1274年(文永11年 甲戌)
 

1月11日 [鎌倉大日記]
  蒙古対馬に寄せ来る。程無く静謐す。
 

2月14日 [元祖化導記下]
**得宗家奉行人連署奉書(要検討)
  日蓮法師御勘気の事、免許候所のものなり。
    文永十一年二月十四日      行兼(在判)
                    清長(在判)
                    行平(在判)
                    光綱(在判)
[日蓮聖人遺文]
**日蓮書状
  (前略)文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三
  日に国を立てまうらというつにをりて、十四日はかのつにととまり、同十五日に越後
  の寺とまりのつにつくへきか。大風にはなたれ、さいわひにふつかをすきて、かしは
  さきにつきて、次日はこうにつき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入、同四月八
  日に平左衛門尉(頼綱)に見参す。(後略)
    建治二年(太歳丙子)三月 日  日蓮(花押)
  甲州南部波木井郷山中

2月16日 [元祖化導記下]
**得宗家御教書
  日蓮法師御勘気の事、御免許有るの由、仰せ下さるる所なり。早く赦免せらるべきの
  由候なり。仍って執達件の如し。
    文永十一年二月十六日      兵部丞行兼奉
  山城兵衛入道殿

2月20日 [出羽市河文書]
**将軍家政所下文
  将軍家政所下す
   早く市河左衛門三郎藤原盛房、信濃国中野四條内屋敷筥山並びに志久見下條平林地
   頭職を領知せしむべき事
  右、母尼寂阿文永九年八月十八日の譲り状に任せ、彼の職として、先例を守り沙汰を
  致すべきの状、仰せの所件の如し。
    文永十一年二月二十日      案主菅野
  令左衛門少尉藤原朝臣        知家事
  別当相模守平朝臣(義政花押)
    武蔵守平朝臣(時宗花押)
 

3月12日 [日蓮聖人遺文]
**日蓮書状
  日蓮この度赦免せられ、鎌倉へ登るにて候、我昔の所願の如く、今はすでに満足、こ
  の年に当たるか。遠藤殿御育無くば、命を永らうべきや。亦赦免に預かるべきや。日
  蓮一代の行功は、偏に左衛門殿等遊し候処なり。(以下略)
    文永十一年三月十二日      日蓮(花押)
  遠藤左衛門の尉殿

3月26日 [皇年代略記]
  後宇多院即位(太政官廰)。
 

4月12日
  大風、草木枯槁す。
 

5月17日 [日蓮聖人遺文]
**日蓮書状
  十二日さかわ、十三日たけのした、十四日くるまかへし、十五日ををみや、十六日な
  んふ、十七日このところ、いまたさたまらすというとも、たいしはこの山中に叶て候
  へは、しはらくは候はんすらむ、結句は一人になて、日本国に流浪すへきにて候、又
  たちととまるみならは、けさんに入候へし、恐々謹言。
   (文永十一年五月)十七日     日蓮(花押)
     ときとの
 

6月3日 [延時文書]
**六波羅御教書
  薩摩国御家人見佛後家尼時性乗心申す、同御家人種忠多勢を率し、弓箭兵杖を帯し、
  住宅に乱入し、瓦田村並びに田畠等を押領せんと擬し、狼藉を致すの由の事、訴状具
  書此の如し。事実ならば穏便ならず。早く子細を相尋ね、注し申さるべし。仍って執
  達件の如し。
    文永十一年六月三日       左近将監(義宗花押)
  太宰少貳入道殿
 

7月13日 [出雲鰐淵寺文書]
**亀山上皇院宣
  出雲国漆沼郷実検の事、先例に任せ、国衙の妨げを止められをはんぬ。然れば、恒例
  の供料を加増せしめ、異国降伏の御祈りの為、日吉社に於いて、重ねて大般若経を転
  読せしむべきの由、供僧等に相触るべきの旨、成仏に下知せしめ給うべし。てえれば、
  御気色に依って、執啓件の如し。
    七月十三日           左少弁
  謹上 侍従三位殿

