三浦三崎
 三浦三崎は東京湾口第一の風景なり。其地逗子停車場を距ること五里余、前に尉が島あ
り、後ろに宝蔵山あり。夏涼しく冬暖かに、最も肺病患者等の療養に適す。先年故山田伯
が永く此に病を養ひ遂に其地に別荘を設られたり。今此巻の口畫に掲げし眞景は尉が島よ
り三崎市街並に宝蔵山を望む図にて漣猗一帯遙に人家の櫛比するを見るは三崎市街なり。
其左の欝然として高く双峰の如く屹立するは宝蔵山なり。頼朝公が遊覧の跡ほどありて此
辺の眺望言語に絶す。眼界のある処を知らんと欲せば桜の御所の初め楽岩寺父子遊覧の條
を看よ。彼辺の記事は多く実景なり。三崎の人家多く釣漁を業とす。是全国に比類無き漁
場にて漁家数千戸一人の網を用ゆるもの無し。寸余の魚も尋大の鮪も皆な釣りて漁するな
り。故に釣魚法の開けたること関東第一と称す。昔は此地より将軍家御料の魚を献上せし
ほどありて此地の魚、味最も美なり。魚の価格日本橋に於て第一の位に居る。

 桜の御所の旧跡
 桜の御所の旧跡は宝蔵山にあり。宝蔵山とは古名なり。今北條山と称す。蓋し北條早雲
が此に陣営を構へしより斯く名づけたり。別に城山又は陣屋山とも云ふ。山上に本瑞寺あ
り。是れ桜の御所の在りし所にて其四囲の山林今帝室御料林たり。林中古桜二三株幹根蟠
崛して一山の春を占む。之に続ける旧向井将監邸にも古桜数種あり。樹下の古井を桜井戸
と称す。七百年前の旧跡、就て看れば昔を忍ばるゝ心地すれども近頃此地の人桜の御所処
在地なる御料林の払下を願て畑に変ぜんと企つるものあり。可惜旧跡、鋤犁の為に毀たる
ゝは遺憾ならずや。何とかして保存の道を立たきものなり。
 本瑞寺は三浦荒次郎義意の開基なり。寺内に荒次郎の位牌あり。
   法名大蔵院殿玄心安公大禅門。

 桃の御所椿の御所
 此二者も頼朝が起せし所にて桃の御所は今の見桃寺の境内に属す。見桃寺桃に因みある
こと読で字の如し。
 椿の御所宝蔵山の東向が崎と云う所に在り。今其地に大椿寺あり。寺内尚ほ二三株の白
椿を存す。何れも古木にて昔の名残なりとかや。
 桜の御所桃の御所及び椿の御所を三浦三崎の三御所と云ふ。其事楽岩寺種久が早雲に物
語りし如し。向が崎より東に突出したるを剱崎となす。又松輪の岬とも云ふ。荒次郎が小
桜に物語りし星見の池は今も其西崕にあり。深淵水碧き所赤鯛黒鯛等の遊泳するを見る。

 尉が島
 周囲一里余の小島あり。尉が島は古名にて今城が島と書す。里見義弘が此に砦を構へし
より斯く唱ふると云ふ。島内今も当時の残趾を存す。島の形日本全島に似て横に長し故に
孫日本とも称す。城が島明神は其北面三崎に向たる処に在り。亀の子岩は其東の水中にあ
り。明神の在る処と亀の子岩との間に島の突出したる処を遊が崎と呼び、其上に三留実右
衛門の古墳あり。墳上一株の松を存す。土人之を実右衛門松と称す。城が島の人口八十余、
多く潜水を業とし鮑螺を撈す。此辺の海浜にて潜水を為すものは皆な此島の産にて江の島
鎌倉辺より浦賀横須賀に至るまで水中の沈没物などを引上げんとする時は必ず此島の潜水
者を雇ふ。蓋し潜水者の本場なり。島の西端に燈台あり。其傍海水浴場あり。水清洌にし
て風光佳絶。
 総じて此島の周囲は奇岩怪巖突兀槎牙として、其景眺めに飽かず。和風晴日扁舟に乗じ
て島廻りを為すは最も興味饒し。

