万篇興行す。是は此所の漁士名も知れざる大魚を取帰りて、村中挙て
 魚肉を喰ふ。其夜よりして漁士等病事頻也。時に阿碩和尚来遊して百万篇を施行す。其
 功徳に依て病忽ち平癒す。是を例として毎年興行す。

御船安宅丸の船霊は今西の山といふ所の鎮守に崇む

一向宗 最福寺 京都西本願寺末也
  此寺はむかし桜の御所跡にて、頼朝公磯崎へ出御有りて御遊覧有りし所、山桜の暮を
  惨み給ふ所なりとて今に花暮磯崎といふ所也。

 東鑑に建久五年八月朔日、頼朝公三崎の山荘へ渡御有りて、北條殿父子、上総介、小山
 五郎、三浦平六、佐々木三郎、梶原以下供奉し小笠懸の興あり。射手は下河邊庄司行平、
 小山七郎朝光、和田義盛、八田左衛門友茂、海野小太郎義氏、藤澤二郎清近、梶原景季、
 愛甲三郎季隆、榛谷四郎重朝、橘次公成、里見冠者義成、加々美次郎長清射之。

宝蔵山の御所 此山は其後北條新九郎入道早雲の城有し故北条山と云
  御台所、若君を伴しめ給ふ。三浦介義澄珍膳美を尽して経営すと云。誠に此処は眺望
  無双の景地也。
 同六年正月二十五日、頼朝公御船にて三崎へ出御、同二十七日還御。
 春は桜の花咲乱れ、磯山景色御遊覧として頼朝公、頼家公正治元年迄度々渡御し給ふ。
 建暦二年三月九日、実朝将軍御台所伴しめ三崎へ渡御。
 寛喜元年四月十七日、頼経将軍磯山御遊覧として相州、武州始め御供には駿河前司
 義村領主として御案内申さる。将軍家は御船に召れて管弦有。

 北条五代記に永禄八年北条氏康三崎御見物として浦々より引船数千艘催して、氏康氏政
 御船にて御出と有り。同記天正四年三官と云唐人、北條氏政虎の印を頂戴して同六年寅
 七月黒船三崎の津へ着岸す。検使として小田原より安藤豊前守参て改之と有。
北條山は新九郎入道早雲の持城にして、北條美濃守氏親居城す。永正十四年より天正十八
 年迄七十五ヶ年、北條五代相統す。
 弘治二年小田原より番兵として船大将梶原備前守、其外梶原兵衛少輔、北見刑部丞、山
 本信濃守、古尾谷中務少輔、三浦五郎左衛門、三富源左衛門等相守るの処、同年安房国
 より里見義堯の養息左馬頭義弘を大将として、兵船八十余艘に取乗高野嶋より纜を解て
 押渡し、城ヶ嶋へ陣を取る。此由小田原に告知せければ、加勢として富永四郎左衛門、
 山角紀伊守、横井越前守馳来り里見家と戦ふ。其日里見家利運なりけるが、軍は翌日
 と相定め互に引取ける。其夜大風雨にて寄手の兵船吹流れ再び戦事能わず。安房国へ引
 取ける。

海南明神
  貞観六年九州探題藤原資盈、惟高惟仁位を争ひ、伴大納言の為に左遷せられ、主従五
  拾四人船七艘にて霜月朔日此所に着船す。海上より梶取楫を投けるに此所に止る。依
  て鎮座し給ふ。故に山号を楫谷山と云。楫取を楫三郎と祭て城ヶ嶋にあり。御嫡子の
  船は安房の国へ着。鉈切明神と崇む。城ヶ嶋洲の崎の御前の宮は其時の水主を祭ると
  云。
  海南明神の神領は三浦平太郎為次寄付す。建久三年三浦平六兵衛義村修覆あり。霜月
  朔日遷宮。永保九年七月二十一日兵火の為に焼失す。其時宝物等悉く焼失す。

