二十三日、浦賀を立て三崎に出る。此日四ッ時過よりそほあめふりて衣の袖打しほれ、
菰を身にまとふて行儘に、此間も五里の程曽て食類なし。いふせき民の小屋に立寄りて炉
辺を取巻き、飯杯焚せ、豆腐煮て各是を喰ふ。会津盆の白く禿たるに日野の壺皿、杉箸は
不動の顔よりも黒し。されはきのふ迄は浦賀に有て美食に飽、けふはあやしき賤か家に漸
く膝を入て餓を凌く。されとも昔より旅は憂事有をもって風雅の花とす。西行、宗祇か見
残の糟を喰って東西に遊ふも又俳諧の情也。是より腹はみてりといへとも、雨の次第に強
く、ぬるゝものとは兼て知りなから道辷りてしばしば転ひ、かろふして漸く三崎の浦へ黄
昏に着き、相馬屋仙右衛門と云ものゝ方に落着て、ぬれたる衣を干杯して盃を取れは、当
浦の里正伝右衛門杯旅館迄見廻て旅の労れを慰、是は辻何某方より添翰を送りし故とそ思
はるゝ。
  彊域
  相州三浦郡二万三千五十八石、村里七拾三出戸有。三
  崎郡、村名十四出戸有。三崎或は御前とも作る。

 風土記に曰、あしからのさかみにゆきし玉かかみ、と云歌より唱しとかや。此浦の風景、
浦より尤見所多し。府治御番所は慶安元年より此所に置、元禄九年、同郡浦賀の湊に移せ
り。官舎宝蔵寺山の下にあり、享保六年に是を置。官船下田丸、千里丸、日吉丸なと。御
船蔵有、御塩硝庫は其半腹に有り。湊は年々風浪砂石を送り来り、海やゝ浅し。家数六百
軒余、町数凡二十余町。城か島は海上四町に有。元尉か島、往昔鎌倉右幕下遊覧の地也。
家数八十有余、皆漁を業とす。東西二十四町、南北広処十町程。此島は千鳥に似たる風姿
有と云。昔和田、畠山、三浦、北条、梶原なと桜をうつし植て、花のさかりは白浪に映し
て日の暮るを知らす。我輩の覇旅せし所を花暮町と云、今名而己残れり。一層高き所篝台
有、一夜に大才の古木百二十把つゝ当之。其脇に遠見番所有。楫谷山は家司三郎か旧跡也。
宝蔵寺山は三代の覇王遊覧の旧地、尤奇樹多し。鰹木山、栗餅山は栗餅三郎兵衛の旧地、
桃桜椿白く、槙松多し。石には鈴石、力石、此浦の土産第一松魚也。されはつれつれ草に、
松魚と云る毒魚有と書れしか、覇王房鶴崎八幡へ参詣の時、漁人初て松魚を献すと有。し
かれは此魚の有事久し。同決明、栄螺、一種左巻のさゝゐ、鰹節、以上是を貢物とす。神
廟は海南の社、三浦郡の惣社、楫谷山に鎮座、崇神、天児屋根命、其外小社三十余社有。
仏刹は無量寿院光念寺、和田左衛門尉義盛の墓あり。見桃寺には向井将監忠勝の碑有、読
て見るに、摂泉慶元の役に武士を上られし事を記せり。向井氏代々の墓有。凡十余ヶ寺、
城むらには小浜民部、千賀孫兵衛、間宮造酒之丞等の屋敷跡有。新井は三浦家の古城、城
山は頼朝の山荘、橋は一貫はし、筑摩橋は鍋町に有。君かかつかん鍋の数見んと云心より
号してや。清液には桜井、扇井、浦島井、宝蔵山の井、雀の井有。藻汐たく海士のぬれ衣、
往かふ舟の真帆。洲崎すたく鴎の声、万里の風光眸を裂。

 三浦は北より南へうき出たり、又房州洲の島は東より西 へ出たり。上総、下総、武蔵
五ヶ国の入海也。又伊豆国 河奈崎は西より東、三浦か崎へ出向ふ、此渡り十八里也。内
海の浦つゝき、小田原、鎌倉有。みつの島大海原に出向ふて、鼎三足の如く、然るに三浦
か崎は三国の内にして南へ出たる故、中を正として三崎と号す。

当所の里正伝右衛門か父市明か編たる三崎史と云史有。渠か発句に、
  欄干の闇に登るや梅の花、
と云句予か目にとまれり。独り灯の下にむかいて、夜の更る迄是を見るに、能古をふみ、
深く風雅に心をゆたねしと見へていとやさし。
 三崎にて
  海も山も煙りに霞篝かな   春江
  朧夜の海の研出す篝かな   鷺橋
  島山や目にはきぬ地の薄霞  白英

 二十四日、三崎を出てあしろと云所へ至る。三浦の道寸か古城を見るに、海中へ出たる
所也。右は網代、左は油壺と云左右入海也。岸高くそはたてり。遙に見るに、碧漂藍の如
く物凄し。一層高き右の松山に道寸か碑有。銘曰、正四位下陸奥守義同公大禅定門、永正
十年寅秋七月十一日討死。辞世曰、
  うつものもうたるゝものも土器よ くたけて後は元の土くれ
 継子荒次郎か墳墓は一町程手前に有。法名は大竜院、同月同日の討死。城地の堅固を見
るに三方は白波岸をそゝき、他一方平地にして、入口の左右に大門土台の跡有。東西に一
筋のから掘有て登る事五六歩、其内平地にして中に孤松有。凡東西二町余、南北一町余り、
されは義臣すくって此城に籠り、数代の功名一時の叢と成。山河破て国全からす、英雄去
て魂更に不返。松樹風すさましうして波涛空しく巌を洗ふ。うたゝ感慨の情を起してそゝ
ろに涙落る。此時予矢立をいたして
  砕ても名をはよこさぬ玉椿  白英
 弁天の岩屋、やくら杯は見残し帰りぬ。道寸剣術を学ひし所也と云。此国の片言に、石
洞をやくらと云、磯を根と云。或書には、永正十年八月三日、早雲の為に三浦討死と有。
碑は近世三浦氏族建之。此日は漸三里計来て上宮田と云所の農家に舎る。此夜雪降。