 新井城の旧趾
 新井城の旧趾は三崎町の北隣小網代港にあり。故に網代新井の城と称す。此に掲げたる
図は此実景なり。城の在りし処半島の形を為して海中に突出し、其後は網代港にて其前は
油壺の湾たり。図中道寸と荒次郎の墓石を示したるが、道寸の墓面に陸奥守道寸義同公墓
と刻みあり。荒次郎の方も三浦荒次郎義意公墓とあり。此両墓石は土人が今も尚ほ虔敬渇
仰する所にて毎年七月十一日即ち新井落城の日には其祭典あり。此地に遊ぶものは必ず此
墓に詣づ。殊に荒次郎と云へば其地の人鬼神の如く心得、狐魔を除くにも疫病を払ふにも
多く荒次郎の名を唱ふ。何さま大剛の勇士たりしに相違なし。城址荒廃に帰す。唯残垣古
濠の跡を視るのみ。此に復た四人塚と称するものあり。是れ大森越前守、佐保田河内守及
び其二子の戦死したる処なりと言伝ふ。図中新井城址の右にある永昌寺は道寸の菩提所な
り。

 油壺の湾
 油壺の湾は土人之を魔所なりと云ひて妄に入るもの無し。蓋し新井落城の日城兵が多く
此の水中に投じて死したれば、今も其の祟りありと称するなり。妄に入るものは再び帰る
こと能はずなどと言伝ふれども是れ其仔細あり。此湾は深く屈曲し奥に入れば出口を忘る
ゝ如く、四囲悉く懸崖にして樹木蒼鬱昼尚ほ暗し。水面風を受くること無ければ水平滑に
して油に似たり。油壺の名由て起る所以なり。且つ其深さは数十尋なるを知らず。俗に之
を底知らずと呼ぶ。湾内は此の如くなるに湾口水浅くして暗礁横はり少し風あれば波高く
水激して舟を覆へすの慮あり。入ること易く出ること難き処なれば魔所を称して人の行く
を戒めたるならん。油壺の湾口平沙一帯に横はる処が諸磯の浜なり。

 千駄洞
 油壺の北崖にある一大洞なり。旧時其上に新井城の千駄櫓ありしより斯く唱ふると云ふ。
洞内廣闊にして多く物を蓄ふべし。往年米艦浦賀に来りしとき浦賀市民萬一に備へんとて
千石の兵糧を此洞口に蔵したることあり。如何にも物凄き所にて洞口の流雲夜声有りとの
句を憶ひ出さる。

 大崩の古戦場
 三浦道寸が北條早雲と有無の決戦をなせし有名なる古戦場は逗子より三崎に至る海岸秋
谷村の大崩と称する所なり。秋谷より少しく北に当り逗子へ近き所の葉山村の鎧摺旗立山
あり。是は治承年中三浦義澄が畠山重忠と戦ひし所にて、此の旗立山と大崩とを三浦郡中
著名の古戦場となす。大崩の地巉として海に臨む。幾度び路を開くも土石落して忽ち路を
没するより此名あり。数年前まで矢張り道路崩壊して車を通ぜざりしが今は修繕せりと云
ふ。早雲との合戦に道寸が暫く籠りし住吉城の旧址は田越村小坪にあり。

 三浦郡の諸城
 三浦一門の諸城址は郡内処々に散在せり。菊名の城は南下浦村菊名に在り。初声の城は
中西浦村初声に在り。其外葦名、長柄の如き今皆な其地名に存す。昔を憶ふ人あらば鎌倉
逗子遊覧の序に半島を廻りて随所の旧址を訪へ。