北條山の麓は氏康次男美濃守住居の後は、向井将監の屋敷にして、其後は代々御奉行屋敷
  なり。
小濱屋敷 是は小田原北條家の内南條因幡守住す。後には小濱民部此所に住居す。故に小
  濱屋敷といふ。今本瑞寺境内。
千賀屋敷 是は北條家の内梶原民部少輔住居、後に千賀孫兵衛住居す。依て千賀屋敷と云。
  今能救寺境内。
兵庫屋敷 是は向井兵庫助住居也。

 天正十八年、太閤秀吉公の時九鬼大隅守大将として此城へ攻寄る。北條の城此時落城す
 と北條記に見へたり。

三崎御船奉行
  向井兵庫、千賀孫兵衛、間宮虎之助、小濱民部相勤む。
海関の跡 源家光公の御代、此所へ海関建給ふ。元禄四未年豆州下田へ引る。此時は與力
  五騎、同心三十人宛。

禅宗 本瑞寺 上総国久留里圓覚寺末。
       荒次郎守本尊の地蔵菩薩あり
  此寺網代道寸の息荒次郎義意左の位牌あり。
   法名 大龍院殿玄心安公大禅定門
浄土宗 光念寺 鎌倉光明寺末
一向宗 圓照寺 京都東本願寺末
         親鸞上人の十字の名号あり
同宗  浄称寺
 

○城村 間宮造酒丞拝領地
   高三石壱斗三升余
修験真言 城法院 浦賀永神寺配下
鎮守 住吉社
観音堂 十一面観音 恵心作 札所也
 

○中町岡 松平大和守領
   高四拾七石六升余
観音堂 正観音 聖徳太子の作 三浦札所也
 

城ヶ島 浦賀奉行支配
   高三拾三石五斗 戸数六十九戸余
 此嶋の長さ拾四丁余、此嶋の海士海底を潜りて鮑を取て作業とす。是を蜑と云。又泉郎
 と云。昔し尉といふ者住故に尉ヶ嶋と云しを頼朝公城ヶ島に改め給ふ。

 海南勧請の宮 楫の三郎宮 洲の崎御前宮

遊ヶ崎 是は頼朝公御遊覧の地也。故に遊ヶ崎といふ。
 笠ヶ嶋 釜嶋 千鳥嶋 平嶋 赤羽根嶋 蛇嶋、江の子嶋 養老 水垂

一向宗 常光寺 三崎最福寺末  里見義弘屯の跡

 諸国廻船目当の燈明あり。享保六丑年より篝に成る。御代官掛り。

 安房崎むかし狼煙屋あり。
棍柏 此昔頼朝公御遊覧の時御箸を指し給ふ木也。
 

○東岡村 近藤吉左衛門知行所
   高百拾八石九斗弐升六合 戸数弐拾五戸余
馬宮山
 

○二町谷村 上原新三郎知行
   高百六拾六石弐升六合 戸数七十戸
一向宗 真福寺 京都東本願寺末
 同宗 長善寺 同前
禅宗  見桃寺 京都妙心寺末 本尊地蔵尊なり
  此昔し桃林有りて、頼朝公御遊覧の地也。此寺向井将監此所を知行せし時菩提寺也。
日蓮宗 大乗寺 金谷村大明寺末
 

○原村 稲垣内記知行 松平大和守領
   高百五拾七石三升九合 戸数三十戸余
鎮守 海南寺 三崎にあり
観音堂 如意輪観音、恵心作 三浦札所なり

身生寺地蔵 是を身代地蔵と云。永正年中に北條早雲と網代道寸と合戦の時、兵壱人此所
  に遁来て地蔵堂に隠れけるに、追手の兵尋来て是を探し出して忽ち首を刎て帰る。隠
  たる兵は人声止ける故、堂の下より地蔵菩薩を念じながら這出て見るに、地蔵菩薩の
  御首切落して有しかば、信心肝に銘じて剃髪して地蔵坊身七と云。
 

○諸磯村 大貫治左衛門支配 大津新右衛門知行
   高百七拾六石四斗九升四合 戸数七十戸余
鎮守 神明宮 別當修験天台光宝院 玉瀧坊配下
観音堂 正観音、恵心作 札所也
 