7月29日 [鎌倉大日記]
  宗尊親王薨ず(三十三歳)。
 

10月 [高祖遺文録]
**日蓮書状
  去る文永十一年十月に、蒙古国より築紫に寄せて有しに、対馬の者、かためて有し総
  馬尉等逃けれは、百姓等は男をは或は殺し、或は生取にす。女をは或は取集て、手を
  とをして船に結付、或は生取にす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是の如し。
  船おしよせて有けるには、奉行入道豊前々司は逃て落ぬ。松浦党は数百人打れ、或は
  生取にせられしかは、寄たりける浦々の百姓共、壱岐、対馬の如し。(後略)
    建治元年乙亥四月 日      日蓮(花押)

10月5日
  蒙古寄せ来たり、対馬の嶋に着く。

10月20日 [竹崎五郎繪詞]
  ひこのくにの御けにん、たけさき五郎ひやうへすゑなか、もうこかせんの時、はこさ
  きのつにあひむかひ候しところに、そくとはかたにせめいり候とうけたまはり候しを
  もて、はかたにはせむかひ候しに、日のたいしやうたさいのせうに三ろうさゑもんか
  けすけ、はかたのおきのはまをあひかためて、一とうにかせん候へしとしきりにあひ
  ふれられ候しによて、すゑなかゝ一もんそのほかたいりやく、ちんをかため候なかを
  いて候て、かけすけのまへにうちむかひて、ほんそにたつし候はぬあひた、わかたう
  あひそひ候はす。わつかに五き候これをもて、御まへのかせん、かたきをおとしてけ
  んさんにいるへきふんに候はす、すゝんてけんさんにいるよりほかはこするところな
  きものに候、さきをかけ候よし(この下図紙切れたり)
  はかたのちんをうちいて、とりかひのしほひかたにはせむかひ候て、さきをし候てか
  せんをいたし、はたさしのむまおなしきのりむまをいころされ、すゑなか三井の三郎
  わかとう一人三きいたてをかうふり、ひせんのくにの御けにんしろいしの六郎みちや
  すせう人にたて候て、かけすけのひきつけに一はんにつき候し事、御ちうしんにもま
  かりいり、かきくたしの状にものせられ候へきむね、つねすけへ申候ところにさきの
  一たんはしさいを申あけ候て、おほせにしたかて申へく候と候てさしをかれ候、(略)

10月22日 [増鏡]
  御禊なり。十九日より官廰へ行幸あり。

10月24日
  太宰の少貳入道覺恵代藤馬の允、太宰府に於いて合戦す。異賊敗北す。

10月30日 [皇年代略記]
  太宰府賊船百余艘漂倒を言上す。
 

11月1日 [東寺百合文書]
**関東御教書
  蒙古人対馬、壱岐に襲来し、既に合戦を致すの由、覺恵注し申す所なり。早く来二十
  日以前に安藝に下向し、彼の凶徒寄せ来らば、国中の地頭御家人並びに本所領家一円
  地の住人等を相催し、防戦せしむべし。更に緩怠有るべからざるの状、仰せに依って
  執達件の如し。
    文永十一年十一月一日      武蔵守(長時在判)
                    相模守(時宗在判)
  武田五郎次郎殿

11月3日 [長府毛利家文書]
**関東御教書
  蒙古人対馬、壱岐に襲来し、既に合戦を致すの由、覺恵注し申すの間、御家人を差し
  遣わさるる所なり。早く来二十日以前に、石見国所領に下向し、彼の凶徒寄せ来らば、
  守護人の催促に随い、防戦せしむべし。更に緩怠有るべからざるの状、仰せに依って
  執達件の如し。
    文永十一年十一月三日      武蔵守(長時在判)
                    相模守(時宗在判)

11月19日 [増鏡]
  また官廰へ行幸。二十日より五節はじまるべくと聞えしを、蒙古起るとてとまりぬ。
 

12月2日 [厳島野坂文書]
**藤原親定書下
  異国征伐御祈りの為、御剱壹腰、関東より当社に進せられ候。吉日を以て御宝前に申
  し上げ、祝師請文を執進せらるべし。御剱は宝蔵に納めらるべきの状件の如し。
    文永十一年十二月二日      親定(花押)
  厳島社政所

12月7日 [豊前都甲文書]
**大友頼泰覆勘状写
  蒙古人合戦の事、筑前国鳥飼濱陣に於いて、忠節を致し給わしめ候の次第、すでに関
  東に注進し候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    文永十一年十二月七日      頼泰
  都甲左衛門五郎殿