○網代村 松平三七郎知行所
   高三百七拾七石七斗五升四合余 戸数九拾戸余
鎮守 白髭明神 別當修験真言妙法院 永神寺配下
  此社の下に奇石あり。其色玉の如く、小石を以て叩く時は金声を発す

禅宗 海蔵寺 沼間村海宝院末
       此寺の本尊十一面観音行基作 札所也
同宗 永昌寺 此寺三浦道寸入道の菩提寺也

油壺の湊 千駄洞 是は道寸の兵粮入なり
引橋   鐘楼台 合図の鐘を撞し所なり
陣場ヶ原 北條早雲の陣取し所と云

網代新井の古城跡 此城跡の出崎に三浦陸奥守道寸入道義同の塚、子息荒次郎弾正少弼義
  意の塚あり
 文亀九年八月十三日相州岡崎の城北條早雲に攻落さる。永正九年八月十三日三浦郡小
 壺住吉城北條早雲攻落。永正十五寅七月十一日網代新井城滅亡。
 此新井の城と云は、西南北の三方を白波立て岸を洗ひ、山高く巌嶮阻にして鳥ならで翔
 り難く、城の廣さは三十丁四方、東一方は纔に平地続き是に堀を深くし引橋を掛て、此
 橋を引時は何万騎の軍兵にて攻る共、容易に落べき要害に非ず。

 北條五代記に相模国岡崎の城主三浦陸奥守平義同入道道寸は文武二道の名将也。子息荒
 次郎弾正少弼義意を三浦新井の城に籠置て、其身は岡崎の城に居住し管領の命に随ひ、
 相州中郡を領し勢ひ遠近に双なし。此岡崎の城は頼朝公の御時、三浦大介義明弟悪四郎
 義実の居城也。三浦の一門数代の住所にして堅固の要地なり。子息荒次郎は上総国の守
 護真里谷三河守の聟にて、隣交の盟ひ厚して相模国は申に及ばず、武蔵国の兵迄来り伏
 す。爰に小田原北條早雲何とぞ道寸を亡して相模国を平均せばやと思ひ、文亀九年八月
 十三日大軍を催し岡崎城へ押寄しかば、城中より三浦、和田、大森の面々各切て出、敵
 味方の鯨波大山も崩るゝ如く響渡り、三鱗と中白の旗と入交て、十文字に破り通り巴の
 字に追廻し、東西南北馳違て命を惜まず戦ひしが、運命斯に尽たりけん。さしも大剛の
 三浦勢散々に打破られ、一二の木戸も攻落されて詰の城に籠りける。道寸も自害せんと
 する処に、家の子郎等走り寄、一先此城を落て重ねて兵を催し、此無念を晴し給へと諫
 ける故、搦手より忍出て、三浦小壺の住吉の城へ落行。再び軍兵を催し合戦に及ぶと
 云へども、一陣破て残党全からずの習なれば道寸終に討負て、永正九年八月十三日住吉
 の城も攻落され、秋谷の大崩にて支たり。此大崩と申は高山崩て海に入り、片岸道有り
 て一騎打の場所也。されば幾万騎にて向ふ共防ぐに便り有り。然れ共早雲大軍を率し間
 道を越て散々に攻破る。道寸叶はずして網代新井城へ引籠り堅固に城を守り居ける。早
 雲三ヶ年の間攻けれ共要害能れば落難く、是非なく三崎宝蔵山へ向城を築て通路を取切
 攻ける故、是より城兵難義に及びける。
 此時江戸城主上杉修理大夫朝興久しく道寸寄手に苦しめらるるよしを聞て、後詰して
 追佛んと五千騎を引率して相州中郡に旗を靡せし所に、北條早雲此由を聞て八千余騎を
 中郡へ押出し、卯の刻より未の刻迄戦しかば、朝興の軍勢大半討れ右往左往に遁れ帰る。
 新井城中には兵粮尽て後詰の援兵を頼みに思ひしに、上杉勢打負て引帰るのよしを聞て、
 城中の者は力を落し、北條方には最早恐るゝ敵あらじと数万騎の軍兵を以て新井城に押
 掛り、逆茂木を引のけ木戸を破て攻入ける。大森越前守、佐保田河内守大手の木戸を固
 め居けるが、道寸入道の前に至りて申けるは、上杉家の後詰は敵に討れし故敵は益々勝
 に乗り、味方は力労れぬれば最早此城も保難し、一先城を落上総国へ渡り、荒次郎殿舅
 なれば真里谷を御頼み有て、重て軍勢を催し此城を取返し給ふ策を廻らし給ふべしと勧
 めければ、道寸答て曰、当家は三浦大介義明より源家累代の重臣也故に、此所に主とな
 り一門大名九十三人の門葉五百人に余れり。十一代の後胤三浦介時高に至て、関東武
 士を語らひ公方持氏に叛て御所を放火す。此時時高も大名となる。我は上杉高救の男に
 して三浦時高の養子なり。継母に男子ありて其子を世に立んと斗て我を害せんとす。依
 て小田原総世寺に行、出家して道寸と云。然所老臣等来て我を進る故、明応三年九月二
 十三日夜、養父時高を殺害して此城を奪ふ。養父は公方持氏公を亡したる罪によって天
 命尽て我に亡され、我は養父を討たる罪に依て天の助なし。仮令此城を落たれば迚運傾
 て天命遁難し。此道理を弁ず不覚して人手に掛り犬死せんよりは、此城を枕とし花々敷
 討死せんと思ふ也。命を助らんと思ふ者は勝手次第に落行べし。我且て恨み思わずと申
 されば、大森、佐保田も詮方なく、然ば最期の御盃を玉はり冥途黄泉の御先立仕べしと
 て、主従百余人の人々終夜酒宴し浮世の名残をおしみける。荒次郎扇を開て
   君の世は千代も八千代もよしやよし 幻の中夢のたはむれ
 と押返し舞ける。実に哀れを催したる舞の袖かなと互に面を見合て皆泪をぞ浮めける。
 人々数盃を傾れば早夜も東雲と明渡り物凄くこそ見へにけり。早北條の軍勢一度にどっ
 と鯨波を作り木戸、逆茂木を押破り曳々声にて攻入ける。城中の者共大手の門を押開
 き切先揃て切て出、竪横無尽に追まくりければ、先陣の五百余騎追まくられて引退く。
 早雲下知して新手を入替入替攻立る。城兵必死の鉾先なれば、寄手の兵四角八方へ打立
 られ、馬の足を立兼たり。爰に北條家より唐綾威の鎧に三枚兜の緒をしめ長刀かいこみ
 神谷雅楽頭知重と名乗て真一文字に押寄て、道寸と押並て無手と組。道寸は聞ゆる大力
 なれば物共せず優さ敷若者哉我手に掛り冥途黄泉の供をさすべしと綿かみ掴かんで手に
 提け鞍の前輪に押付、首捻切て捨られたり。子息荒次郎は世に八十人力と聞へし若者、
 身の丈七尺五寸筋骨太く逞しく、其出立厚さ弐分鍛の鎧を着し、龍頭の兜、月毛の駒に
 覆輪の鞍置てゆらりと打乗り、五尺八寸正宗の刀を抜かざし寄手の真中へ喚て馳入、敵
 を撰ばず切て廻る。此勢ひに辟易して三丁斗も引退く。寄手の手負死人道路に充満す。
 此間に道寸城に引入て常に好るゝ道とて和歌一首詠せらる。
   討つものも討るるものも土器よ 砕てのちはもとのつちくれ
 と時世を残して六十一歳を一期として文廣和尚取建の小庵の辺にて腹十文字に掻切て果
 られければ、荒次郎も今は心安しと、頓て追付奉らんとて只一人突立上り、一丈弐尺の
 棒八角に削り筋金を渡し末にいぼを植たる手比の棒を引堤、門外にゆるぎ出たる有様、
 眼は血を濯ぎ髪は左右に振乱し、生年二十一歳さしも勇気の骨柄にて大音に呼りけるは
 如何に。寄手の者共最早城中には皆自害して味方一人もなし、我只一人残りたり。立寄
 て生捕高名せよと天地に響く大音にて呼りけり。其勢ひに恐れけん寄手は皆相立て進む
 者一人もなかりける。荒次郎彼棒を打振て敵中へ馳入薙て廻る。其棒に五人三人宛薙倒
 しける故、寄手蜘の子の散如く逃退く。其隙に荒次郎城中に立帰り、鎧脱捨て押肌脱、
 我手に首を掻落してぞ死にたりける。此首小田原へ飛行て北條家の松の枝に掛り、血
 眼を見開き三年迄白眼詰て居たりける。依て総世寺和尚彼首に向て一首をつらねらる。
   現とも夢とも知らぬ一睡り うき世の隙をあけほのゝそら
 と詠じ回向せられければ、其首眼を閉白骨と成にけり。此首を祭りて一社を建て威髪大
 明神と崇となり。

 三浦大介七男           義連三男
  義連 佐原十郎           盛連 従五位下遠江守
 盛連五男
  盛時 母は矢部の禅尼、北条時頼の時三浦泰村叛に依て滅亡す。盛連の子三人は幕下
     に参る。武功に依て盛時へ三浦介を賜る
 盛時二男             嫡男
  頼盛 三浦次郎左衛門        時明 三浦上総介
     従五位下              法名道朝
 時明四男             嫡男
  時継 三浦太郎兵衛         高継 三浦太郎
     相模次郎に組で討れる        法名法紹
 嫡男               嫡男
  高通 左衛門尉           高連 左衛門尉
     従五位下
 嫡男               高明二男
  高明 三浦左衛門尉         時高 三浦介、永享十年
                       法名一紹 関東武士持氏公に
                            背、鎌倉を放火す
  高救 三浦弾正少弼、実は上杉持朝二男三浦を継。後上杉に帰り房州正木に住す。
     在名を以て子孫家号とす。
  義同 三浦陸奥守道寸      義意 三浦荒次郎従五位
     従五位下            下弾正少弼
 義意六代孫
  為春 天正十八年寅関東乱に没収。東照宮三浦武勇を称し給ひ、公命に依て三浦長門
     守と号す。紀州頼宣卿に附られ一万五千石を領す。
 三浦長門守五代孫
  為積 犬之助、任長門守。寛政十年、先祖廟参として大矢部満昌寺へ参詣す。

 大森、佐保田並びに其子弐人が切腹したる所を今四人塚と云。

 道寸の城跡百間余の間、今に至る迄草も刈らず田畑にもせず。毎年七月十一日には此所
 陰風起り瓢風烈しと云。
 

○三戸村 元水野右近知行
   高三百六拾四石壱斗九升 戸数百戸余
鎮守 諏訪明神 
  此社前の濱に九尺四方も有る大石あり

浄土宗 霊川寺 津久井法蔵院末
一向宗 宝徳寺 野比村最宝寺末
浄土宗 光照寺 鎌倉光明寺末
同宗  福泉寺 同上
 和田家の余類進藤隼人の末孫此村に有り。此隼人は建暦和田の乱に鎌倉にて討死せりと
 て墓鎌倉光明寺にあり。
 

○下宮田村 水野右近知行 鈴木兵庫知行 
      稲垣籐四郎知行
   高六百三十石余 戸数百三十戸余
鎮守 若宮明神 毎年八月十五日神事相撲あり
飯盛乳母神 此社の森海上へ見ゆる。廻船小船も目当になる森なり。

真言宗 妙音寺 逗子村延命寺末
  此寺網代道寸乗鞍あり、並びに道寸入道彫刻の爼不
  動則不動の後に爼の如く足あり。
同宗  安楽寺 妙音寺末

宮田太郎舘跡 今元屋敷と云。宮田太郎は佐原時連の子
  孫なり 元屋敷に龍山寺云虚無僧寺あり

日蓮宗 実相寺 同宗 延寿寺 二ヶ寺鎌倉大覚寺末
 

○入江新田 松平大和守領
   高弐拾四石壱斗八升
 

○和田村 元御代官支配 
   高三百七十五石九斗六合
     元上原新三郎知行 
   高六拾七石九斗四升五合 竹下村
     元本多三次郎知行 
   高三百九拾九石弐斗壱升五合 赤羽根
             戸数百五十戸余
白旗明神社 是は和田義盛の氏神也
修験真言 一宝院 永神寺末
浄土宗  天養院 鎌倉光明寺末
日蓮宗  大泉寺
毘沙門堂 天養院相郡中四毘沙門なり
 薬師堂 安楽寺

矢矯 是は和田義盛の馬場跡
空池 和田古城の堀跡
大手橋今は小橋也。

 義宗嫡男
  義盛 和田小太郎従五位下弁左衛門尉。武功に依て侍所の別当となる。相州の内一万
     七千丁を領す。十七万石のこと也
 同二男             同三男
  義茂 小次郎。千八百町を領す。 宗實 小三郎
     一万八千石なり。
 同四男             同五男
  義胤 小四郎          義長 小五郎
 義盛嫡男
  常盛 和田新左衛門。和田合戦に破れし時甲斐国に落行、坂東山にて自害す。
 二男
  義氏 和田次郎。和田合戦の時義盛と一所に討死す。
 同三男
  義秀 母は巴、木曽討死の後和田に嫁す。朝比奈を産む。義秀力量万人に勝れ、和田
     合戦の時御所の総門破る。軍破て後船に乗て安房へ渡り、浪々して越前若林に
     住し、後高麗へ渡るといふ。
 四男              五男
  義直 金窪四郎左衛門      義重 和田五郎兵衛
     父と共に討死す         父と共に討死す
     義盛の愛子也
 六男              七男
  義信 同六郎兵衛父と      秀盛 和田七郎父と
     共に討死す           共に討死す
 八男
  義国 和田八郎父と共に討死す。

 常盛嫡男
  朝盛 和田新兵衛、将軍実朝の愛臣也。和田合戦の時、将軍に向ひ弓を引事を歎き、
     出家して実阿弥と号し京都をさして登りけるを、祖父義盛怒りて四郎義直に下
     知し手越の駅より引返す。 軍破れて祖父を始め一族悉く討死の後、将軍家に
     謁し父が企逆意ならざる旨申達し、御免を蒙り親族の菩提を弔ひける。
 義盛弟義長男
  胤長 荏柄平太、鎌倉荏柄天神前に屋敷あり。故にえがらと云。建仁三年六月朔日伊
     豆国伊藤ヶ崎に大なる洞穴あり。其深き事不知。頼家将軍怪み給ひ、胤長に命
     じて見せしめ給ふ。巳の刻に彼穴に入、酉の刻に出て云、此洞入事数里暗して
     日光を見ず。爰に二ッの大蛇を見る。郎等一人絶死す。胤長刀を抜て斬殺すと
     云。
 東鑑に健保元年正月、執権北条義時諸大名依怙あるの聞へあり。是に依て信濃国の住人
 和泉小次郎親平憤りて、三浦等の大名を語らひ、尾張中務の幼君を大将軍に致さんと企
 てける。同年二月十五日密使を勤ける安念坊と云者、千葉介に生捕れて義時に渡さる。
 白状に依て荏柄の平太も同類の聞へあり。由利八郎に命じて胤長を生捕る。和田義盛
 同三月九日一族を引率して御所に参り、胤長御免下さるべき由願ふ。義時の曰、胤長は
 今度企の張本なりとて山城判官の手に渡し、一族の座前を緬縛の儘引渡す。同十七日胤
 長を奥州岩瀬郡に配流せらる。健保元年四月九日配所にて誅せらる。

  此胤長の荏柄の屋敷地を将軍へ願て義盛拝領し、是にて少し憤りを散しける処に、北條
 義時是を猜で尼御台所へ申立、郎等数多遣し義盛の代官久野谷の次郎を追出し、荏柄の
 屋敷を取上しとなり。是より義盛忿怒頻にして、北條一類を亡し此恨を晴さんと企有と
 聞へければ、将軍驚給ひ、同二十七日御使として宮内兵衛尉公氏、和田の舘へ参て子細
 尋らるる由を申されければ、義盛答て曰、上に於ては全く恨に不存、唯北條の所為傍若
 無人の間子細を尋ん為近日発向すべきのよし若輩等群議せしむ。義盛度々諫ると云へど
 も一切不用。故無拠同心なし乎ぬ。此上は力に及び不申と答らるるなり。爰に三浦平六
 兵衛義村兄弟は始め義盛と一諾して同心の起證文を出すと云へ共、忽ち変心して今親族
 の勧めに依て、累代の主君を射奉る時は天の譴遁るべからず、早く先非を改て内議の趣
 を告知らせ申べしとて、直に北條の舘へ参りて告申れけるに依て、尼御台所並御台所
 営中を去て鶴ヶ岡別当坊へ入給ふ。

 同日申の刻に和田義盛、嫡男常盛を始として三浦の一党縁族等東西に起り、将軍家の
 幕下を襲い、目指す所は北條義時也。将軍家を救ひ奉れと軍勢三手に分ち幕府を囲み攻
 戦ふ。相模修理介泰時大将として、同次郎朝時、上総三郎義氏等防戦す。然る処朝夷奈
 三郎義秀惣門を破り南庭に乱れ入、御所に火を放ちて室屋一宇も不残焼亡す。依て将軍
 家法華堂に入御し給ふ。大官令、義時も御供に候せらるる。此間排戦、就中朝夷名猛威
 を振ひ壮力を顕す。敵する者は死をまぬがれず。五十嵐小豊治、葛貫三郎、新野左近、
 礼羽蓮乗以下義秀の為に害せらる。

 此時在鎌倉の諸大名、近隣の御家人等追々幕府の御陣へ馳加て大軍と成り、入替り入替
 り攻戦ひしかば、三浦一党は入替なく次第次第に亡びければ、今は是迄なりと大軍の中
 へ割て入、爰を最期と相戦ふ。和田義盛は江戸左衛門尉義範が郎等に討る(六十七才)。
 和田四郎左衛門義直は伊具馬太郎盛重に討る(三十七歳)。同五郎兵衛義重三十四歳、
 同六郎兵衛義信二十八歳、同七郎秀盛以下七人の者は囚人となって誅せらる。朝夷名義
 秀は乗船して安房の国へ渡り、嫡男常盛、古郡保忠は戦場を遁れ甲斐の国坂東山に遁れ
 自害す。和田朝盛入道我望にて出家して、将軍家御免を蒙り、討死せし一族の菩提を弔
 へける。此時和田一門滅亡に及びける。

 此度軍功のものへ賞として和田の一族闕所の地を配分し下さる中に、北条泰時一人踏み
 止りて苦戦したる功として奥州園田の庄を給りしかば、一旦御請して御朱印を返す。依
 て泰時を召て御尋有。泰時の曰、此度の動乱義盛全く将軍家を恨み奉ての争に非ず。父
 義時の阿党を悪みての事也。某迚も父子の間に候ずば品に因り義盛に一味仕るべし。唯
 眼前に父を討せん事のせつなさに粉骨を尽し防戦仕候。是父の為にして少も君の御為に
 忠義を尽せし事に非ず。何の忠有て恩賞を請奉らんや。依て返上仕候。願ば某へ給はる
 地を以て、此度亡びし輩の怨恨を宥弔料となし下さらば、莫大の御仁恵に候と落涙して
 願ひける。依て亡士の弔泰時の心次第と御出さる。
 

○高円坊村 元鈴木兵庫知行
   高弐百拾八石弐斗七升 戸数八十戸余

鎮守 山王権現 別当修験真言大法院
        東浦賀永神寺配下
 大神宮 勧請社  稲荷社

一向宗 五却寺 本尊弥陀 札所也
        上宮田 来福寺持也